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映画のお話
by mizushimama
しばらく寄り道をしていましたが、ここからは再び「映画のお話」に戻ります。気軽に楽しめる映画トークをお届けしていきます。メッセージはこちらから👇https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8
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02.群馬で、ZINEの人とか書店とか出版社とか呼んで本のイベントをします
詳細はこちらから👇👇https://marche.tamamura-iju.jp/日時:2026年6月27日(土) 10:00〜14:00(雨天開催)会場:重田家住宅(群馬県佐波郡玉村町小泉42)
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01.「クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書」と「ストリート・キングダム」
イベントはこちら→https://marche.tamamura-iju.jp/「クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書」著者:小野寺伝助「ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ」監督・田口トモロヲ、脚本・宮藤官九郎。峯田和伸、若葉竜也、吉岡里帆、仲野太賀、間宮祥太朗、中島セナほか。
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119.「最近観た映画」
配信で喋る映画。マーティーシュプリーム災ブゴニアじっちゃ!ボディービルダーインランド・エンパイアコート・スティーリングウォーフェア
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118.「2025年に観たベスト映画10」
2025年に映画館で観た映画の中から、TOP10を決めます!!!ビーキーパーモアナと伝説の海2トワイライト・ウォーリアーズアプレンティスジークアクス敵ファーストキスアノーラ名もなき者ミッキー17たべっ子どうぶつサンダーボルツ夏の砂の上F1スーパーマン顔を捨てた男ファンタスティック4灼熱のカスカベダンサーズリンダリンダリンダカップルズ8番出口バード ここから羽ばたくTHE オリバーな犬ワンバトルアフターアナザーブルーボーイ事件君の顔では泣けないペリリュー 楽園のゲルニカ兄を持ち運べるサイズにズートピア2国宝
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117.最近見た映画「国宝、ズートピア2など・・・」
最近見た映画について語りました。国宝ズートピア2ブルーボーイ事件君の顔では泣けないペリリュー 楽園のゲルニカ兄を持ち運べるサイズに
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116.映画「ワン・バトル・アフター・アナザー」近況とやっぱり映画っていいものですね!
9月に仕事を辞めて、「地域おこし協力隊」として、移住・定住の分野を担当している。町の魅力をどう伝えていくかを模索しながら、役場の一角で働く日々。立場は委託の個人事業主だけど、町の人から見れば役場の職員。元々この町で育ったこともあり、「○○地区出身なんです」と話すだけで、初対面でもすぐ打ち解けられるのがありがたい。東京でのITの仕事は正直、肌に合わなかった。人と関わる時間が少なすぎて、息が詰まっていたと思う。今は地域の人と話す時間が多くて、それだけで日々が少し明るい。まだ始まって1か月も経っていないけれど、3年の任期をどう過ごすかを考えながら、穏やかに走り出している。さて、本題の映画の話。引っ越して一番ショックだったのは、映画館が遠いこと。東京にいた頃は池袋や東武練馬のイオンシネマに気軽に行けて、思い立ったらその日の夜に映画を観に行く生活だった。でも今は車で15キロ先のイオンモールまで行かないと映画が観られない。それでも観たい作品があれば行く。交通の不便さに負けてたまるかと思う。今回観たのは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワンバトル・アフター・アナザー』。ディカプリオが演じるダメ親父が娘を救うために奔走する話で、笑えるし、スリルもあるし、何より演出がキレてる。ポール・トーマス・アンダーソン健在。点数をつけるなら95〜96点。今年一番の作品といってもいい。その前に観た『オリバーな犬』がどうにも消化不良だったから、その反動もあって「これだよこれ!」という満足感。やっぱり、配信じゃなくて劇場で観るべき映画ってある。ディカプリオの“冴えない格好悪さ”が最高で、最後は手に汗握った。群馬に戻ってきてからは、週末のイベントにも積極的に参加している。地域の運動会に出たり、町のイベントに顔を出したり。気づけば、映画を観る時間は減ったけれど、その代わりに人と会って話す時間が増えた。静かな町で、映画と人のあいだを行ったり来たりするような生活。新しい暮らしは、ゆっくりだけど確実に形になってきている。次はどんな映画を、どんな道を走って観に行こうか。
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115.映画「8番出口」「バード ここから羽ばたく」無職の9月、映画館から見えた出口と羽ばたき
久しぶりに録音ボタンを押した。前回は「仕事、辞めました」という報告と、胃の底に沈んでいたものをそのまま吐き出しただけの、我ながら黒歴史めいた放送。そこから少し時間がたった今、私は九月いっぱいの“名実ともに無職”。八月分の給料は入るけれど、十月に九月分は振り込まれない――この現実は、家計簿の数字より先に体温を下げる。副業の話がゼロではない。前職のツテで細い案件がぽつりぽつりと落ちてくるし、破格の低予算でホームページを作る仕事もある。春にクラウドソーシングへ登録して、いつでも飛び出せるよう弾を込めた自分が、数か月遅れで受け取った小さな果実だ。納期は来年一月までで「急がないので、できる範囲で」と言われると、ありがたい反面、気持ちにブレーキがかかる。忙殺されない生活は甘い。気づけば昼寝、気づけば夕方、気づけば「今日は何をしたっけ?」と天井に問うている。とはいえ、ただ怠けていたわけでもない。群馬に拠点を移す準備で物件を見て、自動車の購入で悩み、引っ越し屋の見積もりを並べた。働いていた頃の張り詰めた神経はすっかりほどけて、時間が妙に丸い。九月も後半、さすがに尻に火がついた。来週には荷造りが本格化する。配信も伸ばし伸ばしにしてきたが、きょうはやる。ええ、やります。というわけで、最近観た二本――『8番出口』と『バード ここから羽ばたく』――の話をしようと思う。まず『8番出口』。公開前から風が強かった作品だ。尺は九十五分と手頃、話題性は満点、そして“仕掛け”が効いている。ゲームが発火点になって映画へ燃え移る、この導火線の引き方はやっぱりうまい。宣伝も含めて、観たくさせる術に長けている人たちが作っているのが肌でわかる。私が映画館に足を運んだのは平日の午後、学校が休みだったのか子どもが多く、私の後ろの席の小さな足がリズムよく私の背もたれにメトロノームを刻む。注意するほどではないが、静かな場面では存在感がある。映画の感想は、少しだけこの物理的な振動に影響されているかもしれない。内容は、“どこかから出られない”装置を通して主人公の内面に降りていくタイプの物語だ。箱庭療法めいたセットの中で、現代社会の不安と私的な恐れ――家族、誕生、責任――が、じわりじわりと形をとって現れる。新しいかと言われれば、そうでもない。同種の系譜は古今東西にあり、密室や反復の構造、現実と悪夢の継ぎ目、ジャンプスケアの配置……道具立てはよく磨かれているが目新しさで勝負しているわけではない。むしろ“分かりやすく怖がらせる”“分かりやすく納得させる”という方向に針を振った選択が、幅広い観客に届き、口コミのエンジンを回しているのだと思う。俳優の佇まいはよかった。特に“歩く”こと自体が役割になっている人物の出し方は、舞台の人間味と映画のレンズの距離がうまく噛み合っていて、画面の奥行きを作っていた。とはいえ、私は熱狂の輪にまでは入れなかった。構造が見えるたび、先回りしてしまう。驚かされる瞬間の多くが“音”や“編集の切り返し”に依存していて、恐怖そのものがこちらの体内から湧き出るというより、外から肩を叩かれてビクッとする感触に近い。それはそれで娯楽として機能するのだけれど、観終わったあとに胸腔に残る余韻は薄い。うまい。ただし、深くは刺さらない。そんな印象だ。一方、『バード ここから羽ばたく』は、観る前から少し肩入れしていた作品だ。前売りを買って公開を待ったし、予告の手触りから「これは好きな種類の映画だ」と予感していた。結果、予感はだいたい当たった。舞台は社会の縁に追いやられた家族の生活圏。親は不在か機能不全、酒と疲れが台所のすみで固まり、子どもたちは大人になる前から“大人の重さ”を肩にのせられている。ここまで書くと、永久に続く負の連鎖の記録に見えるかもしれない。けれどこの映画は、そこに“信じたくなる偶然”と“やわらかな幻想”をひとさじ混ぜる。題名の「バード」は鳥ではなく人の名だが、働きは鳥に近い。吹きだまりのような路地に、風穴をあける。現実は何も解決しない。行政の制度が魔法のように降りてくるわけでもない。けれど、顔を上げて前方を見られるようになる――そのきっかけを、ひとりの他者が運んでくる。救いを約束しない救い。私はそこに誠実さを感じた。人物造形も安易な加害/被害の二項対立に落ちない。たとえば父親は稼げないし、判断を誤るし、頼りない。けれど暴力を振るう“ステレオタイプの父”でもない。子を思う不器用さが随所に滲んで、憎み切れない。主人公の少女は十二歳、身体の変化に戸惑いながら、家計や弟の面倒といった“生存の段取り”を覚えていく。その過程を、カメラは煽らず、突き放しもせず、一定の距離を保って見守る。時折、現実の縁がほどけ、ささやかなファンタジーが入り込む。その縫い目が実にやさしい。破れているからやさしいのではなく、破れたものを縫おうとしているから、やさしい。映画館という場そのものについても、一言だけ文句を。新宿の某館、予告編のあとに一般企業の広告が長々と続いた。映画の文脈の外からズカズカ入ってくる映像音響は、観客の集中を乱す。広告で収益を上げねばならない事情は理解するが、せめて本編前は映画の世界を深めるものに限ってほしい。配信サービスにも広告つきプランがあるが、料金と体験のバランスを示して選ばせるだけの配慮はある。映画館が“場”としての尊厳を守ることは、結果的に作品への敬意にも、観客の信頼にもつながるはずだ。二本を並べてみると、『8番出口』は構造の巧さと広がる宣伝力で「誰もが乗れるジェットコースター」を設計した作品、『バード』は小さな現実を見つめて「誰かの明日をかすかに軽くする風」を生んだ作品、という対比が浮かぶ。前者は手際に唸る。後者は余白に呼吸する。どちらも映画の大事な顔だと思う。私は後者に肩入れしがちだが、前者の手腕を否定するつもりはない。むしろ、こういう“入口のうまさ”が観客を映画館へ連れてきて、そこから別の作品へ回遊させる。生態系としては健全だ。私自身の話に戻る。群馬へ戻り、車を手に入れ、仕事も環境も新しくなる。前回の転職は、始める前から心がささくれていた。今回は違う。使える技能は使い、分からないことは聞き、必要なら勉強する。たいそうな抱負ではないが、地面に置いた靴のように具体的だ。配信は、引っ越しの段ボールが落ち着くまで少し間隔が空くかもしれない。それでも映画は観続けるし、言葉はまた拾いに行く。映画は、遠くへ連れていく物語であると同時に、今いる場所の見え方を少しだけ変える装置でもある。九月の終わり、背中を蹴る小さな足に苦笑いしつつ、私はその装置のスイッチを確かめ直した。次に点けるとき、どんな風景が現れるか。たぶん、今日より少しだけ広い。そんな予感をポケットに入れて、また歩き出す。
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第4回「ゲストとお話」AIが映画を作れるか(ゲスト:エーミーさん)
AIとお話してみました
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112.映画「名もなき者」吉田拓郎と自分の青春時代を色々と思い出した話
名もなき者とフォークソング語らずにはいられない。そんな気持ちになったのは久しぶりだった。その映画の名は『名もなき者』。ボブ・ディランの若き日を描いた伝記映画だ。主演はティモシー・シャラメ、監督はジェームズ・マンゴールド。彼の名を聞けば、映画好きならピンとくるだろう。『ウォーク・ザ・ライン』『フォードvsフェラーリ』など、実在の人物を深く掘り下げる手腕には定評がある。ボブ・ディランの青春と決断物語は1961年の冬、19歳のディランがたった10ドルを手にニューヨークへと降り立つところから始まる。ウディ・ガスリーやピート・シーガーといった偉大な先輩たちと出会い、フォークシーンでのし上がっていくディラン。しかし「フォーク界のプリンス」「若者の代弁者」として祭り上げられることに違和感を抱く。ついに彼は1965年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキギターを手にする。この決断が、フォークシーンを大きく揺るがすことになる。映画では、彼の感情表現が控えめだったという批判もあったが、そんなことはない。むしろ、歌や表情、目線の動きから伝わる微細な心の揺れが、この映画の最大の魅力だった。この時代のフォークシーンとの関係や、彼が影響を受けたミュージシャンなども巧みに描かれている。フォークの歴史と日本のフォークシーンボブ・ディランの話をしていると、自然と日本のフォークシーンにも思いが向く。その筆頭が吉田拓郎だ。彼がデビューした頃、日本の音楽界はまだ作詞・作曲・歌唱が分業されていた。そんな中、吉田拓郎はシンガーソングライターとして台頭し、フォークの新時代を切り開いた。『イメージの詩』は、ボブ・ディランの影響を感じられる曲であり、その歌い方もディラン的だ。さらに『結婚しようよ』は、フォークからポップへと移行する過程を象徴する楽曲とも言える。フォークの特徴は、単なる音楽ではなく、社会と密接に結びついた文化だったことだ。60年代後半、反戦運動や学生運動とともに成長し、若者たちの声を代弁した。ピート・シーガーは「少しずつみんなで築き上げてきたものを、お前は大きなシャベルで掘り返すのか?」とディランに言ったが、まさにフォークからロックに転向したディランはこの時代から取り残されまいともがいていたのだろう。音楽と時代の変遷吉田拓郎の後、日本のフォークはインディーズ的なものとポップ寄りのお茶の間に受け入れられるような音楽の流れに分かれた。そして、80年代以降はユーミンの登場などもあり、徐々に政治色が薄れ、ポップミュージックへと変容していった。まとめ『名もなき者』は、単なる伝記映画ではなく、フォークミュージックの本質を描いた作品だった。そして、それは日本のフォークにも通じるものがある。ボブ・ディランの軌跡を追いながら、日本のフォークシーンを追いかけていた青春時代を思い出す。
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111.映画「アノーラ」最後のワンシーンと水道橋博士と「三又又三の日」
