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マタイ福音書18章21-35節「無限の恵みの大空を見上げて」
マタイ福音書18章21-35節「無限の恵みの大空を見上げて」2026年9月13日年間第24主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ イエス様は、七の七十倍まで赦しなさいと教えられました。百万円ほどの借金を赦せなかった家来は、自分が六千億円もの借金を赦された恵みを忘れていました。私たちも日々の悩みに心を奪われがちですが、洗礼によって罪を赦され、神様の無限の愛の中に生かされています。年を重ねるほど、目の前の出来事を超えて広がる大空のような恵みを思い起こし、感謝と心の余裕をもって歩みたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書18章21-35節 21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 無限の恵みの大空を見上げて 今日の福音書は少し面白いエピソードが語られています。弟子のペトロがイエスの所に行って、兄弟が罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。7回までですかという訳ですよね。仏の顔も3度までというから、3度ぐらいは許せるかもしれないけど、7回でたらなかなかちょっと厳しいかなという気もしますが。でもイエスの答えはちょっとびっくりですよね。7回どころか、7の70倍まで許せというですね。7の70倍ってことは、ほぼ無限に許せるということに無制限に許せたことになるわけですが。そこでたとえ話をするわけですよね。 ある家来が王様に借金していて、1万タラントン借金していてですね。でも返せないからと言って結局許してもらったんですけど、結局家来が自分の仲間というか友人に100デナリオンを貸してて、その100デナリオンを返さないから、もう怒ってですね、100デナリオンを借金している家来を牢の中に入れた。それを聞いて王様が怒ってですね、その1万タラントンの借金許しているのに、なんでお前は100デナリオンの借金を許せないのかと。逆に王様がブチ切れて、この100デナリオンを貸した方を牢に入れたということですね。まあ、この話もちょっと印象的というか考えさせられますけど。 まあ、友達にした100デナリオンというのを今の金額で言ったら、だいたい100万円なんですよね。100万円貸してたら、やっぱりちょっと踏み倒されたら、皆さんもちょっと怒り心頭っていうか。100万円はやっぱりさすが、まあ何て言うんですかね、返せない人によるか返せない、あるいは貸せる額かどうかも分からないけど、なかなかの100万円をなかなか返さないからカッカしているというわけですよね。それは私たちにも当てはまるかもしれない。でも、この家来は1万タラントン借金しているんですけど、1万タラントンで、その100デナリオンを100万円で計算したら、1万タラントンっていくらになるかと言ったら、6,000億円なんですよ。6,000億円。だいたい借金してるっていうこと自身が、どうやって6,000億円借金したのかということが、だいたいちょっと普通の人が生活していて、1,000億円借金がだいたいちょっとできないと思いますけど、それを返すっていうことが。でもその王様がその6,000億円チャラにしてるって言うんですけど、その王様ってどんなにお金持ちなのかとか、6,000億円チャラにできるだけの王様っていうのはですね、ある学者の計算なんですけど、ヘロデ大王イエス様が幼い時の方で、大王ですよね。王としてかなり立派だったんですが、ヘロデ大王の時の1年間のイスラエルの国の年間予算が900タラントンなんですよ。540億円だから、6,000億円に全く入ってないんですよね。1年間の予算が540億円で、大人の大人のイエス様の時のヘロデ大王は小者なんですけどね。彼の領地の年間予算が1年間に100タラントン、だいたい120億円ぐらい。それでも大きな、でも1国の小さな国だから、1国の国の国の予算が120億円なのに、この例え話の王様は6,000億円の借金をチャラにできる。どんなにちょっとこの王様もちょっとどうかしてるということなんですよね。 まあ、この話のポイントはすごくはっきりしていますけど、私たちは100万円の借金とか100万円でいろいろ悩んだり苦しんだり、ああだこうだ仕事とかね、100万円。お金だけでなくても、人間関係とか、子育てとか、病気したとかしないとか、なんとかとか、いろいろ仕事の大体100万円ぐらいのことで、私たちはああだこうだだいたい悩んで、いろいろね、なんかいろいろ苦しんだり、あーだこうだ考えたりしますけど、でも実際は6,000億円分許されているということに私たちの心を向けることができるかどうかということが最大のポイントだと思いますね。 今日は一人の人が洗礼を受けられますけど、洗礼を受けるというのはどういうことかと言ったら、今日の例えからも簡単な話なんですよ。私たちの日常生活は100万円のことで、ああだこうだと私たちの日常生活ですけど、洗礼を受けて神の子になるっていうのは、6000億円分の神の恵みをいただくということなんですよね。 具体的に言えば、洗礼を受けたら、今までの罪が全部許されるということですから、全く全部ですよ。しかもタダで許されるということで。だから、本当にそのことから考えたら、年とってから洗礼を受けた方が得ってことになるんですけどね。それはそれが全く許されちゃうわけですからね。 だからね、6,000億円分の罪があるかどうかはもちろん分からないけど、そんなにも値段の問題じゃないですけど、まあ、私たちがクリスチャンとして生きていくっていうことは、6,000億円分の赦しだけじゃない、天文学的な無限の神様の恵みを受けて生きていくことができることを、神様は保証してくださっているってことですよね。 私たちは100万円のことで、ちょっとごちゃごちゃととらわれますけど、でも実際は6,000億円分の神の恵みの中で生きていることを思い出すことができるならば、私たちは今の苦しみや囚われを乗り越えていく心の余裕とかですね、あるいはそれを受け止めていく勇気とか力を私たちはいただくことができるのではないかと思いますね。 今日は敬老のお祝いもしていますから。僕自身が思うのは、年を取るっていうことは何が大事かといったら、それも同じだと思うんですよ。100万円の世界のことばかり考えるのではなくて、6,000億円の神の無限の愛を意識して生きていくのが、年を取ったものに一番大切ということですよね。 6,000億円ということは、結局もう無限の愛を私たちが与えられている。ある何か学者が書いてましたけど、年をとってきたら、やっぱり持たなければならないのは、宇宙意識ってですよね。宇宙の中にいる自分のことをもっと、つまり日常のことだけじゃないです。日常を超える、もっともっと大きな無限の世界のことを私たちは意識していく。そういう時だ。それが年をとってからの一番大事なことだと言うんですけど、同じだと思うんですよ。 6000億円の愛を与えられていて、そして私たちがいずれ早いか遅いかともかくこの世で命を終えたら、向こうの世界に行くわけですよね。向こうの世界が6,000億円の愛の世界をそのまま私たちは味わうわけですから、そこに向かっているということを今から意識することができるならば、私たちはもっと充実した有意義な生き方ができるのではないかというふうに思います。 昨日は叙階式で、一応関係のあった神学生が司祭叙階して東京に行って叙階式に出てたんですけど、東京の教会にもしばらく働いててですね、修道院に住んでたんですけど、さすが東京の修道院ですけれど、修道院がビルの7階と8階なんですよね。それ自身がもうなんかちょっと8階に住んでたんですけど。だけど8階から住んでたらどれだけね、眺めがいいかって思うじゃないですか。でもさすが東京だから、その8階の部屋から見る風景がビルばっかりなんですよね。そのビルが30階とか40階とかそんなビルしか結局見えないんですよ。もう本当にね、そこの修道院に住んでる時はもうなんかビルしか見えないから、なんかもう本当に気持ちが落ち込むというか。窓から見て8階だったら、なんか眺めがいいはずなのに、もう全部ビルで、半分ぐらいはもう億ションかな。1部屋2億円か3億円のマンションが見えるぐらい。なんかちょっと落ち込むような。でもまあそこに8階にいたって、そのビルしか見えないんですけど。でもちょっと散歩してですね、ちょっと近くを歩いたら。迎賓館赤坂の迎賓館とかあるんですよね。外国の要人が。その辺は割と開けてるところで、その迎賓館の前から自分の住んでいる修道院見たら、ちっちゃいんですよ。8階というのは大したことがなくて、その日はたまたま晴れている日で、その上にですね、もうびっくりするぐらい広い大空がその上に広がっているから、結局なんかもう8階とか言っても、結局ビルの感覚ですけど。でも8階とか30階のビルがあったとしても、その上にもっと無限の空がもものすごい広く広がっててですね。人間のやってることって実際は大したことないっていうか。結局私たちは100万円の世界に生きてるから、100万円のことでだっていうことで、いろいろ嬉しかったり悲しかったり、いろんなことがありますが、でもその上にやっぱり無限の空が開かれてて、それがどんなに爽やかですっきりしててですね。 もうなんか太陽があれしたらもうクリアな恵みの大空が広がっているわけですよね。私たちはついついこの下ばっかりに出るから、100万円の世界でいつも考えてるんですけど。でも本当に大きな恵みの中に私たちがいる。それを私たちがしっかり思い出して、その恵みの中に生きているありがたみと感謝とすっきりした心を持って歩むならば、私たちは日々の生活をもっと生き生きとした形で生きれると思いますね。 それはもう洗礼の恵み、あるいはクリスチャンとして生きる、あるいは人間として生きるということの中にその恵みがあると思いますから、私たちが大きな恵みのうちに歩んでいけるようにですね、洗礼を受ける方々、高齢者の方々と共に、その恵みを願いたいと思います。
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マタイ福音書18章15-20節「被造物を兄弟姉妹として」
マタイ福音書18章15-20節「被造物を兄弟姉妹として」2026年9月6日年間第23主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ マタイ18章は、問題が起きたときには対話を重ね、心を一つにして祈るよう教えています。聖フランシスコが太陽や月、水や火を兄弟姉妹と呼んだように、動物や植物も共に生きる仲間です。私たちは自然から多くの慰めと力を受けています。災害や獣害を目先の対処だけで終わらせず、自然の訴えに耳を傾け、自分の体を整えることから、被造物と調和して生きる小さな一歩を始めたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書18章15-20節 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 被造物を兄弟姉妹として 今日の福音書は、マタイの18章、教会生活をどう送るかということについてのこの指針が、18章全体について実は書かれていてですね、聖書の言葉、イエス様の言葉は、やはり人間相手にしてですね、当然様々なことを私たちに諭してわけですね。 特に今回は、前半はこの兄弟の中で、いわゆるトラブルメーカーがいた場合ですね、問題を起こした人がいたらどうすればいいかということなんですけど、これもなかなか考えさせられる点ではあります。でも今日の後半は、願い事をする時には、この二人が地上で心を一つにして求めるならば叶えてくださると。どちらかというとこの人間関係のいい方ですよね。心を。二人の人が心を一つに合わせるならば、神様はその願いを聞き入れてくださるというですね。前半と後半とわりと対照的な2つのことが語られています。 今日は、あの被造物を大切にするミサということなので、これをですね、私たちのこの自然に対してエコロジーをどう生きていくかということで少しお話をしたいと思うのですが、なかなかラウダートシというですね、エコロジーに関する教皇様の回勅が出てから既にもう10年、ちょうど10年ぐらい経つんですけど、なかなかこの心構えにしても実践にしてもなかなか進まない。 その進まないうちに、逆に自然破壊というか、自然の異常気象や災害がどんどんどんどん頻発するようになってきて、危機的な状況が非常に逼迫しているような形になってきたわけですよね。そんな中で、私もあれこれ考えたり、本を読んだりいろいろするのですが、なかなかピンとくる点が見つからなかったんですが、今年がですね、フランシスコ年と言ってですね、アシジのフランシスコが亡くなって800周年記念ということで、今年は全世界的にフランシスコ年をお祝いしている年に当たってですね、その関係でアシジのフランシスコの伝記とか本を読んだり、いろいろ、あるいは彼のお祈りを祈ったりしていて、ご存知の方も多いと思いますが、晩年に作った「太陽の賛歌」というですね、有名なお祈りがあって、あれもしばしば個人的に唱えて唱えているんですけど、でもあれが非常に心に響くようになってきて、何か自然と自分との関わりを見つめ直す、何かきっかけが与えられたような気がします。 ご存じの方もおられると思うんですけれど、太陽を兄弟と呼んでですね、月を姉妹と呼ぶところから、そして神を賛美する、いわゆるブラザーサン、シスタームーンという形なんですよね。それから僕も確かに太陽を称えるって結局朝なんですよね。だから朝日が残った太陽に、僕も兄弟の太陽として神様を賛美して、シスタームーンと言ったら、やっぱり夜なんですよね。だからやっぱり外に出てですね、その月を見ながら、見えない日もちょっと割と今晩も見えないかもしれない。見えない。見える時は、その姉妹である月を通して神様を賛美するような、そういうお祈りをしてですね。そのあと続いて出るのは、火を兄弟と言うんですよね。それから水をシスター、姉妹と呼んで、そして風ですね、風を兄弟と、そして神を称えるということで、ちょっと風はちょっと難しいけど、一応水と火は最大の肝ですね。だからすべての物を兄弟や姉妹って呼んで、その兄弟姉妹の関係で神を称えるというのは、これは何か私は日本人として非常にピンと来るんじゃないかなという気がしますよね。単になんか自然を物のように扱うのではなくて、兄弟としてしまいとして受け取っていくと。なんかそういうところから何か自然を大切にする。そういう心が少しずつ私たちの中でも蘇ってくるんじゃないかなと思います。 もしかしたら皆さんの中でも、そういう様々な自然を通して癒されたり助けられたり、それはやっぱり自然が私たちにとって兄弟であったり、姉妹であったりから、助けられたり、ホッとしたり、森林浴とか自然に触れることで心が癒される体験ということもあるのではないかと思います。 10年、20年ぐらい前かな、大阪の釜ヶ崎というところで働いている時に、識字学級といってですね、あの、字を勉強する学校を開いていたんですけども、日本人ってみんなしきりに識字率が100って思ってるかもしれないですけど、実は字を書けない人はいる。日本の中でもですね、実際いるんですよね。だからそれで大人のための勉強会を開いたりしてたんですが。もちろん単に字を勉強するだけじゃなしに、自分の人生の振り返りみたいなですね、ことをやってて、その時に大体もう中年から初老の男性ばかりですよね。その中でなぜかその時のテーマが花について。この花ですよね。フラワーですけど、この花について分かち合いしましょうってことになったんですよね。そしたらみんな男でしょう。花とか言ったら、ゲーって感じで、女の人はお花を愛でる人が多いでしょうけど、男の人ってあんまり、少ない、少数派なんですよ。花も大事ですが、普通は別に全然興味がないっていう感じで。そこに集まった男性もみんなむさくるしい連中ですからね。花とか言うたらなんやねんそれみたいな感じで、割と。でもなんか流れでそのそのようなことを振り返ることになったんですよね。だから一人のそこにいた人でホームレスだったけどホームレスから立ち上なおってですね、生活保護をもらって暮らしだした人なんですけど。彼は中卒で神戸の工場で働いてたと。どういう工場がきかなかったけど、ケミカルシューズか紡績か造船か何かでしょうけど、中卒ですぐ働きだして、今の年齢でいったら高1か高2ぐらいですよね。もうとにかく仕事がきつくてきつくて、仕事がハードだし、もう先輩からものすごく言われてですね、めちゃめちゃ辛かったというんですよね。で、彼はその工場の隣が空き地というか原っぱだったから、この昼休みは広場に行っていつも泣いてたんです。空き地に行っていつも泣いてた。あまりに辛いから、毎日毎日泣いてたっていうんですよね。で、なかなか仕事が苦しくてですね、まだ子供ですよね。少年ですから。すごい辛くてですね。その時ちょうどこれがまた今。今からもうちょっと後かな。季節なんですけど。その空き地に彼岸花が咲いてたっていうんですよね。ちょうどその時にそれでその空き地に出て。本当にもう泣いてた時に。その彼岸花がいつも自分に頑張れ頑張れって励ましてくれたって言うんですよね。そのことを突然思い出して、その彼岸花にすごく励まされて、それで仕事を辞めずになんとか続けられたっていうことを彼にすれば。だから40年とかぐらい前の話でしょうけど。 だからやっぱり彼はクリスチャンでもなんでもないですけど、普通の日本人ですが、やっぱりその花、彼岸花に励まされたっていうか。それはやっぱり花がやっぱり姉妹であり兄弟であるからこそ励まされてたということですよね。それを思い出して、彼は何かちょっと生きる力を。 結局彼はその後神戸の震災でホームレスになって、あの時たくさんの人が失業したので、特に男性がですね、失業して、それで釜ヶ崎流れ着いて、僕がいたのが1990年代の後半だから、最後の僕が出会った最後のホームレスの人たちは、神戸の震災でホームレスになった人たちが流れ込んできた時期に、いたからそうだったんですけど、彼も中卒だけだから漢字が書けない。中卒という人はだいたい漢字が書けないんですよ。読めない書けないがだいたい普通なので、それでちょっと一緒に勉強とかやっていたわけですけど。 やっぱり何か私たちはこの植物や動物とかペットを飼ってる人たちはもう本当にそうだと思いますけども、どれだけペットに助けられている人が多いか。だから後半のあなた方のうち二人が地上に心を一つにして二人がというのは人間だけじゃないと思います。自分と動物と植物、自分と何か心の触れ合う者と心を一つにして願うならば、やっぱり主が力や励ましを与えてくださる何か。 それを私たちがしっかり心に刻むならば、私たちが自然に対する生き方とかですね、それが変わってくるのではないかというふうに思います。前半のこともちょっと一言だけ言うと、さっき言ったトラブルメーカーが何かあった時にどうしようって書いてあるかと言ったら、ちゃんと話し合えって書いてある。簡単に言えば、問題起きた人がいたら。ちゃんと話し合ってどうしていくか、それをちゃんと見つけなさいということをプロセスをしていっているわけなんですが、ここもなかなか考えさせる人間もものすごくこれは考えさせられることではあるんですが、もしかしたら動物や植物も私たちの兄弟であるんです。あるから、兄弟があなたに対して罪を犯したら。だからこれは今クマが現れてきて、人間に襲ったり、いろいろしている。