EPISODE · Jun 18, 2026 · 13 MIN
薄める
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています 薄める 脳の仕組みが完全に解析されたのは、ほんの数年前のことだった。 AIの急速な発達が、極めて複雑な脳の構造を解き明かした。といっても、その仕組みは人間の理解の及ぶところではなく、解き明かしたらしい、としか言いようがない。そのことを正直に話すと、患者はたいてい複雑な顔をする。 精密なCT画像から、記憶が読み取れるようになった。すぐに、修正するための技術も開発された。 手術前の説明では、いつもこう話すことにしている。 写真の補正と同じですよ。手で直すと、どんなに絵の上手い人が描いても、わかってしまう。でもAIが修正したものなら、精密に検査しなければわからない。それと同じです。 大体の患者は、これで納得してくれる。 ただし、今日の患者には、この説明だけでは足りない。消したい記憶が、あまりにも大きすぎるからだ。 手術は思いのほか大掛かりだ。超精密なCT画像の作成、その解析にはスーパーコンピュータを相当量使用するため、費用もかさむ。そして記憶は複雑に絡み合っているため、大きな修正は困難を極める。一つの出来事を消すだけでも、他の無数の記憶との関係がおかしくなる。古い記憶ならともかく、新しい記憶の修正は特に難しい。 別れた彼氏のことを完全に消してほしい、という依頼は断っている。プロポーズに失敗したあの日の記憶だけ消してくれ、と言われても、そんなことをすればあちこちに歪みが生じる。下手をすれば、また同じ相手にプロポーズして、もう一度フラれることになる。そう説明すると、ほとんどの人は苦笑して引き下がる。 記憶の操作など土台無理だ、とは職業柄言えないが、過度の期待はしないようにと、いつも伝えている。 今日は、特別な患者だ。 気を引き締める。 彼女は事故で家族を失った。彼女が運転していた車の事故で、夫と子供たちを。凄惨な事故だった。救いようのない悲しみが、今も彼女を覆い尽くしている。 彼女からその記憶を完全に消すことはできない。事故の記録は公的に残っており、場当たり的な嘘はいずれバレる。嘘がバレたとき、彼女の精神が崩壊しかねない。事故前後の記憶だけを消すことも考えた。大きな事故では記憶の欠落を伴うことも多く、脳の自己防衛機能が働いているのかもしれない。しかしその方法では、急に家族がいなくなったことに納得がいくかどうか定かでない上、事故後の記憶、悲しみに明け暮れた日々との齟齬が生じてしまう。 私が出した結論は、薄める、だった。 事故の記憶、その前後、数年単位の記憶から、少しずつ、櫛で梳くように間引いていく。ちょうど月日が経って記憶が自然に薄れていくかのように。どの記憶をどう残し、どう修正するか。一つ変えれば別の何かに波及する。何日も、何時間も考えた。 今日はそのための手術の日だ。 脳外科医の手術はボタン一つで終わり、楽なものだとはよく言ったものだ。麻酔で眠る彼女の脳に向けて、レーザーが照射された。始まってしまえば、もはや私にできることは何もない。立てたプランが間違っていないように、ただ祈るだけだ。
Embed this episode
Ready to play
薄める
No transcript for this episode yet
Similar Episodes
No similar episodes found.
Similar Podcasts
No similar podcasts found.