EPISODE · May 23, 2026 · 19 MIN
赤色光
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています# 赤色光 小学生の頃、音楽の授業で和音の説明を受けたとき、田所はどうしても納得できなかった。 先生はピアノで三つの音を鳴らして言った。「こっちは綺麗ですね。こっちは濁った感じがしますね」。クラスの全員が頷いていた。田所だけが首を傾けていた。綺麗か汚いかなど主観の問題ではないか。他人に決めてもらうものではないはずだ。でも手を挙げてそう言える空気でもなかったので、黙っていた。胸の中にひっかかりだけが残った。 高校生になって、音階が振動数で決まると知ったとき、田所は一人で膝を打った。そういうことか。綺麗に聞こえる和音というのは、振動数の比が単純な整数比に近い。つまり最小公倍数の問題だったのだ。物理的な根拠があった。田所はすっきりした。すっきりしてから、すぐに別のことを思った。なぜ小学生のときにこれを教えてくれなかったのか。あの説明で納得しろという方がおかしい。田所は大真面目にそう思った。--- 大人になってから、これではいけないと思うようになった。 感性とか情緒とか、そういうものを大切にする人は多い。というかそれが多数派だ。多数派に合わせられないと、社会の中で生きていくのが難しくなる。理屈だけで動いていると、気づかないうちに人を遠ざけてしまう。田所にも、そういう経験が何度かあった。 だから合わせていかなければ、と思うようになった。まだまだできていないが、思うようにはなってきた。それだけでも、少し進歩だと思っている。--- 今日も仕事帰り、坂の途中で足を止めた。 西の空が赤く染まっていた。見事な夕焼けだった。田所はぼんやりとそれを眺めながら、さっき読んだ本のことを思い出していた。感性を磨くには、立ち止まって景色を見ることだ、と書いてあった。なるほど、やってみよう。 田所は首を振った。理屈じゃなく、心で感じるんだ。この赤を、この空の広さを、ただ受け取ればいい。 もう一度、空を見上げた。深呼吸をした。綺麗だ、と思った。素直にそう思えた。オレンジから赤へのグラデーションが、地平線に向かって溶けていく。悪くない。こういう時間も、悪くない。 空の色というのは、太陽光が大気を通過する距離によって変わる。夕方は距離が長いから、散乱しやすい青色光が届かなくなって——。 いやいや。田所は軽く目を閉じた。感じるんだ。あの雲の形が、光を受けて金色に縁取られている。風が少しある。季節の変わり目の匂いがする。これが情緒というやつだ。悪くない。本当に悪くない。波長の違いがこんな光景を作るんだ。 赤色光の波長が長くてよかった。 ちょっとまて。 もしかして‥‥ 赤色光と紫色光の散乱しやすさの違いを、画像分析に応用できないだろうか。 霧や煙の中でも波長の差を使えば精度が上がる。なぜ今まで気づかなかったのか。一刻も早くまとめたい。まだ夕方だ、会社に戻れば二時間は作業できる。 田所は小走りで坂を下り始めた。スマートフォンにメモを打ち込みながら、ふと思った。感性を大切にするというのも、なかなか馬鹿にできない。夕焼けをぼんやり眺めていなければ、今日のアイデアは生まれなかった。情緒も、役に立つものだ。 背後で、空が少しずつ暗くなっていった。
Embed this episode
NOW PLAYING
赤色光
No transcript for this episode yet
Similar Episodes
No similar episodes found.
Similar Podcasts
No similar podcasts found.