EPISODE · Jun 3, 2026 · 17 MIN
旅に出た
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています旅に出たメールが届いたのは、娘が逝って三日後のことだった。差出人はechoというサービスだった。登録していた覚えはなかったが、文面を読んで思い出した。利用者に予期せぬことがあった場合、遺族に通知が届く仕組みだと、どこかで聞いたことがある。娘が使っていたとは知らなかった。病院から出たことのない娘が、SNSの投稿から日記を作るサービスを。訝しがりながらアカウントにアクセスすると、日記があった。最初の投稿は三年前だった。見知らぬ街の写真が一枚。柔らかな光に包まれた石畳の街で、街灯の代わりに光る草花が道沿いに並んでいた。娘の字で短い文章が添えられている。読みやすく、どこか生き生きとしていた。旅に出た、と書いてあった。次の投稿も、その次も、知らない場所ばかりだった。どれも現実の地名ではなかった。娘が作った世界だった。雲の上に浮かぶ小さな島、潮の香りのする水の都、夜になると木々が静かに歌う森。どこへ行っても、光と風と、穏やかな生き物たちがいた。友人との写真もあった。友人も、娘が作った人物だった。名前があり、口癖があり、好きな食べ物があった。一緒に迷子になった話、雨宿りをした話、別れ際にいつまでも手を振っていた話。いじらしいことをしていたのだと思うと、涙が止まらなかった。病院の外を知らないまま逝った娘が、せめて頭の中だけでも旅をしたかったのだと、そう思って。読み進めながら、気づいた。これは違う。娘は慰めのために作っていたのではなかった。本当に世界を作ろうとしていた。旅先の空気の色、食べたものの味、友人と喧嘩した翌日の気まずさ。細部まで、丁寧に、積み重ねていた。慌ててSNSを確認した。フォロワーが十万を超えていた。更新が止まったアカウントのコメント欄に、さまざまな言葉が並んでいた。英語、スペイン語、見たことのない文字もあった。安否を心配する言葉の合間に、こんな言葉があった。「次の街にはいつ着くの」「リラはまだ怒っている?」「あなたの森の夜が好きです」フォロワーたちは娘の病気を知らなかった。それだけではなかった。娘の世界の中で、待ち、心配し、続きを楽しみにしていた。SNSの中で、娘は病気ではなかった。どこへでも行き、誰とでも会い、毎日を生きていた。そのことに気づいて、涙が溢れた。不憫な思いをさせてしまったと思っていた。ずっとそう思っていた。でも違った。娘には、ちゃんと世界があった。頑張って生きてくれた、と思いかけて、やめた。そうじゃない。一人の人間として、精一杯生きた娘が、誇らしかった。
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