EPISODE · Jun 11, 2026 · 15 MIN
均衡
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています均衡田辺は今日も板書を写した。伝説の講師と呼ばれる森川先生の授業は、開始三分で田辺の理解を完全に置き去りにする。今日は関係代名詞の非制限用法だった。森川先生が例文を板書し、どこかを指して何かを言った瞬間、田辺の思考が止まった。コンマの前と後で文が二つに割れているはずなのに、どちらがどちらを修飾しているのか、境界が見えなかった。黒板は続いていた。声は朗々として、教室の空気は研ぎ澄まされていた。周囲の生徒たちは黙々とペンを走らせている。賢そうだった。わからないのは自分だけだ、と田辺は思った。一週間が過ぎた。二週間が過ぎた。ノートだけが増えていった。授業後、廊下で「今日もよかったな」という声が聞こえるたびに、田辺は少し早足になった。友人に相談することも考えた。だが、この授業をわからないと言えるような顔が思い浮かばなかった。みんな、あんなにちゃんと板書している。ある日の休み時間、隣の山口がぼんやりと窓の外を見ていた。田辺は何気ないふりで言った。「森川先生の授業、正直よくわからないんだけど」山口がゆっくりこちらを向いた。少し間があった。「……俺も全然わかってない」声が届いたのか、前の席の中村が振り返った。「え、俺もなんだけど」。後ろの列から「私も」「僕も」と声が続いた。教室がざわめいた。誰もが同じだった。誰もが、言い出せなかっただけだった。笑い声が起きた。解放されたような空気が広がっていた。しばらくして、窓際の佐々木が、迷うように一度口を閉じてから言った。「でも、あんな授業ないと思うよ。彼女の」笑い声が止んだ。佐々木が言うと、空気が変わった。東大模試で学年トップを取ったことが一度だけ噂になった男だった。普段は何も言わない。その佐々木が、続けた。「先月の模試、長文が急に読めた。今まで最後まで読み切れたことなかったのに」誰も反論しなかった。少し間があって、中村が「……確かに、そう言われると」と呟いた。山口も「俺も何か変わった気がしてきた」と言った。「佐々木がそう言うなら」と誰かが小さく言った。教室が、また静かになった。次の授業も、田辺は板書を写した。森川先生が例文のコンマを指した。田辺の思考が、また止まった。周囲の生徒たちは黙々とペンを走らせていた。
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