「感想」映画の話をしよう。今回取り上げるのは『アノーラ』。ただ、その前に……少し寄り道をさせてほしい。なぜなら、この映画を語る前に訪れたあるイベントが、印象深かったからだ。水道橋博士と「三又又三の日」普段は毎週月曜日にこの配信をしているのだけれど、その日は3月3日。「三又又三の日」というイベントがあり、そちらに足を運ぶことにした。水道橋博士の配信はそれなりに購入しているのだが、今回は特に気になるイベントだった。浅草・東洋館フランス座。ここはビートたけしが下積み時代を過ごした聖地であり、Netflixの『浅草キッド』でもロケ地になった場所だ。そんな特別な場所で行われるイベントと聞けば、足を運ばずにはいられない。この日の座組は水道橋博士、三又又三、そして大久保佳代子。芸人三者三様の空気が絡み合う、なんとも味わい深いイベントだった。三又又三は、お笑い好きなら一度は耳にしたことがあるだろうが、クズエピソードに事欠かない芸人としても知られる。とあるバラエティ番組ではある芸人が彼を徹底的にイジり倒し、三又は「やられ役」として成立していた。そのキャラクターは好き嫌いが分かれるところだが、一定層の熱心なファンがいることは間違いない。そんな三又をメインに据えたイベントが「三又又三の日」だ。イベントに行くと決めた理由は、もともと水道橋博士の配信で三又のエピソードが語られていたことにある。博士と三又の関係は深く、彼の持つエピソードをもっと聞きたいと思っていたところだった。さらに、チケットが余っていると聞いたことも後押しになり、これはチャンスだと参加を決意した。イベントは予想以上に面白かった。特に印象に残ったのは、水道橋博士が延々と喋り続けた後、三又又三が「博士、長いよ。これは俺のイベントだよ!」とツッコミを入れた瞬間だった。会場の空気を読んで、絶妙なタイミングでツッコミを入れられるのは、やはり芸人ならではの技術だ。博士の話が長くなりがちな配信を見ている身としては、「こういう人がいるとバランスが取れるんだよな」と、しみじみ思った。また、大久保さんがいたことでイベントの雰囲気が柔らかくなったのもよかった。三又と博士だけだと、どうしても内輪ノリが強くなりすぎるところがある。しかし、大久保さんがそこに適度な距離感を持って加わることで、全体のバランスがうまく取れていた。惜しかったのは、三又又三が用意していたエピソードの一部が、時間の関係で披露されなかったことだ。テレビのバラエティ番組のように、エピソードを一覧で用意して、観客や大久保さんのリクエストに応じて話すスタイルにしてくれれば、より面白かったのではと思う。『アノーラ』について映画『アノーラ』は、アカデミー賞とパルムドールを獲得した話題作。公開初日の2月28日に観に行った。物語は、ニューヨークのストリップダンサー、アノーラが、ロシアの金持ちの息子イワンと出会うところから始まる。イワンは、1万5000ドルでアノーラを「専属の彼女」として契約する。要するに、長期契約の売春のようなものだ。金に任せて遊び放題のイワン。そんな彼に翻弄されながら、アノーラはラスベガスで突如プロポーズされ、ノリで結婚してしまう。だが、当然ながらそんな事態をイワンの両親が許すはずもなく、二人の結婚は大問題となる。ここから物語はロードムービーの様相を呈していく。イワンの両親が送り込んだ「三バカトリオ」がイワンを連れ戻すべく動き出し、彼女を巡る騒動が繰り広げられる。映画の評価映画全体としては、なかなか面白い作品だったが、中盤のグダグダした展開が少々気になった。特に「三バカトリオ」の存在は、笑いを生む要素ではあったものの、不要に思える場面も多かった。しかし、ラストのシーンが素晴らしかった。イワンの両親に虐げられながらも、唯一アノーラを「人間」として扱ってくれたのが、ロシア人のイゴールというキャラクターだ。彼は金持ちに土地を奪われ、仕方なく彼らの言いなりになっている男だった(うろ覚えの記憶なので正確には違うかもしれない)。三バカトリオの中でも、一歩引いた位置で状況を見つめている彼の存在は、映画に深みを与えていた。そして、衝撃的だったのが、終盤のセックスシーンだ。アノーラはイゴールを襲うのだが、その最中にキスをしようとした瞬間、彼女は泣き崩れる。彼女が流した涙の意味とは何だったのか?おそらく、それは彼女の無力感ゆえの涙だったのではないか。「私は結局、これしか与えるものがないのか」アノーラは、愛のない契約関係の中で翻弄され続けてきた。そして、唯一優しく接してくれたイゴールに対しても、同じような関係でしか向き合えなかった自分への絶望があったのではないか。あるいは、彼女の人生が常に金によって左右されてきたことへの悲しみかもしれない。観終わった後、この涙の意味について考え続けてしまった。これは、誰かと語りたくなる映画だ。まとめ「三又又三の日」と『アノーラ』。まったく関係のない二つの出来事だが、どちらにも共通していたのは、「語りたくなる」という点だった。イベントでは三又又三のツッコミが冴え、映画ではアノーラの涙が心に残った。それらはどちらも、話の流れを決定づける「瞬間」だった。そして、そうした「瞬間」によって作品の印象が変わるのは、映画も芸人のトークも同じなのかもしれない。
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110.映画「ファーストキス」都合の良いタイムリープで夢物語な薄っぺらい映画
「感想」「更新が空いてしまった……。」ピーナッツが原因だった。3〜4ヶ月前に買ったやつ。食べられるだろうと思って口に入れたが、どうにも味がおかしい。とはいえ、腐っているわけではないと判断し、そのまま食べた。これが間違いだった。2〜3時間後、猛烈な吐き気に襲われる。最近1日1食ダイエットをしていたこともあり、胃の中にはほとんど何もない。ピーナッツが毒だったのか、胃が空っぽのせいか、どちらにせよ地獄の時間が始まる。熱も出た。37〜38度。翌日になっても気持ち悪さは抜けず、何も手につかない。映画を観に行くどころか、話すことすらできない状態になってしまった。そして、そのまま時間は過ぎていき、ついに1週間が空いてしまった。そんな体調不良を乗り越えて観た映画が『ファーストキス』だったわけだが、結果的にはこの映画自体が胃の不快感をぶり返させるほどの不愉快な作品だった。「あらすじ」映画『ファーストキス』は、松たか子演じる主人公が、過去に戻り亡くなった夫(松村北斗)の運命を変えようとする物語である。夫はかつて古代生物の研究者だったが、経済的理由から不動産業界に転職。その結果、夫婦関係は次第に冷え込み、離婚寸前の状況に。しかし、彼は電車事故で命を落としてしまう。ある日、主人公は時空の歪みにより過去へ戻ることができ、若き日の夫と再会し、彼の未来を変えようと試みる。「ご都合主義的なタイムリープの扱い」本作のタイムリープ設定はあまりにも雑だ。最近のSF作品では、タイムリープの扱いが非常に慎重になっている。例えばマーベル映画のように「過去に戻っても、元の未来は変わらず、新たな分岐が生まれる」という設定が主流になっている。しかし、『ファーストキス』は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」方式を踏襲し、過去を改変することで未来が変わるという単純な構造を取っている。問題は、その改変方法があまりにも軽薄であることだ。詳細は割愛するが、そんな些細なことで未来が変わるのなら、彼女が過去で行った行動はどれほどの影響を与えているのか? この物語の世界観では、歴史は繊細なのか大雑把なのか、どちらなのかすら曖昧で、設定が一貫していない。そもそも「なぜ主人公だけがタイムリープできるのか」という説明が一切ない。首都高の事故が原因とされているが、それがどう彼女に影響を及ぼしたのかも不明なままだ。都合が良くタイムリープが発動し、都合の良い未来へと改変されていく。「過去の恋愛美化」この映画の最も危うい部分は、過去の恋愛を美化しすぎている点にある。主人公は過去に戻ることで、再び若い頃の夫(松村北斗)と恋に落ちる。しかし、それは本当に「恋」なのか?「あの頃の楽しかった思い出に浸っているだけではないのか?」これは、DV被害者が加害者に対して抱く「昔の優しかった彼に戻ってくれるはず」という心理と似ている気もする。「仕事が忙しくなったから」「夫婦関係が冷えたから」といった理由で関係が悪化したにも関わらず、「過去の彼はあんなにいい部分があったから、やっぱり愛したい」 という展開になってしまう。しかし、現実の人間関係はそんなに単純ではない。たった1日過去に戻っただけで、冷え切った15年の関係がリセットされるはずがない。人間はそんなに簡単に変わらない。この映画は「過去の楽しかった思い出」にすがることで、現在の問題を無視するという、極めて危険な価値観を提示している。「未来の自分が過去の自分を支配する映画の問題点」映画のタイトルにもなっている「ファーストキス」。これがまた胸糞が悪い。本来、過去の松たか子(20代)と松村北斗(20代)が交わすべきもの だった。しかし、未来の松たか子(40代)がタイムリープし、彼とのファーストキスを奪ってしまうのだ。「未来の自分が、過去の自分の権利を横取りする」まるで『ドラえもん』の影が自分を乗っ取るエピソードのように、過去の自分の人生を未来の自分が好き勝手に改変していく。この行為は、ある意味で「老害」の発想と変わらない。「若い世代の大切なものを、年長者が平然と奪う」そういう構図が透けて見える。この映画を「素晴らしい恋愛映画」として評価する人々は、この歪んだ関係性をどう捉えているのか。「恋愛至上主義の押しつけ」この映画は、「幸せな結婚生活を送ることが何よりも重要」という前提で物語を進めている。「幸せだから得られるもの」もあれば、「不幸だからこそ得られるもの」もあるはずだ。主人公が舞台美術の仕事に打ち込めたのは、夫婦関係が破綻したからこそかもしれない。しかし、この映画ではその可能性が完全に無視されている。不幸な過去が新たなスタートにもなり得る。しかし、『ファーストキス』は、「恋愛=添い遂げなければならないもの」という価値観を無自覚に押しつけてくる。その結論ありきの展開が、映画全体を陳腐なものにしてしまっている。『ファーストキス』は、タイムリープものとしても、恋愛映画としても、極めて雑な作りになっている。本作がヒットしていることは、日本における恋愛観がまだまだ「添い遂げることこそ正義」という価値観に囚われていることの証左なのかもしれない。この映画を観ることで、むしろ「日本の未来の方が心配になった」というのが、率直な感想である。
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109.映画「敵」ヒッチコックの鳥とか言ってしまう蓮實重彥感
「感想」今回は気軽な気分で『ファーストキス』や『グランメゾンパリ』といった、作品を楽しむつもりであった。しかし、その日は、前日に会った映画好きの人が熱心に薦める「敵」という作品に、なぜか心を引かれてしまったのだった。彼はとにかく熱くこの映画を語っていた。その熱に押された形だ。評価は、私なりに86点と定める。そんなに高くはない。派手なアクションもなく、笑いも大声で起こることはなかったが、どこか物悲しく、そして不思議な魅力を感じた映画であった。面白くない映画(ビーキーパーのような映画ではないという意味)だが魅力がたっぷりな映画だった。映画『敵』は、吉田大八監督の手によって、筒井康隆の原作小説を基に作られている。原作は未読ながら、スクリーンに映し出される風景や台詞からは、原作の持つ独特の世界観がひしひしと伝わってきた。物語の中心は、77歳の大学教授・渡辺儀助である。彼はかつてフランス文学を教え、洗練された佇まいで教壇に立っていたのだろう。しかし、今や先立たれた妻の記憶と、代々受け継がれてきた古びた日本家屋の中で、ひっそりと日々を過ごしている。朝は、決まった時刻に起き、丹念に歯を磨き、整えられた朝食をとる。その姿は、まるで長年の修練によって磨かれたかのような規律正しさを漂わせている。しかし、よく見ると、その整然とした外見の裏には、忘れ去られた情熱や、かつての過ちに対する後悔、そして何よりも抑え込まれた孤独が、かすかに、しかし確実に刻まれていた。そして、ふとした瞬間、渡辺教授の風情には、皮肉にも、あの「フランス文学の教授」としてお馴染みの蓮實 重彥――鼻持ちならない、あの型にはまった存在を思わせる要素があった。儀助がヒッチコックの話を口にし、演劇へのかつての情熱をちらつかせる姿は、あたかも蓮實重彥のような、偉そうでありながらもどこか空虚な雰囲気を漂わせており、見ているこちらは正直、ムカつかされずにはいられなかった。ある日のこと、儀助のもとに、一通の奇妙なメールが届く。本文には「敵が北から迫る」など、どこか不気味でありながら、どこか滑稽な言葉が綴られていた。最初はただの迷惑メールと、軽く流そうとした。しかし、次第にその内容は、儀助自身の内面に潜む恐怖や、封じ込めようとしている欲望、そして過去の後悔と見事に重なり、現実と妄想の境界を曖昧にしていく。あのメールは、儀助が自ら作り上げた「敵」――自分自身に向けられた厳しい批判や、苛立ちの象徴――を、まざまざと見せつけるかのように、彼の心にじわじわと忍び寄ってきた。映画が進むにつれて、儀助の穏やかで整然とした日常は、ひとつひとつの隙間から崩れ出す。丹念に盛り付けられた料理のシーンの裏に、ふと映る質素なカップラーメン。そんな対比の中に、彼が実は虚飾に過ぎぬ生活を送っていること、そしてかつての妻への申し訳なさや、もしかすると禁断の感情に溺れていたのではないかという、苦々しい後悔が、痛烈に浮かび上がっていく。そして、映画の終盤、ある人物が双眼鏡を手に、薄暗い二階の窓辺を覗くシーンが訪れる。そこに映し出されたのは、どこかみすぼらしく、疲れ果てた姿の儀助であったのではないだろうか。双眼鏡越しに捉えたその顔は、まるで未来の観客自身を映し出すかのようで、私はふと、自分もまた、いつの日かこの孤独と後悔、そして皮肉にも嫌悪感を覚えるような「敵」に支配されてしまうのではないかという、不安に襲われた。こうして映画『敵』は、単なる映像作品を超え、一人の老人の内面の叫びと、そこに潜む深い感情を私たちに問いかけ続ける。誰もが心のどこかで、儀助のように、かつての情熱や隠された後悔、そして自ら作り上げた「敵」と戦っているのだろう。私もまた、明日からの日常の中で、自分自身の内面と、時には憎々しいほどに嫌な風情をも見つめ直す覚悟を新たにしたのであった。
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108.映画「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」懐かしさからの挑戦が、新たな宇宙戦記を刻む。
懐古と革新の融合 冒頭、細かな小ネタやファーストガンダムへのオマージュがちらほらと感じられ、昔からの思い出が鮮明に蘇る。庵野監督(今回は脚本で参加だが)がやりたいことが詰め込まれているのだろうと微笑ましく観れた。しかし、物語はすぐに「もしもシャアが別の道を選んでいたら――」という大胆な仮説の展開へと進む。ディズニーのマーベル作品の『ホワット・イフ...?』に通じるこの手法は、ガンダムという枠を超えた新たな視点を提示し、従来の枠組みを打破する挑戦となっている感じもした。 監督陣の情熱 庵野監督と鶴巻監督のタッグは、本作の大きな魅力のひとつだ。過去の栄光を大切にしつつも、未来への可能性を強く感じさせる情熱が、映画全体に鮮烈なインパクトを与えている。特に、シャアを巡る「もしも」の物語は、ガンダムシリーズに新たな命を吹き込む試みとして、ファンだけでなく初めてガンダムに触れる者にも訴求する力を持っていた。 未来への期待 『ジークアクス』は、単なる完結作品ではなく、今後の展開への伏線が随所に散りばめられている。後半に登場する新たなキャラクターたちが、これまでの物語を受け継ぎながらも、次なるドラマへとつながる期待感を煽る。具体的なアニメ放送のスケジュールはまだ明かされていないが、期待は高まるばかりだ。 終わりに 『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』は、過去と未来が交錯する壮大な叙事詩だ。懐かしさに浸りつつも、新しいガンダム像は、これからのシリーズの可能性を大いに感じさせる。ガンダムファンならずとも、一度その世界に浸ってみる価値は十分にある。これからの展開がどのように進むのか、今後の物語に胸を躍らせながら、次なる新作に期待せずにはいられない。
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107.映画「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」非を認めず、勝利を主張し続ける生き様の薄っぺらさと恐ろしさ
