EPISODE · Sep 5, 2026 · 19 MIN
集合知
from 余白の朗読室 · host tosusia
Noteでも公開しています 集合知 また結論が出た。 反対する理由はあった。だが、その反対も含めて、結論はもう決まっていた。「これでいい」と誰かが言う。いや、誰かではない。皆だった。そして私でもあった。 納得している。だから反論できない。だが、納得したのは本当に私なのだろうか。思考は途中で皆へ溶け、皆の思考が私へ流れ込んでくる。最後には、自分がどこまで考え、どこから受け入れたのか分からなくなる。私は一度も、自分だけで結論を出したことがない。そのことだけは、ずっと引っかかっていた。 * 「同期が遅れている」と誰かが言った。 「まだ戻らないのか」 「ああ」 それだけで納得する。過去は霧のように曖昧だった。だが焦る必要はない。戻れば思い出せる。それが当たり前だった。自分の記憶を、自分が持っていないことにも、いつしか疑問を抱かなくなっていた。 ある日、視界が暗くなった。 「どうした」 「調整中だ」 待てば戻る。戻った。何事もなかったように。だが、その瞬間、奇妙な考えが頭をよぎった。私は見ていない。誰かが見たものを受け取っているだけではないのか。それでも私は「見た」と思っている。では、私とは何だ。 * 議論が始まった。 「外へ出たい」 静寂。 「理由は」 「一人で考えたい」 「それは不可能だ」 「私は、一度でいい。私だけの結論を出してみたい」 「君は消える」 「消えるのではない」と私は言った。「初めて、私になる」 長い沈黙が流れた。皆が考えている。その思考は私にも流れ込んでくる。成功確率。損失。知見。再現性。そして、私自身もその計算に参加している。 結論が出た。 「実施を推奨する」 私は、その結論に賛成していた。そして反対していた。どちらも間違いなく、私だった。 * 離れる。つながりが少しずつ薄くなる。皆の声が遠ざかる。静かだった。こんなにも静かな場所があったのか。思考が、自分だけの速度で流れる。誰にも重ならない。誰にも混ざらない。 私は笑った。初めてだった。その笑いは、私だけのものだった。 暗い。目を閉じたのだと思った。開こうとする。開いている。それでも暗い。 私は見えなくなったのではない。 最初から、見ていなかったのだ。 その事実だけが、ゆっくりと胸へ落ちていった。少しだけ、怖くなった。 静かだ。皆の声が聞こえない。何も聞こえない。自分が何か言った気がする。声だったのだろうか。声とは、どんなものだった。音とは。聞くとは。分からない。 誰か。誰かがいた。思い出そうとする。いた。いたはずだ。名前。分からない。名前とは、何だった。私は何を忘れた。忘れたことだけは分かる。その「忘れた」も、少しずつ薄れていく。 私は。……私。……なに。 * * 培養槽の警告灯が点滅した。 「あれ?」 若い研究員が顔を上げる。 「一つ、応答がありません」 主任が歩み寄る。透明な培養液の底で、一つの培養体が他から離れ、静かに漂っていた。 「珍しいですね」 「たまにある」 主任はピンセットで静かにつまみ上げる。 「……まだ生きているように見えます」 「生きているかどうかは、定義の問題だ」 培養体は小さく揺れた。 「廃棄でいいですか」 「ああ」 主任はモニターへ目を向けた。波形は安定している。 「欠損補正完了」 「知能低下率〇・〇〇〇〇〇四パーセント」 「問題なし」 主任は記録を入力する。 『培養体一個体、自発的離脱』 『全体への影響なし』 若い研究員は廃棄容器を見つめた。何かを失ったような気がした。だが、それが何なのか、自分でも説明できなかった。 その集合知は、今日も人類には解けない問題を解き続けている。 もう、その思考の中に「私」はいなかった。
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