そのようなこともここに当てはめて考えた時に、それを本当に受け止めて、対話というか、それができるかどうかということもやっぱりよくよく問わなければならないことだと思うんですよね。 私自身はアウトドア人間じゃないから、ガーデニングとかちょっと苦手でしないタイプではあるんですが、だから、自分の実践じゃなくて、読んだ本の中に出てきたんですが、有機農法をやっててですね、肥料を全く使わない農家の方の手記で、長崎だったと思うんですよね。だから全くこの農薬使わないとどういう問題があるかと言ったら、害虫がついてですね。で、結局育たないってことがあるわけですよね。だから、普通の農家は仕方がないから殺虫剤とかまいて害虫を殺してその野菜や果物を育てているわけですけど、でも、その有機農法にこだわったその人は、いくら害虫にやられても、徹底的に有機農法をやってですね、農薬散布を全くしなかったらどうなったかって言ったらですね、土から、本当に土から育てて、本当にこう元気な健康な野菜や果物を作ったら、害虫が全くつかないっていうね。それもびっくりですけど、普通は美味しくて立派な野菜とかできたら、そこに害虫がつくと思ったら、本当に健康な野菜とか果物には害虫が全くつかなくなるっていうんですよね。じゃあなんで害虫がつくかといったら、それが農薬とか、あるいは人工的な肥料とかで、その野菜や果物が不完全だからだっていうんですよね。不完全なものに害虫がついて、なんで害虫がつくかといったら、人間にそれは食べない方がいいという印で、害虫がついてるって言うんですよね。僕はその話を聞いたとき、本当かなと思ったんですけど。 でも考えてみたら、人間の健康もそうでしょう。本当に健康な人は病気にならないわけですよね。病気になる人はどこか悪いから悪さが悪いところがわかるために、病原菌が入ったり、ウイルスが入ったりして、いわば病気になるんですよね。一番大事なのは、害虫で農薬や農薬を使って害虫を殺したり、体に病気があったら、それはもちろん薬を飲んでますけど、一番大事なのははっきりしてますよね。健康な体を作ることが最も大事なことだということですよね。もちろん病気になったり、薬飲んだり、悪いところを手術で取る緊急的なこともありますけど、でも本当の本当は健康な体を作ることが一番大事なことだし、その野菜作りの話を聞いても、なるほどなというかですね。 そうすると、このトラブルメーカーの害虫とか病気は、果たして本当に害を与えているのか。人間によくよく本当に突き詰めれば、実はそれは何か私たちに一つのメッセージを与えてくれてて、どこが悪いかを教えてくれている。だからここで徹底的に話し合えということなんですけど、やっぱりよく徹底的にそのことを話し合って対応を続けるならば、どこかでやはり道が開かれてくることがあるのではないかなと思いますね。 もちろん緊急的にやらなきゃならない。だから、熊が現れたらそれはちょっと危ないですから、駆逐しなきゃならないのはそうですけど、でも、熊がこれだけ現れてきているのも、やっぱり理由があるだろうと思うんですよね。熊を追い払うことは緊急的にはしなきゃならないけれど、熊が出てこないような日本、日本の人類の生活の仕方を実は本当は工夫しなきゃならない。それを本当に見つけたら、熊は来なくなると思いますね。 それは非常に遠い話ではあると思いますが、私たちが自然を大切にするってことは、結局、対症療法的にあっちを切ったり、こっちを切ったり、農薬まいたりとかですね、洪水がこないようにダムを作ったり、もちろん必要ですけど、でも本当に必要なのは、やっぱり私たちがその兄弟姉妹と対話しながら、自然のどのように本当に調和して生きていくのかがいいのかを見出していかなきゃならないということですね。 それは簡単なことではないですけれども、でも私たちは日々の生活の中で、結局自分の体の健康とか考えるところから、実はもう自然を大切にする時は始まっているんじゃないかって気が強くしますが、被造物を大切にするという緊急で大きな課題、しかも何か何をするか分からない中で、私たちが少しでもその自然を大切にしていく、小さな一歩でも生み出していけるようにですね、このミサの中で祈りを捧げたいと思います。
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マタイ福音書16章21-27節「命の三つの法則」
マタイ福音書16章21-27節「命の三つの法則」2026年8月30日年間第22主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 命の第一法則は、自分の命を守ろうとする働きですが、死を避けることはできません。第二法則は、次の世代や誰かのために命を用い、後へつないでいく働きです。そして第三法則は、イエス様の十字架にあずかることで、私たちの命が復活と永遠の命へつながることです。自分の十字架を担うことは大きな苦しみですが、イエス様と共に歩む深い喜びがあり、これこそ本当の恵みといえるでしょう。 福音朗読 マタイ福音書16章21-27節 〔そのとき、〕21イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」 命の三つの法則 今日の福音書は、マタイの16章の後半のところ、先週読まれたところの続きですね。先週はどういうところが読まれたかというと、イエスはメシアであるということを弟子たちに示したというか、ペトロが信仰告白で、あなたは生ける神の子メシアであると信仰告白をすることによって、自分がメシアであるということを弟子たちに示されたわけなんですね。それに続いて、自分がメシアであるということを明らかに示した後に、今日のところが繋がる、つながってくることなんですが、メシアであるということを明らかにした後、エルサレムに行って、そこで殺されるというということを言って、殺されるだけじゃなしに、3日目に復活するというですね、まあ受難予告ですけど、受難と復活の予告をされる。 そしたらペトロがですね、この時すでにリーダーとして任命されているペトロが代表してイエスを脇を連れていさめ始めたと。お師匠さんがちょっととんでもないことを言い出していると言って、わざわざ横に連れて行って注意をしたわけですが、ユダヤ人にとってメシアというのは人間であって、世の終わりにイスラエル王国を救ってくださる本当の現実的な救い主を意味していて、イスラエル共和国、当時は、イスラエル王国を立て直す現実的な。政治的にも軍事的にも経済的にもイスラエル王国を復興する。そういう救い主としてみんなが期待していて、イエスこそそれをしてくださる方だとみんな思っていたわけなんですけど、でも結局、その救い主だってことが明らかになった後、十字架にかかって死ぬっていうんで、もうそれはなんかちょっとおかしいでしょっていうペトロが注意したわけで、それはちょっと分かると思いますね。結局、救い主になったら、もうそのペトロにしろ、国務長官か、総理大臣か、幹部になれると思っていたところもあったんじゃないかと思いますが、でも、そのような人間の期待と、イエス様がメシアであるということは大きく食い違っていたわけですよね。 だから、ペトロに対してサタン引き下がれ、あなたは私の邪魔をしているという、神のことを思わず人間のことを思っているということで、逆にそのペトロが注意されるわけですね。でも、イエス様が私たちにとって本当にどういう意味でメシアであるのかということは、多分この時、弟子たちは何も分からなかったと思いますし、当時の人もほとんどさっぱり分からなかったんじゃなかろうかと思いますね。 そして、その次に、弟子の心構えをイエス様が告げられるんですよね。私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従えという非常に厳しい言葉をイエス様が残される。結局、イエス様は、十字架にかかって死んでいくメシアの使命を果たすのに私たちも自分を捨てて十字架を背負う生き方をせよという非常に厳しい言葉があります。 そして、命の逆説的なことを語られる。自分の命を救いたいと思うものはそれを失う。でも、イエスのために命を失うものは、それを得るとですね、命の不思議なこの働き方を語るわけですけど、でも本当にこの命というのはつくづく不思議なもんだというふうに思うんですが、私たちが考える命というのは、結局自分の命のことですから、この命をいかに大切にするかというかですね、やっぱり自己保存本能というか、そういうものがありますから、事故に遭わないように気をつけたり、敵が襲ってきたり、天候が荒れたり、逃げようと思うのは、やっぱり人間はやっぱり自分の命を守るという本能的なものがありますから、なるべく病気をしないようにとか、病気をしたらやっぱり治るようにとか、あるいはなるべく健康に気をつけようとか、様々なことを私たちは考えますが、それはすべて生命の自己保存法則から来ている。人間として、生物として当たり前の動物だって、植物だって、動物でも、危険が迫っていたら逃げますから。 だから、私が生命の第1法則というんですけど、生命の第1法則は、とにかく自己の命を守るために生命は防御するというふうになっているわけですが。でも残念ながら生命の第1法則には限界があって、全ての生命は永遠に保存できないので死んじゃうですよね。植物、動物、人間すべて死んでしまうので、生命の第1法則はどこまでいっても空しいものに実は終わってしまう。まあ、頑張って100歳まで来たとしても、どうせ後その先は死んじゃうわけですからね。120歳まで生きたってどうせ死んじゃうわけだから、どこまでいっても第1法則っていうのは、ある空しさの中にあるということなんですよね。 でも、その後に続くのは生命の第2法則というのがあって、それはそれで不思議だけど、ごく当たり前のことなんですが、生命は後につなぐ命にバトンタッチしていくっていうのがあるんですよね。人間でも植物でも動物でも、自分の命は滅びていくから、結局子孫を作るっていうか、種の保存を考えてですね、植物、動物全部そうで、次の世代に命をバトンタッチしていくことによって、実は命をつないでいるというですね、自分の命がなくなろうと、もう子供や孫とかそういうものに命をつないでいく形で、実は命を保存しているというですね。 そのことを考えたら、やっぱり命というのは自分のためのものではなくて、誰かのための命であるから意味がある。命の第2法則だと思うんですよね。 だから、命っていうのは本当に、だから動物でも植物でもお魚にしても、卵を産んだらそれで死んじゃうとかですね、そういう虫とか魚とかいっぱいいてですね。とにかく卵を産んで次の命にバトンタッチしたら親の命は死ぬというですね。それはもうどこの世界の命でもそうなわけですよね。だから命というのはやっぱり自分のためじゃなくて、他の命につないでいくために今の命がある。それは命の第2法則で、これは避けられない。でも、だから命の第2法則があるから、何か永遠の命ということが垣間見れるわけですよね。バトンタッチすることによって命が継続していくからですね。人間の場合は、子供や孫とかひ孫とか、人類が生まれてからずっと続いているのが命の第2法則があるから実は続いているわけですけれども。そこに私は思うんですけど、第1法則よりも第2法則の方に命の本当の意味があるんじゃないか。命というのは、どこか自分のためではなくて、誰かのためにあるから命というのは尊い、はかないけれども尊いものではないかなと思うんですよね。 その第2法則を私はもっと応用編として、応用編というのかな、それは第3法則と呼んだらいいかもしれないけど、イエス様はそれを示すためにメシアであるということを、「十字架にかかる命」とひっつけてイエス様は語っている。だから、マタイだったら、この16章の後、イエス様は十字架に向かっていくんですよね。つまり、死に向かっている歩みを歩んでいて、だから後半の福音書の話はどんどん暗いお話になっていって、厳しい厳しさがどんどん深まっていって、そして十字架上でイエスは自分の命を捧げることになるんですが、やはりこの命を捧げた先に何があるかといったら、3日目に復活するというですね、十字架と復活ということに、イエス様が命にもっと大きな意味を与えられた。 僕はこれを命の第3法則って呼んでいるんですけど、私たちの命は、イエス様の十字架に与ることによって復活の命につながるというですね、そのまた新たな宗教的な次元というか、それを示された。そして私たちはその命を生きていく恵みが与えられているという希望が私たちに示されているということだと思います。 ここを読むと、いつも思い出す。信者さんの一人の知り合いの方がおられて、ちょっと話を聞いたのもだいぶ前になりますけど、あの結婚されている奥さんの方ですが、旦那さんが難病にかかってですね、何の病気かはちょっと忘れましたけど、どんどん寝たきりになってですね。最初の頃はしゃべれてたんですけど、何もできなくなって、コミュニケーションを取れなくなったこともできなくなって。寝たきりでですね、その介護を5年間やって、なんかもうヘトヘトっていうか、まだしゃべれている時はいいんですけども、相手がしゃべれなくなるとコミュニケーションも取れないから、もう何か自分のやっているこの、この介護の仕事っていうのがあまりに苦しくて。もうそれがもう5年も続いてたら、しかもいつまで続くかわからないっていうね、そういう苦しみの中におられて、介護疲れというんですかね、そういう時になった時に、今日の福音書に出会ったっていうんですよね。私についていきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってというですね、この言葉に出会って、彼女はそうだ、今こそ自分を捨てて、自分の十字架を背負わなければならない。これができないとか、あれができないとか、もう遊びに行ったりとかも全くできないわけですよね。24時間介護、ちょっと一昔前だから、ヘルパーがどれぐらい入れたかもわからない。そういう中で、できないことだらけだったんですけど、もうそれはもう自分を捨て、自分の十字架を背負って決意をして、覚悟を決めたっていうんですよね。 で、その自分を捨て、自分の十字架を背負って介護しようと決意をした。その後からどうなったかというと、あれだけ苦しかった苦しみが全く消えて、イエス様がずっとそばにいてくださる。慰めを強く感じるようになったっていうんですよね。で、その後、なんとあと5年間介護されて、結局旦那さんの介護10年間やったって言うんですよね。最初の5年間が地獄の苦しみで、後半の5年間は永遠の命というか、神と共に生きる黙想会の中にいるような、神の愛に包まれた喜びの5年間だったと思うんですよね。で、ご主人が亡くなってから、普通の生活に彼女は戻られたわけですけれど。 やっぱり私たちに与えられている大きな愛は、十字架の苦しみがあるからこそっていうか、そこを受け止めるからこそ、復活の命の恵みに預かれる喜びが与えられている。この復活の命は、永遠の命につながる本当の喜びであって、それも自分のためだけでもないでしょう。その命がまた広がっていって、その恵みを受けて、コミュニケーションも全然取れないけど、旦那さんも後半の5年間は愛のうちに過ごすことができたのではないかというふうに思います。 イエス様がやっぱりメシアとして十字架にかかるという決断は全くの非常識で、当時の人は誰も考えられなかったことですけれども、さらに復活するということも誰も考えられないことでしたけれども、それによって私たちに命の第3法則が与えられて、十字架と復活の愛を生きていける。そして永遠の命につながる生き方が私たちに示された、その恵みを味わうことができるというですね、その恵みの中にあるということですね。 いろいろな自然災害とかいろんなことを見ると、本当に命が傷つけられていることに深い悲しみを感じますけれども、でも私たちに与えられている命は、やっぱりそのような悲惨さを超えていく。十字架と復活に与ることによって、違うところに私たちが歩んでいける恵みの命が与えられている。 私たちは信じながら、あるいはそれを希望しながらですね、この毎日を、毎日の命を生きていけるように、神様に恵みを願いたいと思います。
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マタイ福音書15章21-28節「出会いによって変えられる信仰」
マタイ福音書15章21-28節「出会いによって変えられる信仰」2026年8月16日年間第20主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ カナンの女は、異邦人として冷たく扱われても、娘のために願い続け、その信仰をイエス様から称賛されました。教会もまた、異なる背景を持つ人々を受け入れることで変えられ、成長してきました。私たちも新しい出会いに心を開くことで、信仰や愛を深めていくことができます。同時に、カナンの女のように、困難の中でも神様にしつこいほど願い続けることも大切です。人とも神様とも、生きたやりとりを重ねながら歩んでいきたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書15章21-28節 21〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 出会いによって変えられる信仰 今日の福音書は、マタイの15章ですけれども、カナンの女の娘の癒しの話ですが、非常に奇妙なお話で。異邦人、カナンの出身なので、異邦人でユダヤ人じゃなかったんですけど、まあ、素直に読む限り、弟子たちもイエス様も異邦人の人を癒すことにあんまり賛成してなかったというか、ちょっといやいやみたいな感じで、この子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけないと。子どもたちは明らかにユダヤ人で、小犬というのは異邦人ですね。だいたい聖書では、犬というのはだいたい軽蔑される動物としてだいたい描かれているんですが、明らかに差別的なことをイエス様が言っておられるような感じで、このイエス様の冷たい態度は一体どういうことなのか、とかですね、いろいろ疑問点のある聖書の箇所ではあります。 しかも、この聖書の解釈がこれまた山のようにあって、いろいろ難しいところというのは、いろんな解釈があるということなんですが、一つの解釈をお話しすると、これはですね、マタイの、マタイが属していた教会の様子が反映されているのではないかという意見もありますね。つまりどういうことかと言ったら、たぶんマタイの属していた教会は、アンティオキアの教会か何かだっただろうと思うのですが、まあ、最初はですね、イエス様の復活の後ですけれども、弟子たちが宣教活動で、あちこちでイエス様の福音の伝えて信者を作っていくわけですけど、最初はユダヤ人だったんですよね。ユダヤ人の主だったんですが、途中からだんだんと異邦人が増えてきて、アンティオキアの教会はもともとユダヤ人の教会だったんですけど、どんどん福音が広がっていくうちに、異邦人がどんどん教会に来るようになったんですよね。で、アンティオキアのユダヤ人たちは、本音では異邦人を受け入れたくなかったんですけど、でも、たくさん来るから、もう仕方がない。受け入れざるを得なくなったっていうですね。そういう状況が、この話の中に、イエスの言葉は、アンティオキアのユダヤ人たちの教会の本音を表している言葉ではないかという、そのような意見もありますね。まあ、こういうところはいろんな解釈があるんですが、それもそうかもしれない。 結局、何て言うんですかね、私たちが教会のメンバーはやっぱりこれだけだとか、この人たちだけだというふうにあって、でも結局いろんな人が来るようになって、どんどん変えられていく。