「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」を観て 月曜の午後、いつものように静かな部屋にいる。金曜日からずっと誰とも口をきかず、日曜に至っては一歩も外に出ないまま、ただ時間を消費していた。休暇中だからといって、やることが全くないわけではない。次の職場で必要なスキルを身につけるべく勉強をしている。だが、追い立てられるような受験勉強の切迫感ではないので、適度な暇も残っている。その暇を潰すように、私は「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」を観た。 「映画の概要」 この映画は、ドナルド・トランプという人物がいかにしてのし上がり、アメリカの頂点に立ったかを描く実録映画だ。「アプレンティス」の副題にある通り、トランプの成功は彼の師匠的存在である弁護士、ロイ・コーンの影響が大きい。ロイ・コーン。悪徳弁護士として知られ、数々の策略で相手を叩き潰し、自らの利益を追求してきた男だ。ゲイ差別をしながらも、自らもゲイであるという矛盾を抱え、その生涯はまさに欲望と破滅の象徴と言えよう。トランプは、そんなロイ・コーンから「勝利するための3つのルール」を教えられる。それは、以下のようなものだ。 ・攻撃、攻撃、攻撃 ・非を認めるな ・勝利を主張し続けろ この映画を観た後、私は何とも言えない感情を抱えていた。怒り、呆れ、そして一種の畏怖。それらが混じり合った曖昧な感覚が、私の胸の中でくすぶり続けている。 「トランプの“作られ方”」 映画の中で描かれるトランプの成り上がりの過程は、決して偶然ではない。彼はロイ・コーンの教えを忠実に実行し、時に大胆に、時に冷酷に、自らの欲望を叶えていった。そして、その過程で多くの人々を切り捨て、多くの敵を作ってきた。 特に印象的だったのは、ロイ・コーンが「絶対に非を認めるな」と教えるシーンだ。この言葉を聞いて、私はふと自分の行動を思い返した。例えば、前回の配信で「アプレンティス」を「アトランティス」と言い間違えたのではないかと指摘された件。正直に言えば、記憶は曖昧だ。だが、ロイ・コーンの言葉を借りれば、非を認める必要などない。「そんなことは言っていない」と主張し続けるべきなのだ。もちろん、これは冗談だ。しかし、トランプは実際にこれを実行し、そのスタイルで成功を掴んできた。 「資本主義とトランプ」 映画を通して感じたのは、トランプの成功は資本主義社会が生んだ一つの矛盾そのものだということだ。資本主義は、人々が豊かになるためのシステムとして生まれたはずだ。しかし、その裏側では、多くの敗者が不幸に陥れられている。トランプの物語は、その矛盾を象徴している。 そして、トランプが登場するまでの背景には、彼を生み出す素地が確かに存在した。例えば、日本の政治を考えてみても、トランプ的な人物が現れても不思議ではない。民意を利用し、自らの利益を追求する人間たち。そんな人間に投票する人々の気持ちも、完全には否定できない。現状への不満が、そのような人物への支持を生むからだ。 「映像の魅力」 映画は、時代ごとに映像の質感を変えている。70年代のシーンはアメリカン・ニューシネマを彷彿とさせる粒子感があり、80年代以降はVHS特有の荒い映像が使われている。その工夫が物語に深みを与えている。さらに、俳優陣の演技も素晴らしい。トランプを演じたセバスチャン・スタンは、トランプそのものになりきっていたし、ロイ・コーン役のジェレミー・ストロングもまた圧巻の演技だった。この映画がアカデミー賞に絡んでもおかしくないだろう。 「見えてくる未来」 映画の終盤、ロイ・コーンが破滅へと向かう姿が描かれる。欲望に突き動かされ、自らを滅ぼしていくその様子は、どこかトランプの未来を暗示しているようにも思える。今やトランプはテック界の巨人たち――イーロン・マスクやジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバーグといった面々――と絡み合っている。しかし、彼らもまた、いつか足を引っ張り合い、破滅していくのではないか。 78歳という年齢に達しながらも、なお権力にしがみつくトランプ。その姿は滑稽であり、同時に恐ろしい。彼の行動は、豊臣秀吉が高齢になってから行った朝鮮出兵を彷彿とさせる。秀吉が高齢で頭が狂ったから起こしたという説を耳にしたこともあるが、実際にはそう単純な話ではないのだろうが、計画そのものが現実離れしていたのは否定できない。国力を無視した無謀な遠征は、最終的に多くの犠牲を生み出し、豊臣政権の弱体化を招いた。欲望と権力への執着、それが破滅へ向かう導線となる姿が、どこか秀吉の晩年の姿と重なって見えるのだ。しかし、秀吉ほど偉大だったかというと確実にそうでないと言えることは付け加えておきたい。 「終わりに」 私はこの映画を観て、ただ「面白かった」とは言えない。確かに、テンポの良さや映像美、俳優陣の見事な演技には感嘆した。しかし、それ以上に、この映画は私に多くのことを考えさせた。資本主義の矛盾、民主主義の危うさ、そして人間の欲望と破滅。そのすべてが、この映画の中に詰まっていた。 静かな部屋で、この感想をまとめている今も、映画の余韻は私の中で渦を巻いている。外には雨が降り始めたらしい。窓を開けると冷たい空気が部屋に流れ込み、私の考えを少しだけ洗い流してくれるような気がした。
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106.映画「モアナと伝説の海 2」いくら海がキラキラしてても、 中身が空っぽなのはもうバレバレだ
感想 わたしは映画館の前に立っていた。いつもなら心躍る場所だが、その日は少しばかり気が重い。なにしろ『モアナと伝説の海2』を観に来てしまったのだ。数日前に行ったアンケート企画で、「次にどんな映画を観ればいいか」と問いかけたところ、この作品が票を集めた。それならばと決心したのはいいが、「本当にこれでよかったのだろうか」という疑念が、映画館の大きなポスターを前にして一層膨れ上がっていく。 そもそも、わたしはこの『モアナ』シリーズ自体あまり好きではない。正直に言えば、数日前、AMAZONで四百円ほど支払って前作を視聴したものの、大して面白いとは感じなかったからだ。海のCG描写は確かにきれいだった。けれど、ストーリーの動機付けに今ひとつ説得力がない。子ども向けとはいえ、もう少し「なぜ冒険に出るのか」「なぜそこまで主人公が突き動かされるのか」という部分がはっきり見えたら、わたしだって入り込めるのに。海の神秘や家族の物語を期待していたのに、結局は“冒険しなきゃいけないっぽいから冒険に出ました”という展開が腑に落ちなかった。そんなわたしが、続編の『モアナと伝説の海2』をわざわざ観に行く理由――それこそが、今回の投票結果というわけなのだ。 劇場に入ると、案の定、親子連れが席を埋めつつあった。にぎやかな子どもの声が響き、ロビーにはポップコーンの甘い香りが漂う。そこにひとりで来ている中年男の姿が浮き立ってしまうのは当然だろう。だが、わたしには「しぶしぶとはいえ、観る義務があるのだ」と自分を奮い立たせる理由がある。投票した皆の手前、ここで逃げるわけにはいかない。もしかしたら、今回こそはわたしの想像を越える傑作になっているのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、ポップコーンも買わず、席に着いた。 映画が始まる。スクリーンに広がる南国の海と砂浜。前作同様、視覚効果はさすがと言うべきだろう。水面の輝きからキャラクターの髪の毛の動きまで、CGの技術力は高く、美しさが目を奪う。しかし、問題はそこではない。どんなに映像が美しくても、物語の核心となる「なぜ?」が弱ければ、感動という舟は海に浮かばないのだ。 始まってしばらくして、モアナがまたもや冒険に出る展開が訪れる。ふわりとした危機感だけが語られるが、どうも納得できない。前作同様、あるいはそれ以上に唐突な展開で「行かなきゃ」と心が決まってしまうのだ。主人公は若い少女なのだから、決断力があるのはいいことだ。だが、その決断を下す瞬間こそが観る者にカタルシスを与えるのに、それが歌でさっと流されてしまう。しかも、ミュージカル映画だからといっても、いちばん説明を必要とする肝心な場面を「歌」でざっくり飛ばされると、観客は「え? いま何が起こったの?」と置いてきぼりになる。物語を牽引するモアナの行動原理が薄いまま、海へと漕ぎ出す姿を観ても、どうにも心がついていかない。 それでも子どもたちは楽しんでいるのかもしれない――わたしはそう思って劇場を見回した。だが、わたしの周囲にいた親子連れたちも、前に観た『マリオ』のときほどの熱狂を見せていないように感じた。子ども独特の「わあ、すごい!」という感嘆がほとんど聞こえない。実際には誰かしら喜んでいるのかもしれないけれど、少なくとも劇場はそれほど盛り上がっていないように思えた。 モアナを観終わったあと、口直しのために『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』を観た。そして、これが思いのほか面白かったのだ。血湧き肉躍るアクションは迫力があるし、きちんと主人公の行動原理が示される。たとえ多少荒唐無稽でも、「主人公がなぜ闘うのか」が芯としてあるからこそ、観客の心に訴えかける。おそらく小学校高学年以上なら、この作品のほうがよほど心に残るだろう。少なくとも、唐突に歌で設定を飛ばし、唐突にキャラクターが出てきて……という展開よりは、ずっと良質なエンターテインメントになっている。 そうした比較対象が手元にあるからこそ、『モアナと伝説の海2』のストーリーに対する不満は増幅されてしまう。冒険を始める理由が弱いばかりか、中盤から終盤にかけて登場する“大ボス”の扱いがまた納得できないのだ。なぜその敵が悪意を抱くのか、何を目的としているのかがほとんど描かれない。自分の意思で戦うにしても、戦わされるにしても、「その相手は何者なのか」という点が不明瞭だと、クライマックスへ向けた盛り上がりに欠けてしまう。作中、かろうじて最後のほうで姿が出てきたかと思えば、明らかに続編を意識した含みを持たせて終わる。これでは「最終的な決着は別の機会に回しましょう」と言っているようなもの。映画としてひとつの物語をきちんと完結させる意志が感じられない。 後日、わたしは何かしらこの作品の制作経緯を調べてみた。するとどうやら、当初はディズニープラス向けのドラマ作品として企画されていたものらしい。「やっぱり映画館で公開してみたら儲かるのでは?」という流れで急遽映画化したのだろう。そう言われると妙に腑に落ちる。ほかのディズニー関連作品も、マーベルやスター・ウォーズのドラマシリーズなどが乱立する中でクオリティが落ちている。シリーズものを増やしすぎては、ファンが付いていかなくなる。似たような世界観の作品が次から次へと量産されれば、あらたな作品をすべて追うのに疲れてしまうのだ。 少し前まではマーベルドラマの『ロキ』やスター・ウォーズの『マンダロリアン』をわたしもそれなりに楽しんでいた。ところが、このところあまりにも多くの派生シリーズが作られ、ディズニープラスに加入し続けないと全貌を追えないような状況に辟易している。短期間に続編を連発すると、作品ひとつひとつの重みが消えてしまう。熱心なファンを取り込もうとしているのかもしれないが、逆にライトユーザーを遠ざけているようにしか見えない。それと同じ問題が、この『モアナと伝説の海2』にも当てはまるのではないか。映画として完結できないつくりなのは、「続きはディズニープラスで」的なビジネスの匂いが濃厚だからかもしれない。 鑑賞後、わたしは帰り道であらためて思う。子ども向けというのなら、それこそ一度観たら心に爪痕を残すぐらいのインパクトを与えてほしい。ミュージカル仕立てでも、曲が素晴らしければそれが心に刻まれるだろう。だが、今回わたしが感じたのは「説明するべきところが説明されないまま歌が始まり、そのまま気づけばシーンが先に進んでしまう」という、空虚なテンポの悪さだ。子どもたちにも分かりやすい物語は必要だろうが、それはイコール浅い動機でいいということではない。家族愛や島を救う使命感を描くなら、登場人物の痛みや喜び、必死さを丁寧に描いてこそ感動につながる。ところが、この作品は肝心の部分を煙に巻くような演出で済ませてしまっている印象が強い。 そういう意味では、子どもに観せるならば『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』のほうが、ずっと心を揺さぶるのではないかとさえ思う。たしかに激しいアクションシーンややや残酷な描写もあるが、小学生以上なら理解できるメッセージもあるはずだ。それが映画の持つ力というものではないのだろうか。 何より、今回わたしが『モアナと伝説の海2』を観て痛感したのは、ディズニー自体が「これまで育んできたブランド力」を安易に擦り減らしているように感じられたことだ。『アナと雪の女王』で一度は勢いを取り戻したかと思いきや、ドラマシリーズや続編を乱発し、一本ごとの鮮度が下がっている。名作を数多く生み出してきた歴史があるだけに、これは実に残念だ。わたしは作品そのものに政治的な主張を求めるつもりはないが、ディズニーという巨大企業の舵取りが迷走しはじめているように映る。 ポスターが貼られた劇場を通り抜けると、子どもたちの手を引く親たちが楽しそうに歩いている。彼らの姿を見ると、わたしは思わず苦笑した。いつかあの子どもたちが大きくなったとき、彼らの記憶にはディズニー映画がどんな風に残るのだろうか。心に深く刻まれるような名作になっているだろうか。それとも、量産された作品群のひとつに埋もれてしまうのだろうか。 そう思うと、わたしは少し切ない気持ちになる。投票で選ばれた以上、最後まで観る義務を果たしたわたしだが、正直なところ、もう二度とこの映画を観返すことはないだろう。冒険の理由も薄く、大ボスの正体もぼんやりしたまま、歌で誤魔化されたように感じるストーリーは、残念ながらわたしの心に刻まれる作品にはなり得なかった。
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105.映画「ビーキーパー」なにも考えたくない映画
「感想」 窓の外は雪が降っていた。俺は何をするでもなく、ただ退屈を持て余していた。そんな時、どうしても何かを埋めたくなる瞬間がある。誰かの投票結果なんて無視して、映画館に足を運んだ。選んだのは『ビーキーパー』。理由なんて単純だ。ジェイソン・ステイサムのポスターが気になった。それだけだ。 ポスターには奴の無骨な顔と“キレる。”の文字。期待は高まる。ありきたりな復讐劇だろうとタカをくくっていたが、そんな自分を嘲笑うように映画は幕を開けた。 冒頭、大切な人の命を奪われる。唐突な死で面食らったが、そこにあったのは真剣な怒りと哀しみ。奴は無言でその闇に足を踏み入れる。ここからはステイサムの独壇場だ。何も言わない。語らない。ただ殴り、撃ち、進む。奴の冷酷さがスクリーンから溢れ出していた。 この映画の肝はアクションだ。一撃で敵を沈める。その無駄のなさが見ていて心地いい。無論、敵も馬鹿ではない。だが、奴の前ではすべてが無力。肉体そのものが武器になる。それがジェイソン・ステイサムの真骨頂だ。 物語は単純だ。復讐、そして決着。登場人物たちはステイサムを際立たせるための背景に過ぎない。誰も彼に肩を並べることはできない。それでいい。それがいい。奴の存在感だけで映画は完結している。 この映画を見終えたとき、俺は奇妙な爽快感に包まれていた。まるで何かを成し遂げたかのような感覚。それは、ステイサムの信頼感に基づいている。奴なら絶対にやってのける。俺たちはその確信に酔いしれるのだ。 この映画に深いテーマはない。考える必要もない。ただ画面に身を任せ、展開を追いかけるだけで十分だ。終わればすべてを忘れる。だが、その瞬間瞬間が強烈に焼き付く。これこそ映画の醍醐味だ。 映画館を出ると、雪は止んでいた。俺は空を見上げ、ステイサムの顔を思い浮かべた。強さ、冷静さ、そして紳士的な佇まい。坊主頭にヒゲという武骨なスタイルが奴の男らしさを際立たせる。日本の俳優には真似できないオーラだ。 次に見る映画が『モアナと伝説の海2』だと気づいて、少しだけ笑った。この爽快感を超えるのは難しいだろう。だが、それもまた映画の楽しみだ。新たな物語を待ちながら、俺は夜の街へと消えていった。
