EPISODE · Aug 9, 2026 · 15 MIN
マタイ福音書14章22-33節「恐れにとらわれない自由」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
マタイ福音書14章22-33節「恐れにとらわれない自由」2026年8月9日年間第19主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 今日の福音では、嵐の湖を歩くイエス様と、恐れにとらわれて沈みかけるペトロの姿が描かれます。人生にも突然、足元を揺るがすような嵐が訪れます。しかしイエス様は「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と語りかけます。アウシュビッツで他者の身代わりとなったコルベ神父も、極限の状況の中でなお自由に愛を選びました。私たちもイエス様に信頼し、恐れや不安に振り回されず、自由な心で愛を選び、平和を築いていきたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書14章22-33節 22〔人々がパンを食べて満腹した後、〕イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。 恐れにとらわれない自由 今日のイエス様のお話です。マタイ24章ですが、非常に不思議なお話というか、イエス様がなさった奇跡の中で一番奇妙というか、何のためなのか、ちょっとよくわからないのが今日の福音だと思うのですが、水の上を歩いたイエス様がというですね、ちょっとあまりに特別すぎて、何かちょっとキョトンとしてしまうところではありますけどね。時々、マジシャンが空中浮揚する人が、セロだったか、なんかちょっと空中浮遊をするマジックをする人もいるんですけど、でも、何のためにイエスだけの話でなくてペテロも歩いたというのも、これもよくペトロの方は途中で恐ろしくなって遅れそうになっちゃったと言うんですよね。 あのイスラエルの巡礼が好きで、何年かに一回行くので、ガリラヤ湖はしょっちゅう眺めてますか。ガリラヤ湖を見つめながら、さすがにこの上をイエスが歩いたというのは、ちょっと信じられないなと。いつもその湖を見ながらですね、ガリラヤ湖というのは湖ですから、日頃は波もなく、非常に静かなんですけど、でも時々山から北風が吹いてくると、突然嵐のようなものになったりして、そういう湖ではあるんですけど、やはりユダヤ人にとってはですね、ユダヤ人は基本に、基本的には陸の民なんですよね。羊を飼ったり、野原で生活したりする方が何か基本的な生活なので、やっぱり海というのがあまりなじみのないものがあって、日本人とちょっと感覚がちょっと反対みたいなところ。日本人にとっては、海っていうのは何か恵みの源みたいなイメージで捉えているんですけど、でもユダヤ人にとっては海は逆で、何かどこか怖いものっていうか、得体の知れないようなものであるというですね。だからレビアタンという怪獣が海から出てきたり、あるいは何かクジラに飲み込まれたとか、そういう海に纏わるお話というのは、どちらかというとネガティブなものが多いんですよね。世の終わりには、黙示録の最後には海がなくなっちゃうっていうか、陸だけになっちゃうとかっていう描写になったりするんですが。 やはり私たちが実際日常生活の中で生きている中で、もちろん凪のような静かな海の上を船で渡っているような時もありますが、やはり日本人にとっても台風であったり、津波であったり、嵐であったり、それは結局、私たちの人生にも度々起こることであることは、それは自然現象的だけじゃなしに、私たちの日常生活のことを考えても、こう土の上をですね、土台のある上を歩いているつもりが、何かちょっと大きな不幸とか困難なことにぶち当たると、急に何か自分の支えがぐらぐらしてしまって、何か海の中に、嵐の中に飲み込まれてしまうような、そのような何か困難というか恐ろしさを感じることは、やはり度々あることでは度々か、時々はあることではないかなと思いますね。 この嵐の上を歩くイエス様のところは、確か記憶にある限り、コロナが始まった頃、フランシスコ教皇が実はこの箇所を取り上げてですね、「安心しなさい、私だ。恐れることはない」と。やはりそのメッセージを全世界のカトリック信者に投げかけて、心を鎮めるようにメッセージを呼びかけた箇所でもあるんですけれども、確かに私たちが問題なのは、実際は様々なことに恐れてですね、溺れそうになったり、方向性が分からなくなってしまう。その時にイエス様は全くそういうものに振り回されず、嵐の海の上を歩いておられる。イエス様、何かそれはなんか空中浮揚している奇妙な姿というよりは、やはりイエス様は神様という土台に足を置いて、その土台の上に生きて、確固たる土台の上に生きておられるから、この嵐とか困難とかに全く振り回されない。そのようなイエス様の姿が、イエス様の力強い姿が描かれているのではないかと思いますね。 実際のところ、私たち自身が歩んでいく中で、やはり確固たるものに自分の土台を置いて生きていることができるならば、私たちは恐れや不安にとらわれる、とらわれないで、自分の歩みをしっかり歩んでいくことができるのではないかというふうに思います。 結局、やはり戦争があったり、今日は平和のために祈りを捧げているわけですけど、なぜ戦争や争いが起こるかといったら、それはやはり人間が恐れに囚われているからでしょう。