永瀬清子の世界

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永瀬清子の世界

岡山県出身の詩人・永瀬清子さんの詩をRSKアナウンサー 小林章子の朗読でお届けします。どんな景色が心に浮かぶでしょう?人生のステージや生活に合わせて読むことができる永瀬さんの詩の世界。多感な時期の悩み、結婚、両親、夫や子供など家族のこと、生活の中での驚きや発見、山や川、植物や天体など自然について、世の中について、老いについて。永瀬さんの詩は、過去の自分を振り返ったり、これから行く道の道しるべにしたり、人生を一緒に歩いてくれるようです。

  1. 112

    #112「出ていった三章 b 焦げついた」

    焦げついた鍋とその中身についても、永瀬さんは詩に書きました。何かが煮立ち、沸騰して泡立つ鍋の中は、まるで「私」の「生」のように様々な出来事が渦巻いています。つまり鍋は「私」の象徴であり、「生」とは、気力も体力も満ちあふれる命そのものが、鍋の中で勢いよく渦巻いている様子を指すのでしょう。そのような鍋の中身もだんだんと少なくなっていき、「るすが私を占める」ようになっていきます。「るす」は、「『死』よりもっとかわいそうな」ものとあることから、気力はあっても体がついていかないアンバランスの象徴です。やがて、その気力さえもだんだんと失われていき、老いていくために鍋の中身は焦げついていくのでしょう。老いていくとはどういうことなのかを捉えた一篇ではないでしょうか。<文・白根直子>

  2. 111

    #111「かなざわ」

    岡山で生まれ、2歳の頃に金沢で暮らし始め多感な時期を過ごした永瀬さん。その後、名古屋、大阪を経て東京で暮らしていました。この詩を書く7年前に発表した随筆には、「しかし日本全国のどこよりもその昔の金沢が私の故郷である」(『北國新聞』1936年8月6日)と書いており、詩「かなざわ」には、ふるさとへの思いが込められています。この詩には、反歌二首が添えられました。反歌とは、長歌の内容をまとめたり補ったりしている短歌のことで、万葉集に多くみられます。永瀬さんは、石川県立第二高等女学校卒業後、尾山神社で旧制第四高等学校の鴻巣盛廣(こうのす・もりひろ)教授に万葉集の講義を受けていました。反歌二首を添えて金沢への思いを綴ったところにも、思い出と深い愛着が感じられます。<文・白根直子>

  3. 110

    #110「短章『固定剤』」

    時間が人を作っていくことを感じる短章です。物が動かないように固定する「固定剤」は、用途に合わせていろいろな種類があります。年を重ねた「私」の固定剤は、他ならぬ〈老い〉でした。くたびれて背中を丸くしているほうが楽になっていくのは、それだけ長い間体を使ってきた証拠です。体は正直に〈老い〉という「固定剤」を受け入れていきます。「固定剤」は、現状を維持したい場合には心強いものですが、立場が人を作るように望ましくないことも隠したいことも容赦なく、その人の生き方として姿に定着させていきます。そしてこのように〈老い〉を冷静に受け入れていく「私」の姿とともに、それを「固定剤」にたとえる眼差しには、どこかユーモアさえ感じられます。 <文・白根直子>

  4. 109

    #109「短章『小鳥の声』」

    小鳥の声を聞き取り書き表そうとするのは、なかなか難しいことです。あの複雑な声をどう書いたらいいのでしょうか。だから「PECHAKUCHA」とローマ字で書いた詩を読んだとき、「私」は小首をかたむけてしまいました。だからこそ「私」は、ミソサザイの鳴き声を書いた宇野善三さんの本を読んで感嘆の声を上げるのです。近年、動物言語学という世界初の学問分野を切り拓いた鈴木俊貴さんは、シジュウカラなど鳥の言葉の研究を続けたことで鳥の言葉がわかるようになったそうです。小鳥の声を書き表すのも、言葉がわかるようになるのも、その生態を長年にわたり観察してきたことにほかなりません。このことは、単なる表記の問題だけではなく、相手に寄り添うことができるかどうか、相手が何を言おうとしているのかに耳を傾ける態度でもあるのではないでしょうか。宮沢賢治の言葉「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」につながる、永瀬清子さんの眼差しが感じられます。<文・白根直子>

  5. 108

    #108「いつまでもあるものそれはない?」

    「いつまでもあるものそれはない?」という題名に、はっとさせられます。「いつまでもあるもの」とは何でしょうか。形あるものは壊れていき、思い出は忘れ去られてしまうならば、自分が残さなければ消えてしまうものかもしれません。年老いてしまった「私」の心に聞こえてくる「やさしい声」。それは、他の人には聞くことのできない「私」だけに聞こえてくる声です。そうした声を自分の中に持っていることは、幸せなことだと思います。その声が、これまでの「私」の歩みの中で「私」を励まし守り続けていたのかもしれません。<文・白根直子>

  6. 107

    #107「私は」

    「世間みず」で「井の中の蛙」のような「私」。かつては、自分の「狭さ」や「ある部分しかピントが合はない」ことを「欠点」と思っていました。しかしこの「欠点」は、隠すものではなく肯定すべきものだと考えているところにこの詩の魅力があります。たとえば、昼間のいつもの明るさの中では感じにくい光でも、闇の中では、「少しのすき間から一直線にさしてくる光」は鮮烈な光として届きます。そのように「私」は、自分の「欠点」を生かして、「私」でなければ見えないものを捉えようとしているのではないでしょうか。闇が深ければ深いほど、差し込む光の強さは際立ちます。そしてその光のように「私」の見方を深めていくことは、いつか自分自身を支える「私」の味方になっていくのです。「欠点」というマイナスを「私」しか捉えられない光というプラスにしていく。この詩を貫く眼差しに永瀬清子さんの生き方を感じないではいられません。<文・白根直子>注)永瀬清子の詩「私は」(『諸国の天女』河出書房 1940年)の引用は『永瀬清子詩集』(思潮社 1979年)によります。同題の他作品と区別するため、便宜上()内に冒頭の一行目の一部を題名に付記しました。