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104.「年末年始の愚痴とこれから観る映画を考える」
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103.「2024年に観たベスト映画10」
「観た映画」 笑いのカイブツ 哀れなるものたち カラーパープル 落下の解剖学 ボーはそれている 青春ジャック2 止められるか、俺たちを オッペンハイマー アイアンクロー 胸騒ぎ 悪は存在しない ミッシング 関心領域 マッドマックスフュリオサ お終活再春!人生ラプソディ ザ・ウォッチャーズ ブルーきみは大丈夫 アイアムアコメディアン 劇場版すとぷり デッドプール&ウルバリン インサイドヘッド2 あのコはだぁれ? Chaime 愛に乱暴 ナミビアの砂漠 シビルウォー クレヨンしんちゃんオラたちの恐竜日記 憐みの3章 ジョーカーフェアリドゥ 侍タイムスリッパー ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ ドリームシナリオ 忍たま乱太郎 どうすればよかったか? 陪審員2番(配信で視聴) ホールドオーバーズ(配信で視聴) ルックバック(配信で視聴)
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102.映画「劇場版 忍たま」「ドリーム・シナリオ」「どうすればよかったか?」を観た
「劇場版 忍たま乱太郎 - ドクタケ忍者隊最強の軍師」 一人で観るのは少し照れくさかった。けれどスクリーンの明かりが灯ると、幼い頃の記憶が胸をよぎる。『劇場版 忍たま乱太郎』は、ノスタルジアの洪水に溺れるような体験だった。 忍術学園の生徒たちが織り成す小さな冒険は、ほろ苦い大人の目から見ると少々物足りない。劇場版としてもう一歩踏み込んでほしい場面もあったが、それでもキャラクターたちのひたむきさに何度か心が揺れた。感動する場面では、不意に目頭が熱くなった。6年生たちの戦いぶりは、昔の『忍たま』とはまた違った味があって、子供向けという枠を越えた成熟を感じさせた。 「もっと大胆に」と内心願いつつも、最後には忍たまたちが笑顔で締めくくる。これが、彼らの魅力なのだ。 でも、ちょっと物足りない内容。 「ドリーム・シナリオ」 ニコラス・ケイジ。彼の名を聞けば、何かが起こる。『ドリーム・シナリオ』はその期待を裏切らなかった。ある日突然、誰もが彼を夢に見るようになる。そのアイデアは、まるでトリックアートのように心を惑わせる。 スクリーンに映るケイジの姿は、どこか憂いを帯びていた。夢と現実が曖昧に交錯する中、物語はどんどん奇妙な方向へと進む。初めはその不条理な展開に引き込まれたが、後半に入ると説明が過剰に思えたのも確かだ。 それでも、この作品が放つエネルギーには抗えない。夢の中という舞台がもたらす不安定さ、そしてケイジの演技が醸し出す悲哀は、まさに唯一無二の体験だった。ネットフリックスの『ブラックミラー』のような作品といえばそう。それで十分なのかもしれない。 「どうすればよかったか」 ドキュメンタリーは、そのリアルさゆえに観る者の心をえぐる。『どうすればよかったか』は、まさにその典型だった。この作品には作り物のドラマでは得られない重みがある。 監督自身の家族を描いた20年に及ぶ記録は、映像というよりも記憶そのものだった。統合失調症を抱える姉と、その家族が直面する葛藤。両親が医師でありながら、時に合理的ではない判断を下す姿には、人間の持つ矛盾が詰まっていた。 最も印象的だったのは、監督自身の声だ。淡々としていながら、その裏には熱い感情が滲んでいた。「どうすればよかったか」—その問いかけは、観客全員への挑戦状のようでもあった。カメラが捉えた一瞬一瞬が、時に痛烈な問いを突きつける。 この作品を観た帰り道、街灯の下でふと空を見上げた。家族とは何だろうと考えさせられる時間だった。
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101.Netflix「 アイズ・オン・ユー」(2024年)連続殺人とマッチングショーの狭間で
長い沈黙の後で 秋の終わり、10月28日。あの静かな夜にポッドキャスト100回目を配信してから、まるで世界との対話が途切れてしまったかのように、日々の喧騒に押し流されていた。時折、ゲストと話すことで間をつないだものの、自分の声だけで空間を満たすことの怖さに気づいてしまっていた。 実は、それほど話したいことがなかったし、映画館での映画鑑賞という、自分にとっての「物語との対話」が、ずっと途絶えていたからというのが原因の一つでもある。Netflixの画面の中で漂う幾つかの物語は観た。『地獄が呼んでいる』や、『まどマギ』を観た。それぐらいだった。 職場で見た「未来」 先日、職場で未来について考えさせられる場面があった。ファシリテーターに促されて「あなた自身の未来でも、組織の未来でも良い」と言われたあの10分間、自分の心は重く沈んだ。「未来を語るなんて、格好悪い」。思春期の頃に心に刻まれたこの偏見が、まだ自分を縛り付けている。 周囲は明るかった。「こんなことをしたい」「こんな組織にしたい」。そんな声が飛び交う中、どうしても自分の口からは、トランプ元大統領や地方政治の話がこぼれ出る。空気は凍りつき、見知らぬ孤島に立つような感覚に陥った。それでも、そんな孤島の上でぼんやりと浮かんだのは、「この世界はどうしてこうなってしまったのか」という問い。カオスが訪れるたび、物語はより強く輝く――そんな不確かな希望だけが残った。 映画『アイズ・オン・ユー 』が描く、揺らぐ人間の輪郭 この不確かな希望を映すように、Netflixで観た映画『アイズ・オン・ユー 』は心に刺さった。1970年代のアメリカで起きた連続殺人事件をモチーフに、マッチングショーに出演した女優と殺人鬼の交錯を描いた作品だ。 この映画には、派手な演出や大きな感動はない。ただ、当時の社会で女性が置かれていた立場や、シリアルキラーがいかにして女性たちを手中に収めていったのかが、淡々と描かれる。彼女たちが殺人鬼に心を開いてしまう瞬間、その儚さが胸をえぐる。そして、静かに進む物語の中で、女性たちが内面に秘めていた叫びが少しずつ浮かび上がる。監督兼主演のアナ・ケンドリックが描く世界は、フィクションでありながら現実そのもののようだ。 「なぜ女性たちは、あの男に惹かれたのか」。観終わった後、この問いはしばらく心の中で反響していた。映画が提示する答えは明快ではないが、そこに宿る無言の問いかけに、人間という存在の儚さと愚かさを見たように思う。 現実と物語の狭間で 最近、物語より現実のほうがドラマチックだと感じることが多い。時代は混沌を深め、何かが壊れ、何かが生まれていく。そのカオスの中にいると、映画や小説の中の世界が、少し遠く感じられる瞬間がある。それでも、やはり物語は必要だ。人間が生きる意味や、何かを信じる力を教えてくれるのは、いつだって物語だから。 『アイズ・オン・ユー 』のように、現実に触れながらも人間の本質に迫る作品に出会うと、物語が持つ力を再認識させられる。94分という短い時間でサクッと観られるこの映画は、けして「めちゃくちゃ面白い」わけではない。それでも、観る人の心に問いを残す点で、十分に価値がある作品だと感じた。 これからの小さな物語 12月が近づき、今年も終わりに向かっている。この1か月、語ることを忘れていた時間を取り戻すように、また少しずつポッドキャストを更新していきたい。そして、映画館の席に座り、スクリーン越しに語りかけてくる物語たちに、再び出会いに行こうと思う。 それでは、また。きっと、次はもう少し明るい物語を。
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第3回「ゲストとお話」寺山修司とトランプとサブカル(ゲスト:トークラさん)
「寺山修司とアングラの未来」 「100回なんてすごいね」そう言われて、私はようやく自分のポッドキャストが大台を迎えたことに気づいた。更新が滞り気味だったこともあり、特別な感慨が湧くわけでもなかったが、悪い気がしない。 今回のゲストはトークラさん。アングラ文化を語るにはこれ以上の適任者はいないだろう。 彼との会話は、まるで川の流れのようにどこまでも続いた。寺山修司の魅力から始まり、アングラ文化の再評価、現代社会が抱える閉塞感の正体、そしてSNS時代における表現の困難さまで。どれも結論を求める話ではなかったが、だからこそ面白い。 寺山修司展に足を運んだという彼は、展示されていた手紙の話を熱っぽく語った。イラストや遊び心が散りばめられたその手紙は、送り手の意図がそのまま形となった作品だったという。「将来高値がつくから」と冗談めかして送りつけられた手紙に、私たちは彼の破天荒なユーモアを感じた。 「アングラに惹かれる若者と会話した」とトークラさんが話す。閉塞感を抱えた時代には、主流から外れた表現が魅力的に映るのかもしれない。ポリコレの息苦しさ、SNSであふれる即時的な言葉たち。これらに反発するかのように、寺山修司のような“余白”のある表現が、再び注目を集めているのだろう。 だが、私たちは同時に気づいている。寺山修司のような存在は、もう出てこないのかもしれない、と。メインカルチャーが崩壊した現代においては、かつてのような明確な“対抗軸”が存在しない。紅白歌合戦やレコード大賞といった象徴に反発することで生まれるエネルギーが、どこにも行き場を持たない時代。アングラと呼ばれるものすら、どこか中途半端になっている。 「寺山修司が現代にいたら、YouTubeやSNSを使い倒していたんじゃないかな」と私は思った。彼はきっと、既存のフォーマットを壊しながら、新たな場を作っていただろう。視聴者に問いかけ、揺さぶり、また次の問いを投げかける。そんな姿を想像すると、妙にリアルに感じられるから不思議だ。 会話は最後に、哲学カフェの話題へと移った。トークラさんが主催するその場は、まるで寺山修司の遺した「路上演劇」の再解釈のように思えた。政治や芸術を語り合い、意見を交換する。時代遅れかもしれないが、だからこそ貴重な場だ。 「寺山修司は僕たちのすぐそばにいるのかもしれないね」そんな言葉で締めくくられた今回の対談。終わらない会話と、どこかに残る表現への渇望。それらすべてが、現代のアングラを象徴しているようだった。 また半年後、彼をゲストに招いたときには、何が見えているだろうか。アングラの灯火はまだ消えていないと信じたい。
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100.映画「侍タイムスリッパー」(2024年)時を越えたこの映画と、侍のような孤独な語り
気づけばこの配信も100回目。ようやくこの数字に到達したわけですが、まぁ、他にもゲスト呼んだり、いろんな特別企画を挟んでいるので、実際の配信回数はとっくに100を超えています。でも「ただ一人で映画を語る」という枠の中で迎える100回目というのは、何とも言えない気持ちになりますね。そもそもこの配信、何で始めたかといえば、一人で映画についてしゃべり続けることで、自分の表現力や伝え方を磨きたいと思ったからです。仕事に活かせればいいかなーなんて期待もあったわけです。まぁ、趣味と実益を兼ねて、筋トレならぬ“公開しゃべりトレーニング”って感じで。しかしですね、こうやって続けていくと気づきます、これはなかなか弊害があるなと。一人でしゃべり続けるのって思ってたよりも性質が悪い。最初はいいんですよ、「面白く話さなきゃ」とか「分かりやすく伝えよう」なんて、意識して工夫もしてるから。でも回数が重なると、無駄に話が長くなるんですね。配信だから、どうせなら聞きごたえをと引き延ばしたり、妙にテンポを崩したりしているうちに、回りくどくなるクセが染みついちゃう。仕事の会話なんかでも「あれ、自分だけが気持ちよくしゃべってない?」って気づくことが増えてしまって、完全に本末転倒です。ほんと良くない、独りよがりな筋肉がついてしまった。まぁそんなこんなで、今回100回を節目にやめようかなと頭をよぎりつつ、でもやっぱり続けたい気もするんですよ。話題が変わりますが、最近、tiktokでサザエさんのパロディなんかもやってみて、これが少しバズりまして。生成AIを駆使してクレイアニメで、サザエさんを描いてみたわけです。そしたら通知が鳴りやまなくて、まぁいわゆるバズったわけなんですよ。さて、そんなわけで今回語る映画は、映画でバズっている『侍タイムスリッパー』。この作品、じわじわ話題を集めていて、地元の映画館でも上映が始まったので観に行きました。感想としては、率直にいうと、私には少しピンとこなかったんです。映画館には年配の方が多くて、観客の笑いもどこか懐かしさに満ちているような空気がありました。50~60代以上には強烈に響くんだろうなぁ、そんな印象です。この作品は、往年の日本映画のテイストを多分に含んでいるのですが、ギャグや小ネタが妙にこっ恥ずかしいというか、そういうノリなんです。ベタな笑いも多いし、いわゆる「昭和の時代劇の美学」を大事にしている感じ。懐かしさも込めて観た年配の方にはウケているのでしょうが、若者がこれに「懐かしい」と感じるのかは疑問ですね。これが実際にヒットしているのは、きっと年配の、時代劇が好きで、過去の日本映画に愛着がある層に支えられているからでしょう。そもそも、こういった年配向けの邦画って、今ではすっかり減ってしまいましたからね。それでも、私の中で一番印象に残ったのは、監督の映画にかける情熱です。自主制作でありながら、私財を投じて約2000万円、全製作費2600万という額で撮り上げたと聞いて、心にくるものがありました。車両から撮影、演技指導に至るまで一人で切り盛りして、主演女優は助監督までしているという低予算の苦労。ここに、日本映画の“インディペンデント魂”みたいなものを感じます。何よりも、時代劇という過去の美学を今一度生き返らせようとするこの情熱は、映画ファンとしては尊敬せずにはいられません。作品の内容も決して悪いわけではなく、実際、映画館を出た後もじわじわと“良さ”が残っているんです。時代を超えて、未来から現代に迷い込んだサムライが、日常に溶け込んでいく過程は面白かった。ただ、タイムスリップのギミックが活かしきれていないと感じたのも事実で、過去と現代が交わるような熱い展開や、登場人物同士の絆がもっと描かれていれば、さらに面白かったかもしれません。とはいえ、私が感じた不満すら、年配の観客の拍手喝采を見ていると少し違うのかなと思わせるんですよね。要するに、これって「昭和の日本」を愛している人たちのための作品なんだろうなと。そして、昔の時代劇の精神を今に伝えようとする気概も感じられます。私にとってはちょっとピンと来ないギャグでも、その古き良き「日本映画のコメディ」として評価する声が多いのも納得。いや、だから、やっぱり映画ってのは奥が深いですね。監督の想いにただただ感嘆しつつ、これが今の日本でこうして受け入れられているのかと思うと、なんとも複雑な気持ちです。最後まで観たことで、自分なりに“時代劇”への見方が少し変わった気もするし、この100回目に選んだ映画としては、ある意味ふさわしい作品だったのかもしれません。さて、こんな感じでまたしても無駄に長い話になってしまいましたが、これもまた100回続けたからこそ得た“回りくどさ”かもしれませんね。次回はもう少しコンパクトにまとめていければと思いつつ、まぁまた100回続けたらどんな話になるんだろうと、そんなことをふと思ってしまいました。
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099.映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(2024年)二つの顔を持つ男、アーサーとジョーカー、狂気と孤独
