EPISODE · Jun 1, 2026 · 16 MIN
非公開
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています非公開告別式が終わった夜、父がスマートフォンを持ったまま固まっていた。「ちょっと来い」画面を覗くと、インスタグラムのアカウントがあった。ユーザー名は曾祖父の名前をローマ字にしただけの、ひねりのないもの。フォロワーはゼロ。フォローもゼロ。非公開設定のまま、誰にも知らせず、誰にも見せず、十年間続けていた。開設は十年前。曾祖父が八十五のときだった。スマートフォンを持ち、家族とラインのやり取りをし、写真を送ってくることは知っていた。それだけでも大したものだと感心していた。まさかインスタグラムまでやっていたとは、誰も思っていなかった。そこへ、遺言の話が出た。弁護士が読み上げた内容を、叔父が改めて確認した。このアカウントをもとに、自伝として一冊にまとめること。費用はすでに用意してある。売り上げは全額、戦災遺族支援の財団へ寄付すること。「自伝って」と叔母が言った。「インスタの?」誰も笑えなかった。「何を考えてたんだろう、あの人」と母がこぼした。呆れているのか、戸惑っているのか、自分でもわからないような顔だった。「生前に一言くらい言ってくれれば」と祖父が言ったが、言い終わらないうちに口を閉じた。言ってくれる人ではなかった、ということを全員が知っていた。中を見た者はまだ誰もいなかった。「とりあえず」と父が言った。「初七日まで、各自見ておこう。それから話し合う」全員がパスワードを控えて、散会した。初七日、また集まった。リビングに祖父母、叔父叔母、いとこたち。普段はこれほど揃わない顔ぶれが、少し赤い目をして座っていた。最初に口を開いたのは叔母だった。「三日かかった」読み終えるのに、という意味だった。「私も」と祖母が言った。「夜中の二時まで読んで、翌朝また最初から読み返した」叔父は黙って頷いていた。普段は饒舌な人なのに、何か言いかけては止まった。「軍艦での缶焚きのところ」と従兄が言った。「あの写真、本物じゃないって頭ではわかってるのに」誰も笑わなかった。全員が同じ気持ちだったから。「文章が上手すぎて」と母が言った。「あのお爺さんが書いたって、信じられなくて。でもあの人にしか書けない文章で」怒っているのか泣いているのか、よくわからない顔をしていた。祖父がずっと黙っていた。テーブルに視線を落としたまま、やがてぽつりと言った。「俺、知らなかったんだよ。親父がそんなことを考えてたなんて」戦争の話を、祖父は父親から聞いたことがなかったという。一度も。「あの財団も」と祖父は続けた。「調べたら、もう何年も毎月寄付してた。誰にも言わずに」しばらく、誰も何も言わなかった。窓の外はよく晴れていた。私はスマートフォンを握ったまま、最後の投稿をもう一度開いた。曾祖母と並んで写っている、若い頃の写真。キャプションには一行だけあった。この人と生きられて、よかった。
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