  7. 106

    #106「いつかいつか三章 c木瓜(ぼけ)」

    「いつか」という願いは、永瀬さんの詩を貫くもののひとつだと思います。春に花を咲かせ、秋に実を結ぶ。それは、誰に知られることもなく繰り返される自然の営みかもしれません。ところが「私」は、木瓜と心を通わせ、「いつか」という願いを託しているのです。人知れず実った木瓜の実は、「私」ならば価値を認めてくれるのだと信じているかのように、「私」の足許に落ちていました。そのものの持つ価値を見抜くことができるのは、その人が平素から何を見つめどのように考えているかにも拠ります。「私」は、「口が曲がるほどしぶく」思われた木瓜の「無用の種子」を蒔き、「その渋さを又もや我がものにと――」と願います。これから花を咲かせたいと願う人が、さらにどのような実をつけるのか。他の人にとっては価値のない木瓜の実の「渋さを」自分のものにしたいという願い。ここには、永瀬さんが自分にしか書けない詩を書き続けていきたいという願いにも重ね合わせたくなります。<文・白根直子>

  8. 105

    #105「心の底では」

    「ホントの心」で通じ合うことを心の底で願っていても叶うことはない。「義理と思惑」で動く世の中では、心は届かないという嘆きばかりです。では、「ホントの心」とは何なのか。嘆くしかないのでしょうか。仮に「ホントの心」が届けば、全ては解決するのでしょうか。この詩は、これらの問いに答えを与えてはくれません。なぜならば、これらは人生の不条理ともいえる、誰にも答えられない問いだからです。ここで漢字の「本当」ではなく「ホント」とカタカナで表記することで、重い主題に独特の軽みを与え、読者の心に入りやすくなっています。詩人の井坂洋子さんは、「現代詩は、習熟した答えよりも問いの深さに軍配をあげ、自分サイズの完成よりも永遠の未完を評価する傾向がある」ことにふれ、その上で永瀬清子の詩を「伝統的な技法の延長線上にありながら、技法の隅々を実らす豊かさがある」と評価し、その理由として永瀬清子が「答え(認識)の側の詩人であったからではないか」と指摘しています(『永瀬清子』五柳書院 2000年11月)。安易な答えに満足することなく、答えが出ない問いに答え続け、本質を求め続ける永瀬清子。こうしたところにも永瀬清子の詩の特徴があるといえるでしょう。<文・白根直子>

  9. 104

    #104「見えても見えない三章 aミモザ」

    ロウバイ、レンギョウ、タンポポ……そして、ミモザ。春に咲く黄色い花は、景色を一度に明るく暖かくしてくれます。春の訪れを待ち焦がれる「私」は、「十三週間以上も待たせた」と花咲く日を楽しみにしていました。けれどもやっと咲いた時には、その花を見に行くことができず遠くから小さく見えるだけ。それでも、人知れず咲くミモザが、「私にだけは見え」ていたのです。「東山」は、岡山駅前から岡山市中心部を走る路面電車の終点の駅です。永瀬さんは、車窓から見える景色を詩に書いており、この詩もそうしたひとつです。「見えても見えない」ほどかすかな、けれども確かな春の訪れを見つめる「私」。春は、約束を破ることはない友達のように、必ず「私」のところに来てくれます。<文・白根直子>

  10. 103

    #103「短章「サンドペーパー」」

    サンドペーパーが木材や金属をなめらかにするかのように、みつめられて美しくなり光りだす。みつめることは、その人への温かな関心の表れであり、みつめられることは、その関心を自らのものにすることなのでしょう。たった一人でも理解してくれる人がいるだけで、励まされて前に進めるような気持ちになったり、新しく生まれ変わったかのような気持ちになれたりすることがあります。人知れず咲こうとするその姿を知っているのは自分だけかもしれないけれども、それをどこかで見てくれる人がいること、自分では気づかない成長を誰かが見守ってくれていることを知ればその喜びは格別でしょう。そして、自分のことを見つめてくれる人がいてほしいと願うとき、その願いは同時に自分が誰かを見つめる人になることの意味を教えてくれます。<文・白根直子>

  11. 102

    #102「短章「もしも私が」」

    私たちは、生きている限り、強くもなれば弱くもなります。その強さや弱さの表れとして「人は裏切ろうと思わずに人を裏切る」うえに「自分は自分をも裏切る」ことになるのかもしれません。そしてこれは昔からの「人間のかたち」とあるように、人間が人間である以上避けられない「悲しみ」なのかもしれません。つまり、「もしも私が死んだら」という仮定は、生き物としての「死」ではなく、「裏切る」ことによる心の「死」といえるでしょう。たとえ「私自身は人を裏切るまい。」と心に誓ったところで、そのことにより誰かを傷つけ、結果として悲しみをもたらすことさえあるかもしれません。そんな逃れられない人間の矛盾が描かれています。<文・白根直子>