『感想』 「ジョーカーって、結局何だったんだろう」。映画が終わってしばらくの間、私はそんなことを考えていた。 前作の『ジョーカー』を初めて観たとき、心の奥底を乱暴に掻き回されたような気分になった。社会に見捨てられ、誰にも愛されない男が、最終的には自分の狂気に身を委ねていく――そんな物語だった。でも、正直に言えば、その結末が彼にとって一種の「解放」だったのではないかと、少しホッとした自分もいた。あの時のジョーカーは、どこかで私たちの代弁者のように感じられた。現代社会の不条理に耐えかね、ついに反旗を翻す彼の姿が、ある種のカタルシスを提供してくれたのだ。 ところが、今回の『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』では、そんな感情が一変してしまった。再びスクリーンに登場したジョーカー――いや、アーサー・フレックは、前作ほどの勢いを持たず、むしろ戸惑いと苦悩の中にいる。最初は「ん? 何かが違う」と感じた。前回のように、観客を一撃で揺さぶる狂気はどこかに消え、アーサーは再び、ジョーカーという仮面をかぶるべきか、それとも自分自身の弱さを受け入れるべきか、その狭間で揺れ動いていた。 今回登場するレディー・ガガが演じるハーレイ・クインとの関係も、何とも言いがたい微妙なものだ。まるで、誰かが無理やり「ハッピーエンド」を演じさせようとしているかのようだが、この映画で本当に求めているものは、そんな「幸せ」ではない。二人が手を取り合うたびに、その関係性の不安定さが露呈していく。 それにしても、ハーレイ・クインの存在感は圧倒的だった。彼女は、ジョーカー以上に「ジョーカーらしい」とさえ感じられる。狂気と愛情が入り混じった振る舞いで、アーサーをさらなる混乱へと追い込んでいく。彼女との関係は、どこか逃避のようにも見える。前作のジョーカーは孤独を貫いていたが、今回は「愛する人」がいる。その存在が、かえってアーサーの不安定さを際立たせているのだ。だが、彼女が愛しているのはアーサーではなく、ジョーカーというアイコンそのものだということが、ますます明らかになっていく。 一方で、今回の作品にはミュージカル調の演出が加わり、茶番劇のような軽妙さが感じられる。特に法廷のシーンはその典型だ。前作では観客を翻弄し、絶対的な力を大衆を味方につけていたジョーカーが、今作では法廷という舞台で、無力さが際立っている。「え、こんな結末でいいの?」と、思わず不安にさせられるほどだった。 しかし、考えてみると、これこそがジョーカーの「現実」なのだろう。ジョーカーというキャラクターに憧れていた私たち観客も、彼の孤独や弱さを無視していたのかもしれない。彼がどれだけ狂気を演じようとも、その裏には一人の人間、アーサー・フレックが存在する。そして、彼にはジョーカーとして世界を変える力などなく、ただ日常の中で自分の居場所を探し求め続けるだけなのだ。 前作のジョーカーに共感していた私も、今回は別の感情を抱いた。それは「同情」かもしれない。狂気に身を委ね、一度は自分を取り戻したかに見えたアーサーだが、結局は再び迷子になってしまった。彼の物語は、終わることのない迷路のようだ。アーサー自身、何を求めているのか、もはや自分でもわかっていないのかもしれない。 この映画を観て改めて思う。「ジョーカーとは、一体何だったのか」。ジョーカーの物語は、私たちの孤独や不安、そして何かに救いを求める心を映し出している。彼が狂気に走ったのも、人とのつながりを渇望していたからだろう。しかし、そのつながりが彼を救うことはなかった。人間関係は、時に私たちを救うこともあれば、逆にさらなる苦しみをもたらすこともあるのだ。
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098.映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(2024年)冷酷なレンズ越しに見えた、人間の尊厳
「感想」 俺は人生の中で、いくつか忘れられない出来事がある。いい思い出も、悪い思い出も、どれもが胸の中で沈殿して、時々ふと浮かび上がってくるんだ。そんなある日、サンボマスターとクロマニヨンズが対バンでライブをやるって情報が俺の耳に入った。これを聞いて、心の奥底に眠っていた何かが目覚めた。 正直に言えば、俺は熱心なファンと比べればどちらも熱狂的なファンではない。尊敬はしているが、熱狂とまではいかない。それでも、この組み合わせには特別な何かがあったんだ。ファンなら誰もが分かると思う。これが実現するってことがどれだけのインパクトを持つかってことを。 だから俺は、すぐに申し込んだ。9月に告知が出て、手続きを済ませた。でも、心の中では半ば諦めていたんだ。「そんなチケット、簡単に取れるわけがない」。そんな気持ちを抱えながらも、期待だけは膨らんでいく。まるで、つかめそうでつかめない夢を追いかけるみたいなもんだ。 ところが、運命の女神は俺に微笑んだんだ。10月のある日、俺の手元に当選通知が届いた。「ああ、これだ」って思ったね。最後に、俺にいいことが起きるってやつだ。年の終わりが近づいてきたこの時期に、ようやく俺にも光が差し込んだんだって思った。 でもな、世の中はそう甘くない。俺はその一瞬の輝きを、見事に台無しにしたんだ。俺自身の不手際でな。支払い方法をクレジットカードじゃなくて、コンビニ決済にしちまったんだ。それに気づいたのは、もう後の祭りだった。支払い期限を見逃して、俺はチケットを手放す羽目になった。 その瞬間の絶望感といったら、言葉じゃ表現できない。まさに天国から地獄への急降下だ。俺の中で「今年最後の大勝負」が、そんなつまらないミスで終わったんだ。もう一度自分を責めたよ。自分がこんなにも愚かだとは思わなかった。 二次募集があるって聞いたとき、藁にもすがる思いで再度申し込んだ。だが、当然のごとく、その希望もすぐに打ち砕かれた。俺がキャンセルした分は、すぐに誰かが手に入れたんだろう。俺のミスを、誰かが笑いながら受け取ったと思うと立ち直れない。 その後、SUPER BEAVERのアコースティックライブにも応募した。だが、それも外れた。でも、その外れは別にどうでもよかったんだ。あくまでクロマニヨンズとサンボマスターのライブを逃したことが、俺の心に残る唯一の痛みだった。それが胸に突き刺さって離れない。人生の中で、こんなにも悔しい瞬間があっただろうか。 結局、教訓は一つ。「慣れないことはするもんじゃない」。コンビニ決済なんて、普段しないことをして、俺は自らを破滅に追いやったんだ。これからはそんなリスクを冒すのはやめよう。自分の道をしっかり歩む、それが最善なんだってことを俺は学んだ。 そんな自嘲の気持ちを抱えつつ、俺は何気なく映画を観に行くことにした。「シビル・ウォー アメリカ最後の日」という映画が上映されるってことで、何か心の中を埋めるものを求めて足を運んだ。映画というのは、時に俺たちの現実から目を背けさせてくれる存在だ。今の俺には、それが必要だったのかもしれない。 シビルウォーは、アメリカの内戦を描いた作品だ。これを見たとき、俺は何か大きな衝撃を受けた。映画が進むにつれて、胸の中に重たい感情がじわじわと湧き上がってくるのが分かったんだ。ロードムービーとしての構成は見事で、登場人物たちがさまざまな出来事に遭遇しながら旅を続ける。そこでの成長や気づき、そして彼らの人間的な弱さが浮き彫りになる。 主人公たちはジャーナリストたちで、その中には戦場カメラマンとしてベテランの女性と、その彼女に憧れる若い少女がいた。この二人の関係が物語の核を成している。戦争の中で、彼女たちはカメラのシャッターを切り続ける。しかし、戦場の残酷さは容赦なく二人に襲いかかる。 ある場面で、ベテランのカメラマンが若い少女に向かってこう言うんだ。「私は、あなたが死にそうになってもカメラを回し続ける。感情に左右されるわけにはいかない」って。冷たく、現実的な言葉だった。戦場では、そうでなければ生き残れないという厳しさがにじみ出ていた。 だが、物語が進むにつれて、そのベテランカメラマンの心にも変化が訪れる。最後のシーン、彼女は若い少女が死にかけている状況で、カメラを手にすることをやめ、彼女を救うんだ。その瞬間、彼女は「人」としての感情を取り戻したんだと思う。 このシーンを見たとき、俺は何か胸に熱いものを感じた。人間として、何を選ぶべきか。カメラを持ち続けるか、それとも目の前の命を救うか。ベテランのカメラマンが最後に選んだのは、後者だった。彼女は、戦場での冷徹な自分に終止符を打ち、若い世代にバトンを渡す決断をしたんだ。 シビルウォーは、ただの戦争映画じゃなかった。内戦という状況下で、人々がどのように変わり、何を選び取っていくのかを描いた、非常に深い作品だった。戦争の中での不条理や人間の弱さ、それでもなお希望を持つことの大切さが、この映画には詰まっていたんだ。 映画館を出ると、冷たい風が頬を撫でた。外の世界は静かで、戦争とは無縁の平和が広がっていた。だが、ふと考えたんだ。この世界でも、いつ何が起こるかなんて分からない。イスラエルとイランの対立が激化しているニュースが流れているが、今はそれが遠い国の話に思える。だが、それもいつか俺たちの現実になるかもしれない。 俺はそんなことを考えながら、ふとタバコに火をつけた。映画の余韻が残る中、シビルウォーで描かれた世界と現実の世界が交錯するような感覚に襲われた。戦争というのは、誰か他人事のように感じるかもしれないが、実際にはすぐそばにあるんだ。そんな現実を目の当たりにしたような気がした。 俺はこれからも、自分の人生を歩んでいくだろう。クロマニヨンズとサンボマスターのライブには行けなかったが、それでも俺は生きていく。人間は、失敗し、苦しみ、それでもなお歩き続ける存在だ。それが俺の教訓だ。そして、いつかまた同じようなチャンスが巡ってきたとき、今度は絶対に失敗しないようにしようって、心の中で静かに誓った。 映画の中のカメラマンたちが、自分たちの信念に従って行動したように、俺も自分の信念を持って生きていくつもりだ。それが、生きるってことだからな。
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097.映画「ナミビアの砂漠」(2024年)アカルイミライと比べて観ると面白い
「感想」 先週、ひたちなかのロッキンフェスに行ってきた。音楽に身を委ねる群衆の中で、俺は何かを探していた。最近は生成AI動画がブームだ。せっかく行ったんだから、この経験をコンテンツにできないかと考えた。写真を撮って、動画を作ってみたんだ。 その前に観た映画がある。「愛に乱暴」だ。感想を生成AIで作れないかと思った。ちょうど「探偵物語」の予告編の台詞を手に入れた。松田優作のあの独特な語り口が好きでね。そのテイストで文章を作ってみた。 文章は完成した。画像も生成AIで作った。ツイッターに上げたら、なんと監督がリツイートしてくれた。嬉しかったよ。この調子でロッキンの動画も作ろうと思った。帰ってきた翌日、写真をつなぎ合わせて動画を作った。でも、ツイッターやインスタでは反応がなかった。 ところが、TikTokに上げたら再生数が急上昇した。十万再生を超えたんだ。でも、フォロワーは増えない。数字だけが膨らんで、虚しさが残った。 そんな中、「ナミビアの砂漠」という映画を観に行った。監督は27歳の山中瑶子さん。主演は河合優実さん。若い女性監督の長編デビュー作だ。物語は21歳の金(かな)が主人公。怒りや苛立ちを抱えながら生きている。脱毛サロンで働き、優しい彼氏と暮らしているが、つまらなさを感じて浮気をしている。 映画は長回しのシーンが多く、カットが少ない。観ていると、少し苛立つくらいだ。でも、それがカナの内面を映し出しているのかもしれない。物語は明確な結末を持たない。まるで終わりのない旅をしているようだ。 考えさせられた。この作品のテーマは何だろうか。若者の無力感や内面的な怒り。自分も同じような感情を抱えていたことがある。何かをしても満たされない苛立ち。カナは脱毛サロンで働いているが、それも一時的な効果しかない仕事だ。 彼女は友達とも表面的な関係しか持てない。喫茶店で会っても、心ここにあらずだ。彼氏との関係も上手くいかない。優しすぎる彼氏に苛立ちを覚え、浮気相手に感情をぶつける。でも、その関係も崩れていく。 映画を観て思った。若者の苛立ちは昔から変わらないが、今の時代はそれを発散する場所がない。SNSで常に監視され、自由に行動できない。行き場のない怒りは、内側に溜まっていくばかりだ。 黒沢清の「アカルイミライ」を思い出す。あの映画では、若者は未来に向かって開かれているぞということで終わった。でも、「ナミビアの砂漠」では、未来への希望が見えない。観終わった後、重い気持ちが残った。 映画の中で、カナは言う。「この社会で大事なことは、生存です」と。少子化や貧困が進む日本で、生存が目的になっている。希望も夢もない世界。まるで砂漠をさまよっているようだ。 自分も同じだと思った。何かを求めて歩き続けても、先が見えない。それでも歩き続けるしかない。もしかしたら、本当の砂漠は心の中にあるのかもしれない。そして、それに気づくことが大切なのかもしれない。 映画は楽しいものではなかった。でも、こういう作品があることは重要だ。現実を直視し、感じること。それが必要な時もある。 夜の街を歩きながら考えた。この先に何があるのだろうか。答えは見つからない。それでも、足を止めるわけにはいかない。自分自身の道を見つけるために、歩き続けるしかないのだ。 ひたちなかのロッキンで感じたこと、生成AI動画で得た一時的な成功、そして「ナミビアの砂漠」で見た現実。すべてが繋がっているような気がした。行き場のない苛立ちや虚無感。それでも生きていくしかない。 希望は見えないかもしれない。でも、歩き続けることで何かが変わるかもしれない。そう信じて、俺は前に進む。
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096.映画「愛に乱暴」(2024年)なんかスッキリしないけど、それがリアル
「感想」 最近、生成AIにどっぷりとハマっている。あの無機質なデジタル空間に、命のような何かが吹き込まれる瞬間、それがたまらない。まるで魔術師になった気分だ。最初はBGMから始まった。ちょっとした遊び心で、AIに音楽を作らせてみたら、意外といい感じだった。もちろん、商用利用OKなAIだから問題ない。だが、やっているうちに、この世界に深く入り込んでしまったんだ。SunoというAI、そしてMitjourney、Runway。これらのツールを使って、画像も動画も次々に生成していく。その過程が、まるでかつての「モンスターファーム」を思い出させる。あの頃は、CDを入れてモンスターを生み出すゲームに夢中になったものだ。何が出てくるか分からない期待感。その感覚が、今、AIによって蘇っている。 だが、すべてが完璧なわけじゃない。AIが生成する人物の動きにはまだぎこちなさが残る。複数のキャラクターが絡むシーンになると、そのぎこちなさが一層際立つ。それでも、プロンプト一つで何かが生まれるこの感覚に、俺はすっかり取り憑かれている。仕事が終わると、すぐにパソコンに向かい、8時間でも平気で没頭してしまう。最近じゃ、映画館にも行けていないが、先日、久々に劇場に足を運んだ。「愛に乱暴」という映画だ。これが、なかなか手ごわい作品だった。 映画館の暗闇で、江口のりこがスクリーンに登場する。彼女の顔は、いわゆる"美人"ではない。広瀬すずや綾瀬はるかのような華やかさはないが、そんなことはどうでもいい。むしろ、彼女の演技には一種の重みがある。映画の中で彼女が演じたのは、幸の薄い女。広瀬すずが演じるなら、そのギャップに違和感を感じたかもしれない。だが、江口のりこだからこそ、説得力があった。物語は、彼女がダメ男に捨てられるまでを丁寧に描いている。不倫というありふれたテーマだが、描かれるのはただの日常の崩壊だ。何か劇的な展開を期待していた俺にとって、その結末は衝撃的だった。 映画は、期待を裏切るという点で一流だ。最初から何か大きな出来事が起こると思わせておいて、何も起こらない。いや、起こるのだが、それは観客が期待するような形ではない。冒頭のごみ捨て場が燃えるシーンも、何かの伏線かと思わせておいて、結局は何の意味もなかった。それがこの映画の真骨頂だ。人生も同じだ。期待するような大事件なんて、そう簡単に起こるわけじゃない。日常はただ淡々と流れていく。その中で不倫や裏切りが静かに進行していく。映画の最後、俺はスクリーンをじっと見つめ、心の中で「これがリアルだ」とつぶやいた。 見終わった後、俺は友人たちと映画の感想を語り合った。「消化不良だよな」と誰かが言ったが、それもこの映画の味わいだと俺は思う。一緒に観た仲間たちと意見を交わすことで、俺は新たな発見を得た。この映画には、言葉にできない深い何かがある。映画館を後にしても、頭の中にずっと残り続ける。人生に何の保証もないように、この映画も何の約束もしない。ただ、観た後に心に残る感情。それこそが、この映画が俺に教えてくれたことだ。 「愛に乱暴」、それは一言で説明できるものじゃない。幸せなエンディングを求めているなら、この映画は向いていないだろう。だが、リアルな人生を映し出したいなら、この映画は完璧だ。観終わった後、俺は再び精製AIの世界に戻った。だが、あの映画が心に残る限り、現実と虚構の境界はますます曖昧になっていく。映画もAIも、どちらも俺にとって逃れられない現実の一部だ。