しかも案外外から、後から来る人の方が、かえって信仰が熱心だったりすることがあったりして、それでやはり教会全体がいわば変えられていく。いい意味でですね、活性化されていくというですね、それはやっぱりあるかもしれない。だから私たちが異なった人とか違った人を排除というか、受け入れない態度をとるか。でもそういう人たちに対してオープンな態度をとるかで、やはり神様の働き方がだいぶ変わってくるということは言えるんじゃないかというふうに思います。 日本の教会では明らかですけど、今日もミサに来ておられる、やはり外国人の方が昔と違って、アジア、アジアからの外国人の方々が今教会に来られるように、別にこの教会だけでなしに日本中の教会がそうであって、しかも若くてエネルギーがあって、しかも信仰深いですね、若者たちが教会に来ることによって、多くの教会、日本の教会は、日本人の信者さんが、どちらかというと若者が来ないで、高齢者にどんどんなってですね、そういう中で外国人の若い信者たちが来るようになるってことは、やっぱり何か教会が変わっていく一つの大きな恵みがやっぱり私たちに与えられている。 それはこのカナンの女の癒しの話の中で、やっぱりこういう出来事が今でも私たちの中に起こっているということを受け止めていく一つのきっかけになるのではないかなと思いますね。 前のフランシスコ教皇がよく言っていたことですけれども、彼はよく言っていたのは、この出向いていく教会、教会を開いて、いろんな人に受け入れていくような、出向いていく教会にならなきゃならないということをよく言っておられたんですよね。 それで、そのコンテキストで、ある時、その文章の中で誰も受け入れないで、いつも同じメンバーだけでやっている教会というのは病んでくる。閉じて、同じメンバーで延々とやっていると、だんだんと病んできて、だんだんとその教会が腐ってくる。だからやっぱり私たちは教会を開いて、新たな人々と共に歩まなければならない。 でも、出向いていく時には、やっぱりリスクがあって傷つくことは多々あるというんですよね。でも、その傷つくことを恐れていたら、やっぱり私たちは本当の教会にならない。彼が言うには、病んでいる教会よりも傷つく教会の方がずっと素晴らしいということを言われるんですよね。 結局、新しいものを受け入れるということは、いつかどこかでトラブルもあれば、うまくいかないことも当然ありますけれども、そこからやっぱり新たなものが生まれてくる。結局、アンティオキアの教会は本当にそれを体験してですね、この後、パウロとかペトロがいる時に、ヤコブの弟子が来て、もっと律法を守れと言ってですね、そのユダヤ人中心にもうちょっとしようとするところを、パウロがそれをすごく怒ってひっくり返ってですね。それで異邦人中心の教会になって、アンティオキアの教会が一つの中核の教会になっていくんですけど、その後の歴史から明らかですけど、結局ユダヤ人の信者は消えていくんですよ。ほとんどが異邦人の信者になって、教会はいわば発展していくというですね、歴史的には。もし、だからアンティオキアの教会とか異邦人を全く受け入れないままのユダヤ人だけの教会だったら、教会はもうないんですよね。なくなっていると思いますよ。 やはり異邦人の教会、ヨーロッパの人たち、ヨーロッパ人とかギリシャ人とか、ローマ人を受け入れていくことによって、教会がいわば発展していくということにつながるわけですよね。だから、このカナンの女とイエスの対話というのは、なかなかいろいろ考えさせられることが多いことじゃないかなと思います。 もちろん、様々な解釈があって、イエス様自身、人間イエスとしてもそうだったかもしれない。もともとイエス様もナザレで生まれた田舎育ちの人で、イエス様自身は、だからイエス様が福音を語った時には、ユダヤ人だけを対象にしようと思って、イエス様自身も思っていたかもしれないけれども、結局、異邦人の素晴らしい信仰を持っている人に出会いによって、イエス様自身の考えが徐々に変わった可能性もありますね。 だから、イエス様が本当に信仰を褒めているのは、カナンの女と百人隊長なんですよ。百人隊長はローマ人ですから、明らかに異邦人ですけど、かえって異邦人の信仰の方をイエス様はよくよく褒めておられる。それはもう、出会いの中でイエス様が築かれていくわけですよね。 そこからイエス様もどんどん考え方を変えていかれた可能性もあると思いますね。私たちは信仰だけじゃないですけど、生きていく中で違う人とか新たな人に出会うことによって、私たちが変えられていく。相手も変えられるけど、自分も変えられていく。 でも信仰の愛はそういうところで広がっていくっていう。 いつも同じメンバーとか、自分だけとかって言ったら、結局信仰が深まらないとか広がらないというか、いつも同じメンバーとだけ喋っていると、結局何か信仰がだんだんちっちゃくなっちゃう可能性もありますよね。でも、ちょっと違う人と出会って喋ったりするから、何か考えさせられたり、信仰の違う面を自分自身の信仰が深まっていくということも、やっぱりいろんな出会いがやはりあるからだということは言えるんじゃないかなというふうに思いますね。 だから、やっぱりちょっと心を開いて、いろんな人と、別に信仰だけの問題じゃないですけど、やっぱり関わっていこうとする中に、私たちの信仰の成長もあるし、私たちの愛の成長もあるし、人間としての成長もやはりあるのではないかというふうに思います。 さらに言うと、私たちがイエス様の側で考えることもあるけれど、私たちがこの女の人の立場になることもあるでしょう。これも娘さんが病気で本当に困っているわけですよね。だから、もう何かかんか言われても、本当に叫びながら、弟子たちにも冷たくされようが、イエス様に冷たくされようが、必死で自分の娘のために何とかしようというこの態度ですよね。 だけど、その態度をイエス様はあなたの信仰が立派だというふうに褒めているわけなんですね。私たちがこの女の人の立場で、やっぱり信仰を生きていくことも非常に大切なことじゃないかなと思いますね。こういうですね、しつこく願う人はヘブライ語で「ヌドニック」って言うんですけど、つまり厚かましいってことなんですけど、でも厚かましい人は聖書的にはかなり評価されている。 日常生活で厚かましい人いたら、もうみんなちょっともうなんかちょっとって感じになっちゃうこともありますけど。でも聖書の中では案外この厚かましい人が、何て言うんですか、それを神様が信仰として評価されてるっていうことですよね。傑作ですけど、イザヤの62章の6節に、そのヌドニックみたいな人を評価してるんですよね。 その、「神に思い起こさせる役目を役目があるものよと黙るな、叫び続けよ」、って書いてあるんですけど。だからやっぱり誰かがやっぱりこう祈って、神様に困難な状況であったとしてもですね、誰か願い続けたり、こうなんかそこで何かが変わってくることっていうのは、やっぱりあり得るんじゃないかなと思いますね。 ちょっと全然関係ない話ですけど。 カトリックは占いはしないように、占いはあまりしないようにと言われているんですけど。何かある雑誌かなんか読んだある有名でよく当たる占い師が言ってることなんですけど、この占いに来て何の占いか忘れましたけど、その人が言うんですが、全然当たらない人がいるって言うんですよね。だいたい4当たる人たちばっかりなんだけど、全然当たらない人が時々混じってると。だいたい全く当たらない人は何かを深く信仰している人ですよね。だから、ものすごい熱心な信者は全然占いが当たらないんですよね。最初からあなたなんか信じてますかって聞いてからやらないとダメだというふうに言っててですね。 まあ結局何か神様にもいろいろ計画があって、どうしようこうしようとか、一人一人の人生についても、社会全体についても、神様なりに計画があってこうしようと思っていると思うんですけど、時々ヌドニックな信者がいて、お祈りしたら神様の計画を変えちゃうっていう、なんかいい方に、なんかもうそんなにお祈りするんだったらこうしようかみたいな。 このイエス様みたいに計画も案外どんどんどんどん変わってしまう。 だから私たち、何て言うんですかね、こう必死になってお祈りしてですね、何か神様の心さえ変えてしまうぐらいの熱心にお祈りする人が、今の時代も必要とは思います。人間にね、あれですよ、障害者の人でも結局窓口とかなんとかなんとか、やっぱりいろいろ自己アピールの強い人はうまくいくんですよ。やっぱり泣き寝入りしてる人はうまくいかない。結局どんどんどんどん言っていけばいくほど、みんなそうかなということで、結局がらがらいろんなことが変わることというのはしょっちゅうあることですよね。 神様に対してだって同じですよね。私たちが本当に一生懸命願って、これだけは主よなんとかしてくださいと言ったら、ちょっと計画違うけど、じゃあ計画変更しようかって、神様もいいようにしてくださることもあるんじゃないかなと思いますね。 私たちはやっぱり神様との生きた関係の中に生きていますから、人との関わりにしても、神との関係にしても、やっぱり生きた、何て言うんですかね、やりとりの中にある。それをですね、このカナンの女、模範にしながら、私たちも生きた信仰を何か生きていけるようにですね、神様に恵みと力を願いましょう。
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マタイ福音書14章22-33節「恐れにとらわれない自由」
マタイ福音書14章22-33節「恐れにとらわれない自由」2026年8月9日年間第19主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 今日の福音では、嵐の湖を歩くイエス様と、恐れにとらわれて沈みかけるペトロの姿が描かれます。人生にも突然、足元を揺るがすような嵐が訪れます。しかしイエス様は「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と語りかけます。アウシュビッツで他者の身代わりとなったコルベ神父も、極限の状況の中でなお自由に愛を選びました。私たちもイエス様に信頼し、恐れや不安に振り回されず、自由な心で愛を選び、平和を築いていきたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書14章22-33節 22〔人々がパンを食べて満腹した後、〕イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。 恐れにとらわれない自由 今日のイエス様のお話です。マタイ24章ですが、非常に不思議なお話というか、イエス様がなさった奇跡の中で一番奇妙というか、何のためなのか、ちょっとよくわからないのが今日の福音だと思うのですが、水の上を歩いたイエス様がというですね、ちょっとあまりに特別すぎて、何かちょっとキョトンとしてしまうところではありますけどね。時々、マジシャンが空中浮揚する人が、セロだったか、なんかちょっと空中浮遊をするマジックをする人もいるんですけど、でも、何のためにイエスだけの話でなくてペテロも歩いたというのも、これもよくペトロの方は途中で恐ろしくなって遅れそうになっちゃったと言うんですよね。 あのイスラエルの巡礼が好きで、何年かに一回行くので、ガリラヤ湖はしょっちゅう眺めてますか。ガリラヤ湖を見つめながら、さすがにこの上をイエスが歩いたというのは、ちょっと信じられないなと。いつもその湖を見ながらですね、ガリラヤ湖というのは湖ですから、日頃は波もなく、非常に静かなんですけど、でも時々山から北風が吹いてくると、突然嵐のようなものになったりして、そういう湖ではあるんですけど、やはりユダヤ人にとってはですね、ユダヤ人は基本に、基本的には陸の民なんですよね。羊を飼ったり、野原で生活したりする方が何か基本的な生活なので、やっぱり海というのがあまりなじみのないものがあって、日本人とちょっと感覚がちょっと反対みたいなところ。日本人にとっては、海っていうのは何か恵みの源みたいなイメージで捉えているんですけど、でもユダヤ人にとっては海は逆で、何かどこか怖いものっていうか、得体の知れないようなものであるというですね。だからレビアタンという怪獣が海から出てきたり、あるいは何かクジラに飲み込まれたとか、そういう海に纏わるお話というのは、どちらかというとネガティブなものが多いんですよね。世の終わりには、黙示録の最後には海がなくなっちゃうっていうか、陸だけになっちゃうとかっていう描写になったりするんですが。 やはり私たちが実際日常生活の中で生きている中で、もちろん凪のような静かな海の上を船で渡っているような時もありますが、やはり日本人にとっても台風であったり、津波であったり、嵐であったり、それは結局、私たちの人生にも度々起こることであることは、それは自然現象的だけじゃなしに、私たちの日常生活のことを考えても、こう土の上をですね、土台のある上を歩いているつもりが、何かちょっと大きな不幸とか困難なことにぶち当たると、急に何か自分の支えがぐらぐらしてしまって、何か海の中に、嵐の中に飲み込まれてしまうような、そのような何か困難というか恐ろしさを感じることは、やはり度々あることでは度々か、時々はあることではないかなと思いますね。 この嵐の上を歩くイエス様のところは、確か記憶にある限り、コロナが始まった頃、フランシスコ教皇が実はこの箇所を取り上げてですね、「安心しなさい、私だ。恐れることはない」と。やはりそのメッセージを全世界のカトリック信者に投げかけて、心を鎮めるようにメッセージを呼びかけた箇所でもあるんですけれども、確かに私たちが問題なのは、実際は様々なことに恐れてですね、溺れそうになったり、方向性が分からなくなってしまう。その時にイエス様は全くそういうものに振り回されず、嵐の海の上を歩いておられる。イエス様、何かそれはなんか空中浮揚している奇妙な姿というよりは、やはりイエス様は神様という土台に足を置いて、その土台の上に生きて、確固たる土台の上に生きておられるから、この嵐とか困難とかに全く振り回されない。そのようなイエス様の姿が、イエス様の力強い姿が描かれているのではないかと思いますね。 実際のところ、私たち自身が歩んでいく中で、やはり確固たるものに自分の土台を置いて生きていることができるならば、私たちは恐れや不安にとらわれる、とらわれないで、自分の歩みをしっかり歩んでいくことができるのではないかというふうに思います。 結局、やはり戦争があったり、今日は平和のために祈りを捧げているわけですけど、なぜ戦争や争いが起こるかといったら、それはやはり人間が恐れに囚われているからでしょう。恐れに囚われて、自分の心に不安や憎しみが湧いてくる時に、やっぱり戦争になる。結局、社会を、この世界を嵐の中に巻き込んでいるのは、やっぱり恐れに囚われているところから。不安に囚われて、そこからグラグラ。自然災害も同じですけど、そういうものがあった時にやっぱり右往左往してしまうところから、私たちの生き方の根本が崩されてしまう。その時に私たちはやはり溺れてしまうような気持ちになるだろうと思います。 その時にこそ、イエス様が安心しなさい、私だ、恐れるなと、私がいるから大丈夫だと言ってくださっているイエスの言葉に、自分のこの信仰の基盤を置けるかどうか、そこに置いた時に、ペトロのように私たちも振り回されないで、嵐の海の上を歩いていくことができる。 でも結局、ペトロが何で沈んだのかと言ったら、強い風に気がついて恐ろしくなったからダメになったんですよね。恐ろしさとか不安に囚われたから、そこから沈みそうになってしまったというわけですよね。私たちは度々沈みそうなことが色々ありますけれども、恐れや不安に囚われず、やはりイエスと共に確固たる基盤の上に自由な心で歩んでいけることができるか。それが私たちに一番問われていることではないかなと思います。 この8月の暑い真ん中ぐらいになると、今週の後半ぐらいになるんですが、コルベ神父さんのことを思い出すんですよね。聖マキシミリアノマリアコルベというですね、ご存知の方も多いと思いますけど、ポーランド人で聖母の騎士コンベンツアル聖フランシスコ修道会で、日本にも長崎に選挙に来られてたんですけれど。第2次世界大戦の時にナチスの侵攻があって、ポーランドも大変なので、彼は後に戻るんですけど、その時にユダヤ人だけじゃなしに、結局カトリックの人もナチスに捕まってですね、彼はやっぱり影響力があったから捕まったんだと思いますけど、アウシュビッツの強制収容所に送られるわけなんですよね。 アウシュビッツの収容所では一人の脱走する囚人がいたら、代わりに10人の囚人を殺すという規則があったんですよね。実際、一人のユダヤ人が脱走してしたんですよね。それでその報復として10人の人を殺すとナチスの方が決めて。囚人を集めて並ばせて、適当にお前も前も前と言って10人を選ぶわけですけど、10人目の男性はその選ばれた時に泣き崩れてですね、自分には奥さんも子供があって、自分は死ねないということを泣きながら訴えたら、そしたら別のところにいた一人の男性が前に出てきて、コルベ神父さんなんですよね。自分はカトリックの神父で、子供も奥さんもいないから、自分が代わりになるということを言って、それをナチスの将校が認めて、結局その最後の男性の身代わりに彼が、死刑を受ける側に立って、結局餓死させられたんですよね、10人で。でも最後の最後まで、実はコルベ神父さんが生き残って最後までのわけですけど。残りの9人を最後まで励ましながら、最後まで神様を賛美しながら亡くなったということなんですよね。 ご存知の方も多いと思います。愛の殉教者として非常に有名な方なんですが、個人的に僕のことを思うと、愛ということもそうなんですが、愛以上に振り回されない自由さっていうか、その彼を縛っているものが実は何もないというのが実際一番驚くことではありますね。 私たちはいろいろ不自由だと思うじゃないですか。この、なんかもう、何でこんなことになってとか、もうこんな誰かの面倒を見なきゃならないとか、何とかかんとか、いろいろ。でも、世界で一番不自由なところは、どう考えたってアウシュビッツの収容所が世界で一番不自由で、一番人間性がが剥奪されているところだと思うんですけど、そこにおいても、コルベ神父さんの自由な生き方というのは全く変わらないっていうかですね、自分で決断して、自分の命を他人のために捧げる。 全くその、まあ、アウシュビッツ、そして第2次世界大戦の混乱期といったら全くの不自由で、みんな恐れと不安と絶望の中で、その嵐の中にみんな巻き込まれていた。迫害する側も迫害される側も。でもコルベ神父さんは全くその外的な状況に振り回されたら、彼の自由が全く奪われていない。 僕はやっぱり、コルベ神父様の自由な態度の方が、逆に感動的っていうか、彼を縛るものは何もなかったから、彼こそ嵐の湖の上を歩いていたってことなんですよね。自分が思うように自分の命を捧げて、人のために。それが最高の私たちのクリスチャンの生き方の一つのであろうと思いますね。 平和がないとか、争いがあるとか、あるいは災害があるとか、様々なことがありますけれども、様々な嵐が私たちの中にいつでも突然やってきますけれども、でも、私たちクリスチャンであるということは、それに振り回されない自由が与えられている。イエス様が共にいるから、私たちは恐れずに、主体的に愛の心を持って歩んでいく。その恵みが与えられているというところは素晴らしいと思いますね。 私たちはペトロのようにもうすぐ溺れそうになる。その繰り返しではもちろんあるんですが、でもだからこそ私たちはイエス様に信頼して、周りに振り回されず、本当の自由と本当の愛の心を聞きながら、本当の意味で自分たちの周りに平和を築いていくことができるように、本当の神様の国、神の生き方を生きていくことができるようにですね、互いのために祈り合いましょう。 そして今、紛争の地域、あるいは被災している地域にこそ、この自由と愛が与えられるようにですね、心を合わせて祈りを捧げたいと思います。
