EPISODE · Jun 28, 2026 · 15 MIN
隣
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています 隣 施設の見学、と呼ぶには少し大げさな気もした。要するに、自分がいずれ入るかもしれない場所を、事前に確かめに来たというだけのことだ。 案内の女性スタッフに連れられて廊下を歩きながら、私はぼんやりと計算していた。就職した年のことを。バブルが弾けて、世の中がまだ沈み込んでいた頃で、内定をもらえた友人の数を今でも覚えている。少なかった。私はかろうじて滑り込んだ口だったが、住宅ローンを組む気にはなれず、結婚も遅れた。親の介護が始まる頃には、もう自分の老後の計算をしていた。その計算が、今日ここへ私を連れてきた。 共有スペースに通されたとき、窓際に老人が一人いた。車椅子で、膝の上に薄い毛布をかけていた。スタッフが「百歳近いんですよ」と耳打ちした。 なぜそうしたのか自分でもわからないが、私はその老人の隣に座った。見学の途中だった。 どの世代も楽じゃなかった、と私は言った。話しかけたというより、独り言に近かった。就職氷河期があって、リーマンがあって、コロナがあって、AIが来た。若い世代も気の毒だと思う。でも私たちだって—— 老人は窓の外を見たまま、静かに言った。 でも戦争はなかった。 私は返す言葉を持たなかった。窓の外では、初夏の光が駐車場に平らに落ちていた。
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