  12. 101

    #101「短章「あわれみが」」

    すべてを解決するのは、「愛」ではなく「あわれみ」なのかもしれません。ならば、「愛」と「あわれみ」の違いは、どこにあるのでしょうか。そしてなぜ今、「あわれみ」だと思うようになったのでしょうか。「まっすぐに流れる河はない」とあるように、人生も物事も順調に進むばかりではありません。「抵抗なしに進む考えはない」とあるように、悩みや迷いが生じ、思いがけない流れに巻き込まれてしまうこともあります。そのように人生も物事も、いつも私たちに問いかけてきます。この問いを受けた、「悲しめるもの」が「骨を曲げて」眠る姿は、まるで河底の石のようです。上流から流れに任せて転がり、角が削られ丸くなっていく石。濁った水が清らかになり光が射すのを待つかのように解決方法を探し続けるその姿。長い時間をかけて丸くなっていった石は、流れていくうちに変化し受け入れていくことを覚えていきます。だからこそ時に誰かを傷つけることもある「愛」ではなく、互いの弱さも立場も理解し思いやる「あわれみ」の力に気づかされたのかもしれません。<文・白根直子>

  13. 100

    #100「短章「悲しめる友よ」」

    配偶者との別れは避けがたい現実です。永瀬さんは、そうした現実を見据え「男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない」と述べ、このことを「女性の本当の仕事」だというのです。これは、どういうことでしょうか。年を重ねた永瀬さんは、男性と女性について「本当はどちらが居なくてもうまくやれぬことは同じである」と考えるようになりました。そして、「相手が自分に何もしてくれない、と云う事はすぐ考えつくが、自分が相手にどれ位の事をしてやれたかが判るのは一生かかっても判らない」(「女性・この被うもの――婦人論についての素朴な考え」『伝統と現代』1977年9月)と考えていたのです。こうした言葉には、男女平等や男女同権について考え続けてきた永瀬さんが、よりよく生きるためにたどり着いたひとつの境地が表れているのではないでしょうか。ここにも自分の心と相手の心を見つめながら詩を書き行動しようとした永瀬さんの姿が浮かび上がります。<文・白根直子>

  14. 99

    #99「短章「腕なき鬼」」

    短章「腕なき鬼」では、歌舞伎の「綱館」を観て、「老いた女性の枯れて美しい魅力」とともに、戦いに負けた人にも「正当な理由がある」と思いを寄せています。そしてこの思いは、女学生の頃に読んだ古代英語で書かれた英雄叙事詩「ベオウルフ」の梗概をもとに書いた詩「グレンデルの母親は」に通じるものでした。この授業を行ったのは、夏目漱石の一番弟子・中川芳太郎です。こうしたエピソードから愛知県第一高等女学校高等科英語部での学びが、詩人・永瀬清子の礎となったことがうかがえます。「鬼の方に却って最後の勝利を与えている」ところを好ましく思った永瀬さん。「自分の詩の源流」に気づき「最後の勝利」を願うとしたならば、永瀬さんにとっては自分でなければ書けない詩を書くことだったのではないかと思えてなりません。<文・白根直子>

  15. 98

    #98「短章「季節 a 電柱」

    春が待ち遠しい頃になりました。春を愛した永瀬さんのまなざしには、驚かされることばかりです。「私」が何気なく見ている、電柱のネーム・プレートの春夏秋冬の光。その光を敏感に感じている「私」は、「友なき者」である電柱のネーム・プレートで春の訪れに気づいているのです。「私」も電柱も実は一人ぼっちだからこそ、誰よりも早く春の光に気づくというこの発想。友達とにぎやかに過ごす喜びとはまた違う、「友なき者」だからこその豊かさに気づかされます。そしてそのように春に気づく「私」も電柱も、実は「友なき者」ではなく皆、友達だったのだと気づかされます。<文・白根直子>

  16. 97

    #97「短章「地の人の声」」

    永瀬さんと地元の人たちが乗り合わせたバスの中では、いろいろな話題が交わされていたようです。今際の際に遺された言葉をめぐって、それぞれが亡くなった人に思いを寄せ、我が身に引き寄せている様子を「かすかな声でなにか笑ったような感じ」で、「共感の意を表わした」ことに、しみじみとした思いやつながりが感じられます。「地の人の声」とは、地元の人々が方言で語る声であるとともに、この世からあの世へ旅立った人が、地の底から静かに届けている声のようにも思われます。その声を聞き取り、受けとめ、伝えることによって、私たちはあらためて自分自身の生き方を見つめ直すのです。<文・白根直子>

  17. 96

    #96「短章「反衛生」」

    永瀬清子さんは、57歳から岡山県教育庁の中にある、世界連邦都市岡山県協議会事務局に勤め始めました。年齢や仕事のみならず様々な問題を抱えていたこともあり、体調はすぐれなかったようです。それでも若い人に頼みたいことでも自分でやり、「私自身の生命はつねに私に教えてくれる」と「悩め」「力をつくせ」「戦え」「一歩出ろ」という心持ちでいたことがうかがえます。後年の随筆では、年を重ねていく中で得た気づきをいくつか記しています。そのひとつが次のことです。「自分の肉体の状況がよくわかること。そのためには感覚を鋭敏にするため飲、食、その他をむさぼらず、無理しないこと。仮に病気がきても早期に気づき、できれば自力で自然に治癒する力を養うこと。薬漬けになるのはこの反対の状態である。」(『わたしの戒老録』共同通信社 1984年9月)。つまり永瀬さんは、自分の体の声に耳を澄ましながら詩を書き続けていたのです。生涯現役を貫いた詩人の生き方を垣間見ることができます。<文・白根直子>

