EPISODE · Apr 9, 2026 · 22 MIN
みちのくに息づく京の技と信仰〜山形・林家仏師一門の軌跡と白馬山法来寺の千年史〜
from Yamagata Walks 〜足跡に眠る、忘れられた山形の物語〜 · host Yamagata Walks
本日のエピソードでは、山形県という豊かな風土を舞台に、千年にわたって紡がれてきた仏教信仰と、近世から近代へと至るダイナミックな彫刻芸術の歴史を深掘りします。特に、山形市釈迦堂に位置する古刹・白馬山法来寺の壮大な伝説と、江戸時代末期から明治にかけて活躍した大江町左沢原町の「林家仏師一門」の類まれなる軌跡に焦点を当てます。第1部:白馬伝説と権力者たちの庇護〜山形・法来寺の起源 物語の始まりは平安時代中期、長和2年(1013年)に遡ります。神僧・図澄が、天竺・唐・日本と渡ってきた「三国伝来」の清凉寺式釈迦如来像を、白い馬の背に乗せてこの地に現れたという「白馬伝説」が法来寺の起源です。祈願の際に聞こえる「馬の嘶き」が「馬見ヶ崎」という地名を生み、お釈迦様を祀る堂が「釈迦堂」という集落名になり、仏法が来たことが「法来寺」という寺号になりました。 この神聖な場所は、後三年の役で戦勝祈願をした源義家や、鎌倉幕府の執権・北条時頼といった時の権力者たちから手厚い庇護を受け、武家社会の権威と結びつきながら山形における釈迦信仰の中心地として発展していきました。第2部:京都・七条仏所の系譜〜初代・治作がもたらした「京の風」 時代は下り、江戸時代末期。大江町左沢原町を拠点とした林家仏師一門の物語が始まります。初代・治作は、当時日本最高峰の仏師工房であった京都の七条仏所(三十代康傳)で修行した可能性が高く、「藤原康傳 薦之」「七條左京藤原慶㝡」という墨書が残る仏頭がその正統な系譜を証明しています。 治作の最大の功績は、京都の洗練された写実的な造形表現を山形に持ち帰りながらも、京都で主流だったヒノキの寄木造りではなく、ヤナギやシナノキといった地元で入手しやすい広葉樹を用い、内刳りを施さない「一木造り」という山形の風土に適応した独自の手法を編み出した点にあります。第3部:地方仏師としての造形力の頂点〜二代・文作の活躍 初代の技術を受け継いだ二代・文作は、林家工房の活動範囲を大きく広げました。彼の最晩年の作である「木造不動明王三尊像」は、玉眼を嵌入した写実的な面部や立体的な肉身表現など、中央の仏師にも引けを取らない円熟した極めて秀逸な造形を示しています。文作のもとには、後に東北各地で活躍する名工・高山文五郎(彫物大工)も師事しており、仏像彫刻の技術が建築彫刻へと波及していく契機ともなりました。第4部:激動の時代と近代彫刻への橋渡し〜四代・治郎兵衛 三代・治三郎の早世を経て、四代・治郎兵衛は江戸から明治という激動の時代を生きます。明治維新期の神仏分離や廃仏毀釈によって大型の仏像需要が激減する中、治郎兵衛は新四国八十八箇所霊場のための弘法大師像を大量制作する一方で、効率化のために寄木造りの箱組み技法を用いるなどの柔軟な対応を見せました。さらに、生計を立てるために丸彫りで木地を活かした近代的な彫刻作品(羅漢像や布袋像など)を手がけ、仏師業を存続させました。第5部:新海家仏師の誕生と受け継がれる「山形の地域文化力」 林家の技術は、一門の中だけで途絶えることはありませんでした。明治時代、法来寺の「木造十大弟子像」を制作した新海宗慶は林家に師事し、その用いた一木造りの技法に林家の強い影響が見られます。宗慶は七条仏所・林家の末流に入った誇りから、本名の「宗松」から「慶」の字をとり「宗慶」と名乗ったと考えられています。 そして、その息子である新海竹太郎もまた、少年期に林家四代目の治郎兵衛のもとで修行を行いました。竹太郎が後に日本近代彫刻の巨匠として大成する基礎は、まさにこの山形の地で、京都から受け継がれた仏師の伝統技術によって築かれたのです。結び 法来寺の千年に及ぶ信仰の歴史と、京都の高度な技術を地方の風土と融合させた林家仏師一門の軌跡。これらは単なる過去の遺物ではなく、近世の仏像彫刻から近代彫刻へと繋がるダイナミックな「山形の地域文化力」の象徴です。本エピソードを通じて、時代を超えて受け継がれる人々の営みと芸術の息吹を感じていただければ幸いです。
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みちのくに息づく京の技と信仰〜山形・林家仏師一門の軌跡と白馬山法来寺の千年史〜
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