EPISODE · Jun 2, 2026 · 6 MIN
花びら
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています花びら 引越し先で最初の春が来た。 事務所の前に、気づけば桜の花びらが吹き溜まっていた。掃いても掃いても、風が運んでくる。しばらく箒を止めて、足元を見た。ピンクというより白に近い色が、アスファルトの上で薄く重なっている。 見上げると、通りの向こうに桜の木が見えた。前の場所からは見えなかった。移転を決めるとき、そんなことを条件にしたわけでもないのに、春になって初めて気づいた。得をした、と思った。 まだここに慣れていない。廊下の蛍光灯の位置も、駐車場の感触も、どこかよそよそしい。三十年以上、同じ場所でやってきた。生徒たちが通い、卒業し、また新しい顔が来て、それを繰り返すうちに、あの建物は自分の体の一部みたいになっていた。壁のシミの場所も、雨の日に水たまりができる角も、全部知っていた。 移ったのは正しかったのか、今でも少し迷う。 でも、花びらは知ったことではないという顔で積もっている。 来年もここで掃くのだろう。再来年も。 足元の花びらをもう一度見て、箒を動かした。
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