  18. 95

    #95「短章「星の援護」」

    永瀬清子さんの詩「熊山橋を渡る」は、吉井川に架かる熊山橋を舞台に、詩を書く仲間と出会った喜びを書いた詩です。永瀬さんは、この詩を発表した翌年の1949年3月、天文学者の本田實さんと植物学者の吉野善介さんとともに、第1回岡山県文化賞を受賞しました。それから年月を経たある時、その本田實さんが永瀬さんの詩「熊山橋を渡る」を朗読してくれたことがありました。詩の魅力は、作者自身の発見にとどまりません。読む人が作者の気づかなかった一面を見出すことで、いっそうその詩が深く心に響いていきます。そしてその気づきが、作者にとっても新たな発見となり喜びとなっていきます。本田實さんの朗読は、永瀬さんに大きな力を与えてくれました。汲めども尽きぬ深い泉のような永瀬さんの詩。見出されていない詩の魅力は、まだまだたくさんありそうです。<文・白根直子>

  19. 94

    #94「春の夜のしなさだめ」

    新しい年を家族で過ごした時の思い出の詩です。家族であっても知らないことや気づけないことはあるものです。娘たちは、父が若い頃の母の姿を胸の中に抱いていたことを知りませんでした。その後、「母の若かった時の写真」が見つかり、父の胸にあった母の姿を目の当たりにした娘たち。「若かった時」の外見が美しいことはもちろんでしょうが、父が「嫁に来た時と今もちっとも変わらんねえ」と言ったのは、それだけではなく結婚当初と変わらぬ愛情を互いに持ち続けていたことがこの言葉を言わせたのでしょう。二度と戻らない家族での団らんと、その時には気づかなかった両親の心。愛情深い二人に育てられた娘たちの幸せも感じられます。<文・白根直子>

  20. 93

    #93「美しい新年」

    あけましておめでとうございます。新しい年をこの番組とともに迎えてくださり心より御礼申し上げます。永瀬清子さんは、新しい年を迎える喜びをいくつもの詩に託してきました。本日ご紹介する「美しい新年」も、そのひとつです。この詩では、「新年よ」と繰り返し呼びかけています。そこには、抑えきれない喜びがあふれ、詩全体がきらめく光をまとっているように感じられます。とりわけ「沢山の固い蕾を/人のみえない所にそつとかくしてゐる」という一節には、私たち一人一人が願いや希望を心に抱いていることが示されています。そして「心に沢山の蕾を持たう」という言葉からは、その「蕾」を持つことの大切さと、やがて花開くことを願い誓う心が伝わってきます。新しい年とともに、皆さまの心に多くの蕾が芽生え、花開いていくことをお祈り申し上げます。<文・白根直子>

  21. 92

    #92「黙っている人よ 藍色の靄よ」

    「あなた」と「私」は、長い年月をともにした夫婦です。あまりにも近くにいたからこそ、そのありがたさや優しさを当然のように受け取ってしまっていたのでしょう。「私」は、「あなた」がこの世を去ってしまった悲しみとともに、生きているときには言えなかった、この世を去らないと気づくことができなかった迂闊さを悔いています。それでも、「あなた」の愛を微塵も疑うことなく、今なお「私」を見つめてくれていると信じてやみません。そんな「あなた」の「私」への「藍色の愛」は、「藍色の靄」なのです。先の見えない霧ではなく、うっすらと見えそうで見えない「靄」。この世とあの世の境を感じつつも、どこかで見守ってくれている「あなた」のまなざしが、そこに確かに感じられるのです。<文・白根直子>

  22. 91

    #91「冬が来るとは」

    永瀬清子は、2歳から16歳まで金沢に暮らしていました。金沢の冬の思い出が「肌ざわり」、雪景色、「子守唄」などの感覚的な断片で数珠つなぎのように語られています。そうした思い出だけでなく、「母の黒いえりまき」を取り出して身につけることで「母の思いが自分のものになった。」と実感しています。ここでは、目に見え手に取れるものとしての思い出と現実が描かれているのです。さらに、このように季節を感じることは人によって違い、その違いが人格にも表れ、「人間の柱になっている」と考えているところに注目されます。つまり、人それぞれの春夏秋冬の経験をどのように感じるかの積み重ねが、人格形成につながっていくというのです。このような視点から、人も自然の一部であるということを実感させられます。<文・白根直子>

  23. 90

    #90「クリスマス」

    「クリスマス」は、永瀬さんが松木の家で暮らしていた頃に書いた短章です。12月になるとクリスマスのイルミネーションが輝き、きらびやかな夜景が見られるようになります。赤と緑と金色で彩られるクリスマスのディスプレイ。クリスマスソングが流れ、寒いながらも街全体が楽しげな空気になる頃です。ところが、「この田舎では何一つクリスマスらしくたのしげなものはない」と冬枯れて静かな日常の風景を描写します。そこには、「東の山の上にオリオンが、すばらしく新鮮に輝いているだけ」です。そのオリオンの輝きが永瀬さんの心を捉えました。東方の三博士が星に導かれてキリストのところへたどり着いたように。だからこそ「それがクリスマス。」と締めくくり、本当のクリスマスをオリオンの輝きに重ね合わせたのかもしれません。<文・白根直子>

  24. 89

    #89「あけがたすこし癒える私」

    仕事をどうにかやり遂げて、疲れて泥のように眠る中で見た夢。「それはこわい夢だった」と、まるで自分の疲れや不安が作り上げたかのような夢でした。「現実の私なら絶対に云えぬこと」を言ったがために、はげしく後悔をしてしまいます。「まるで目もくらむ首との取引」、「誰にも助けて貰えないのに」など読んでいるだけでも身につまされます。ところが「私」は、こうした夢を見たことを、「夢が私をきっと治癒した」と肯定的に解釈し、その一方でまだ夢に引きずられるかのように「すこし癒やされて」いることで自分を失っているかもしれないとの疑問を持ちつつ、新しい一日を迎えようとするのです。いつも新鮮な気持ちで過ごそうとする「私」と、その背後には「こわい夢」をみるほど疲れた「私」はどちらも「私」であることを、光と影すなわち朝と夜にたとえており、「私」のすべてを肯定しているように感じられます。<文・白根直子>