恐れに囚われて、自分の心に不安や憎しみが湧いてくる時に、やっぱり戦争になる。結局、社会を、この世界を嵐の中に巻き込んでいるのは、やっぱり恐れに囚われているところから。不安に囚われて、そこからグラグラ。自然災害も同じですけど、そういうものがあった時にやっぱり右往左往してしまうところから、私たちの生き方の根本が崩されてしまう。その時に私たちはやはり溺れてしまうような気持ちになるだろうと思います。 その時にこそ、イエス様が安心しなさい、私だ、恐れるなと、私がいるから大丈夫だと言ってくださっているイエスの言葉に、自分のこの信仰の基盤を置けるかどうか、そこに置いた時に、ペトロのように私たちも振り回されないで、嵐の海の上を歩いていくことができる。 でも結局、ペトロが何で沈んだのかと言ったら、強い風に気がついて恐ろしくなったからダメになったんですよね。恐ろしさとか不安に囚われたから、そこから沈みそうになってしまったというわけですよね。私たちは度々沈みそうなことが色々ありますけれども、恐れや不安に囚われず、やはりイエスと共に確固たる基盤の上に自由な心で歩んでいけることができるか。それが私たちに一番問われていることではないかなと思います。 この8月の暑い真ん中ぐらいになると、今週の後半ぐらいになるんですが、コルベ神父さんのことを思い出すんですよね。聖マキシミリアノマリアコルベというですね、ご存知の方も多いと思いますけど、ポーランド人で聖母の騎士コンベンツアル聖フランシスコ修道会で、日本にも長崎に選挙に来られてたんですけれど。第2次世界大戦の時にナチスの侵攻があって、ポーランドも大変なので、彼は後に戻るんですけど、その時にユダヤ人だけじゃなしに、結局カトリックの人もナチスに捕まってですね、彼はやっぱり影響力があったから捕まったんだと思いますけど、アウシュビッツの強制収容所に送られるわけなんですよね。 アウシュビッツの収容所では一人の脱走する囚人がいたら、代わりに10人の囚人を殺すという規則があったんですよね。実際、一人のユダヤ人が脱走してしたんですよね。それでその報復として10人の人を殺すとナチスの方が決めて。囚人を集めて並ばせて、適当にお前も前も前と言って10人を選ぶわけですけど、10人目の男性はその選ばれた時に泣き崩れてですね、自分には奥さんも子供があって、自分は死ねないということを泣きながら訴えたら、そしたら別のところにいた一人の男性が前に出てきて、コルベ神父さんなんですよね。自分はカトリックの神父で、子供も奥さんもいないから、自分が代わりになるということを言って、それをナチスの将校が認めて、結局その最後の男性の身代わりに彼が、死刑を受ける側に立って、結局餓死させられたんですよね、10人で。でも最後の最後まで、実はコルベ神父さんが生き残って最後までのわけですけど。残りの9人を最後まで励ましながら、最後まで神様を賛美しながら亡くなったということなんですよね。 ご存知の方も多いと思います。愛の殉教者として非常に有名な方なんですが、個人的に僕のことを思うと、愛ということもそうなんですが、愛以上に振り回されない自由さっていうか、その彼を縛っているものが実は何もないというのが実際一番驚くことではありますね。 私たちはいろいろ不自由だと思うじゃないですか。この、なんかもう、何でこんなことになってとか、もうこんな誰かの面倒を見なきゃならないとか、何とかかんとか、いろいろ。でも、世界で一番不自由なところは、どう考えたってアウシュビッツの収容所が世界で一番不自由で、一番人間性がが剥奪されているところだと思うんですけど、そこにおいても、コルベ神父さんの自由な生き方というのは全く変わらないっていうかですね、自分で決断して、自分の命を他人のために捧げる。 全くその、まあ、アウシュビッツ、そして第2次世界大戦の混乱期といったら全くの不自由で、みんな恐れと不安と絶望の中で、その嵐の中にみんな巻き込まれていた。迫害する側も迫害される側も。でもコルベ神父さんは全くその外的な状況に振り回されたら、彼の自由が全く奪われていない。 僕はやっぱり、コルベ神父様の自由な態度の方が、逆に感動的っていうか、彼を縛るものは何もなかったから、彼こそ嵐の湖の上を歩いていたってことなんですよね。自分が思うように自分の命を捧げて、人のために。それが最高の私たちのクリスチャンの生き方の一つのであろうと思いますね。 平和がないとか、争いがあるとか、あるいは災害があるとか、様々なことがありますけれども、様々な嵐が私たちの中にいつでも突然やってきますけれども、でも、私たちクリスチャンであるということは、それに振り回されない自由が与えられている。イエス様が共にいるから、私たちは恐れずに、主体的に愛の心を持って歩んでいく。その恵みが与えられているというところは素晴らしいと思いますね。 私たちはペトロのようにもうすぐ溺れそうになる。その繰り返しではもちろんあるんですが、でもだからこそ私たちはイエス様に信頼して、周りに振り回されず、本当の自由と本当の愛の心を聞きながら、本当の意味で自分たちの周りに平和を築いていくことができるように、本当の神様の国、神の生き方を生きていくことができるようにですね、互いのために祈り合いましょう。 そして今、紛争の地域、あるいは被災している地域にこそ、この自由と愛が与えられるようにですね、心を合わせて祈りを捧げたいと思います。
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