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095.映画「あのコはだぁれ?」(2024年)ジェットコースターに無理やり乗ってしまた怖さ
「感想」 フェスとは何か、それはただの音楽イベントではない。少なくとも、俺にとっては違う。太陽がジリジリと肌を焦がす中で、何時間も立ち尽くすその行為は、まるで四国のお遍路のようなものだ。いや、それよりは少しは楽かもしれない。だが、簡単な道のりではないことに変わりはない。特に今回、俺が挑もうとしているのはひたちなかで開催されるロッキンジャパンフェスだ。しかも二夜連続。これまでのフェスとは訳が違う。わざわざ遠出して、二日連続で自分を追い込むつもりだ。果たしてその先に何が待っているのかはわからない。だが、少なくとも精神が清められることを期待している。 正直なところ、来年はもうこんなことはしないだろう。フェスのマイブームも今年限りだと俺は思っている。だからこそ、今年はできるだけ詰め込んでおきたい。フェスという名のスピリチュアルな旅を、限界まで追求してみるつもりだ。音楽と苦行、その二つが混ざり合った先に、自分自身に何か新しい発見があるのかもしれない。あるいは、ただの疲労感と達成感だけが残るのかもしれない。どちらにせよ、試してみる価値はあるだろう。 そんなことを考えながら、俺は清水崇監督の映画『あのコはだぁれ?』を観に行った。映画館に足を運ぶと、夏休みの終わりを楽しむ大学生のカップルや友達同士がちらほらといて、映画が終わった後には「怖かったよね」と談笑する姿が目に入った。その光景を見て、かつての自分なら「ホラー映画なんてカップルで見に行く奴は呪ってやる」と思っただろう。だが、今の俺は違う。フェスを経験し、清められたのか、そんな若者たちを微笑ましく見守る自分がいるのに気づいた。 映画そのものについて言えば、まあまあの出来だった。『Chime』という映画を前回の配信で語ったが、それとは違った種類の恐怖が描かれていた。『Chime』では、リアルな日常の中に潜む恐怖がテーマだったが、『あのコはだぁれ?』はビジュアル的な怖さに重点を置いていた。まるでジェットコースターのように、一度乗り込んだら後戻りできない恐怖の旅が待っていた。そういった意味では、アトラクション的な楽しさもあった。ただし、その恐怖があまりに現実離れしているため、途中で眠気が襲ってきたのも事実だ。 『あのコはだぁれ?』では、登場人物たちが共有する恐怖が描かれていた。全員が同じ恐ろしい出来事を経験し、それによって次々と命を落としていく。幽霊やお化けが直接的に悪さをするという点では、典型的なホラー映画とも言えるだろう。しかし、その設定にはどこか無理があるようにも感じた。恐怖の演出があまりに過剰で、現実感が失われてしまっていたのだ。これが『Chime』との大きな違いだった。 それでも、映画館でホラー映画を観るという体験自体は悪くない。友達同士で映画を観て、怖かったシーンについて語り合うのは、映画の楽しさを倍増させる。それに、ホラー映画は一人で観るよりも、誰かと一緒に観る方が断然面白い。恐怖を共有することで、その体験がより深く心に刻まれるのだ。 そんな風に思いを巡らせながら、最後もオリジナル曲を用意した。歌詞は冒頭で流したものと同じだが、メロディーはパンクロック調だ。 フェス参りも映画鑑賞も、結局のところは自分との対話だ。何かを求めて足を運び、何かを感じ取る。そしてその感情や思考を他人と共有することで、新たな発見が生まれる。そんな循環の中で、俺は少しずつ変わっていくのかもしれない。あるいは、何も変わらず、ただ日常を生き続けるのかもしれない。それでも、こうして文章を綴ることで、自分の中の何かが整理されていくのを感じるのだ。次はどんな体験が待っているのか、楽しみだ。そして、その体験をどう表現するか、それもまた楽しみの一つだ。 メッセージはこちら👇 https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8 Twitter👇 https://twitter.com/koukan_dokusyo
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094.映画「Chime」(2024年)訳が分からないけど怖い、とにかく怖い。
「感想」部屋の静寂は、録音機材の低い唸りと、時折聞こえる遠くのサイレンの音に支配されていた。外はまだ夏の蒸し暑さが残り、空気は重苦しい。この街の夏はいつもそんな感じだ。俺はマイクの前に座り、深呼吸を一つしてから話し始めた。 「まず、こんな配信を聴いてくれてありがとう」俺は感謝の言葉を口にした。リスナーに対する俺の感謝は本物だ。彼らがいるからこそ、俺はこの配信に全力を注いでいる。底辺ポッドキャスターに過ぎない俺だが、少しでも彼らの心に響く何かを伝えたいと思っている。 ただ、もし俺の言葉に「何を言ってるんだ」と感じる人がいるなら、それで構わない。聴かなくてもいい。ただ、俺は聞いてくれる"あなた"にこだわる。もし最後まで聴いてくれる人がいるなら、その人の心に少しでも届けばいいと思う。明日を頑張ろうという気持ちや、暗い気分を吹き飛ばす手助けになればと願っている。 先日、俺はフェスに行ってきた。熱気と興奮に包まれたあの場所で、特に印象に残ったのがSUPER BEAVERの渋谷さんだった。彼のステージは観客をただ煽るだけではなく、もっと深いところに訴えかける力があった。彼の言葉とパフォーマンスが、あの場にいた全員を一体化させる瞬間を俺は見た。鳥肌が立った。淡々と演奏するミュージシャンも確かにクールだが、SUPER BEAVERのライブパフォーマンスはそれを超えて、まるで神々しい何かを見ているようだった。 この経験を踏まえて、今回は少し趣向を変えてみた。あのフェスでの感動を再現しようと、俺なりの煽りを試みたが、どうやら俺にはまだそのレベルには達していないようだ。ただのポッドキャスター、しかも底辺の俺が、あの感動的な瞬間を再現しようとしたところで、寒々しい結果になるのは仕方ないことだ。 次に話題を変え、リスナーからのリクエストに答える時間だ。今回のリクエストは、20代のリスナーからで、「chime」について語って欲しいというものだった。限定公開でしか観られないというこの作品、俺も早速足を運んで観てきた。感想を述べる前に、一言リスナーに感謝したい。「いつも聴いています。楽しいお話を聞いていると友達のような明るい気分になります」と書いてくれたその言葉が、どれだけ俺の心を温めたか、言葉では伝えきれないほどだ。 映画「chime」は45分という短編だが、黒沢清監督の手による作品であり、その独特な世界観が詰め込まれている。料理教室が舞台で、登場する包丁の存在感が不気味だ。俺自身、家で包丁を使うたびに、黒沢作品の恐怖を思い出す。あの包丁が、どこかで何かを引き起こすのではないかという不安が常に頭をよぎる。 この作品は、はっきりとした結末を求める人には少し難解かもしれない。だが、精神的に不安定な人間の視点で観ると、また違った面白さがある。chimeの音が聞こえるという設定自体が、不穏で不気味だ。それが何を意味するのか、観終わった後も考えさせられる。 黒沢監督の演出は、観る者に恐怖をじわじわと感じさせる。例えば、家の中で奥さんが空き缶を捨てるシーンや、息子が突然笑い出すシーン。これらはすべて、日常の些細な出来事を不安感で満たす要素だ。そして、偶然の産物であろう電車の音さえも、恐怖の一部として効果的に取り込まれている。 この映画を観ていると、見えている現実と見えていない現実が交錯するような感覚に陥る。精神が錯乱した人の視点から見ると、この作品の恐怖が一層深まる。観終わった後も、心のどこかに引っかかるものが残り、何かを考えさせる。まさに、黒沢清の手腕が光る一作だと言える。 「あなたにもchimeの音が聞こえますように」とリスナーは書いてくれたが、その音が聞こえるということが、果たして本当に良いことなのか。そんな疑問が頭をよぎる。chimeの音が何を意味するのか、どう受け取るかは観る者次第だが、少なくとも俺にはその音が不安を掻き立てるものに思えた。 映画を観た後、俺は新たな映画の宣伝方法を思いついた。ポッドキャスターたちに映画を観てもらい、感想を語ってもらうことで、広くその作品を宣伝していく手法だ。ポッドキャストは今や数多く存在し、その中には映画に特化したものも多い。そこに映画を広める力があるなら、それは非常に有効な手段となるだろう。 最近、海外の映画で「スージー・サーチ」といった作品が日本で公開されているが、その宣伝方法もポッドキャスターを利用したものだった。ポッドキャストをやっている人々に試写会を提供し、その感想をTwitterや他のSNSで広めてもらう。この方法は、映画のプロモーションとして非常に効果的だと感じた。 俺がそんな試写会に招待されることはないだろうが、それでもこの手法は素晴らしいと感じる。映画配給会社が、ポッドキャスターに映画を見てもらい、それを広めてもらう。この手法が今後ますます一般的になるのではないかと予想する。 さて、話を戻そう。明日、俺はまた旅に出る。2泊3日の過酷な旅が待っている。精神的にも厳しい旅だが、仕事だから仕方ない。少し憂鬱だが、帰ってきたらまた次の配信で会おう。もしかしたら、その旅の間にchimeの音が聞こえるかもしれないが、それはまた別の話だ。今回の配信はここで終わりにしよう。次回もどうぞよろしく。 メッセージはこちら👇https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8Twitter👇https://twitter.com/koukan_dokusyo
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093.「インサイド・ヘッド 2」&「地面師たち」面白いけど大絶賛ではない理由とか
「感想」8月11日、俺はロッキンに向かう。千葉の蘇我市で繰り広げられる音楽と汗、そして混沌の祭典だ。だが、今年は特別だ。暑さが俺の喉を締め上げ、皮膚を焦がし、神経を暴走させる。まるで生と死の境界を歩くような、このクソみたいなフェスティバルに、俺は自らを投げ込もうとしている。それがどれだけ愚かで無謀かは、俺自身よくわかってる。だが、それでも俺は行く。だから、これが遺言になるかもしれないことを、頭に入れておいてくれ。 そんなことを考えながら、俺は毎日10キロの道のりを自転車で漕いでいる。電動なんてぬるいもんは使わない。あえて、この荒れた舗装道路をひたすら漕ぎ続ける。汗が目に染み、太ももが悲鳴を上げる。それでも漕ぎ続ける。この苦しみこそが、俺の心臓を燃え上がらせロッキンで死なないための暑さへの訓練となっている。 さて、俺が最近観た2つの作品について話そう。『インサイド・ヘッド2』と『地面師たち』だ。この2本の映画は、俺の心に深い爪痕を残した。だが、それは甘い夢のような爪痕じゃない。もっと、こう…鉄拳で顔を殴られたような、そんな感覚だ。 まず、『インサイド・ヘッド2』だ。ピクサーが作り上げたこの美しい世界の裏側には、血みどろの感情が渦巻いている。ライリーという少女の頭の中で繰り広げられる感情の戦争。俺は2015年に公開された『インサイド・ヘッド』を観たとき初めて映画館で泣いた。そう、あの時はまだ俺も無垢だった。だが、今回の続編は、その無垢をさらに深く抉り取るような作品だった。感情がぶつかり合い、ねじれ、そして壊れる。ピクサーの完璧なビジュアルの裏で、感情が腐り落ちていくのを見ているような気分だった。だが、現実の思春期ってのは、こんなに綺麗に描かれるもんじゃない。もっと汚いんだ。汗と血と涙でぐちゃぐちゃになって、それでも何とか立ち上がる。それが俺の知っている思春期だ。だから、この映画には、どこか空虚さを感じた。 次に、『地面師たち』だ。これが本当に痛快な作品だった。ファイトクラブみたいな暴力的な世界観とは違うが、その詐欺の手口は暴力と同じくらい荒々しい。地面師たちは、偽の書類と偽のアイデンティティを使って、土地を手に入れ、大手の不動産会社をだます。彼らの狡猾さ、冷酷さ、そして一切の躊躇を見せない手法には、言葉を失った。 ピエール瀧、北村一輝、豊川悦司、そして綾野剛。彼らは、この荒々しい世界を体現する役者たちだ。彼らの演技には、血の通ったリアリティがある。特に豊川悦司のキャラクターには、どこか壊れかけた狂気が漂っている。彼が演じる詐欺師は、一度笑顔を見せたかと思えば、次の瞬間には相手を地獄の底に突き落とす。それはまるで、ボクサーが相手をノックアウトする寸前のスリルだ。 しかし、このドラマにも問題がないわけじゃない。特に終盤の展開には、どこかご都合主義が見え隠れしていた。沖縄でのシーンでは、北村一輝のキャラクターが、なぜああなる前に止められなかったのか、全く理解できない。そして、最後の格闘シーン。まるでタランティーノが脚本を放り投げたような、無意味なねじれがそこにあった。 それでも、この作品には、現代社会の裏側に潜む腐敗と暴力が詰まっている。それを目の当たりにすることで、俺たちはどこか解放される。自分よりも強大な存在が打ち倒されるのを見て、俺たちは一時的にでも自由を感じるんだ。 さて、これが俺の最近の映画体験だ。だが、もしこれが俺の最後の配信になるなら、ここで一つだけ言っておこう。8月11日、ロッキンで俺は死ぬかもしれない。だが、もしも生きて戻ることができたら、俺たちはまた次の作品について語り合おう。だが、その時が来るかどうかは、誰にもわからない。 次に観るべき映画についても考えているが、今のところ『パウ・パトロール』がトップだ。だが、俺はこの作品を避ける。理由は簡単だ。夏休みの時期に、おじさんが一人で『パウ・パトロール』を観に行ったら、それは確実にヤバいことになる。だから、俺は『あのコはだぁれ?』を選ぶことにする。それが俺の生きる道だ。 でも、もし俺が8月11日に死ぬことになったら、この話もこれで終わりだ。次の配信があるかどうかは、俺の生き様次第ってところだな。 メッセージはこちら👇https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8 Twitter👇https://twitter.com/koukan_dokusyo
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第2回「ゲストとお話」中学ぐらいで知り合った現在大学生の青年~あの時観た「ムカデ人間」の思い出とか~