  25. 88

    #88「にせ物語 a 負ぶい紐」

    「にせ物語」は、「昔、男があった」で始まる「伊勢物語」の「こころにならい」書かれた短章です。偶然、久しぶりに再会した知人の男と昔話をして別れようとする時、「男」が負ぶい紐で「女」の背中に幼な子が落ちないように力を込めてしっかりとくくりつけるその一瞬で「女」の心をすくい取っています。「ぐうだらの彼女の夫」はそのようにしてくれたことはなく、「女」は、自分の伴侶の選び方が誤りではなかったのかと思いをいたすのです。ひょっとすると「男」は、たまたま経験があってそうしてくれたのかもしれないし、「夫」は、不器用でいつまで経っても加減がわからなかったのかもしれないのに。この時「女」が、「男」にあって「夫」に無いと思ったのは、「女」の心を考えた行動なのでしょう。「負ぶい紐」がくくりつけていたのは、「女」に対する心遣いの違いなのかもしれません。<文・白根直子>

  26. 87

    #87「季節のごとく」

    詩「季節のごとく」は、年老いてやがてこの世を去ることを待ち望む「私」を題材にしています。年老いていくこともこの世を去ることも季節のめぐりのように当たり前と捉え、刻まれていく〈皺〉を樹木の「年輪」のように静かに受けとめていきます。「血を注ぐ」元気がまだある「私」は、そのうち疲れから額に増えていく〈皺〉を思い、自分の終わりを思うのです。〈皺〉に象徴される年齢は、さらに打ち寄せる波にも、降りつむ雪にもたとえられ、死が訪れた時には「大地そのもののやうに冷える」のです。この詩は、老いと死を終わりではなく、自然への回帰と捉えることで、読む者に静かな慰めを与えているように感じられます。<文・白根直子>

  27. 86

    #86「パイプ」

    「パイプ」という詩は、日常の夫婦の一コマを切り取ったかのような詩です。このような困りごとは、誰しも似たような経験があるでしょう。自分でなくしておきながら、「私」をわずらわせる苛立ち。どうしてもっと気をつけないのかと思うその背後には、「パイプ」のように「私」も大切にされていない、気にされていないのではないかという気持ちも込められています。そして、この気持ちの向こうにある「貴方」と「私」の関係が見えてきます。「貴方」にとっての「パイプ」は、「ぞんざい」な扱いでなくしてしまうけれど、「なくなれば大さわぎして/一刻もそのままにはすまされない。」と、大切な筈なのに当たり前でなくてはならないものです。「私」にとっての「貴方」は、手のかかる人で大切にしてもらえないことを嘆くばかりですが、放ってもおけません。日常は、こうした出来事とその向こうにある相手への愛で成り立っていることを思わせます。この詩は、日常の小さな苛立ちの奥に潜む愛情を描き出すことで、私たちに当たり前の大切さを思い出させてくれます。<文・白根直子>

  28. 85

    #85「悲しみだけは」

    絵描きの「彼」と「私」の若い頃から続く関係には、複雑な思いが絡み合っているようです。恋心とも想像したくなる「彼」に対する「私」の心。それを裏切るように「私」を試すような「彼」の行動。他の女性と結婚したことや植えられている花々にまで嫉妬心をかきたてられる「私」。年月を経て絵を求められると妻が病気なのにと怒り、妻が亡くなったことを天に帰る天女にたとえて報せる「彼」。一体、「私」は「彼」と、「彼」は「私」とどのような関係を望んでいたのでしょうか。いつも「彼」の一番でありたい「私」と精神的な支えであり芸術の理解者としての「私」を求めていた「彼」。つかず離れず続いてきた二人を結ぶ芸術は、男女の愛とは違う力でつなぎ止めており、もしかしたらその力は「悲しみ」なのかもしれません。<文・白根直子>

  29. 84

    #84「貴方の手で」

    永瀬清子の詩には、自然とともにある姿を描く詩があります。この詩の「貴方」が描き出す「私」は、最後にひとつになり、「自然そのものを指す」というのですから、まるで天地創造のように大胆に感じられます。その一方で、それほどまでに大いなる存在である自然への憧れも感じられます。ここには、人間が自然の一部であることとともに、そのめぐりとともにある存在であるという永瀬清子の自然や生命についての考えが反映されているのかもしれません。<文・白根直子>

  30. 83

    #83「裁判と詩」

    1959年1月、永瀬清子は岡山家庭裁判所の調停委員に任命されました。後年の随筆「火星人はいづこ―調停室から」(『愛と自由』第1号 1981年1月)では、双方が感情によって相手の「虚像」を作り上げる現実に驚きつつ、「自分と相手を共に生かす道」を探ることが「生き甲斐」につながると述べています。任命直後から「弱い人の女性の、味方になると云っても単にひいきをするのでなく、友として一緒に考へたい」と述べ(『黄薔薇』第37号 1959年3月)、一人ひとりに寄り添う姿勢を貫いていた永瀬清子。同時期に書かれた短章「裁判と詩」は、「裁判も詩も、刻々の時間の流れの中で、共に虚無と戦っている兄妹なのだ――。」と締めくくっています。「裁判と詩」は、ともに「虚無」や「虚像」に抗い心を取り戻す営みであり、よりよい生を求める永瀬清子の姿と重なります。<文・白根直子>

