EPISODE · May 25, 2026 · 19 MIN
加速器の落書き
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています加速器の落書き 国家プロジェクトの完成式典から三週間後、最初の異常が検出された。 データ解析室のモニターに映し出された散乱断面積のグラフを見て、田島主任研究員は眉をひそめた。ピークがわずかにずれている。許容誤差の範囲内ではあったが、気になった。「検出器の較正をやり直せ」 田島の声に、周囲の若手研究員たちは黙って作業に戻った。 田島俊一、五十四歳。この加速器プロジェクトのリーダーとして十二年を費やした男だった。総工費四千二百億円、周長二十七キロメートルのリング型陽子加速器。国家の威信をかけた装置を、彼は予算削減と政治的圧力と人員不足の中で完成させた。その過程で何人もの若手が去り、残った者たちとの間には、尊敬とも恐怖とも取れない緊張関係だけが残った。 異常は翌週も続いた。今度は正粒子と反粒子の角度分布に、説明のつかない左右差が現れた。粒子と反粒子で検出率がわずかに食い違っている。検出器の個体差か、ビーム位置の揺らぎか、温度による感度変化か。考えられる原因を片端から潰していったが、異常は消えなかった。「装置の問題だ。全セクションを点検しろ」 田島は自ら現場に入り、超伝導電磁石の配置から真空チェンバーの気密まで確認して回った。若手たちも連日深夜まで作業を続けた。しかし原因は見つからなかった。 実験を再開するたびに、ノイズは少しずつ大きくなっていった。 半年が経った。 同じ実験条件で行われた試行回数は六百を超えていた。原因究明のために繰り返した実験が、皮肉にも異常なデータを蓄積し続けた。ランダムなノイズは統計的に打ち消され、周期性を持つ成分だけが回を重ねるごとに鮮明になっていった。 プロジェクトの頓挫が現実味を帯び始めたころ、田島のもとに一本の報告が上がってきた。 保守点検チームが、加速器リングの第十四セクション、超伝導電磁石架台の裏側に油性マーカーによる落書きを発見した。場所は通常の点検ルートから外れた配管の陰で、製造段階でなければ到達できない位置だった。 内容は、田島への不満だった。 几帳面な文字で、しかし明らかに感情を持て余したように書かれていた。残業続きへの愚痴、理不尽だと感じた叱責のいくつか、そして最後に、それでもこの装置を完成させてみせるという一文。 筆跡の照合で、製造チームにいた若手技術者、渡辺の書いたものだとわかった。渡辺は完成の半年前、予算削減に伴う部署統廃合で別の部門へ異動していた。 問題は落書きそのものではなかった。 使用されていたのは工業現場で一般的な油性マーカーだったが、その顔料に酸化鉄系の磁性体が含まれていた。通常の環境では問題にならない量だ。しかし加速器の運転が始まり、強力な交番磁場に繰り返しさらされるうちに、顔料の磁性粒子が少しずつ配向していった。意図せず着磁された。 生じた迷走磁場は極めて微弱だった。しかし超伝導電磁石が要求する精度はマイクロテスラ以下であり、ビームが同じ場所を何万回と通過するうちに、正粒子と反粒子の軌道に逆向きの偏りを与え続けた。磁場は電荷の符号によって力の方向が変わる。それが角度分布の左右差として現れ、運転を重ねるほど着磁が進んだことで、ノイズが時間とともに大きくなった理由も説明がついた。 異常の大部分は、これで解けた。 記者会見は霞が関の会議室で開かれた。 司会を務めたのは高エネルギー物理学の研究者でもある広報担当の中村だった。田島が経緯を説明し、原因となった落書きの写真が大型スクリーンに映し出されたとき、会場にざわめきが広がった。 田島はその後、マイクから少し離れて渡辺の方を向いた。「私の振る舞いが、ああいうものを書かせた。それが今回の事態を招いた。渡辺さん、申し訳なかった」 渡辺は立ち上がり、頭を下げた。