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マタイ福音書14章3-21節「食事から広がる神の国」
マタイ福音書14章3-21節「食事から広がる神の国」2026年8月2日年間第18主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ パンの増加の奇跡は、飢えを満たすだけの出来事ではありません。イエス様は、わずかなパンと魚を分かち合い、人々が共に食べる場をつくられました。食事は見知らぬ者同士を結び、交わりや助け合いを育てます。災害時の炊き出しや子ども食堂も、食べることから人を支える働きです。私たちも自分の持つ乏しいものを差し出し、共に食べることを通して、神の国のつながりを広げていきたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書14章3-21節 イエスは〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。 食事から広がる神の国 今日の福音書はマタイの14章、いわゆるパンの増加の奇跡と呼ばれるものですね。イエス様が人里離れたところに行ったのですけれども、そこに人々が集まってきて、大勢の群衆が集まって来たので、イエス様は非常に深く憐れんで、病人を癒しただけではなくて、そこでいろいろなお話を群衆たちにされたんだろうと思います。そして、時間もだいぶ経ったし、夕方なので弟子たちが心配して、周りにはお店とか何とかないので、とにかく群衆を解散させて、近くの村まで行って食べるようにしてくださいというわけですが、イエス様はここで突然びっくりするようなことを言われて。 行かせることはないと。あなた方が彼らに食べるものを与えようと言ってですね。でも、パン5つと魚2匹しかないと。それをわかちあったって大したものではない。でも、イエス様がその5つのパンと2匹の魚を取って、祈りを唱えて、それをどんどん増やしてですね。それで弟子たちがその人々にこのパンを分け与えて、みんなが満腹したという、まあなんかちょっとほのぼのするようなお話だというふうに思います。 まあ、このお腹が空いてて、このパンを食べるっていうかですね、魚もそうですけど、やっぱりこう食べるということは、何て言うんですか。やっぱり一番ベーシックな人助けというか、一番大切なことだなと。それをイエス様がされたということは非常に意義深いというか、何か心にしみるような形になると思います。 今はちょうど熊本の震災の後で、後で、今回真夏なので水とかいろいろな心配がいろいろありますけれど、結局そういう被災者の支援活動もそろそろテレビに出てきてますよ。炊き出しとか、やっぱりベーシックな、食べる、食べることからまず援助するというのは、何かもう、ごく基本の基本という、人助けの一番基本だと思いますね。 だから、野宿者やホームレス支援の基本もやっぱり炊き出しなんですよね。それで、今ちょっと地方では非常に減ってきて、都会でも少し減りましたけど、それでもやはり一番ベーシックな支援というのは、やっぱりご飯を食べてもらう手伝いをするというか、そして今も関わっている方がおられると思うんですけど、今、全国である子ども食堂もそうですよね。もうその、今や日本の中でも貧困率が高くて、満足にご飯を食べれない子どもたちもいるので、全国で子ども食堂をやってですね、まず食べることからスタートするということですから、イエス様がこの飢えている人に食べさせるところから奇跡を行って、その恵みを示されたということは、私たちにとって大きな励みにも、あるいは刺激にもなるし、何か私たちに与えられている課題でもあるというふうに思いますね。 食べるということは、単に飢えを満たすだけじゃなしに、それをとおして私たちに、何て言うんですかね、さらなる恵みというか、それを与えてくださっているような気がするんですよね。この教会でも皆さんご存知ですが、普通の日曜日のミサの後は、ちょっとみんなでコーヒーを飲んだり、あるいは最近は月に一回、外国人の人とやっぱりミサを一緒にするから、ミサだけだったら何だからって、一緒にご飯も食べたりしていますけれども、やっぱりそれが何かこう、ただ単にに食べたり飲んだりじゃなくて、やっぱり互いの交流というか、交わりのために非常に意味があるというふうに思いますね。 ここに東京から時々友達が来たり、あるいは全然知らないアジアからの観光客の方もよく来られて、シンガポールや香港からとかですね、見慣れない顔だなと思ったら、外国人で巡礼に来て、巡礼にこの辺、観光と巡礼ができたっていう、大体二人とか一人とか、そういう方は多いんですけど。でもそのミサの後一緒にコーヒーどうぞどうぞとか、食事どうぞどうぞって遠慮される方もいるけれど、でも東京から来た人もアジアから来た人も、えーとか、一緒にご飯を食べてるんですかとか、一緒にコーヒーを飲んでいるんですか、と、実は驚かれることが実は結構あって、それもすごく逆に不思議な気が。何かなんか友達同士であろうが、初めて来た人であろうが、何となく席について何かおしゃべりして、それだけで繋がりがあるっていう何かそれが私たちにとって非常に大事なことじゃないかなというふうにも思いますね。日本の教会でこういうことをやってるのは少なくはないけど、全部ではない。特に都会の教会だとですね、この教会もそういう方はもちろんと思うんですけど、ミサに来てすぐ帰っちゃって、誰とも交わらない人はいっぱいいるんですよ。だから、それでもなんぼ何でも寂しいからといって、このコーヒーコーナーとか、なんかちょっとやって交わる機会を作ろうとしている教会も見受けられるんですけどね。 やっぱりそれはイエス様が何か病気をいやされたり、あるいは心の糧になるお話をされて、じゃあそれで解散ということになったら、みんなそれでバラバラと帰っていくだけだったと思うんですけど、そこでイエス様がパンを増やされて、この何人か組にして、もちろん仲良しこよしてきている人もいれば、全然遠くから来てる人もいて、そこで一緒に何かこうパンと魚、ご飯を食べることによって、お互いの交わりというかですね、何かイエス様はそういうことを一番考えてたんじゃないかなというふうに、最近はちょっと思うようになってきたんですよね。イエス様のいいお話を聞いて、解散と言ったら、もうじゃあこれでって感じでね。みんなバラバラで、友達同士で近くのところに行って、それだけだったと思いますけれど、ここで一緒に食べるってことになったら、全然知らない人も共に隣に座っててって。イエス様ってすごいですよねとか、このあれはさっきのイエス様のあの言葉は一体どういうことですかみたいな感じで何となくお話をしたり、どこから来たんですかって言ったら、ユダヤユダの方から来ましたと言ったら、じゃあ、じゃあ今度そっちに来たら泊まりに来てくださいとかなんとか、そういうなんていうのかな、一緒にご飯を食べるから何とも言えないつながりがたくさんいるけど、全部が全部つながったわけじゃないんでしょうけど。でもそれでもお互いのつながりと助け合いの兆しみたいなのを、イエス様がわざと何かこの奇跡を通してみんなに投げたっていうんですかね。だから、食べるということは、一番ベーシックな、人のニーズに応えているけれど、それを通して私たちが互いに交わったり、支えたり、繋がったりできる、そういうこともイエス様が望んでおられる。 そういうところに、このイエス様の望んでいるこの神の国の広がり、そういうものがあるんじゃないかなとですね。それはいろんな形で教会の方も実践されているし、いろんな今やボランティアとか様々なことで、こういう食をとおしてつながっていく、そういうことが私たちにとって大切なことではないかなというふうに思います。 私、この前、五島にちょっと巡礼方々、ちょっと用があって行って、向こうの信者さんと喋ってて、ちょっと連れて行ってもらって、もう多分昔はもうちょっと人がいたんですけど、今過疎なんですよね。だから、五島の端っこの方に仲知教会というのがあって、前田枢機卿の実家がそこですとかなんとかって言われて、ちょっとさらに奥に行ったら。米山教会で一番端なんですけど、白浜司教さんの実家がそこですっていうんですよね。えーとか、じゃあそこに行こうかと思ったら、もうちょっと人が住んでないんですよ。だからこの道からその、その家に行くところまでが藪で、道が通れないんですよね。しかもその家も木に囲まれちゃって、屋根すらも見えなくて、結局入れなかったんですけど、ちょっと前まで行けたっていうんですが、ともかくそういうものすごい田舎の、今はちょっと過疎化ですけど、若い、そのまだ一昔前の教会が元気だった時の話をされてて。ご飯作る時にどうするかって言ったら、必ず多めに作るって。ですよね。家族の人数以上に必ず作ると。何でかと言ったら、みんな遊んでたりするから、ちょっとご飯時になった時に、ちょっとご飯食べて、ご飯食べて、ご飯食べて行かんかねみたいな感じで言って。だからだいたい食事は誰かが混じって食べてるから、必ず多めにやっぱり作るっていう。やっぱりそうやって食事が共にするっていうのが。繋がりがある証拠みたいなですね。なんかそういうのがあるなと思って。さらに驚いたのは。鍵かけてなかった。誰も自分の家に全く鍵をかける習慣が全くなかったって言うんですよね。それを聞いて驚いて、泥棒が入らないんですかそんなことしたらどういったんですよね。そしたら泥棒も入るって言うんですよね。しかもそれは小さな町だから、誰が盗んだかもわかってるって言うんですよね。とか言って、警察にそれを訴えないんですかって言ったら、いや、そのお父さんはこの子も将来があるんねとか言って、結局誰も警察に訴えないって言うんですよね。相当盗られたって言うんですよね。だからなんか食べ物の分かち合いどころか、もうそのお金もなんかなんかそんなに自分のものだった気持ちもなくて、なんか分かち合ってるって言うんですよね。しかもさらに言ってましたけど、その頃盗み癖のあった誰か分かってて、みんな分かってるわけですよ。でもそれがどんどん大きくなって、結局みんなおかしくなっちゃって。今はもう非常に不遇な形の、もちろん村にもいないし。だから、やっぱり神様はみとるけんねー、みたいな。言っておられましたけど。 ともかくやっぱりね、なんかこう、今はね、多分五島にもそんなことはないし、人も減ってしまったし、時代も変わりましたけど、やっぱり私たちは、ご飯を分かち合うというか。少なくともなんか一緒に食べながら。なんかそういうことの中で大切なものが養われていく。そのためにイエス様はこの奇跡をわざわざ私たちに残してくださった。 ミサのことももちろんありますが、ミサ、プラスやっぱり何か分かち合いながら、私たちが歩んでいけるように、自分の持っている乏しいものをちょっと分かち合う、その中で互いが豊かにつながっていける、そんなことを私たちがですね、小さな形で目指していけるように、神様に恵みと力ですね、慰めを願いたいと思います。
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【ミサ説教】マタイ福音書13章24-43節「自分の闇とともに」
マタイ福音書13章24-43節「自分の闇とともに」2026年7月19日年間第16主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ イエス様は、畑の麦と毒麦を刈り入れまで共に育てるよう語られます。私たちの内にも光と闇があり、弱さや欠点は簡単には消えません。『ゲド戦記』のゲドが自分の影と向き合ったように、ユングのいう「統合」とは、闇を無理に消すことでも正当化することでもなく、その存在を意識して受け止めることです。光が強い人ほど深い影を持ちます。影に振り回されず、光と影を抱えて生きることが、魂の成長につながるのだと思います。 福音朗読 マタイ福音書13章24-43節 24〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 31イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」33また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 34イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。35それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「わたしは口を開いてたとえを用い、 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」 36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」 自分の闇とともに マタイの13章はこの神の国ですね。天の国、神の国のたとえ話をイエス様がいろいろされるものですね。このお話も非常にたとえとして考えさせられるものですけれども。この畑に良い種を蒔いたはずなのに、この麦もですね、育ってしまって、畑の中にこの麦と毒麦が混ざって育つような形になってしまう。でもその小さい時と言うか、出たばかりは、どっちがどちらが麦でどちらがどこもいいか分からないので、やっぱりある程度育ててですね。で、刈り入れる時まで、両方とも育つままにしておきなさいということを言うわけですね。 神の国のたとえ話なんですけど、神の国では麦と毒麦が混ざっているというですね、非常に不思議な感じもしますね。神の国なんだから麦だけだろうと思うんですけど。だからこれはもう神の国のたとえ話なのか、この世界のたとえ話、私たち地球上の話なのかというふうにも思えます。実際、まあ確かなことはですね、それは私たちが生きている世の中ということになりますが、やはりこの麦と毒麦が混ざってて、しかも何が毒麦なのかよく分からないということですよね。 これは本当に何かその通りだなというふうに思います。若い時はですね、こうやっぱり自分の悪い部分を直そうとするか、無くそうとするか、まあ良い部分を一生懸命もちろん伸ばすわけですが、なるべく悪いところをなくすとか、変えようと思うんですけど。でも案外変わらないって言うんですかね、この人間の性格にしても何にしても、実際ほとんど変わらないというか。一生懸命頑張っても、そんなに何か若い時と年取ってもですね、その人の弱さとか欠点とか、まあなんかほとんど変わらない気もするんですよね。それを結局どうしていくかということになるかもしれない。 あの、ファンタジー小説ですかね。この少年少女向けのファンタジー小説でゲド戦記というのがあって、多分魔法使いの話なんですけど、ゲド戦記が多分僕はそういう子供向けのファンタジー小説では多分一番いいんじゃないかと。個人的にはいろいろいろいろあるんですが、ハリーポッターが出るもっと前の話で、ゲドというですね、その名前の人が魔法使いに成長していって、それで魔法使いとして活躍していく話なんですね。 本編だけで4巻があって、そのほかの話はたまたまいっぱいあってですね。40年がかりで書かれた小説なんですけど、その1巻の話なんですが、ゲドが優秀な魔法使いになって成長して大人になっていくんですけど、まあ完全に空想の世界で、アースシーという架空の世界で魔法使いが活躍する話なんですが、その中でゲドがですね、大きな竜を倒したり、あるいは目覚ましい戦いをするんですが、彼に付きまとってくる最強の敵を彼はどうしても倒すことができない。しかもその敵がごく近くにいるんだけれども、どうしても相手の正体がよくわからないし、それと戦う術が結局なかなか見つからない。そういう話に彼はだんだん追い込まれてきてですね。それでどうなるかといったら、まず敵と戦わなきゃならないし、敵が何なのかをはっきり見なきゃならないので、結局世界のアースシーという、この世界の最端のところまで行ってですね、そこでとうとう彼と敵と直面するんですけど、敵がその最強の敵が誰かといったら、実は自分だったっていうですね、自分の影のようなものだったという。そこで最終的に彼は自分自身と対面して、それをやっつけるか戦うか、ちょっと象徴的な場面でそれで彼はその自分の中のネガティブな自分をいわば統合する形でそれで彼は1人前の魔法使いになってですね。それから彼はこの、まあ2巻以降で大活躍するという話になるなるんですけど。 この麦と毒麦のことを考えたら、そのユングのですね、ユングがよく言う話なんですが、人間には光と影がある。光と影を両方持っているっていうユングの考え方の一つは、自分の影の部分を最終的に統合することができるかどうかが、人間の魂の成長の最も大事なことなんだというんですよね。そこからゲドの第1巻はユングのユング心理学から分析されていて、自分のもう一人のダークな十分影の自分をどう統合するのかということが一つの課題だと思うんですけど、でも実際上いろいろな例を見て思うんですけど、やっぱりなかなか統合ができないどころか、歳をとればとるほど影が大きくなってくるような感じもしない。 影ってどういうものかといったら、神さまには影がないんですよ。太陽だから。その全部に光を放っているから影がないんですけど、人間はいわば地球とか月みたいなもんだから、太陽の光を受けたら半分は光ってるけど、半分は夜っていうか影になっている。だから人間の人格っていうのは半分光で半分影だというんですよね。 そこからこの影の重要性ということなんですが、この多分私たちが、それは若い頃だけじゃなしに、結局いくつになってもそうだと思うんですが、自分の影をどう意識して、つまり光がある以上、影があってですね、その光だけで生きていくことは人間にできない。あるいは影だけで生きている人もいないわけですけど、じゃあ私たちは光を受けながら、影の部分にどう振り回されないで生きていくかという、あるいはそれとどう対話しながらとかですね、それを受け止めながら生きていけるかというところに、やっぱり私たちの一番生きていく上での内面的なことで言えば、一番大事なポイントがあると言えるでしょう。 いろんな有名な方を見ても、その影の部分の統合に失敗する人もいれば、うまくいく人もいる。今はもうほとんど名前聞かれなくなりますとですね、ジャン・バニエというフランス系カナダ人がラルシュ共同体というハンディキャップのある人と、健常者とともに住む共同体を作って、ラルシュ共同体、世界で100以上あるんですが、そのようなものを作って、しかもそういうハンディのある人の霊性というか素晴らしさを発見するとですね、生きている時にはキリスト教の3大カリスマと言われるぐらい。僕も実際彼の黙想会に出たことがあって、本当に素晴らしいものだったんですけど、当時はマザーテレサ、ブラザー、ロジェとジャンルがキリストの3大カリスマ世界に影響を与えていると言われて。でも彼が亡くなったとか、亡くなった後からですね、彼が深刻なセクシャルハラスメントをしているってことが公になってですね。まあそれもまたひどいひどいハラスメントを生きてる間ずっと行ってて、被害者の女性が10何人だったかな、10人以上おられることがわかってですね、彼の権威が失墜して。僕はもう亡くなる時には彼は福者になると思ってたんですよ。列福されるぐらい立派な人だと思ってたんですけど。