  31. 82

    #82「挫折する」

    〈挫折〉とは、人によって違い、同じ人でも年代によって何をそう感じるかは違うでしょう。その人がその時に感じた感情であり、他者の〈挫折〉を理解できるかどうかは、その人の体験によっても変わってきます。また、「よい事づくめの人」は、本当に何ひとつつまずくことなく歩んでいるのでしょうか。そのように見えている、または見せかけているだけかもしれません。あるいはいわゆる〈挫折〉をしていないか、自らに厳しくて〈挫折〉と認めていないか、あえて語らないだけなのかもしれません。〈挫折〉とは、物事の受け止め方でもあり、時に自らの物語を形づくる手段として使われることもあり、〈挫折〉を語る強さと弱さにも思いをいたしたくなります。「人は宿命として挫折によって「人間」を獲得する」という、「人」が「人間」になる契機としての〈挫折〉。「人間の最もふかい感情」を発することのできる〈挫折〉。〈挫折〉を通してこそ、人は自己と他者の痛みにふれ、より深く「人間」として生きることを学ぶのかもしれません。<文・白根直子>

  32. 81

    #81「賢治思慕 c ヨクミキキシワカリ」

    5「必ず読むべき本を読まずに長年をすごした」ことを悔いる「私」がしていたのは、「思うこと」や「空想すること」でした。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」は、そんな「私」への「はげましの言葉」となっていました。読むこともその中に含まれているのでしょうが、賢治が明言しなかった「思いやり」に「私」は救われるような思いを抱いています。読むことは他者の声に耳を傾けることであり、空想もまた他者を想像し、理解しようとすることです。「私」は、読まなかった時間にも、「思うこと」や「空想すること」を通じて「思いやり」を育んでいたのではないのでしょうか。「私」は、賢治の言葉を知識の量ではなく理解の深さと記憶の持続に重きを置いており、そのことにより「私」の来し方を静かに肯定していると思います。<文・白根直子>

  33. 80

    #80「微塵」

    永瀬さんは、農作業をしながら多くの詩を書いています。収穫の季節、籾摺機の中に入れた穀物の外皮が太陽の光を受けてキラキラしながら飛んでいく様が目に浮かぶようです。それら「微塵となって飛んでゆく」のは、「私」の書く詩の言葉の象徴でもあり、単なる風景描写ではなく、詩が生まれる瞬間の象徴ともいえます。さらにその言葉は、「詩の重みだけを残して」「自然の奥へと消えてゆくのだ」と、「景色」になってしまうのです。永瀬さんの詩は、農作業という生活の中に、言葉の美しさと儚さを見出しています。「微塵となって飛んでゆく」という言葉は、言葉が読者の心に届き、やがて自然の一部となって消えていく様子を表しているようです。詩作と収穫の喜びが重なることで、詩の根源が自然にあることを私たちに教えてくれるのです。<文・白根直子>

  34. 79

    #79「私の足に」

    詩人の新川和江さんは、永瀬清子さんの詩を「広々とした宇宙感覚がなければ生まれない詩」と語り、詩「私の足に」を朗読されました(第4回朗読会「永瀬清子の詩の世界」2000年2月13日)。自分の足に合う靴が星空にあるかもしれないという「宇宙感覚」による発想。そこには、既製の靴では満足できない「私」の心が浮かび上がってきます。オーダーメイドの靴ならば、「私」は満足できるのでしょうか。こんなふうに「私の足に」合う靴を探す姿は、永瀬清子さんが「私」の心に叶う言葉を探し、詩を書く姿にも重なります。あなたの「足」にぴったり合う靴は、どこにあるのでしょうか。永瀬さんの詩は、そんな問いを私たちの心にそっと残してくれます。そして永瀬さんの詩作と響き合いながら、私たちが自分だけの言葉を見つけようとする営みにもつながっていくのかもしれません。<文・白根直子>

  35. 78

    #78「昔話」

    「昔話」は、永瀬清子さんの両親の思い出話が題材となっています。娘には語れなかったけれども、孫には語った昔話。そこから、「親」をただ「親」という血のつながりとしてだけではなく、「長い人間のあたたかい鎖」でつながる一人の人間として感じているのです。つまり、祖母と孫という命のつながりとともに心のつながりがあり、年を経たからこそ語れる話、この人だからこそ語れる話ができたことで残すことができた思い出といえるでしょう。この詩は、単なる家族の思い出話ではなく、「語ること」「聞くこと」「残すこと」の意味を静かに問いかけてくるようです。<文・白根直子>

  36. 77

    #77「詩とは」

    永瀬清子さんは、詩について考えたことを、折にふれて書き残しています。「詩というのは、『記憶に価する言葉の流れ』ではなかろうか」という書き出しに、まず心をつかまれます。これは、戦前に発表した詩集『諸国の天女』の短章「韻律の尺度」に「よき詩の一行は一たび会つて忘れない。/よき詩の一行は必ず暗記暗誦に堪える」と書いていることを思います。さらに、そうした言葉を見つけることは「何が価値あるかをつかむ仕事と結びついているので、だんだん自分の考えをはっきりさせていくことになる」。つまり、自らの価値観に照らして言葉を選ぶことの大切さを語っているのです。永瀬さんにとって、詩と生きることは両輪であったと思わずにいられません。<文・白根直子>

  37. 76

    #76「年月をすごしても」

    「年月をすごしても」は、戦後間もない1946年11月に発表した詩です。岡山県赤磐郡豊田村(とよたそん)松木(現・赤磐市松木)の家に帰り、初めての農作業にたずさわっていた永瀬さん。この詩にも「どんな時でも生きている/小さな希望が御座いますから。」と新しい生活の中で前向きに生きる「私」がいます。そして「幸福な昔の私のおもかげ」や「今の私をあわれんでくださる方」に向けて、「水藻の花」のように静かに流れに任せて咲いている姿を示すのです。これ見よがしではなく、ひそやかだけれども今を大切に生きる姿が「水藻の花」に象徴されており、戦後の再生への希望が伝わってきます。<文・白根直子>