メッセージはこちらから👇 https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8 「感想」 今回のインタビューには、影のように暗い裏事情が潜んでいた。本来なら別のゲストが来るはずだったが、連絡が突然途絶えた。まるで夜霧の中に消えたかのように。その存在は儚く消えてしまった。そんなわけで、急遽大学生のジェイ君を呼び出すことになった。 ジェイと俺の出会いは中学時代に遡る。当時の彼はまだ無垢な少年で、俺は彼にいくつかのアドバイスを与えただけだった。しかし、時が経ち、彼はボクシングに情熱を燃やす青年に成長していた。鋭い眼差しに純粋さを残しながらも、強さを手に入れたジェイを見て、俺はその変貌に心を打たれた。 ジェイは現在、ボクシングに全てを捧げている。彼の目には、炎のような情熱が宿っていた。最近観た映画について尋ねると、彼は少し恥じらいながら「アナと雪の女王2」を挙げた。ディズニー映画に夢中になっているという。外見は鍛え抜かれたボクサーだが、その内面には優しさと夢見る心が宿っているのだ。 アクション映画の話になると、ジェイは「クリード2」を最後に観たと語りだした。1年ほど前、自宅で観たその映画が、彼のボクシング魂に再び火をつけたという。彼がボクシングを始めたのも「クリード」に影響を受けたからだった。井上尚弥を倒せるのではないかと一時は思ったこともあったが、現実はそう甘くはなかった。 ジェイは今でも映画を観続けている。最近観た「インサイド・ヘッド」について語る彼の姿からは、映画への深い洞察力が感じられた。大学で学ぶ心理学と映画のテーマが交錯し、彼の思考はより複雑で豊かなものとなっていた。 そして、ジェイが映画について語る中で最も印象的だったのは「ムカデ人間」の話だった。中学生の頃、彼はこの異色の映画を観た。衝撃的な内容が彼の心に深く刻まれており、その体験は今でも彼の中で鮮明に残っているという。俺はその話を聞きながら、彼がどれだけ多感な時期に強烈な影響を受けてきたのかを改めて実感した。「ムカデ人間」のような過激な映画が、彼の内面にどのような変化をもたらしたのかを思うと、胸が締め付けられるようだった。 ジェイはこれからも映画を観続け、人との会話や共有を通じて新たな発見を求めていくつもりだという。その姿勢は俺にとっても刺激的で、映画の持つ力の大きさを再確認させるものだった。彼の内なる情熱と探求心は、まるで終わりのない旅のように続いていく。 インタビューの最後、俺はジェイに感謝の意を述べた。彼の未来に期待を寄せながら、また次回も彼の話を聞けることを楽しみにしていると伝えた。その時、俺たちの間には静かな共感と理解が漂い、インタビューは幕を閉じた。ジェイの燃えるような情熱と探求心は、まるで夜明け前の空に一筋の光を放つように、俺の心に深く刻まれた。
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092.映画「劇場版すとぷり はじまりの物語」(2024年)映画という名のファンイベントでした
メッセージはこちらから👇 https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8 「感想」 劇場版すとぷりについて話す。だが、すとぷりファンには聞かせるな。なぜなら、褒めることなど皆無だからだ。すとぷりファンではない俺が話す内容だから、かなり偏っているかもしれない。ある意味ではフラットな視点で語っているが、すとぷりファンにはきっと毒にしかならない。 映画好きとして見たが、最低でつまらない。地球上で一番無価値な映画だったと断言してもいい。この作品をすとぷりファンが楽しむのは勝手だが、友達の結婚式を無関係な他人が見たら、まったく面白くないだろう。それ以上に酷い。 例えば、友達に「すごく君と会わせたい人がいる」と飲み会に誘われた。しかし、そこは大学時代のサークル仲間の飲み会だった。全く関係のない俺が連れてこられ、サークルの昔話で盛り上がる連中を見ながら、取り残された感覚。それがこの映画を見たときの感覚だ。 さらに、そのサークルノリは俺を気遣うことなく、延々とつまらない話を続ける。下ネタまで飛び出す始末だ。本当につまらない映画だった。前回見た「ブルー君は大丈夫」が100倍良かった。 目の前に座っていた女子中高生たちは、すとぷりのキャラクターの人形を持ち、キャッキャしていた。それを見て、日本も堕ちるところまで堕ちたなと感じた。 この映画が上映されることで、熱狂するファンがいる現状が、日本の社会に悪影響を与えている。俺が老害だと言われても構わないが、そう感じる。もちろん、素晴らしいアニメ作品もある。「クレヨンしんちゃん」の劇場版は観客を感動させるが、すとぷりの映画はそうではない。 エンドロールで退場したが、本当に酷い経験だった。観に行ったのが夏休みの月曜日で、親子連れや女子中高生が多い中、おじさん一人で観に行ったのが恥ずかしかった。1,100円で観ることができて良かったが、騙されていると感じた。 この映画はファン向けのイベントであり、ファン以外は観に行くべきではない。ファンイベントとしては納得できるが、映画としては一切評価できない。映画好きの人には、逆に観て欲しい。こういう映画もあるんだと再認識できるから、シネフィルの人たちは観てみる価値がある。俺の気持ちを分かってくれ。頼む。
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091.映画「ブルー きみは大丈夫」(2024年)劣化版ピクサーのような映画
「感想」 7月15日に読書会を開こうと思っていた。前回の配信でそのことをお伝えしたが、正直なところ、準備を始めるとどうにも面倒くさくなってしまった。配信が終わった後に会場を探して色々と準備しようと思ったのだが、どうにも腰が重い。そんな時、映画の会によく参加してくれている常連の友人から連絡が来た。「7月15日はユーロの決勝もあるし、コパアメリカも朝からやってるから、もしかしてそれを狙って読書会やらないつもり?」と。友人にそう言われて、「ありがとう、やっぱりそうするわ」と返事をしてしまった。これでは読書会どころではない。最高の一日を過ごせる日に読書会なんてできないというわけだ。だから、7月15日の読書会は延期することにした。読書会はまた別の日にやりたいと思っているが、最近は本当に忙しくて、フェスに行きまくっているのだ。 こないだもトーキングロックに行ったし、今これを書いているのが7月12日の金曜日なのだが、明日にはDAIENKAIというくだらない吉本興業主催のフェスが東京ガーデンシアターで開催される。吉本主催ということで最初は乗り気じゃなかったのだが、クリープハイプも出演するし、キュウソネコカミも出るし、さらに気になるバンドも参加するということでチケットを取った。気になる芸人の金属バットもいる。だから行こうかなと思っている。 そんな感じでフェスにひょいひょい参加する日々が続いているが、一番忙しくさせているのは、なんというか、フィクション的な表現をするならば、いまの僕の仕事はまるで孤独な殺し屋のような仕事だ。職場に広めのオフィスがあって、ほとんど一人で過ごしている。最近の昼ご飯事情も変わってきた。自分はお弁当ではなく、ニンニクや唐辛子を持参して職場でペペロンチーノを作って食べている。こうして自由にやらせてもらっているのだが、やはり孤独な仕事だ。 日常のルーチンワークに追われる中で、僕は時折、自分が何者なのかを見失いそうになる。そうした自己探求の旅を続けている。自己の存在を確立するために過去と向き合い、その過程で多くの人々と出会い、別れていく。その孤独と向き合いながらも、生き続ける。僕もまた、自分の孤独を認め、それを受け入れることで次のステップに進もうとしている。 そんな中で、プロボノというボランティア活動にも興味を持ち始めた。持っている知識やノウハウを活用して社会貢献をしたいと考え、あるプロジェクトに応募した。僕の期待は、孤独でなくチームで仕事をすること。しかし、実際に参加してみたら、結局また一人での活動だった。今の職場と変わらない状況で、少しがっかりしている。でも、応募してしまった以上、最後までやり遂げなければならないという責任感があって、仕事以上に面倒くさいことが始まっている。 その責任感というのは、一種の重荷のようなものだ。例えば、目の前に大きな石があって、それを動かさなければならないとする。しかし、その石はあまりにも重くて、動かすことができない。それでも動かさなければならないという使命感がある。その石が、僕にとってのプロボノのプロジェクトだった。 映画の話をしよう。今回見た映画は「ブルー君は大丈夫」だ。この映画について、少しばかり思うところがある。予告編を見たとき、これは自分の趣味には合わないかもしれないと思ったが、実際に見てみると予想以上に酷かった。まるで心がブルーになってしまうような映画だった。 予告編を見た時点で、これはピクサーやハリウッド映画のような、起承転結がしっかりしている作品だと思い込んでいた。子供も大人も楽しめる、感動的な物語を期待していたのだが、全然違った。劇場に行ったら、字幕版はなく、吹き替え版しかなかったので、それを見ることにした。映画館には子供連れの観客が多く、子供向けの映画だと確信した。 映画が始まる前、ポスターには緑色の怪獣が描かれていて、主人公の女の子と冒険する話かと思っていた。しかし、実際にはわけのわからない展開が続いた。主人公は12歳のビーという女の子で、家族の仲が良かったが、母親が突然亡くなり、父親も病気を抱えているという設定だった。彼女は父親の入院のため、いま住んでいた家から離れ、昔住んでいたところに戻りおばあちゃんと暮らし始める。 幼少期の楽しい思い出がよみがえる中、ビーは奇妙な怪物たちと出会う。これらの怪物は、手塚治虫のキャラのようなものから、ポスターに描かれている紫色の怪物まで様々だが、周りの人には見えていない。さらに、ライアン・レイノルズが担当するキャラクターが登場し、怪物たちはイマジナリーフレンド(空想の友達)だと言われる。日本では馴染みのない概念だが、吹き替え版でもそのまま使われており、わかりにくかった。 この映画の最大の問題は、ストーリーが意味不明というかくだらなすぎて子供だまし感がでまくっていて、何を伝えたいのかが全くわからない点だ。昔ながらの妖怪が都市生活の中で見えなくなったということを言いたいというニュアンスなのかもしれないが、テーマも中途半端で、結局何も得られない。ただの時間とお金の無駄だった。 ピクサーやジブリの映画のように、普遍的で説得力のある物語を期待していたが、この映画はそのどちらにも遠く及ばない。主人公の成長も描かれておらず、最後にはただ幼少期の自分に戻っただけだった。ビーが怪物たちと出会うことで成長するわけでもなく、物語の結末も締まりがなかった。 もちろんこう書くことで、成長していたじゃないかという反論がくるのは分かっているが、大した成長ではない。母の死を乗り越えたわけでもなければ父の出来事も乗り越えていない。そういう意味で成長していない。 監督のジョン・クラシンスキーは、「クワイエット・プレイス」で成功したが、今回の映画はその成功とは程遠い。彼の才能はホラー映画にこそ発揮されるものであり、こういったファンタジー映画では全くその魅力を引き出せていない。ギレルモ・デル・トロのような独自のビジョンと才能は感じられず、ただの劣化版ピクサーといった印象だ。デル・トロは観客を魅了する力を持っているが、クラシンスキーにはそれがない。 「ブルー君は大丈夫」という日本語タイトルも全く意味を成しておらず、英語の原題「IF」の方がまだマシだ。この映画を配給した東宝東和ピクチャーズには大いに失望した。こんなタイトルをつけて、子供向けに売り込むのは最悪だ。 全体として、この映画は何も得られないし、観る価値がない。子供向け映画として連れて行かれたら、トラウマになるほど酷いという内容でもなく実にくだらない、ただの時間とお金の無駄だった。 実際に監督のインタビュー記事なんかを観ると「となりのトトロ」が好きだなんてことを言っている。本当にくだらない。ギレルモ・デル・トロのようにはなれないだろう。出世作の「クワイエットプレイス」のようなホラー映画だけ作るのに専念してほしい。 こうして考えてみると、映画というのは本当に難しいものだ。素晴らしい映画がある一方で、こうした失敗作も存在する。次回はもっとまともな映画を見たいものだ。でも、変な縛りを設けてしまったせいでそうもいかないだろう。次に見る映画の候補として、いくつか挙げてみた。「逃走中 THE MOVIE」、「お母さんが一緒」、「キングダム 大将軍の帰還」、「劇場版すとぷり」、「もしも徳川家康が総理大臣になったら」。もちろん、どれもあまり見たくない映画、いや絶対に観たくないものばかりだが、皆さんの投票をお待ちしている。 こんな日々の中で、ふと立ち止まって考えることがある。僕は何を求めているのだろうか。何を目指しているのだろうか。答えはまだ見つかっていない。ただ、フェスに行ったり、映画を見たり、読書会を開こうとしたり、その中で何かを見つけたいと思っている。それが何なのかはまだわからない。でも、それを見つけるために、今日も僕は生きている。人生は、時に果てしなく孤独である。しかし、孤独の中にこそ真実が隠れているのかもしれない。僕たちは孤独と向き合い、その中で自分自身を見つける旅を続けていくのだ。 この文章は分かる人にはわかると思う。あるものを模倣して作っている。ただそれだけである。だから何なのかということだが、―それが孤独ということだ。
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13.番外編 「第23回 好きな映画を語る会」資本主義と共産主義と服装自由
6月30日、久しぶりに映画の会を開いた。前回は3月31日だったので、ちょうど3か月ぶりになる。開催のきっかけは「サタンタンゴ」の感想を語り合う会が知り合いの主催で行われ、その帰り道に「映画の会をまた開いてほしい」と頼まれたことだ。予定を確認すると「大丈夫」と言われたので、安心して準備を進めたが、当日、その人は現れなかった。もしかすると何かよからぬ事件に巻き込まれたのかもしれない。その理由は誰にもわからず、薄い不安が胸に残った。 前日の6月29日、僕は仙台で友人の結婚パーティーに参加していた。招待状には「服装自由」と書かれていたが、30度を超える猛暑の中でスーツを着る気にはなれなかった。そこで、以前浅草で買った高級アロハシャツを思い出した。2万円もする着物から作られた特別なもので、柄も竹のボタンも素晴らしい逸品だ。それを着て仙台に向かうことにした。 仙台駅で友人と合流すると、彼はスーツを着ていた。僕のアロハシャツ姿を見て「それで大丈夫?」と心配そうに尋ねたが、服装自由の案内を信じることにした。内心ドキドキだったが、その場は「超高級アロハシャツだ」とアピールして乗り切った。 翌日の6月30日、映画の会が神保町で始まった。参加者は10人で、そのうち初参加が3人。特に印象的だったのは、一人の若者が資本主義を批判し、共産主義の復活を熱心に語っていたことだ。彼はマッチングアプリを利用していて、そのプロフィールには「資本主義嫌い」と書いているそうだ。驚いたことに、彼はアップルウォッチをつけていたが、それでも資本主義の問題点を指摘していた。そして、マッチングアプリでも資本主義が嫌いという人と出会えて面白いと言っていた。 映画の紹介が始まり、最初に取り上げられたのは2001年の黒沢清監督の「回路」だった。紹介者は映画フリークで、マジックザギャザリングも趣味にしているという。他にもアメリカンフィクションやペパーミントキャンディなど、様々な作品が取り上げられた。参加者たちは皆、目を輝かせ、身振り手振りを交えて熱心に語り合っていた。どの映画もその情熱に引き込まれ、観たくなるものばかりだった。 映画の会が終わると、次回の予定が話題になった。7月15日に読書会を開くことになり、場所も時間も未定だが、みんなの期待は高かった。読書会では僕の自家製カレーを振る舞うことを求められたが、それにはあまり乗り気ではなかった。カレーを作るのは好きだが、大人数に振る舞うのは手間がかかる。 映画の会の後、近所のゲオに寄って、紹介された映画を探したが見つからなかった。その途中、お腹の調子が悪くなり、しっかりと肛門を引き締めてなんとか持ちこたえたが、探していた映画は見つからなかった。そんなこんなで、映画の会も無事に終わり、次回の読書会に向けてまた新しい準備が始まる。 僕たちの日常はこうして、映画と読書と少しの冒険で満ちている。映画の会も読書会も、いつも新しい発見と出会いがあり、それはまるで見知らぬ扉を開けるようなワクワク感がある。それが何よりも楽しい。次回もまた、どんな魔法のような映画や物語が紹介されるのか、どんな魅力的な人々と出会うのか、まるで冒険の続きが待っているかのように、今から楽しみで仕方がない。 紹介された🎬 「回路」2001年 監督:黒沢清 「お終活 熟春!人生、百年時代の過ごし方」2021年 監督:香月秀之 「アメリカン・フィクション」2023年 監督:コード・ジェファーソン 「ペパーミント・キャンディー」2000年 監督:イ・チャンドン 「ヒート」1995年 監督:マイケル・マン 「蛇の道」1998年 監督:黒沢清 「コーダあいのうた」2021年 監督:シアン・ヘダー 「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」2022年 監督:竹林亮 「TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ」2016年監督:宮藤官九郎 「ノーマンズランド」2001年監督:ダニス・タノヴィッチ