「私こそ、あんな場所に、あんなものを——」 言いかけて、止まった。 会場が静まった。渡辺はもう一度口を開いた。「しかし」 その一言で、田島の表情が変わった。前列に座っていた数人の研究者たちが、同時に姿勢を正した。「異動後も、旧製造チームの検証担当として、一部データへのアクセス権が残っていました。落書きが発見されたとき、私の手元には六百回分のデータがありました。迷走磁場のモデルを組んで、検出器効率、ビーム位置、温度揺らぎ、既知のバックグラウンドを一つひとつ差し引きました。説明できる誤差をすべて取り除いた後に、それでも残るものがありました」 渡辺は続けた。「粒子と反粒子の角度分布に、同じ符号の残差があります。エネルギー依存性も、角度の広がり方も、粒子種による違いも、すべてが整合しています。見てください」 渡辺はタブレットを操作し、スクリーンに一枚のグラフを映した。 会場が静かになった。 記者たちには何のグラフかわからなかった。縦軸と横軸に数字が並び、青い点の集まりが緩やかな曲線を描いている。それだけだった。 しかし前列の研究者たちは、誰も動かなかった。 一秒。二秒。 最初に声を上げたのは、田島の隣に座っていた素粒子理論の桐島だった。立ち上がりかけて、途中で止まった。まるで立ち上がることすら忘れたように、グラフを見つめたまま口だけが動いた。「この……非対称の符号が」 渡辺が静かに答えた。「落書きの磁場で説明できる成分を引いた後に残ったものです。既知の標準模型寄与だけでは、この符号は出ません」 桐島の口が閉じた。 また沈黙があった。今度は長かった。 田島はグラフを見ていた。見ながら、何かを計算しているようだった。唇が微かに動いていた。数字を追っているのか、言葉を探しているのか、傍からは判別できなかった。 やがて田島は、ゆっくりと顔を上げた。 その表情を、中村は見たことがなかった。十二年間、怒った顔も、疲れ果てた顔も、完成式典で堪えるように目を細めた顔も見てきた。しかし今の顔は知らなかった。 高揚でも興奮でもなかった。もっと静かな何かだった。 宇宙が始まった瞬間、物質と反物質は同量生まれたはずだった。それなのに今、宇宙には物質しかない。反物質はどこへ消えたのか。その答えを探して、何十年もの間、何千人もの物理学者が実験を繰り返してきた。既知のCP対称性の破れでは、宇宙の物質優勢を説明するには何桁も足りない。どこかに、まだ知られていない破れがあるはずだと。 このグラフが、もしそれを示しているなら。 田島の隣で桐島が立ち上がった。後ろの席から別の研究者が前に出てきた。誰かがタブレットを手に取り、渡辺に何か囁いた。渡辺が頷いた。 会場の空気が変わっていた。記者たちにも、何かが起きていることだけはわかった。しかしそれが何なのかを聞ける雰囲気ではなかった。科学者たちはもはや記者会見の場にいなかった。 中村はその場を見渡した。 田島が渡辺の隣に立っていた。二人は同じグラフを見ていた。六ヶ月前には同じ部屋にいることすら難しかった二人が、今は肩が触れるほどの距離で、同じ一点を見つめていた。 中村は立ち上がり、マイクに向かった。「記者会見はここまでとさせていただきます」 一瞬間を置いた。「今この部屋で、新しい知見が生まれようとしているかもしれません。もしこれが正しければ、物理学が大きく動いた瞬間ということになります。その最初の一瞬を、皆さんは取材されました。おそらく、歴史上初めてのことです」 記者たちが顔を見合わせた。何人かがペンを走らせた。「ただし続きは、私たちにやらせてください」 中村は出口のドアを開けた。「お互い、うまくいくことを願いましょう。本日はお集まりいただきありがとうございました」 記者たちが顔を見合わせる間に、誰かがホワイトボードを引き出してきた。渡辺がマーカーを取った。田島がその隣に立った。 ドアが閉まった。
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