EPISODE · Jun 1, 2026 · 17 MIN
仮想現実
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています仮想現実人口が十億を切った頃、現実世界はひどく静かになった。きっかけは基本給付制度だったと言う者もいれば、生成AIが仮想空間の構築コストを限りなくゼロに近づけたからだと言う者もいた。どちらも正しかった。働かなくても生きられる社会で、人々は一人また一人と向こう側へ消えていった。SF的な近未来都市も、恐竜が闊歩する太古の大地も、プロンプトひとつで生まれた。その世界では誰もが王になれた。英雄になれた。現実では決してなれないものに。街はあった。建物も、道路も、電力網も、上下水道も。ただ、人がいなかった。正確には、ほとんどいなかった。人々はバイザーをつけたまま横たわり、食事だけを現実世界で摂り、あとはすべてそちらで生きていた。インフラだけが、静かに、自動で、回り続けていた。ケンジもそうだった。バーチャルでの彼は英雄だった。生物兵器テロを阻止し、謎の感染爆発を食い止め、人類を何度も滅亡の淵から救った。現実世界で感染症研究所に勤めていた過去が、そのリアリティを支えていた。知識が、経験が、ゲームの中で初めて役に立った。そう彼は思っていた。ある夜、見慣れない招待が届いた。『特別ミッション:封鎖区画ΩB-7 難易度:未設定』未設定、というのは見たことがなかった。興味を引いた。承認すると、視界が切り替わった。気圧が変わった気がした。いつもより重い。防護服を着ていた。手袋越しにも、素材の厚みが伝わってくる。重さが、やけに本物だった。よく作り込んである、とケンジは思うことにした。廊下は薄暗く、非常灯だけが赤く点滅していた。案内音声が流れた。合成音声にしては、少し感情がありすぎた。『第三封鎖区画の換気システムが停止しています。手動での再起動をお願いします』お願いします、という言葉が引っかかったが、ケンジは歩き始めた。マップが表示されていた。施設の構造は複雑だったが、体が先に動いた。かつての職場に似ていた。懐かしい、と感じた次の瞬間、その感情の出所に一瞬だけ戸惑った。ゲームで懐かしさを覚えるとは思っていなかった。扉を開けるたびに、空気が変わった。においがした。消毒液と、その奥に何か有機的なもの。バーチャルで嗅覚まで再現しているのか、と思った。換気システムの制御盤は、記憶通りの場所にあった。手順が、頭の中に浮かんだ。研修で何度も繰り返した手順だった。ゲームが記憶から引き出しているのだと思った。指が動いた。パネルを開き、補助電源を切り替え、バルブを手動で三回転。低い音とともに、換気扇が回り始めた。『ありがとうございます』また、その言葉だった。NPCにしては、間が自然すぎた。ケンジはクエストを終えた。制御盤の画面に、運転ログが流れていた。タイムスタンプが、今日の日付だった。一瞬目を止めたが、細かい作り込みだと思った。どこかで換気音が連鎖するように立ち上がり、施設全体が静かに息を吹き返していくのがわかった。施設の出口へ歩いた。ファンファーレは、鳴らなかった。代わりに、小さなテキストが視界の端に浮かんだ。『封鎖区画ΩB-7:封じ込め成功。推定被害者数:0。人類への脅威:解除』クエストクリアの演出にしては、地味だった。ケンジは少し首をかしげたが、次のミッションを探し始めた。外に出た。空気が、冷たかった。
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