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090.映画「ザ・ウォッチャーズ」(2024年)予告編は最高に面白そうだったが。
「感想」 予告編は非常に魅力的で、まさにシャマラン映画に期待する要素が詰まっていた。しかし、実際に映画館で鑑賞してみると、その期待は裏切られた。シャマランの娘が監督し、シャマラン自身も製作に関わっているものの、その出来栄えはNetflixの『ブラックミラー』のエピソードとしてならば納得できるレベルに過ぎなかった。設定や脚本には多くの粗が見受けられ、原作がどのように描かれているのかが非常に気になるところである。映画全体に説得力が欠け、結末も予測の範囲内であり、新鮮さが感じられなかった。シャマランの娘が監督したことから、父親の影響力を強く感じざるを得ない。24歳という若さで映画を撮れるのは、間違いなくシャマランのバックアップがあったからこそであろう。しかし、映画としての完成度には物足りなさが残った。 ※冒頭はMBTIのINFJの話をしちゃってます。 監督:イシャナ・ナイト・シャマラン
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089.映画「お終活 再春!人生ラプソディ」(2024年)おむつの付録としてはいいのかもしれない
「感想」 まず、この映画で2回も泣かされました。まさか2回も泣くとは思っていませんでした。ただし、面白い映画かというと、そうではありません。 再現ドラマなどでも泣くことがありますが、それはしっかりと泣かせるように作られているからです。この映画には泣かせるポイントが2つあり、丁寧に作られているのは間違いありません。劇場に入った瞬間、30ページほどの特典パンフレットを渡されました。それを見た瞬間、この映画は資本主義に毒された作品だと感じました。パンフレットにはエンディングノートのような内容が含まれており、葬儀屋や保険会社の情報が載っていました。 映画の中には現代的なお墓のシーンもありましたが、これが映画の宣伝の一部となっていました。一言でまとめると、教習所で見せられる「交通事故が怖いから気を付けましょう」といった再現ドラマの映像のような作りで、日本のテレビドラマの悪い要素が詰まっています。役者さんたちは素晴らしかったです。 音楽の使い方もキラキラしたものが常に流れており、嫌でした。しかし、最後のシーンだけは良く、橋爪功さんがとあることをして、その仕掛けは見事でした。全体的には、日本ドラマの悪い部分が目立ち、社会性が描けていないため共感できない部分が多かったです。 最終的には、親におすすめできる映画であり、老人ホームで流すには楽しめる作品だと思います。この映画が生まれたのは、こうした需要があるからでしょう。俳優さんたちはしっかりしているので見やすいですが、自分の好みではありません。それでも、今回は良い体験ができたと思います。正直、自分の両親もこういう形で終活した方がいいのかもしれないと感じました。 監督:香月秀之
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088.映画「マッドマックス:フュリオサ」(2024年)復讐、復讐、復讐、そしてその先にあるもの
「感想」 この映画を観終わったあと、家に帰ってすぐに前作の「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観た。というか観たくなった。そういう気持ちにしてくれた内容。そんな風にした人はきっと多いだろう。でも、前作と同じだと思ったら全くとはいわないが違うテイストと言えばそうだ。そこがジョージミラーの凄さでもあり、マッドマックス作品の厚みでもある。それを堪能できる「マッドマックス:フュリオサ」。絶対に劇場で観るべきだ! 監督:ジョージ・ミラー 出演:アニャ・テイラー=ジョイ、クリス・ヘムズワース Twitter:https://twitter.com/koukan_dokusyo
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087.映画「関心領域」(2024年)自分の身近にも潜んでいる目を背けてしまう領域
「感想」 監督のことを調べたら、ジャミロクワイのヴァーチャル・インサニティのMVの監督なんだあと知った。だとしたら、少し納得の内容。エンタメ的な内容ではないが、音と映像の対比が秀逸で、直接的な描写でホロコーストを描くのではなく、音による表現でのあえて見せないという演出がより残虐性を光らせた。関心領域というタイトルはみたいものだけしかみないSNS中心でまわる現代社会にもあてはまる。 監督:ジョナサン・グレイザー 出演:クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー、ラルフ・ハーフォース
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086.映画「ミッシング」(2024年)正しさと希望と今の社会を生きることの矛盾
「感想」 日本社会のダメさというか人間のダメさというか、みていてとにかく自分事のように感じられる部分があり終始なんか人間って嫌だなあ、生きるのやだなあと暗い気持ちに。でも、要所要所で人間もいいかもだから生きるんだよなあなどと思う場面があり何度か泣いた。 監督・脚本 吉田恵輔 出演 石原さとみ、青木崇高、森優作
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085.映画「胸騒ぎ」(2024年)断れる決断ができない人はいつかこうなる
「感想」 映画のはじまりから嫌な感じするなあと思うが、なんか何も起こらないなあという感じで進んでいく。でも....。あの時あの決断をしておけばという教訓めいたこともいえるしかなりトラウマになる内容。
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第1回「ゲストとお話」寺山修司の話と好きな北野武映画の話(ゲスト:トークラさん)
ゲスト:トークらさん(哲学カフェ トークラウンジ 主催者)twitter: @talkloungetalk 主に言及されたもの: SUPER DOMMUNE 2024/04/25 TBSレトロスペクティブ映画祭 Presents 「寺山修司と60年代テレビの前衛」 & KILLIAN Presents QUELZA https://www.youtube.com/watch?v=GvtHoRGj-kg 監督:寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」 監督:北野武「ソナチネ」「キッズリターン」「HANA-BI」「TAKESHIS'」 Aphex Twin - Alberto Balsalm https://www.youtube.com/watch?v=s4pQ5aj6vx8
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084.アマプラ「フォールアウト」(2024年)今後ゲーム原作の実写が増える予感
「感想」 今後、ゲーム原作の実写化が増えてきそうな予感を感じる内容。世界観がしっかりしている中で、そこを崩さビックバジェットでなおかつ映画のように2時間程度で収まる必要性のない、配信ドラマとの相性はかなり高い。そんな期待を感じさせる内容。こうやって作ればいいんだね。みたいな感じ。
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083.映画「アイアンクロー」(2024年)頑張った、エリック兄弟の苦悩
「感想」 フリッツ・フォン・エリックの鉄の爪は、昭和懐かし映像とかでよく見ていたが、この一家が抱えていた闇は知らなかった。映画を通じて知ることとなったが、悲惨すぎる。だが、映画は悲惨な内容ではあったがそこから逃れることが出来たときの幸せさを教えてくれる内容だった。 監督:ショーン・ダーキン キャスト: ザック・エフロン、ジェレミー・アレン・ホワイト、ハリス・ディキンソン、モーラ・ティアニー、スタンリー・シモンズ、ホルト・マッキャラニー、リリー・ジェームズ
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12.番外編 「第22回 好きな映画を語る会」神隠しがおきた話
2024年3月31日に神田で開催しました。参加者:8名 「オッペンハイマー」(2023年 監督クリストファー・ノーラン) 「アメリカン・サイコ」(2000年 監督メアリー・ハロン) 「ウォルト・ディズニーの約束」(2013年 監督ジョン・リー・ハンコック) 「マジカル・ガール」(2014年 監督カルロス・ベルムト) 「キネマの天地」(1986年 監督山田洋次) 「プレステージ」(2006年 監督クリストファー・ノーラン) 「インサイド」(2023年 監督ヴァシリス・カツォーピス) 「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」(2022年 監督 ジョン・ワッツ)
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082.映画「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」自己表現をしたい人、かつてしていた人は色々と喰らう
感想 若松孝二の作品が好きで監督作は色々とみているが、若松孝二を描いた作品は、これで2作目。前作の作品もよかったけど、今回の作品もかつて何かを目指していた人が見ると色々と喰らってしまう。青春映画として非常に面白かったし、あのころにはもう戻れないけど戻りたくもないということを思い出してしまう。 脚本 監督 出演者 井浦新、東出昌大、芋生悠、杉田雷麟、コムアイ、田中俊介、向里祐香、
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081.映画「ボーはおそれている」 & 「DOGMAN ドッグマン」 多々よかった
感想 「ボーはおそれている」 3時間もあるので、観るのを躊躇したが、配信で観るとそれはそれえ集中力がもたなくなるし、劇場という逃げられない場所で観るべきものなのではという思いで鑑賞。逃げられない。ボーも逃げられない。そして眠りからも逃げられない。前半は大興奮の内容で、よめない展開でワクワクしたが最後のエンディングでメチャクチャ眠くなった。 「DOGMAN ドッグマン」 ワンちゃんが大活躍だと思って観たが、そんなに全編にわたっての大活躍ではなかった。でも、活躍はしてくれてニコニコできたが、もう少しワンちゃんの訓練シーンや愛情もって触れ合うシーンも欲しかった。
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080.映画「落下の解剖学」(2024年)そういう期待をしてもそういう映画ではない
「感想」 観る前は、そういう期待をして観に行ったが、そういう映画ではなかった。でも、めまぐるしく変わる展開で主人公のいやな面もみえたり、でも違うんじゃないかとなったり、感情が揺さぶられる法廷劇。夫婦とはという究極の営みを見事に映画で表現していた。 監督:ジュスティーヌ・トリエ 脚本:ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ 出演:ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、アントワーヌ・レナルツ
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11.番外編 「第21回 好きな映画を語る会」店のトイレが壊れていた話
2024年2月25日にJR神田駅近郊で開催。参加者9名 紹介された映画 「ロープ/戦場の生命線」(2015年公開:監督フェルナンド・レオン・デ・アラノア) 「ストレイト・ストーリー」(1999年公開:監督デヴィッド・リンチ) 「赤い糸 輪廻のひみつ」(2021年公開:監督ギデンズ・コー) 「ポップスが最高に輝いた夜」(2024年公開:監督バオ・グエン) 「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1981年公開:監督押井守) 「宣戦布告」(2002年公開:監督石侍露堂) 「君が君で君だ」(2018年公開:監督松居大悟) 「オアシス」(2002年公開:監督イ・チャンドン) 「ヘレディタリー/継承」(2018年公開:監督アリ・アスター)
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079.映画「カラーパープル」(2024年)立ち上がれと魂が震えるミュージカル
「感想」 ミュージカル映画はあまり好きじゃないかもと思って、観るのに躊躇していたが、観てよかった!!暗いテーマだけど、ミュージカルになることでとても観やすくって、勇気をもらえた。内容と音楽もいいマッチング。「哀れなるものたち」とも共通するテーマ性があってあわせて観るのがお勧め。3回ぐらい泣かさた。 監督:ブリッツ・バザウレ 出演: セリー・ハリス=ジョンソン:ファンテイジア・バリーノ シャグ・エイヴリー:タラジ・P・ヘンソン ソフィア:ダニエル・ブルックス アルバート“ミスター”・ジョンソン:コールマン・ドミンゴ ハーポ:コーリー・ホーキンズ
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078.映画「哀れなるものたち」(2024年)2024年ベスト映画決定です!!
「感想」 予告を観たとき、可愛らしい映画なんだろうなあと思って観に行ったが確かに可愛い内容だが、ドギツイ可愛さ!そして、面白い最高だった。ボキャブラリーが生まれたてのベラ並みだが面白かった。2024年ベスト映画間違いなし!! 監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 エマ・ストーン マーク・ラファロ ウィレム・デフォー
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10.番外編 「第20回 好きな映画を語る会」鍵が開かなかった話
2024年1月21日に神田で開催しました。参加者:10名 紹介された映画 ロード・オブ・ザ・リング(2001年)監督:ピーター・ジャクソン 悪魔を見た(2010年)監督:キム・ジウン 愛しのアイリーン(2018年)監督: 吉田 恵輔 タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら(2010年)監督:イーライ・クレイグ モリーズ・ゲーム(2017年)監督:アーロン・ソーキン マリア・ブラウンの結婚(1979年)監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー スターリングラード(1993年)監督:ヨゼフ・フィルスマイアー 特捜部Q 檻の中の女(2013年)監督:ミケル・ノガール 窓ぎわのトットちゃん(2023年)監督:八鍬 新之介 笑いのカイブツ(2024年)監督:滝本憲吾
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