EPISODE · May 24, 2026 · 18 MIN
いけず
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています# いけず いけず石のことを知ったのは、つい最近のことだ。 四十年以上、当たり前にそこにあった。民家の角の丸い石。子供の頃、自転車で角を曲がるたびに横目で見ていた。特に気にしたこともなかった。名前があることも、意味があることも、知らなかった。 知ってから、街を歩くと見え方が変わった。 あの石は「入ってくるな」という意思表示だったのか。犬矢来の竹の柵も、表向きは犬よけだが、要するに「ここから先は来るな」だ。子供の頃から見慣れたものが、全部そういう目で見えてくる。 ぶぶ漬けの話を思い出した。長居している客に「ぶぶ漬けでもどうどすか」と勧める。もてなしの言葉に見えて、本当の意味はそろそろお帰りください、だという。面と向かって言わない。でも確実に伝わる。 子供の頃から、そういう空気の中で育ってきた。気づかないまま、染み込んでいたのかもしれない。--- 意地悪だと思うか、と言われれば、少し違う気がしている。 京都は何度も戦乱に巻き込まれてきた街だ。誰が敵かわからない時代が続いた。本音を見せれば命取りになる。そういう歴史の中で、やんわりと、遠回しに、でも確実に伝える術が磨かれてきたのだと思う。意地悪というより、生き延びるための知恵だ。 そう考えると、自分がその文化の中で育ったことが、少し誇らしい気持ちさえあった。--- そんなことを考えていた頃、知人の集まりに顔を出した。初めて会う人が何人かいて、その中に京都で生まれ育ったという女性がいた。話が弾んで、出身の話になった。「私、西陣なんです」と女性は言った。「あ、京都ですか。私も京都なんです」と私は言った。 女性の顔がぱっと明るくなった。「そうなんですか。じゃあ話が早い。京都の人、なかなかおらへんから嬉しいわ」。いけず石の話をすると、ああそれ知ってる、うちの近所にもある、という話になって、しばらく盛り上がった。京都出身同士というだけで、妙な連帯感が生まれるものだ。 ひとしきり話してから、女性は微笑んで言った。「どちらですか」 一瞬、息が止まった。「山科です」 女性は微笑んだ。「まあ、市内にもすぐ出れて便利なところですよね」 その後も、会話は続いた。言葉は変わらず丁寧だった。ただ、さっきまでの連帯感が、どこかへ行ってしまっていた。 やんわりと、遠回しに、でも確実に。 知恵だと思っていたものが、自分に向けられると、こんなにじわじわ効くとは思っていなかった。 京都人はいけずだ、とつくづく思った。---*了*
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