EPISODE · Sep 7, 2026 · 16 MIN
アップデート
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています アップデート 南がその稟議書に判子を集め始めたのは、桜の咲く前だった。 「AI音声解説機能・追加のお伺い」。たった四文字の機能名に、部長印、部門長印、コンプライアンス確認印、法務確認印。読み仮名の誤りが一件でもあれば保護者からクレームが来る、というのが法務の言い分だった。もっともだ、と南も思う。思うのだが、隣の島の後藤さんが「これ、通るの半年後じゃない」と笑ったとき、南は笑えなかった。 帰りの電車で、南はニュースアプリを開いた。AIの国際ランキングで、日本が八十三カ国中十一位だという記事だった。米中には遠く及ばず、シンガポールや韓国、イスラエルにも抜かれている。記事は、かつて日本を強くした品質管理やすり合わせの文化が、AI時代には開発速度との両立を難しくしているとの指摘もある、と結んでいた。 南は判子が三つ足りない稟議書のことを思い出した。あの読み仮名一つのために、法務と品質管理を何往復もしている自分たちのことを、この記事は書いているのかもしれない、と思った。考えすぎだ、とも思った。 夜、南は自分のiPhoneで、個人開発者が出している歴史学習アプリを開いていた。会社の誰にも言っていない。作者は年配の男らしく、更新履歴を見ると、ほぼ毎週何かが直っている。 「石山本願寺」を「いしやまほんがんでら」と読み上げていた解説動画に気づいたのは先週だ。今週にはもう直っていた。かわりに新しい単元が三つ増えていた。読み仮名の間違いはまだ他にもありそうだったが、南はそれよりも、更新の速さに目を奪われた。 「これ、一人で作ってるらしいですよ」 会議で誰かがその名前を出したとき、部屋の空気が微妙に変わった。企画部長は「個人開発は品質管理の体制が違いますから」と言い、それで話は終わった。 稟議書は、それから三週間かけて判子を集め終えた。修正作業は外部の制作会社に委託することになり、見積もりと契約でさらに一月かかった。上がってきた修正版を品質管理がチェックし、二箇所の言い回しが差し戻された。直したものを、もう一度稟議に乗せる。南がスケジュール表に線を引いてみると、リリースまでにはあと半年近くかかりそうだった。 その間に、南はときどきあの個人開発のアプリを開いていた。 音声解説だけだった画面に、いつの間にか動画のタブが増えていた。 次に開くと、新しいアイコンがいくつか並んでいた。何が増えたのか確認する前に、また次の更新が来る。 さらに翌月には、解説画面の隅に「AIに質問」というボタンが現れていた。その次には、また別の機能が加わっていた。 南は途中から、一つ一つ追うのをやめた。 開くたびに、少しずつ違うアプリになっていた。 南は自分の会社のアプリを開いてみた。前回の更新は三ヶ月前のままだった。 机の上には、判子が二つ足りない稟議書が置いてある。南はそれをしばらく見つめ、それからまた個人開発のアプリを開いた。 今日もアップデートが来ていた。 南は更新履歴を開く。 「軽微な修正」 そう書かれていた。 南は少し笑った。 アプリを開くと、音声解説を追加するための稟議を書き始めた頃にはなかった機能が、いつの間にかいくつも並んでいた
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