でも亡くなった途端、彼のダークなサイドが明らかになってですね、ラルシュ共同体がそのハラスメントの調査報告出して、100ページぐらいの報告書を出して、僕全部読んだんですけど、なぜそうなったかといういろんな分析とかすべてなされて、彼の名前はもうちょっとキリスト教の世界から消し去られてしまった人なんですが、その典型的に陰の統合に失敗した人ですね。光の部分は素晴らしい。彼によって救われて、インスピレーションをもらったと。世界中で山のようにいますけれども、でも残念ながら陰の部分を統合できなかったから、ものすごい大きな被害と苦しみも実は与えていたということですよね。だから、光が強い人ほど影が深いということですね。 だから、私たちは光をもらっている以上、自分の影を受け止めていけるかどうかということですね。まあ、その人と並び称されたマザーテレサの影が何だったのか。彼女が亡くなってから影の部分も実ははっきりしたんですよね。それも想像を絶していますけど、50年間、神の愛を全く感じていなかったってことが、実はこれも明らかになってですね。その彼女が霊的指導者に書いた手紙とか残ってるんですが、苦しみを切々と、自分の苦しみをこう書いて送っている手紙とかが後から出てきてですね、50年間、彼女の表側は貧しい人に奉仕して、彼女と会っただけで、神の愛が溢れるぐらい、彼女を通して多くの神の愛が人々に伝わったんですよね。しかも貧しい人々に対する奉仕の心。それはどう考えたって素晴らしい。 でも、彼女の影は何だったかというと、50年間、神の愛を感じて、神の愛を生きていたんですが、彼女自身、50年間、神の愛を全く感じていなかったという恐ろしい影があって、でも彼女はそれをしっかり受け止めながら生き抜いたからこそ、聖人にふさわしい生き方をされたということなんですよね。 まあ、あの聖なる人でも、聖なる人じゃなくても、多くの人はそういう人によりますけど、光が強い人ほど深刻な影を受け止めて生きておられるわけなんですよね。それをですね、私たちが受け止めきれるかどうか。それに、少なくともそれに気づいて振り回されないで、それとともに生きていけるかどうかということですよね。 影というのは、一人の人によって全く内面的なこともあれば、性格的な欠点ということもあるかもしれないし、まあいろんな自分が生きていく上で非常に難しいこと、あるいはものすごく嫌な人と一緒に暮らさなければならない。それも影だと思いますけれども、いろいろユングがいろんな分析を、陰の分析しているんですが、ともかくやはり麦のあるところには毒麦があるっていう、このシンプルな事実ですね。 それを私たちが受け止めて、もちろん何か変えられるところがあれば変えた方がいいですけど、でもやっぱり性格的なこととか、一緒に暮らしている家族とか、ほとんど変えられないものの方が、そこが影になるわけですよね。それを私たちはどれだけ受け止めて、影に振り回されず、やっぱり自分の光の部分を生かしていけるかどうかということが、やっぱり私たちの生活で最も大事なことではないかと思いますね。 人の影はよく分かるけれども、人の欠点はよく分かりますけどね。付き合ってたらだいたい分かるはないですか。それにどうこうということもちろんありますが、でもそれ以上に、やっぱり自分の中の影をどれだけしっかり受け止めて、それが罪として現れてくるなら、やっぱり赦しの秘跡を受けたり、神に赦しを願いながらかなきゃならないこともありますし。忍耐とか我慢しないとならないこともあるでしょうし、それとどう光の部分とともに、影の部分とどう共に歩んでいけるのか。 年を取って死が近づけば近づくほど、影が大きくなる人もいっぱいいますね。もっと強くなって、もっとそれに振り回されていく人も何人も目撃していますが、まあ、それも含めて人間ですけどね。私たちが光と影の中に生きている。そして私たちがその中で振り回されることもあるし、強い喜びや愛を感じることもある。 その中で、私たちがしっかりと振り回されず、本当の道をですね、一歩ずつ歩んでいけるように、自分自身、お互いのために祈りを捧げたいと思います。
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【ミサ説教】マタイ福音書13章1-23節「実りを神に委ねて、種を蒔き続ける」
マタイ福音書13章1-23節「実りを神に委ねて、種を蒔き続ける」2026年7月12日年間第15主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 種を蒔く人は、良い土地を選ばず、道端や石地、茨の中にも種を蒔きます。そこに、実りそうな人だけを選ばず、誰にでも御言葉を届ける神様の憐れみを感じます。私自身、信仰に至るまで十年かかりました。目に見える成果がなくても、何が実りとなるかは人間には分かりません。実らせるのは神様です。効率や結果にとらわれず、神様の御心に合わせ、私たちにできることを忍耐強く続けたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書13章1-23節 1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」 10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」 18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」 実りを神に委ねて、種を蒔き続ける マタイの13章ですが、ここも一つの説教集になっていて、神の国、天の国の譬え話がいろいろ集まっているものですね。その中でもやはりこのたとえ話が一番有名な話だと思います。農夫が種をまくんですが、この道端に落ちたり、石だらけの所に落ちたり、あるいは茨の間に落ちた種は当然実らなかったり、すぐ枯れてしまったりですね。まあ実らないですけど、良い土地に落ちたものは多くの実を結ぶというですね。というたとえ話です。その解釈は後から出て出てきて、それも意見があって、この解釈は初代教会の解釈じゃないかとか、いろいろ説もあるんですが、ともかく有名なたとえ話です。 この譬え話を読んで一番奇妙に思うことは、私が何なのかというと、この農夫っていうか、この種を蒔く人のどうやったらいいのか、いい加減さっていうんですかね、日本の農業をやる人、こんなことを絶対しないと思いますけど。つまり、良い土地にしか種をまくないと思うんですね。 種は昔も今も貴重なもんですから。それが道端に落ちたり、石だらけの土の少ないところに落ちたりですね。あるいは茨に落ちるということは、日本の農業から考えたらまず考えられないんじゃないかなとは思います。まあ、昔の農業は、パレスチナ地方の農業はそういうアバウトなところがあったのかもしれないですが、実際ですね、これはもちろんたとえ話で、個人的に思うのは、この良い土地に落ちて実を結ぶというより、良い土地でないところにわざと神様が種をまいているんですかね。あまり実らないところにすら、神様が神様の話ですよね。種を蒔いているというところの方が不思議だというか、意味があるというかですね。 農業だったらそれはもう当たり前に良い土地にしかまかないのは当たり前の話ですが、これはもちろん農業の話をしているわけではなくて、神様の憐れみの心、イエス様の輪の心を語っているわけですが、良い土地じゃないところにも、わざと神様は種を蒔いている。その神様のやり方の方が実は何か感動的なんですね。 だから区別をしてないわけですよね。私たち人間のできのさそうな人たちだけに撒いて、この実を結んで、出来の悪い悪い人にはもともと種もまかないっていうか、ちょっと無理だからっていう、そういう区別をしてですね、なんかエリート教育みたいなことを神は関してないってこと。誰にでも、あるいは何か実らなさそうなところにも、わざと無駄に見えるところにもですね、神様が種を蒔いておられるか。それがですね、何か素晴らしいなと。このたとえで個人的に一番感動するのは、実はそこなんですよね。 特に今はご存知のように、タイパとかコスパとか、いかにこのコストパフォーマンスが大事だから、良い土地にとにかくどれぐらい実りたくさん結んで、それ以外のロスを減らすかみたいな。なんかもう世知辛く物事を考えている時代に、もうこの話なんか絶対成り立たないということですよね。 でも神様は本当にこう、コストパフォーマンスも関係なしに、無駄遣いだと思っているところにまでも種を蒔いてくださる。実らないかもしれない。もしかしたらそこだって実るかもしれないというですね、神の憐れみの心がやはり素晴らしいと思いますね。 個人的に自分のことを振り返ってみても、家はもともと仏教徒で全く関係ないんですけれども、小学校4年生ぐらいの頃に、その近くの友達に誘われて、キリスト教の教会の礼拝に行ったのが初めてなんですけど、もちろんそれも長続きせず、でも結局、まあめぐり合わせですけど、中学、高校、大学とミッションスクールで、ある意味いっぱい種も蒔かれたんですが、全く興味が、興味がなかったわけではないけど、結局全然ピンと来ず。洗礼を受けたのが大学2年生なので、10年ぐらいかかってるんですよね。 この10年間は全然良い土地じゃなかったのに、やっぱりなんか神様がいろんな形で負け続けてくれたから、結局あるタイミングでやっとこの突然ですね、洗礼を受けたので、10年かかっているっていう。 だからもうほとんどピンとこない。神父さんの話聞いてもですね、なんかあんまり10年間続いて全然良い土地でもなんでもなかったのに。でも結局なんか最終的に神父さんとかになっちゃってるわけですから。神様が能率効率を考えてたら、多分信者になってなかったと思います。 つまり、一見良い土地じゃ見えないところにも神様が蒔き続けてくれてるから、やっぱりそのタイミングと時と、そこで実りがある。なんかね、それがやっぱり神様のやり方の基本じゃないかなというふうに思いますね。 それで私が信者になって、1990年代神父になった後から、いわゆるバブルの崩壊とほぼオウム真理教の事件があって、宗教離れが進んでいる時に神父になってるんですよね。だから、日本の教会が衰退していく中で、失われた30年とか、日本の教会もそこからだんだん力をなくしているわけですけれども。だからなんか今の日本の社会全体がすでにもう実らない土地みたいなこと感じがしないでもないですけど、個人的に今までの神父さんの働きの中で、全部が全部失敗だと気持ちはないですけど、あるところはもちろんうまく行ったり、実りもある分野もありますが、自分の仕事でやっぱり実ったなと思うのは、実際は3割ぐらいで、7割ぐらいは何か全然実りがなかったなというのが個人的な実感では実際あるんですけれども。だから思いますけど、今の神父さんたちで実はかわいそうだなと思って。つまり、神父さんで働いていて、ほとんど実りがないんですよ、実際のところはですね。だから実りがない中で種を蒔き続けるっていう、その神様の心にどれだけ気持ちを合わせられるかということの方が今は大事だと思いますね。 今、明らかに今の日本の教会で実りがあるのは外国人のグループですよね。ベトナム人のグループとか、そこは明らかに実りがいっぱいありますが、他はほぼ何もないって言ったらまた悪いけどあんまりないんですけど。だから今の日本で働いている人たちは本当にね、なんか逆にかわいそうって言ったらあれだけど、虚しさと挫折感の戦いの中で私たちは活動しているというのが、僕は実際現実だと思いますね。 一人出会ったインド人のシスターですけど、ちょっと前ですけど、日本に来て10年ぐらい彼女が嘆いてたんですよ。日本には何にも実らない。インドだったら、ちょっと集まりをしたら若者がいっぱい来て、ものすごく何をやってもこういろんなですね、成功するっていうか、人がいっぱい来て、やりがいもある。で、そのインド人のシスターが日本に来て10年と。何にも実らないと言ってですね、そのシスター結局国に帰っちゃいました。本当に実らないんですよね、いろんなことが。今の日本の教会は。 でもその中でも、この神様の心に合わせて種を蒔き続けられる。それが一番大事なことじゃないかなと思います。別にそれは教会だけじゃなしに、皆さんのしてるお仕事とか、いろんな関わりとかの中で、もう何かこうね、なんでこれだけ実りがないんだろうと。あるいは結果が伴わないと思う仕事とか関わりとか分からない誰かの世話をするとかですね。実際、実りのないことの方が現実的には多いじゃないかと思いますが、でもやっぱり私たちはどこかでそれがやっぱり実ることがあるかもしれない。 実際それも分からないんですよね。何が実りかすら分からなくて、私たちが無駄だ、無駄に働いていると思っていることが、実は神の目から見たら大きな実りが実は隠されているということもあり得ますし、だから本当に神様の御心っていうか、私たちは目に見えることで、そのコスパタイプだったか何かね、今の会社も全部株価がどうのこうのとか、短期的に目に見える成果で評価する時代ですから、長期的な投資とかもできないじゃないですか。 でも、私たちが見ているのは、何かこう、短期的にうまくいくかじゃないと思うんですよ。やっぱり何か神様の子だと思って工夫しながら、やっぱり種をまいたり、育てたり、水をやったりとか、様々なことをしながら、でも実る実らないは神様のお恵みの世界ですから、私たちができることをどれだけ忠実に、場合によっては忍耐強くしていくことができるか。仕事にしても、福音宣教にしても、いろいろな活動にしてもですね、そのようなことがすごく大事じゃないかなと思いますね。 種をまかれるのも本当は神様ですし、その実りを実らせるのも神の業ですから。それに、私たちは心を合わせていきたいと思います。 今日の第1朗読が本当に素晴らしい。イザヤの55章ですが、私の口から出る言葉はむなしく、私の元に戻らないと、私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たすと。神様が決めたことは絶対行うと。まいた種は絶対神様が実らせるというふうにですね、こっちではもうはっきり言っておられる。 神様の計画は必ず実現するし、必ず実りをもたらすという、はっきりおっしゃっている箇所で、非常に勇気づけられる箇所ではあるんですよね。 この55章の続きでは何があるかといったら、あなたの道と私の道は違うっていうんですよね。人間的にこうだと思ったけど、神の道は全然違うと。 神様はこうやりますみたいなことが55章ははっきり書かれている箇所なんですが、その神様の大きな計画と神様の大きな実行力、その全貌は私たち見えないですけど、私たちにできる小さなことを果たしながら、やはり実農は神様に任せて、私たちができることを忠実に果たしていくことができるように、神様に恵みを、豊かな恵みを願いたいと思います。
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【ミサ説教】マタイ福音書11章25-30節「重荷をイエス様と共に」
マタイ福音書11章25-30節「重荷をイエス様と共に」2026年7月5日年間第14主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、私のもとに来なさい」と招いてくださいます。人間的な知恵や計らいだけで行き詰まる時、幼子のような素直な心で神様に向かうなら、魂の安らぎが与えられます。重荷そのものが消えなくても、イエス様と共に担うことで荷は軽くなり、歩むべき道も示されます。私たちも神様への信頼と祈りを保ち、必要な力と勇気をいただきたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書11章25-30節 25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 重荷をイエス様と共に 今日の福音書は、聖書の中で、福音書の中でも、最も慰め深い言葉が書かれているところだと思います。疲れたもの重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげようというふうに言ってくださるわけですから。時々は私たちも疲れてしまったり、重荷を何か、何か重荷を負うのが疲れすぎるということもあるのではないかと思います。 今日の福音書の出だしのところが、このイエス様が父なる神を賛美するんですけど、この賛美の内容が面白いですよね。この、なんていうのか、何か仕事がうまくいったとか、何かで賛美するんじゃなくて、何を賛美しているかというというと、これらのことをある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになりましたということで賛美してるってことですね。非常に不思議な感じがしますが、山口県に来てから幼稚園の子どもたちと接する機会も増えましたが、やっぱり幼子のようなものっていうのは、本当に神様に近いっていうのはつくづく思いますね。お祈りしても聖歌にしても、大きな声で一生懸命歌うし、何かお祈りも素直にするしですね。やっぱり幼子のようなものにこそ神様が近いというかですね、私たちも人間いろいろ考えて、ああでもないこうでもないと考えちゃうから、なかなか神様と近くなれないようなところはあると思いますけど、幼子のようなものこそ神様に近いというのはあるんじゃないかなと思いますね。 ただ、やはり先ほど言いましたけど、疲れたものや重荷を負っている時こそうまくいかないわけですから、そういう時こそ私たちは幼子のような心に戻ってですね、私たちの計らいを置いて、素直な心を神様に向けていく時に、このイエス様から休みっていうんですかね、安らぎをいただくということはあるんじゃないかなというふうに思います。 最近聞いた、分かち合ってもらった、最近信者になった人の話で、この教会の人じゃないですけど、あのご家族が信者で、本人は違ったんですけど、なんか信者見てたらもうバカバカしいと。もう何もせずにあんなバカみたいなことやってるんだみたいな感じで、全くその信者とか信仰とかどっちかと軽蔑してたんですね。で、仕事でバリバリ頑張ってて、専門職で会社を助けるような、いろんな企業を助けるような仕事をされてて。ある企業がですね、非常に経営的に非常に大きな問題があって、下手したら倒産する可能性もある。それでその人が関わって、いろいろな方法を考えて、こうしたらいいんじゃないか、あっちの方がいいんじゃないかと、いろいろ解決策を考えて、それを実行することになったんですけど、後からその彼のやってることが、その法律にかなり違反していることだということにだんだん気づいてきてですね。ちょっと細かい話を聞いても、ちょっと専門的なことだから、ちょっと何が違反なのか、何がちょっとあんまり個人的によく分からないんですが、結局、もしこれが査察とか何か入って何かしてしまったらですね、その企業が倒産する可能性がある。倒産したら、関連企業を含めても何千人の人が路頭に迷ってしまうし、自分も罪に問われたら家族にも相談、損害賠償だったか、そういうものを請求されたら本人が死んでも家族が払わなきゃならないとか、そういう法律があって、家族にも及んでしまってですね、彼も相当追い込まれて、結局逮捕される前に自分が死ねば問題が発覚しないよう、それ、それでうまくいくんじゃないかって。だいぶ追い詰められてですね。いつ死ぬか、いつ死ぬかってことばっかり考えてたんですけど、その時に結局あまりに重荷というか、結局どうしたかって言ったら、教会に初めて行くようになって、それで神父さんのお話を聞くようになったというんですよね。 ここにある通りに、私のくびき負い、私に学びなさいと言ったと。