EPISODE · May 30, 2026 · 20 MIN
場を作る
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています場を作る 物理の教科書を閉じたのは夜の十一時だった。 橋本颯太は「電場」の項を読み返した。プラスの電荷は周囲の空間を歪める。マイナスの電荷はその場に置かれることで、自然に引き寄せられる。直接触れる必要はない。場が、そうさせる。 ——これだ。 颯太はノートを開いた。 重要なのは接触ではない。接触は高エネルギー状態であり、現段階では不安定すぎる。まず必要なのは、存在していても不自然ではない配置だ。ポテンシャル差だけを、静かに作ればいい。 森田さんの顔を思い浮かべた。廊下ですれ違うたびに視線をそらすしかない、あの子。颯太は三週間分の記憶から彼女の移動パターンを反芻した。図書室は火曜と木曜の放課後。理科委員。昼休みは中庭寄りの廊下。 配置は、設計できる。 翌週から動いた。 理科委員に立候補した。班替えでは班長の中田に「どこでもいいです、あ、でも……どこでもいいです」と申告した。中田は一瞬だけ颯太の顔を見て、「了解」と言った。 委員会では一言も話さなかった。ただそこにいた。放課後は図書室へ行った。本は開いたが内容は入らなかった。それでいい、と颯太は思った。場を作っているのだから。 図書室に着くといつも、森田さんの斜め前の席が空いていた。偶然だと思っていた。 委員会の帰り道、誰かが「今日どうだった?」と聞いてきた。翌日も、また翌日も、別の誰かが同じことを聞いた。颯太には理由が分からなかったが、みんな悪い顔をしていなかったので深く考えなかった。 十一月、文化祭の準備中に廊下で鉢合わせた。狭い通路で、どちらかが止まらなければならなかった。 颯太は止まった。森田さんも段ボールを抱えたまま止まった。 「……重そうですね」と彼女が言った。 颯太は荷物を受け取って、一緒に歩いた。五十メートルほど、無言で。体育館の入り口で「ありがとう」と言われて、「いえ」と返した。それだけだった。 翌朝、中田に「昨日どうだった?」と聞かれた。颯太は「荷物を運んだ」と答えた。中田は何故かとても満足そうな顔をした。 冬休み直前、山下が帰り道でぽつりと言った。「俺たちずっと応援してたの、気づいてた? 席とか図書室とか、けっこう整えてたんだけど」 颯太は足を止めた。斜め前の席が常に空いていたこと、班替えが妙にうまくいったこと、毎日誰かに進捗を聞かれていたこと——それらが一本の線でつながった。 「俺が場を作ってたつもりだったのに」 「ば?」 「……なんでもない」 しばらく黙って歩いた。電場は自分が作るものだと思っていた。でも実際には、周囲がずっと先に観測していた。観測が、場を作っていた。 翌朝、森田さんに廊下で呼び止められた。「あの、来期も理科委員続けますか」「続けます」「よかった。私も続けるので」 颯太はしばらく固まった。それからゆっくり歩き出した。 これを引力と呼んでいいのかどうか、まだ分からなかった。でも少なくとも、斥力ではないらしかった。
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