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EPISODE · Jun 9, 2026 · 18 MIN

二人の曲者

from 余白の朗読室 · host tosusia

noteでも公開しています二人の曲者その日の飲み会は、最初から妙な空気だった。幹事の田辺が「面白い人を連れてくる」と言っていたのを、誰もが社交辞令だと思っていた。ところが蓋を開ければ、互いをまったく知らない二人が向かい合って座ることになっていた。一人は北条。商社勤務で、何かというと損益を口にする。飲み会の誘いには必ず「どんな顔ぶれですか」と聞き、投資対効果が見込めないと判断すると即座に断る。今夜も、あと三十分で引き上げるつもりでいた。もう一人は遠藤。中学の同窓会に来るたびに格言を持ち出しては、場の空気を微妙にする男として知られていた。「石の上にも三年というから」とか「七転び八起きというじゃないですか」とか、誰も聞いていないのに言う。言った後で周囲が苦笑いするのは、もう慣れていた。田辺と木村は少し離れた席から、二人をそっと観察していた。最初の沈黙は、三分ほど続いた。「経済学的に見ると」と北条が口火を切った。「飲み会というのはわりに合わない。時間単価で換算すれば、この二時間は相当な逸失利益になる」遠藤がうなずいた。「損して得取れ、というからね」「それです」と北条がすかさず言った。「その論理、私はずっと疑問に思っていた。損が先に来る根拠はどこにあるのか。期待値の計算が明示されていない」遠藤は少し考えた。「情けは人の為ならず、ともいいますよ」「それも同じ構造ですね。情けを人に掛けることで、長期的に自分への正の外部性が発生するという話だ。でも外部性は不確実だ。割引現在価値に引き直せば、その格言が成立する条件は相当に限られる」「なるほど」と遠藤は言った。そして少し目を細めた。「急いては事を仕損ずる、というのはどうです」「ああ、それは面白い」北条がグラスを置いた。「意思決定における情報の非対称性と、取引コストの問題です。拙速な判断が後のコストを増大させる。これは理論的に整合している。私は評価します」遠藤が初めて表情を崩した。「評価、ですか」「ええ、合理的な格言だと思います」話は続いた。遠藤が「備えあれば憂いなし」を出すと、北条は「リスクヘッジの基本原則ですね。ただし備えにもコストがかかる。最適な備えの水準というのがあって、際限なく備えればいいわけではない」と返した。遠藤が「三人寄れば文殊の知恵」を出すと、北条は「集合知の話ですね。ただし構成員の多様性と独立性が担保されていないと、集団浅慮に陥る。文殊の知恵が機能する条件は実は厳しい」と言った。遠藤はそのたびに黙って聞き、少しうなずいた。いつもならここで誰かが苦笑いする。だが北条は、苦笑いどころか真剣に考えていた。気がつくと、店内の客が半分ほど入れ替わっていた。四杯目のビールを頼んだあたりで、遠藤が言った。「あなたと話すと、格言が立体的になる気がする」「私はあなたのおかげで」と北条は珍しく穏やかな顔で言った。「抽象的な経済理論が、人間の言葉に着地する感覚があります」二人はしばらく黙って飲んだ。それが、その夜いちばん満ち足りた沈黙だった。会の終わりに、北条が言った。「また会いましょう。人的資本への投資として、今夜は十分な収益率でした」遠藤がうなずいた。「縁は異なもの味なもの、ですな」二人は連絡先を交換した。少し離れた席で、田辺と木村が顔を見合わせた。「えっ、仲良くなってる」と木村が言った。「うん」と田辺が言った。「でも最後まで同じ話をしてなかったような」「同じ話はしてたんじゃないの」「してたのか、あれ」二人はしばらく、今しがた解散した二人の後ろ姿を見ていた。答えは出なかった。数日後、北条から田辺にメッセージが届いた。「先日はセッティングしていただきありがとうございました。遠藤さんとの会話は、予想外に高い投資利回りでした。ついては次回もお願いできますか。場のコーディネートはあなたにアウトソースするのが最も効率的だと判断しました」遠藤からは木村に電話があった。「木村くん、この間はありがとう。袖振り合うも多生の縁というけれど、あれはまさにそれだったね。またお願いできるかな。餅は餅屋というから、場を整えるのは君に任せるのが一番だと思って」田辺と木村は、それぞれのメッセージをお互いに見せ合った。「困ったな」と木村が言った。「情けは人の為ならずって、こういう意味だったっけ」「善意にもコストがかかる」と田辺が言った。「しかも今回は、需要が供給を上回った」二人はしばらく黙った。「俺たちも感染ったか」と木村が言った。​​​​​​​​​​​​​​​​

Episode metadata supplied by the publisher feed · Published Jun 9, 2026

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This episode was published on June 9, 2026.

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