それで初めてさんからいろんなイエス様のことを学んでいるうちに、思いもつかない、全然違う、考えたこともないような福音の話とか、神の愛の話とか、そういうことを聞いているうちに、だんだん自分の心が実際安らいできてですね、あれだけ苦しんでた自分の問題が解決するわけじゃないですけど、非常に安らぎが得られるようになって、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られると。 原文では魂の安らぎと書いてあるんですけどね。もっと深い安心が与えられて、それで彼は結局洗礼を受けることになったわけですけど、でも、その問題だと思ってたことが結局問題にならず、その会社も倒産せず、従業員たちもみんな救われて、自分も結局罪に問われることなく仕事を続けるようになって、家族をおおごとにする必要性もなくなったっていう、結局すべてが神さまのもとで順調に進んでですね、その企業も倒産せずに済んだわけですから、非常にすべてがうまくいったわけですが。 だからこそイエス様が最後に言うんですよね。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いと。イエス様と共にやっぱり重荷を担っていくならば、やっぱりイエス様と共に担うから、やっぱり重荷が半分になるっていうところはあると思いますね。 今日の福音書は、もう書いてある通りなんですよね。私たちが重荷を感じたり、疲れた時にはヤケになってしまったり、誰かに八つ当たりとか、それよりもイエスのもとに行って、そこで休みを取るっていうかですね、ちょっと気持ちを置いて、違う角度から物事を眺めてみる。そしてイエス様の教えを改めて聞いてみる、呼びかけを聞いてみるということをするならば、私たちは魂の安らぎと、これからどのように歩んでいけばいいかという道もしっかり示されるということですね。それは本当に私たちにとって大きな恵みではないかと思います。 神様は、この知恵あるものや賢い者には神様が隠されている。結局、もちろん人間的な知恵でも、どうするか、こうするか、いろいろ考えたり悩んだりしなきゃならないですけれども、それよりももっと大事なのは、人間的な計らいを置いて、幼子のようなですね、とらわれない心で神様に向かうというか、その素直な心を神様に向けた時に、やはり神様は大きな愛としるしを与えてくださるのではないかと思いますね。 時々ですね、今でもマリア様が誰かに出現されて、いろいろなメッセージを授けられることがありますがとか、ルルドとかですね。でも、全くその通りなんですよね。本当に勉強できない字も書けないような少年や少女、羊飼いとかですね。農家の娘さんとか、全く勉強もしてないような、そういう本当の子どもにマリア様が現れて、一番大事なメッセージを伝えているわけですよね。それが実際その通りで、それを聞いた司教さんとか学者とかもみんな全然否定して、もう何言ってんだこのバカバカしいことみたいな感じで言われるわけですけど、でも後からだんだん時がたてばたつほど、その小さな少女に現れたマリア様のメッセージこそ本当のメッセージだということを、後からみんなが認めるようになるわけですよね。 この教会が、特にファチマの聖母マリアに捧げられている教会ですから、やっぱりこの幼子の小さなものに神様が本当のことを伝えるっていうのは、今でも変わらないということだと思いますね。だからこそ、私たちはやはり小さなものとして、子供のようなものとして、神様のメッセージに心を開きたいと思います。 その時に、私たち一人一人に必要な恵みと力が与えられると思いますから、いつも神様に対する素直な信頼の心と祈りの心、それを持って私たちが歩めるように、そして絶えず私たちに安らぎと勇気と力を与えてくださるようにですね、お互いのために共に祈りを捧げたいと思います。
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【ミサ説教】ヨハネ福音書14章15-21節「真理の霊に導かれて生きる」
ヨハネ福音書14章15-21節「真理の霊に導かれて生きる」2026年5月10日復活節第6主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 真理とは、単に正しい情報を知ることではなく、人を自由にし、愛へ導くものです。現代は情報が溢れる一方で、不安や憎しみを煽るフェイクニュースも広がっています。しかしイエス様が与える「真理の霊」は、人を恐れから解放し、他者を大切に生きる力を与えます。水俣病や戦争のような苦しみの現実にも目を背けず、その痛みを受け止めながら、祈りと愛をもって歩むことが大切です。また、安易な答えに飛びつくのではなく、誠実に問い続ける姿勢こそが真理への道だと故フランシスコ教皇入っておられました。 福音朗読 ヨハネ福音書14章15-21節 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 真理の霊に導かれて生きる 今日の福音書は、ヨハネの14章イエス様の告別説教の中の一部分が朗読されました。イエス様の復活の恵みの中でということでしょうが、真理の霊を私たちに送ってくださる。具体的には聖霊降臨の一つの恵みですが、復活の恵みの一つは、私たちに真理の霊を与えてくださって、永遠にこの真理の霊が私たちと一緒にいるという、あるいは私たちの中にそれが入るということを、主が保証してくださっているということですね。 私たちは真理というか、日本語的に言うと真実ぐらいの方がいいと思うのですが、本当に大事なこと、真実の霊が私たちの中にあると。それを私たちが生かしていくということの大切さということですね。 実際のところ、インターネットが発達して、SNSがいろんな情報がいっぱい増えるようになってですね、多くの人はこのインターネットができたことですけど、多くの人が情報がいっぱい、もっとたくさんの情報が私たちはアクセスすることができるから、もっと私たちは真実に触れることができるであろうとみんな思ってたんですよ。でも実際のところは、SNSとか何かオールドメディアとかニューメディアとか、とにかく情報がいっぱい入れば入るほど、実は逆なんですよ。真実がわからなくなっちゃうっていう、何が本当か嘘かあまりに情報がいっぱい入るからわからないわけですよね。 実際現地に行って、私たちは確かめられないから、本当か嘘かって実は分からない。実際のところはわざわざですね、どこかで戦争があっても、その規模とか行くことができないから、私たちはそういうネットとかいろんなことで情報が入るわけですけど、それがなんかもうメタメタになってるので、実はなんか現代はもっと真実に触れることができなくなってきたっていうですね、まあ矛盾し皮肉な中に私たちがおられるといるというわけですね。 それはなぜかといったらフェイクニュースっていうか、真実に基づかないものが、今だったら生成AIで勝手にどんどん作られて、全然いない人物が喋ったりとか、嘘のものはいっぱい作れることになったからこういうふうになってるわけなんですけど。 でも嘘のニュースっていうんですかね、つまり真実でないものの特徴は実ははっきりしていて、私たちの中にこの恐れや不安とか、そういう感情を駆り立てていく時に、これは大変だとか思って、そのニュースをまた流したりするから、嘘とかデマがどんどん広まって。あるいはもう一つは、偽りの慰めっていうんですかね、何か彼らよりも私たちの上だから安心だとか、何か他の人を蔑視するっていうのは、軽蔑することによって安心感を得るような、なんかそういうやっぱり真実でないものの特徴といろいろあるわけですよね。 イエス様がくださっている真実というのは、どういう特徴があるかといったら、一番はっきりしているのは、それは私たちに本当の自由と愛の心を広げていくいうか、広めていくものこそ、やっぱり真実のものがあるということなんですよね。 より自由になる、振り回されなくなって、恐れや不安に振り回されなくなって、より自由になっていく。あるいは、人を憎んだり軽蔑したりするんじゃなくて、やっぱり愛の心っていうんですかね、一人一人を大切にしようとする。そういうところがある時に、やっぱり真実の霊が働いている。私たちはその真実の霊にいかに合わせて生きていくかということが一番の大きな大切なポイントになると思いますね。 だから、復活したイエス様に出会った弟子たちは、そこでは本当の真実、復活というイエス様の真実に本当に触れたので、周りから迫害されていても、それに何とか防御的になって戦ったり、そんなこと全くない。恐れとか不安に囚われてない。攻撃されたユダヤ人からも、どんどんその家はローマ人からも攻撃されるわけですけど、場合によっては殉教したりするわけですけど。でも全く恐れとか不安にとらわれることなく、ユダヤ人を憎んだり軽蔑したり、あるいはそこで戦ったりすることもなく、愛の心を持って、やはり本当の正しいこと、真実を生きていくことができる。 本当にこれは復活の愛だと思うんですけど、そのような私たちはやっぱり真実を生きていく必要性があると思いますね。ただ、真実はいつもいつも心地よいものとして来るわけでもないのも事実だと思います。この最近、最近でちょっと前にですけど。イエズス会の神学生たちがちょっと一昔まだ終わってない水俣に体験学習に行ったんですよね。水俣病で公害病ですよね。チッソという会社が。その頃まだよくわかってなかった水銀をどんどんどんどん廃棄流してしまって、それで魚が汚染されて、魚をその水銀の汚染された魚をたくさん食べた人々が、この特に漁師町のところですけれども、多くの人が水俣病になってですね、しかもその生まれつき水俣病の人もいて、大変な公害の一番公害病の一番最初ぐらいですけど、いまだに患者もおられるし、そういうものがあるわけですよね。そこに神学生がいて、その実際そういう人々と触れて、どういう問題があるのかっていうことを見たんですよね。で、体験してきたんですけど、一人の神学生が、そのガイドしてくれた水俣の人にですね、こう言われたって言うんですよ。 私たちはその人によって違うけど、大半の人はチッソという会社を恨んだり憎んだりしてるわけではないと。私たちが一番望んでいるのは何かと言ったらですね、やっぱり当時の流れですよね。やっぱり利益を優先したり、人間の命を軽視したりする。そういうことがあったという真実をみんなに知ってほしいんだと。 つまり、真実を一番知ってほしいということを願っているというその言葉を聞いて、神学生は東京に戻ったんですけど、やっぱりそこにも真実があるっていうことなんですよね。 真実は喜びというか、そういうもので表れていることと、苦しみや痛みでも真実はやっぱり現れる。 だから、この痛みや苦しみで現れている真実に目を背けたり、あるいはそれに振り回されないで受け止めるってことも。それも私たちにとって真実の霊を生きていく大切なことだと思います。 真実には2つの面があって、痛みと苦しみとしてはっきり示される。それはイエス様の十字架そのものですけど、その痛みが私たちの周りにもあるし、社会にもいっぱいある。それもしっかり受け止めなきゃならないし、それともう一つは、イエス様の復活の愛ですよね。それを乗り越えていく。さっき言った自由とか愛とか、本当の喜びにつながることも真実として示されている方は、私たちはしっかり受け止めて生きていくときに、私たちは本当に真実の道を歩めるんじゃないかと思いますね。 この教会の保護の聖人は、先ほど言いましたけど、ファチマのマリア様ですよね。ファチマの聖マリア様ですけれども、まあの立場のマリア様の大事なメッセージは何かって言ったら、それは喜びのメッセージじゃないんですよね。どっちかというと、やっぱり痛みや苦しみの真実をまずは語っている。 3つの預言という有名な、でもそれもどれも世界的な大きな災害とか戦争とかですね、そういう困難なことがあるってことをマリア様ははっきり言っているわけですよね。それは私たちを脅したり、不安にさせたりすることではなくて、そういうことをはっきり言って、だから私たちはどう生きなきゃならないのかを、その真実の道をマリア様は語っているわけですよね。 やっぱり私たちが本当の自由と本当の愛を生きていく、そのような困難とか、まあ、その預言の中に入ってない苦しみ、もちろんいっぱいありますけど、でもそれを私たちが受け止めながら、その中でしっかり心を入れ替えて回心して、先ほど唱えたロザリオの祈りとかですね、祈りをしっかりして、私たちが愛を生きていくことを望んでおられる。それは、そのマリア様の気持ちは今も変わらないと思うんですね。だから、マリア様が私たちに示している真実を、それは苦しみと痛みを含んだ真実を受け止めて、そこでそういうものにいたずらに振り回されたり、とにかく今ちょっと収まって、ファチマの第3の預言というのでですね、それもちょっとこう、ある界隈ではなんだか不安と恐れを駆り立てるような、何かちょっといろんな憶測とか何とかとか、振り回されるような話にちょっとつながっていくから、なかなかしゃべりにくいテーマではあるんですが、でもしかし、はっきりしてますよ。苦しみとか困難があるということをはっきり言っておられるのは間違いない。細かいことはともかく、でも、それをしっかり受け止めて、私たちが本当にイエス様の望むプラスの意味で真実の生き方をするようにというですね、マリア様のメッセージもすごくはっきりしていると思いますね。 一人一人の立場によって示される真実のあり方とか生き方は違いますけれども、でも私たちがそれをしっかり受け止めていけるかどうかということだと思います。あのフランシスコ教皇が日本に来た時に、若者の集いでいろんな集まりや他の人の若者の集いで話されたことが非常に印象的で、若い人は特に何が正しいかとか、どういうべきとか、自分に合ってる仕事が何なのかとか、やっぱり真実を求めざるを得ないわけですよね。まあ、もうちょっと普通のことだったら、回答っていうか、正しい答えを求めて。でもフランシスコ教皇はこう言うんですよ。一番大事なことは正しい答えを得ることじゃないって言うんですよね。一番大事なのは、正しく問いかけることだってあるんですよね。正しく問いかけていく時に答えが見つかるから、安易に答えをこうこれだとか、安易に出てくる真実っていうのは、どうもフェイクっぽいことが多いんですよね。なんかネットでこれらこれこれが絶対正しいとかって来てることが案外ちょっと間違ってる。だからやっぱり問いかけて、実際に日常の中で迷うことも様々私たちもありますよね。だからなんでこうなってるのかとか問いかけることから、神さまにしっかりと問いかけていく中でこそ、真実の霊が心の中にある。それをがだんだんと分かってくるような地道なことだと思いますね。 だからこそ、私たちは謙遜に、誠実に、やっぱり真実を求めながら安易な答えを得るのではなくて、こうかな、ああかなとか迷いながら、迷いながら、探しながら、やっぱりでもこっちだと思えるところをしっかりと歩んでいけるようにですね、神さまに恵みと力、そして本当の知恵と照らしを願いたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書14章15-21節「真理の霊に導かれて生きる」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」
ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」2026年5月3日復活節第5主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ ヨハネによる福音書14章の「私は道・真理・命」という言葉から、信仰とは“歩む道”そのものだとわかります。殉教者、とくに乙女峠の証し人たちは苦しみの中でも道を見失わず、そこに慰めと力を得ていました。人は道が見えない時に最も苦しむものです。しかし、キリストの十字架と復活は確かな道を示しています。日常の中で自分の道をその道に重ねられる時、信仰者は本当の命と安定を得るでしょう。 津和野の乙女峠の殉教者のお話です 福音朗読 ヨハネ福音書14章1-12節 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」 イエスの歩んだ道がある 今日の福音書はヨハネの14章で非常に慰め深い、あるいは意義深いことをイエス様がたくさん話されているところですね。最後の晩餐の席でイエス様が話された言葉の部分ですけれども、一番有名なのがやはり6節でしょう。私は道であり、真理である、あり命であるとおっしゃるところですけれども、私たち、私たちというか、この中の多くの方々がですね、やはり日本人の方々が多いと思うのですが、やはりこう道を歩むっていうんですかね、何かそれは何か私たちにとって非常に大切なものじゃないかなと思いますね。自分に与えられた職業だったり、使命だったり、その道をどう誠実に、あるいは徹底的に歩めるかというのは、案外一番大切なことじゃないかなと思います。 どんなことにもその道があったら必ず達人というか、名人みたいな人が実際おられるんですよね。将棋にしても何にしても、蕎麦職人にしてもですね、やっぱり名人と呼ばれる人がいて、羽田空港には掃除の達人みたいなおばさんがいるとか、どんなことでも道を極める人がいて、それが私たちの生き方の一つの基盤になってるって言うんですかね。それはどんな仕事でも、どんな役割でも、どんなことでも、そういうなんか道を極めた人というのは必ずいてですね、皆さんの模範になるような生き方をされている人がいるわけですよね。 私たちはイエスの道を歩む以上、私たちもこのイエスの道をなるべく極めて歩んでいきたいという望みを持っている方も多いと思うんですが、やはりそのイエス様の道の達人は誰かと言ったら、もちろんいろんな意見もあるでしょうけど、一つは殉教者だと思いますね。やはり、自分の命をかけてまでイエス様を証しした人々、それが今日は5月3日、乙女峠のですね、あの。証人、その中で殉教された方々がおられるということですが、乙女峠のことは皆さんよく御存じだと思いますけれども、明治になってプチジャン神父は外国、フランスからですね、宣教師が日本に来て、長崎でまさか日本に信者はいないと思って、外国人のためのなんていうんですかね、教会を建てたところを、あの見知らぬ日本人が入ってきて、マリア様のご像はどこですかということから始まって、実は250年間ですね、その潜伏していた人、クリスチャンがいるということで、プチジャン神父さんがたまげて、それを結局バチカンに報告することになって、公になってですね、それを基に隠れていた人々がクリスチャンであるということを名乗るようになったんですよね。でも残念ながらまだ日本は禁教令の中だったので、その名乗った人々が結局浦上四番崩れっていうのは、崩れって言うのは、この、隠れてたことががばれることなんですけど。浦上四番崩れということで、多くのクリスチャンたちがあちこちの場所に送られることになって。乙女峠、当時の津和野藩ですかね、153人が津和野に送られて、そのうちの37人が殉教したということなんですよね。乙女峠のこの証し人たちは列福運動もすでに始まっているということで、広島教区の一つの宝としてですね、だいたい毎年そこに集まる人は集まって、共にこのロザリオを唱えながら行列をしてミサをささげるということをやっているわけですね。 まあ、そういう英雄的な方々の話を聞くと、普通はもう自分にはできないというか、とてもじゃないけどっていう気持ちになると思うんですが、でも何て言うんですかね、やはりこう、彼らにとってその250年間隠れてて、隠れているのと、やっぱり自分たちがクリスチャンだっていうのと、どっちが彼らにとってやっぱり良かったかって言ったら、やっぱり明らかにみんなの前でですね、自分たちはクリスチャンだって言うことの方が、やっぱりこう喜びと言ったらあれかもしれないけれども、何か心の晴れる気持ちがあったんじゃないかなと思いますね。