  38. 75

    #75「わが老人の日-月はふたつ-」

    敬老の日がある9月。年を重ねた「私」にたくさんの花の贈り物が届きました。贈り物を貰うほどに老いたことを認めて「きっとみんなが慰めてくれてるのだ」と思う「私」。けれども、その一方で「私」は、「とりあえず慰められていようか」と、老いたことを受けとめ切れていない「私」もそこにいるのです。そんな「私」は、「乱視がすすみ白内障も加わって」夜空の月が二つあるように見えており、そのためあらためて花束も慰めも二倍に見えていたと気づきます。老いたことを認める気持ちと認めがたい気持ちも重ね合わせてあるとはいえ、花束も慰めも二倍に見えていたところには、慰めが老いたことよりも大きかったとも思えてきます。老いと向き合う静かなユーモアと感謝がうかがえます。<文・白根直子>

  39. 74

    #74「死によって」

    亡くなった人のことを思い、ここに居てくれたらと思うことがあります。この世にいる人ならば、車を走らせたら会える。電話をかけたら声を聴くことができる。けれども、この世から「居なくなった人」にはそれができません。「あの時、何かを恐れもう一歩近よらなかった失策が、はじめてわかる」という心境は、年を重ねていくにつれ、実感しないではいられないのではないでしょうか。だからこそ、後悔のないよう人のために自分のために、今できることをしたくなるのかもしれません。それでも「失策」があることは、人のすることゆえ仕方ないのでしょう。だからこそ「『死』があることはきっと『わかる』ことのためなのだから――」という最終行に救われるような思いがします。誰かが「わかる」と思えば、「居なくなった人」の「失策」でさえも、その誰かにとっての生きた意味と価値として生きて命をつなぐのかもしれません。 <文・白根直子>

  40. 73

    #73「夏のわかれ」

    「季節」は、不思議に満ちています。まだまだ日差しは強く暑さに辟易しているにもかかわらず、夏から秋への変化を何とはなしに感じ取ることがあります。この詩は、そんな瞬間を切り取っています。「夏のエネルギー」に力を得ていた筈の「私」は、ある時から「夏の詩をすべて嫌悪する」ようになり、「葉の次第に落ちてゆく楓のように自分を感じる」ようになるのです。このどうしようもない気持ちを「裂目のある一枚の葉のこころと/わたしのこころがきっちり重なる」と、みずみずしい葉ではなく落葉に向かう葉に重ねることで、自然とともにある「私」を描いています。永瀬さんの夏から秋へ向かう時を書いた詩は、この他にもあります。興味をお持ちになった方は、読み比べてみてはいかがでしょうか。<文・白根直子>

  41. 72

    #72「八月の願い」

    7月7日は七夕ですが、旧暦の8月7日に七夕を行う地域があります。「天の川までとどく願いをこめて」短冊をつるした「美しい笹」。この詩の舞台は戦争中。短冊に託した人々の願いが、天に届いてほしいと思わずにいられません。1945年8月6日、広島に世界最初の原子爆弾が落とされました。「広島平和都市記念碑」には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、「原爆の子の像」には、「これはぼくらの叫びです/これは私たちの祈りです/世界に平和を/きずくための」の碑文が刻まれました。永瀬さんの詩もそうした祈りであり願いであるとともに、ひとつの警鐘として受けとめてもよいのではないでしょうか。<文・白根直子>

  42. 71

    #71「悲しいことは万歳でしたー老いたる人のレコードー」

    永瀬さんは、戦争体験を詩や随筆に書いています。詩「悲しいことは万歳でした」では、「私」を戦争にまつわる悲しい記憶を録音したレコードにたとえています。そして、求められたらいつでもその泣き声を聴かせることができるというのです。とはいえ、「でも話だけしてもあなたがたを泣かせません」とあるように、泣き声を聴かせることには、二つの意味が込められていると思えます。つまり、もう二度と「私」が経験したように戦争によって泣くことがない時代をつくりたいという「私」の意志と、「泣き声を聴かせたところで、「今聴いてもすぐ忘れてしまうでしょう」と、泣くほどの自分の問題としておそらく受けとめてもらえないのではないかという複雑な思いがうかがえるからです。それでも永瀬さんは、頼りなく悲しみに泣く「私」を書き続けます。「私はその時そこに居たのです。」という当事者の叫び。この詩を読むことで、「私」の「泣き声」に耳を傾けてみてください。<文・白根直子>

  43. 70

    #70「一九八八年夏 i夏の服」

    永瀬清子さんをご存じの方から、「永瀬さんはおしゃれな方だった」と伺うことがよくあります。写真に写る永瀬さんは、帽子やアクセサリーといったところまで心を配ったおしゃれをしており、なるほどと思います。そんな永瀬さんが、着たい服をあきらめてでもしたかったのは、「今、書かねば書けぬ私の詩」を書くことでした。もう少し時間があれば、こんなこともあんなこともできると考えるのは、永瀬さんも同じです。だからこそそうした気持ちも詩になり、空想の中で着たい服を着ているのです。詩人は、詩の中でこのように生きることもできるのです。<文・白根直子>

  44. 69

    #69「一番近い相手」

    「一番近い相手」に喜んでもらいたい。けれども何により相手を喜ばせるのか。永瀬さんは、戦中に詩を書けなかった自分を戒めるかのように、「私」に語らせています。アニメーション映画監督の高畑勲さんは、この詩を引いて「一旦戦争などの事態に突入したら、「自分が自分にたよ」ることができず、つい大勢に従い、「倚りかか」って流されてしまうのではないか、という恐怖。それを深く自覚・自戒したいからなのです。」(『君が戦争を欲しないならば』岩波ブックレットNo.942  2015年12月)と私達に警鐘を鳴らしています。この詩の「それは私です」は、今を生きる全ての人のことと思えます。そして、相手の心とともに自分の心がわかることの大切さを教えてくれます。 <文・白根直子>