それで迫害されても、もうまた隠れるってこともないですから、もうOKという形で、やはりイエス様の敷いた、クリスチャンの道がやっぱり私たちにはあって、その道に私たちの生き方がかぶる時に、それが大体、多くの場合は困難がある時が多いですけど、その時にやっぱり私たちの心の中にあるのは、もちろん苦しみもあるけれども、そこにイエス様の真理と命を感じ取れる何か、それを喜びというか、慰めというか、励ましというものがあるんじゃないかなと思いますね。 その津和野の殉教者の中で有名な方の一人は、森安太郎というですね、ご存知だと思いますけど、三尺牢というね、90CMの立方体の檻に入れられて、立つことも寝ることもできないそこで1ヶ月間入れられて、真冬なので裸で野ざらしにされてですね。それで結局彼は殉教するわけですけど、でも守山仁三郎だったか。高木仙右衛門だったか、とにかく彼に会いに行って励まし励ますんですけど、安太郎の方はですね、毎晩毎晩、青い着物を着たサンタマリア様のような方が現れて、その人が自分を励ましてくれると。毎晩ですね、だから苦しいことは何もないっていうことを答えるんですよね。まあ、有名な話ですけれども、マリア様の御出現を受けてたっていうことですけど。安太郎がですね。それで亡くなるんですが、もちろんそんなにね、そういうことは特別なことかもしれないけど。でもやっぱりその時に行った150人ぐらい、7人か8人は転んでいるんですけれど。転んだけど結局また元に戻るんですが。 ともかくやっぱりね、こうイエス様と共に歩む道を歩んでるっていうことに大きな励ましと力を得ていたのは間違いないと思うんですね。だから私たちはついつい外から見てあんな苦しいこととか、自分たちはできないとか無理とか、いろいろすぐ思っちゃうんですけど。でもね、案外その中にいて、しかも家族と仲間と一緒ですから、そこでイエス様の道をなんかもう命かけて歩んでるっていうことがはっきり自覚できる時には、やっぱりそこに大きな真実と本当の命の恵みを得る、そういうものがあったのはまず間違いないと思うんですよね。 だから、喜んで、喜んでか、渋々か、人によってもちろん違うとは思いますけれども。だから私たちも日頃はね、平安な世の中にだんだんちょっとおかしくなってきましたが、クリスチャンであってもなくても、そんなに日常生活はそんなに変わらないことがあるけれども、でも何かある時に、私たちはクリスチャンであるということを自覚する。そういう時にこそイエスの道を歩んでるっていう、なんか励ましと力づけがやっぱりあることが、やっぱり私たちの一番の根本にあるから、私たちは信仰者として歩めるんじゃないかなと思いますね。 全然関係ない話かもしれないけど、最近ちょっとアメリカ人の神学生と話をしてて、彼の召し出しの話を聞いたんですけど、割と才能のある人で、医学の勉強したりとか、いろいろ日本語も喋れてとか、いろんなことで彼が言ってたけど、イエズス会に入る前にはある意味成功した人生だけど、でも心の中にぽっかり穴が開いたのは気持ちがどうしても拭えないって言うんですよね。本当の意味で喜べない気持ちがどこか自分の中にあった。で、でもイエズス会に入ることによって、何かこの心の中の穴がなんか閉じられて、なんか本当に自分の歩む道を見つけたみたいなんだから。彼の場合は・・・、一人一人違いますけど、彼の場合はイエズス会に入るということで、自分の道がきっとイエス様の道と一つになったっていうんですかね。だから喜びっていうか、安定感というかですね、なんか生きてる安心感みたいなのがあって。だからやっぱり私たちはイエス様の真実とイエスの命を生きていける、そういうものが与えられることですよね。 ただ、私たちも弱いから、ついその道から外れてしまうことが。でもずれればずれるほど、なんかやっぱりなんか本当の生き方じゃないっていうことを感じたり、罪ってことですけどね、ズレてるってことも感じられるし、ずれてたら戻ることもできるわけですよね。 やっぱり私たちの人生の一番の苦しみは、道がない中を歩くことが最大の苦しみじゃないかなと思いますね。実際のところですけどね。 突然苦しみにあって、なんでこんな苦しみがないか、ならないのかと。なんでこんなことが起こるのかとか、道がないから私たちは結局苦しんでしまうわけですよね。ああでもない、こうでもないとか、たとえ成功しててもそこに道が見出せないと生き甲斐がないがないっていう感じがしてしまう。 イエス様の最大の功績は、十字架と復活によって道を与えてくださったっていう、つまり十字架と復活の道こそが私たちの本当の道だということを示してくださった。だから、そのイエス様に合わせた時に、道に私たちが合わさった時に、殉教者であろうが、普通の生活で生きている人であろうが、イエス様の十字架とイエス様の生き方が合わさった時に、その道が見えて、道を歩める喜びと力づけが私たちに与えられている。 だから、イエス様は道であり、真理であり、命であるという。生き生きした命を生きられる。 この数時間後に彼は逮捕されて、翌日十字架にかかって、この世の命は無くなるんですけど、でもイエスの道を歩む限り、本当の命の恵みと力が私たちに与えられて、それを生きていける。 もちろん小さな苦しみ、大きな苦しみ、色々ありますけど、イエス様の十字架と心を合わせて生きていく中で、復活の恵みに繋がるというですね、喜びが私たちには与えられているということですね。それをやはり改めて思い出しながら、乙女峠の先輩たちの信仰の証しをもう一度ですね、心に刻みながら歩みましょう。 私たちに与えられている道が明らかにある。私たちも自分に与えられた信仰の道を喜びのうちに、あるいは。人によっては覚悟を持って、あるいは本当に平安な心でですね、前向きにその道を歩めるように、共に祈りをささげたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ルカ福音書24章13-35節「見えない主とともに歩む人生」
ルカ福音書24章13-35節「見えない主とともに歩む人生」2026年4月19日復活節第3主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 今日の福音書のエマオへの道は、復活したイエス様が弟子たちと共に歩んでいても、すぐには気づかれなかった物語です。私たちの人生でも、主は見えなくても共にいて、支え導いてくださっています。信仰の初めは主が私たちに歩調を合わせてくださいますが、やがて私たちが主の望みに歩みを合わせることが求められます。苦手な人との関わりや病気、思い通りにならない現実の中にも、復活の主の恵みは隠れています。この世の幸不幸だけでなく、魂の成長と永遠の命に目を向け、主と共に歩む一週間としたいものです。 来週のミサ説教はお休みの予定です。 福音朗読 ルカ福音書24章13-35節 13この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 見えない主とともに歩む人生 今日の福音書は、ルカの24章の旅人エマオに向かって行く。二人の弟子と一緒に復活した。イエス様が共に歩いて共に過ごしてくださるという非常に印象深いお話です。特にこの二人の弟子はイエスだと復活したイエスだと気づかずに、何かただのおじさんだと思って一緒に歩いていて、最後の最後でイエスだと分かる。不思議な話でもあります。 いろいろな信者さんとお話をして、復活というのは、わかるような、実はちょっと分からない、ピンと来るような、来ないようなところもある。出来事というか、救いの神秘ですけれども、やはり全員というわけじゃないですけれど、多くの信者さんにとってはやはり、エマオの弟子の話が一番復活を、復活、理解というか、ピンと来ることではないかと思うのです。 何でかと言ったら、復活した主は共にいてくださっている私たちと。でも私たちは気づかない。私たちは気づかないけれども、復活した主が今も共にいてくださっているというですね、共に歩んでくださっているという、それがやはり復活の恵みの一番分かりやすい捉え方かなというふうに思います。 実際のところ、イエス様は私たちと共に歩んでくださっていて、しばしば助けたり支えてくださったりしているわけですけれども、私たちの方がなかなか気づいていない。けれども、私たちが振り返ったり見たり、自分の信仰生活を見直したりする時に、やはりあの時に主が助けてくださった、支えてくださったということに気づくことは、皆さんの中でもあるんじゃないかというふうに思います。 復活した主は、私たちが共に歩んでいるというですね、これが私たちの信仰の一番基本にあることではないかというふうにも思います。 実際のところですね、復活した主は、何というんですかね、特に信仰の道を歩み始めたばかりというか、そういう時にはどっちかというとイエス様が私たちに合わせて歩いてくださっているという感じは、エマオの弟子たちみたいに、全然関係ないエルサレムから離れて、全然関係ないところに歩いていながら、でも復活した主がわざわざ一緒に歩いてくださっている。だからイエス様が私たちに合わせてくださっているという感じが強くするんですよね。そこで彼らは励まされて助かるわけですけど。 でも信仰が進んで行けば行くほど、逆のことを求められている気がして。どういうことかと言ったら、イエス様が歩みたい歩みに私たちが歩調を合わせられるかどうか。共に歩むということは、実はそういうことで、自分が行きたいところを勝手に行って、そこにイエス様はこっちに来てくださいというよりは、イエス様がこっちの方に行きたいと思っておられるのに、私たちの歩調とか方向性とかを合わせて行けるかどうかが、だんだん問われてくるんじゃないかなと思いますね。 でも、それがなかなか苦手で、うまくできないということもあると思います。復活したイエス様が何を望んでおられるのか、何を喜んでおられるのか、あるいはどういうことをしてもらいたいと私たちの方に願っているのかということを聞きながら、あるいは相談しながら、私たちが歩んでいく。それがですね、もっともっと必要とされることだと思いますね。 実際のところ、私たちの、時によっては孤独とか、あまり人と関わらないってこともありますけど、でもだいたいは誰かと共に仕事にしても家族にしても、教会にしても、誰か共に歩んでいることの方が実際は多いわけですよね。それが非常にうまの合う人と共に歩めることも、歩むことができることもあれば、どっちかというと何か合わない人と一緒に歩まなきゃならないことも多々あると思います。 それは職場でも教会でも家庭でも、どこでもあることですけれども、でも案外共に歩んでいくというのは、結局、人間の自我と自我のぶつかり合いだからそこで必ず難しさが生じるわけですけれど、その時にやはり神の恵みを見出しながら、つまり神の導きを見出しながら、復活した主とさらに共に歩んでいけるかという、それはライフステージというんですかね、何かが変わったとしても、結局私たちはその場その場で問われていることになるというふうに思いますね。 イソップ童話だったか、グリム童話だったか、ちょっと忘れましたけれども、蛙の王子様の話があって、ご存じの方もおられると思いますけれども、ある王様にお姫様がいて、庭で遊んでたんですよね。昔ですから金のボールというか、鞠で遊んでいたんですけれども、それがですね、ちょっと手元が狂って池にはまっちゃって、今のビニール製だったら沈まないんですけども、昔だからそれが沈んじゃって。それでそのお姫様が泣いていたら、池からカエルが現れてきて、で、蛙がお姫様に自分と友達になってくれて、一緒に過ごしてくれるんだったら鞠をとってきましょうといういうわけですよね。カエルとの約束だし、お姫様は適当に答えたらいいだろうと思っていいです。友達となって一緒に過ごしてもいいですからと言う。そしたらカエルが約束ですよと言って一気にドボンと入ってですね、金の鞠を持ってきて返すわけですよね。 お姫様にしたらそれはそれでもいいですから、その鞠を持って、カエルがぴょんぴょん来るけれども無視して宮殿の中に入って、それで晩御飯を食べていたら、王様と一緒に晩御飯食べてたらですね、そしたらノックする音があって、食堂に何が入ってくるかと思ったらカエルが入ってきて、で、カエルが友達と約束をしたから、だから一緒に食事をしたいとカエルが言うわけですよね。お姫様は気持ち悪いから、それでも嫌な顔をしていたんですけど、王様が約束を守らなきゃならないと王様が言って、カエルと一緒に食事も一緒にするし、遊びも勉強も一緒にして寝る。寝るときも隣で寝るとか、気持ち悪いカエルとずっと過ごさなきゃならなくなって、それでもお姫様の方が悲鳴を上げて、最後どうするかと言ったら、とうとう堪忍袋の緒が切れて、カエルを壁に投げつけるんですよね。まあ、ちょっと野蛮ですけどね。投げつけたら呪いが解けてですね。それが隣の国の王子様だったということで。それでお姫様と王子様がめでたく結婚しましたって。そういう、まあ単なるおとぎ話ですけども。 でも時々、ずっとじゃないですけど、時々私たちもカエルと一緒に歩まなきゃならないことも時々あるわけですよね。それがわからない。王子様と思って結婚した相手が実はカエルだったという逆のケースがあるかもしれないけれど、もちろんわからないですよね。 あるいは、もちろん、病気になって、病気になった、病気と一生一緒とか、場合によってはずっと共に歩むならない。それもカエルかもしれない。つまり、一緒にたくないけれども、結局一緒にいざるを得ないものというのが私たちにあるわけですよね。でも、その時に、物語は子供の物語だから、カエルを壁に投げつけるんですけど、でも本当はやはりカエルが死ぬんじゃなくて、やっぱりお姫様自身が古い自分に死ぬというんですかね。 自分の囚われとか、何かに死んだ時に、その本当のカエルの中にある本当の恵みに気づく復活の主の働きなんかそんな感じがして。エマオへの弟子たちもすっかりもうだめになっちゃったけど、でもそこに、その先に大きな復活の恵みがある。私たちが誰と何と共に会えるので、いい時も悪い時もいろいろありますけれども、その中にこそ場合によってですけれども、やはり復活した主の働きが実は隠れている。でもそれが何かの拍子で私たちはわかることがある。 だから私たちは復活した主とそれが見えないというのは、きっと最初から見えていたらわかるわけですけど、それは隠されているということですから。隠されている。復活したイエスさまとそれに私たちは期待しながら、希望しながらですね、歩んでいけるかどうかということが、私たちに最も大切なことじゃないかなと思いますね。 僕もだんだん長らく生きるようになってきましたけど。なんかね、人生の目的というのはこの世の幸せを得ることじゃないというふうにやっぱり強く思いますね。むしろ私たちはこの世の幸せとか不幸せをいろいろ経験しながら、やっぱり何か人間的に言ったら魂が成長するというか、私たちがより神様に近い心組みとか、考え方とか物の見方とか、復活した主から学びながら、私たちは成長していく。 そっちの方がずっと大事だというふうにつくづく思いますね。私はついついこの世の不幸と幸せのことで振り回されてあれですけれど、でもそれを超える、やっぱり復活した主の恵みに、復活した主の恵みって、別にこの世の幸せと直接つながってないですからね。でも、私たちの本当の喜びだし、永遠の命につながっていく価値のあるものですよね。 それに、私たちがいつもそこにフォーカスを当てて歩むことができるように、見えないけれども共にいてくださる復活の主の恵み、あるいは復活の主から教えていただきながら、私たちが本当に大事なものを学んでですね、本当に大切なことを大切にしていく人生を歩めるように、改めて神さまに恵みを願いましょう。 今週一週間は本当に復活した人とともに歩めるように意識しながら歩んでいきたいと思います。The post 【ミサ説教】ルカ福音書24章13-35節「見えない主とともに歩む人生」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」
ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」2026年4月12日復活節第2主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 復活したイエスに出会えなかったトマスは疑いますが、傷を示されたことで信じ、「見ないで信じる者は幸い」と教えられます。信じるとは、見えないからこそ成り立つものです。そして人を信じる力は、深く関わり、相手を受け止める中で生まれる信頼に支えられています。神との関係も同じで、愛と喜びの体験があるからこそ、見えなくても信じることができるのです。信じることは困難を越える力となり、私たちを前へと導きます。 英神父さんは、長府教会主任司祭に異動となりました。 福音朗読 ヨハネ福音書20節19-31章 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 見えないものを信じる力には愛がある 今日の福音書は、イエス様が復活された時のお話です。ヨハネの20章の後半のですが、イエス様が復活された日曜日の夕方、イエス様が現れて弟子たちにお会いになったわけですが、その時にトマスだけは不在だったので、彼は信じないとかたくなにそれを主張したわけですが、1週間後、それが今日の第2主日にあたるわけですが、その時にもう一度イエス様が復活された。イエス様が現れて、トマスの自分自身の傷を見せて、手と脇腹の傷を見せて、信じない者ではなく信じる者になれとイエス様がおっしゃるわけですね。トマスはそれを見て、私の主よ私の神よと言って、主イエスを礼拝するということになるわけですね。それに対してイエスはトマスに見ないのに、信じる人は幸いであるということをおっしゃるわけですが、私たちがどういう時に本当に信じるのかということなんですね。 実際、信じることの一番大切なポイントは何かと言えば、やはり見えていないからこそ、私たちは信じなきゃならない。もしそれがはっきりと見えていれば、実は信じる必要性がなくなっちゃうということなんですよね。 カトリック教会では対信徳といって、神様に対する徳は信仰希望愛と言われているんですけど、天国に行ったら神様をありのままに見るので、信じる必要性がないんですよ。神様が目の前におられるか、希望する必要性もない。神様が目の前におられるから、だから、天国に行ったら愛することしか実は残らないというふうに実は言われてるんですけれども、私たちは復活したイエス様を肉眼に見ているわけではないですし、たとえ弟子たちだって、復活したイエス様と出会っていたとしても、それは1回か2回ということでしょう。実際、私たちが信じるということを考えたときに、目に見えないことだから、私たちは信じるということが大切になってくる。私たちは何を本当に信じていくのか。実際に聖書の中で信じるべきことの最大のものは何かといったら、イエスが復活したということなんですよね。それを信じるかどうか。 もちろん、この中にいる人は誰もそれを見ていないわけですけれども、でも私たちはそれを信じて歩んでいくことができる。それが幸いだ。みんな祈り、信じる人は幸いだというこの幸いを私たちが生きていくことができるかどうかということだと思います。 大阪の釜ヶ崎というところに関わりがあって、そこにいろいろな人がいるんですが、一人有名な人で入佐さんという女性の方で、若い頃から今はもうボランティアは山のようにいるんですが、昔はボランティアなんかほぼゼロというんですかね、まったく労働組合の人とクリスチャンや牧師さんやシスターとかがちょろっといたぐらいだったんですけど、そのときに入佐さんがプロテスタントの女性なんですけど、単身女性で一人で男の町に入っていって、それでいわゆる傾聴ボランティアの元祖のような形で労働者の人たちの話を聞いて。 