  45. 68

    #68「夏」

    この詩の「私」は、「私は身の不自由なあまり時々人に甘えすぎるのでいけない」と自制し、「私は何でも身一つで処置するやうになるであらう」と、誰の力も借りずに一人で物事をなしとげていきたいと考えています。さらに「物事を回想するばかり」の九月ではなく、「夏は暑ければ暑いほどよい」と夏を讃える詩句からは、過去を振り返るのではなく、今を生き、走り抜けようとする疾走感が感じられます。太陽の強い光のような、みなぎるエネルギーや強さとともに、その強さゆえにどこかさびしさも思わせます。劇作家の長谷川時雨は、この詩「夏」を読んだ驚きを、『時事新報』(1933年10月10日)という新聞に「女流作家展望(二)後ろの鮫に唸る」書き、永瀬清子を応援してくれました。永瀬清子は、このようにいろいろな人に応援され活躍の場を与えられたのです。<文・白根直子>

  46. 67

    #67「さびしき人々」

    永瀬さんは、ハンセン病に対する差別や偏見があった戦後間もない頃から、岡山県瀬戸内市にある国立療養所長島愛生園や邑久光明園の入所者と、詩作を通じた交流を続けていました。そうした交流からも作品が生まれており、この短章もその一つです。堂崎しげるさんは、本土から島へ届いた一瞬の光を「心ふるわして受け取っ」ています。永瀬さんは、この光への強い関心から、以前、堂崎さんが書いた詩を思い出し、さらに思いをいたすのです。「反射は反射を生む」という言葉は、詩を書くもの同士の響き合いであり、その詩を読んだ人と詩人との響き合いでもあります。永瀬さんもまた詩人として貪欲なまでによい詩を求め、日常に潜む詩を見逃したくないことが、こうしたところからもわかります。<文・白根直子>

  47. 66

    #66「詩についての三章 b 書けない」

    この短章は、詩が書けない時と書ける時の状態を左右するのは、心と体のあり方にあるという、永瀬さんの詩作に対する心構え、哲学にふれています。たとえば、忙しいと他のことに心を配ることができず、時間があると余計なことまで考えてしまいそうです。お金は使い方にその人の考えが見えてきますが、あってもなくても生きたお金の使い方をすることの難しさに気づかされます。健康で体力ある人は、精力的な活動ができますが、そうでない人の工夫をしながらの活動にも眼差しを向けたくなります。できない理由を見つけるにとどまらず、そこからどうするのかを問いかけられているように思われるこの短章は、仕事や人間関係などにも応用できるのではないでしょうか。<文・白根直子>

  48. 65

    #65「ひもじさの声」

    永瀬さんは、1945年6月29日の岡山空襲を伝える合唱組曲「燃える故郷」を作詞しています。この曲は、木下そんきさんが作曲し、岡山合唱団により1981年6月に初演されました。詩「ひもじさの声」は、その第2章にあたる内容を少しずつ書きかえています。の詩では、食べ物がなくてひもじい思いをしている「僕」が、僅かしか食べられなくて泣きたいような気持ちをつばめに託して鳴いているのです。詩の合間に挿入されているわらべ歌も注目されます。たとえば「鷺 わりゃなんで首ながい」は、北原白秋編『日本伝承童謡集成 第2巻天体気象・動植物唄篇』(三省堂 1949年5月初版/1974年10月改訂新版初版/2003年5月復刻版初版)より、類似する唄が石川県でも唄われていたことがわかります。おそらくこのわらべ歌は、永瀬さんが幼い頃に聴いたもので、その歌詞をここに引用したのでしょう。「僕」の心の中でうたわれるこのわらべ歌が、もの悲しさとやりきれなさをいっそう強く感じさせます。<文・白根直子>

  49. 64

    #64「ピーター」

    放送では「ピーター」全編を、小林章子の朗読でおおくりしています。想像を膨らませながら、「ピーター」の世界をお楽しみください。

  50. 63

    #63「まだ まだ まだ」

    「まだ まだ まだ」は、題名だけでも円熟した永瀬さんの詩の世界が感じられます。というのも、「まだまだまだ」ではせわしさばかりが伝わってきますが、「まだ まだ まだ」と一字分の空白により、年を重ねたゆとりや、若い頃のように軽やかに動けないけれども、一歩でも前に進もうとする命の輝きのような一呼吸が感じられるからです。文字の配置ひとつで詩の印象が大きく変わることを改めて感じます。年を重ねても驚きと発見を繰り返し、それでもまだ十分ではないという「欠乏」。充足ではなく、足りなさにこそ永瀬さんの詩の魅力があり、詩作だけではなく人生そのものに通じる考え方にも思えます。そしてこの「欠乏」こそが、永瀬さんのみずみずしさの源泉であることに気づかされます。<文・白根直子>

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岡山県出身の詩人・永瀬清子さんの詩をRSKアナウンサー 小林章子の朗読でお届けします。どんな景色が心に浮かぶでしょう?人生のステージや生活に合わせて読むことができる永瀬さんの詩の世界。多感な時期の悩み、結婚、両親、夫や子供など家族のこと、生活の中での驚きや発見、山や川、植物や天体など自然について、世の中について、老いについて。永瀬さんの詩は、過去の自分を振り返ったり、これから行く道の道しるべにしたり、人生を一緒に歩いてくれるようです。

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