彼女が言うんですけれど。ちょっと正確な言葉じゃなくて、私なりの解釈なんですけれども。やっぱり労働者一人ひとりを信じているというのでしょうね。その人たちも入佐さんを信じているというのか。私はあんまり人間に信じるという言葉は実は使いたくない。信頼するという意味でということですけど、今は生活保護とかとれるんですけど、昔はまったくどうなのか非常に困難な、野宿している人とかでも何になるのかのいろいろあって、生活保護はとれても当座のお金とかないとかなんとか、それで入佐さんが自分のお金を貸すわけですよね。お金を貸すということは、結局その人を信じているからお金を貸すということになるわけなんですよね。信じてお金を貸して踏み倒されたこと一度もないですしね。 それは何でかといったら、野宿者の側からすれば、入佐さんが自分を信じてくれてるから裏切れないでね。だからやっぱりちゃんとお金返さんとあかんと思って、今まで一人も踏み倒した人が0だというんですよね。ではなんで・・・ いや、実はちょっと私もいろいろちょっとだけ誤解があって、私も一人の人を信じていたんですけど、ちょっと詳しい話になる。裏切られたってちょっとオーバーだけど。僕が計画した通りにうまくいかないことがあって。トンズラ、トンズラあってもないんですけど、ともかくうまくいかなかったんですよね。それも僕もある意味彼を信じていたけれども、結局うまくいかなかったんですよね。彼も僕を信じてなかったか。いろいろな細かいことはいろいろあるんですが、うまくいかなかったことが実は最近あったんですが。 でも考えてみたら、なんで入佐さんには信じるってことが成り立つのか、それははっきりしていて、徹底的に話を聞いて徹底的に関わっているからなんですよね。どこまでもその人と悩みも苦しみも全部聞いて、それでも本当に関わっているから、つまりそこに信頼関係があるから信じるってことが成り立っているというか。まあ、当たり前といえば当たり前ですけれども、でも私たちはどういうときに人を信頼するとか、信じるとか、あるいは子どもを子育てしていて子どもをどう信じるのか。 だけど、その信じるって言ったときに、だから、それは将来のことですから、その子どもがどうなのかとかわからないし、問題を抱えていたらどうなるかわからないけれど、でも、そこでやっぱり信じるってことがあるから、その子どもにしろ、問題にある人にしろ、それを受け止めて頑張ろうとする気持ちが湧いてくるんですかね。 やっぱり人と人との深いつながりがあるところに、信じるということの意味が出てくる。あるいは信じることの力が出てくるってことなんですね。 だからやはりこの弟子たちだって、やはりイエス様とのいろいろな交流とか何かがあるから、だから最後の復活で、その後信じることができるという、そういう恵みが与えられているということですね。 今日の第2朗読の最後、ペトロが書いている手紙の最後もなかなかいいですよね。ペトロの次の世代に向かって書いてあるんですけど、あなた方がキリストを見たことがないのに愛し、今見てなくても信じているというふうに書いてあるんですよね。 それはもうイエス様との出会いがないわけですけれども、やっぱり使徒たちとか、その人たちの、またその次のですとかですね、その人たちと本当の心のつながりやふれあいや助け合い、そこに神の愛をお互い実感しているところがあるから、この今見てなくても信じている、しかも言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れているというんですよね。 やはり私たちが本当に信じられるとしたら、そこに愛と喜びがあるからだと思います。神様と自分との関係もそうだし、人間同士の関係でもね。 そして信じるというのは必ずないものに向かっているんですよね。だから、例えば今大きな困難があって。抜け出せないとか、うまくいかないとか、もちろんそのこともいろいろありますが、でも信じているからこそ、それを乗り越えて私たちは前に向かっていく力が与えられるということですね。私たちは神と神との関わりの中で、信じる恵みをいただいているということですよね。 強い弱いはもちろん、疑うこともたびたびありますけれども、でも信じる喜び、あるいは信じるからこそ、私たちは勇気をもって前に向かっていくことができる。人間同士もそうですし、神と私たちの間もそうだと思います。見ないで信じる者は、幸い私たちは喜びと愛があるから、イエス様が見えなくても、あるいは何か確かなしるしがなくても、でもやはり信じる気持ちを持って、前に向かって希望を持って、私たちが歩んでいける、その恵みをしっかり受け止めましょう。 改めて私たちは復活した主を信じて、それは前に向かって今の困難を乗り越えていく勇気と力が与えられるということですから。私たちが心から神を信じて、前に向かって毎日毎日、一歩一歩、愛の心で喜びの内が歩んでいけるようにですね、お互いに祈りたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」
ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」2026年4月5日復活の主日のミサ防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ ヨハネの福音書の空の墓の出来事は、復活をまだ理解できない人間の姿を示しています。英師は幼少期に「世界に一人だけ」という絶対的孤独を体験し、長く虚しさを抱えて生きてきましたが、洗礼を受けてから、その空虚は少しずつ満たされ、生き方そのものが変わったと気づいたそうです。復活の恵みとは、自分は一人ではなく、いつも神様が共に歩んでくださることを知ること。神に支えられているという確かな感覚こそが、絶望を消し、生きる力になるのです。 英神父さんの子供の頃のお話にゃ。 福音朗読 ヨハネ福音書20章1-9節 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 神様が共にいてくださる 今読んだヨハネの福音書の心は、日曜日の朝早くイエス様のご遺体を納めていた墓が空っぽであったということを記しています。まずは、マグダラのマリアは、他の女性もいたかもしれない。そこで墓は空っぽであって、驚いてマグダラのマリアが男の弟子たちに告げて、そしてシモン、ペトロと愛しておられたもう一人の使徒ヨハネですけど、彼らが大急ぎで走って行って、空の墓を見て、イエス様の遺体がなくなったということで、ちょっと唖然としているところで、今日の福音が語られているわけですね。 そして、この復活ということを二人はまだ理解していなかったのであるということで、今日の福音書が締めくくられているわけですけれども、私たちにとって復活というのは一体どういうことなのかということ、それは一人一人復活の恵みをどこで感じているのかということを確認したいと思いますし、あるいはこれからですね、復活の恵みをどう得ていくのかということも問われているのではないかというふうに思います。 今日は、先ほども言いましたけれど、とにかく8人の方の洗礼式があるということで、大人の人が二人と小学生が5人と、幼稚園生一人ということで、非常に大きな恵みじゃないかなというふうに思います。復活の恵みと、やっぱり洗礼の恵みはやっぱり深くつながっているのではないかというふうに思います。 自分自身が小学生のことをちょっと思い出して、キリスト教と何の関係もない仏教関係の家で育ったんですけれど、それが小学生で、もちろん楽しい思い出もいっぱいありますが、小学生の時に一番怖かった思い出というのは、それが小学校3年生の時だったか、5年生の時だったか、何年生の時だったか、ちょっとはっきり覚えていないですけれど、たまたま昼寝していたんですね。昼寝していて、ふと目が覚めたんですよ。目が覚めたら家には誰もいなかった。どういう状況かは覚えていない。とにかく父親、母親もいなくて、妹が一人いるんですが、妹もいなくて、昼寝から覚めたら自分が家の中で全く一人の中で目が覚めたんですよね。 その時に思ったことはね、ちょっと言葉で言うとあれですけど、自分がこう孤独な存在というか、たった一人ぼっちだということを実は強く感じて、その一人ぼっちが、ということが、家の中でひとりぼっちだけじゃなしに、地球全体、ちょっと話が大げさだけど、地球全体の中で自分がたった一人だけだということを、小学生の時に実は深く感じたんですよね。何か人間の絶対的な孤独というか、あるいはお墓が空っぽって言ったら、何かお墓だけじゃなしに全部が全部、世界中とか宇宙全体で空っぽで空っぽの中に自分がたった一人だけいるっていうですね、そういう強い悲しみというよりは、何か一種の恐ろしさみたいな感じで、小学生の時にその体験を非常に強く覚えているんですよね。 でも、だからと言って別に落ち込んで生きていたわけでもないですけれど、でも、ことあるごとに、もちろん勉強したり、友達とスポーツをやったり。小学生の頃、ほぼ毎日野球をやっていたから、ほぼ毎日野球を友達と近くのグラウンドでやったり。当時はみんな野球の時代だったんですよね。だからほぼ全員子供野球をやっていたんですけど、僕も野球ばかりやってやっていた。中学からサッカーに変わりましたけど。ともかく。いろいろ楽しいこともありましたが、どこかで自分が孤独っていうのかな、何か全く何もない中で自分がぽつんと生きているという、そういう深い深いところに虚しさというか、結局何のために自分がこの世に生きているのか。 もちろん家族もいますし、もちろんあれなんですけど、でもものすごい孤独というか、何かそういうものを心に抱えながら、小学生と中学校と高校で、キリスト教とはずっと関係があって、小学校の時には日曜学校はちょっと行ってたりとか、中学はミッションスクールに行ったりとか、いろいろキリスト教と関係あるんだけど、でもやっぱり時が、時が来ないとぴったり合わないっていうか、結局10年以上経って、大学生の時の20歳になって、あるきっかけがあって洗礼を受けたんですね。 その洗礼を受ける時に思ったのは、聖週間の受難物語を読みましたけど、やっぱりイエス様が死んでいく姿ってものすごく迫力があるというか、心に突き刺さるものがあるんですけど、今日のお話でもそうですけれども、復活に入った途端、何か話が急にぼんやりになっちゃって、イエス様が復活したって言われても、あんまりピンとこないっていうのかな。急に死んだ人が蘇ってくるとか、それが自分にとってどういう意味があるのかなというか、ぴんと来てなかったんですけど。でも洗礼受けて、今日は初聖体で、ちょっと幼稚園生の彼はちょっと初聖体はもうちょっと後ですけど、他の人たちは、でもご聖体をいただいたり、あるいは神の恵み、お聖堂の中で御言葉を読んだりする中で、小学5年生の時の絶対孤独みたいなものがだんだん消えていって、自分の全宇宙ではないけど、少なくとも自分の心が満たされていて、生きる喜びというか、力というか、そういうものが自分の中から湧いてくるのをだんだんだんだんと感じるようになってですね。洗礼を受けて、僕はなんかやっと本当に救われたという気持ちがあって、それから生きるのが嬉しくなったというか。 それまではどうかなんかこう、何かある虚しさというか、もちろん楽しく生きているんだけど、何とも言えない虚しさをずっと感じていたんですけど、洗礼を受けてからその虚しさが埋まってくるというんですかね。何かこう、深いところで力とか恵みを感じるように、だんだんとこうなってきたんですね。 1年ぐらいしたら、まあね、洗礼を受けるからといって、別に表向きは変わらないんですよ。洗礼受けるから急に美人になるとか、急に頭が良くなるとか、洗礼を受けるから仕事がうまくいくとか、勉強よくなると、そういうことはまだないんですね。ないんだけど、でもやっぱり洗礼を受けて1年ぐらいしたら、もう全然自分が自分の生き方というか、何か根本的な姿勢が変わるような気がして、その時に分かったんですよ。 何が分かったかって言ったら、聖書では復活を二人はまだ理解していなかったって書いてあるんですけれど、私も理解していなかったんですけれど、1年ぐらいしたら、自分の生き方が変わることによって復活の恵みをいただいてるってことに気づいたんですね。イエス様の苦しみだけじゃなしに、やっぱり復活の恵みを自分の生き方の中で知らない間に感じるようになった。 だから、洗礼を受けるということははっきりしていると思います。復活の恵みを受けて生きていくということなんですね。 それ以降安心して生きることができるようになった。何が安心して生きるかといったら、神様という拠りどころができたって言うんですかね。自分が帰っていけるポイントができた。つまり、小学5年生の時は何にも全てが、世界中が虚しくて、ただぼんやり暗闇のような形が広がっていたものが、イエス様の復活があるから、自分が確かなものに繋がっているという感覚が持てるようになったってことなんですね。 特にそれが思うのは、例えば試合前とか試験前とか、めちゃめちゃ不安になって緊張してうまくいくかどうか。でも神様がいてくれるから何とかなるんじゃないかっていう気持ちがだんだん湧くようになったし、あるいは何か辛いことが結局洗礼を受けて辛いことが減るかと言ったら、実は減らないんですよ。苦しみもあんまり減らないんですけど、でも、苦しい時でも自分を支えてくださっているイエス様がいるということは、何かを落ち込まなくなったっていうのが、本当の意味で絶望しなくなったというか、支えられているというんですかね。その支えのもとにずっと今は生きているわけですけれど。 だから、洗礼前のことを考えたら、どうやって苦しみに耐えていってるのか分からないっていう気持ち。つまり、神様がいない時は、苦しみは自分一人で抱えなきゃならないでしょう。辛いことがあったら自分で受け止めて、自分で解決して、自分で何とかしなきゃならないんですよね。友達に相談とかももちろんできますけど、それでも自分で自分の苦しみを背負うしか自分でやるしかないわけですよね。でも、洗礼を受けてから苦しいことがあったら神様助けてくださいって言えるようになったんですよね。神様がどこかで支えてくださっているから、自分は大丈夫というふうに思えるようになった。 これも本当に大きな恵みだと思います。だから、本当の意味で絶望しないというんですかね。もちろん、時々嫌になっても神父なんかやっておられるかと時々思いますけど、思っていても、別に神様が支えてるから大丈夫だって、やっぱりこう思える。 神様の支えがあるっていうことは、どんなに大きな恵みかなという、支えられているからといって、別に苦しみは減らないから、やるべきやるべき事とか直面することとか変わらないですよ。それはもちろんね、なんかこう、困難を乗り越えなきゃならないとか、問題解決しなきゃならないとか、全部同じなんですけど、でも支えられているから、自分だけじゃなくていいというですね、これは本当に大きな恵みだと思います。 皆さん洗礼を受ける8人の方、神様が自分を支えてくださっているということがどんなに助けなのかってことなんですよ。 神様と共に歩める恵みが与えられている。自分の力だけでも生きなくていいんですよね。自分だけで頑張らなくても、神様と一緒にやれば頑張っていける恵みが与えられる。 これからも、特に小学生の皆さん、これから中学高校とか、これから楽しいことと苦しいことが色々、でも神様と共に一緒に歩むならば絶対大丈夫だということなんですね。その神様が支えてくださっている安心感と喜び、平和な気持ち、それを大事にしながら生きましょう。 復活した主は私たちと共にいてくださっていますから、私たちを見捨てることは決してない。復活したイエスはもちろん姿では見えないですけれど、でも私たちをいつも支えてくださっている、その恵みを受け止めて、感謝の内にですね、前向きに、勇気を持って、希望を持って、私たちが歩んでいけるように。共に洗礼を受ける人たちもそうだし、すでに洗礼を受けている人たちも、みんな共に支え合いながら、神様に支えながら歩んでいきたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」
ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」2026年4月2日聖木曜日のミサ防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 聖木曜日の晩餐は、イエスが死を前に弟子たちと食事を共にし、その心と恵みを分かち合った出来事です。食事は親しさのしるしであり、本当に分かち合ったイエス様そのものは「ご聖体」として今も私たちも恵みをいただいています。ともに食事をする、足を洗い合うという深い親しみの関係性を生きる、そんな生き方ができるように恵みを願いましょう。 https://hofucatholic.org/misa-info 防府カトリック教会の最後の晩餐のモザイク画ですはこちらから! 福音朗読 ヨハネ福音書13章1-15節 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」 最期の食事をともにしたイエスの愛 今日の聖木曜日主の晩餐の夕べのミサを、今、私たちは捧げています。けれども、特にこの教会は、この晩餐のミサが意義深いのではないかなと思います。というのは、この祭壇の向こう側に、最後の晩餐のモザイクは大きなモザイクがかけられてあって、私はほぼ毎日これを眺めているので、この教会は最後の晩餐教会という名前にしたらいいのではないかと思うぐらいはともかく、あれが一番のイメージというか、何かに残るように思っています。 イエス様が最後に亡くなられる、亡くなられる前の最後の晩餐ということで、やはりイエス様が最後の最後に亡くなる前に弟子たちと一緒にこの食事をするというのは、イエス様にとってもそうですし、弟子たちにとっても非常に心に残る何か出来事だったのであろうと思いますね。 私はちょっといつ死ぬかはちょっとまだ分からないんですけれども、やはり人間が亡くなる前に、やはり親しい人と、それは主に家族でしょうけれども、最後の最後にやはり家族と食事の時を持ちたいと思うのは、人間として非常に自然な気持ちではないかなと思いますね。 ちょっと前ですけれども、伊丹十三の「たんぽぽ」という映画があって、その中でちょっとしたエピソードなんですけれど、お母さんがもうちょっと亡くなりそうで、寝ている時にね、子どもがいて、お父さんがいるんですけど、お父さんがチャーハンを作ってくれとお母さんにですよ。そのお母さんは寝ているんだけれど、起き上がってチャーハンを作って、そして最後家族でチャーハンを食べて、それでお母さんが亡くなるというシーンが出てくるんですけど、たぶんお母さんはチャーハンを作るのがたぶん上手で、最後にみんなでご飯を食べて亡くなるというちょっとしたエピソードだけ出てくるんですけど、何かやっぱりそういう気持ちになるかもしれない。共に食事をするということは、やはり何か親しさの心の触れ合いの具体的なしるしですから、それを私たちと一緒に食事をして、そして死に赴いていくということなんですよね。 この絵では、本当は食事ですから子羊を食べたんですけれど、こいつで1匹丸焼き食べるんですけれど、やっぱり一応ここは日本ですからお魚になっているんですけど、まあ3匹ぐらいの魚にちょっと入れ替わっていたりするんですけれども、でも、これもまた意味があって、お魚と言うのはギリシャ語でイクトゥスって言うんですけれど、イクトゥスというのはイエスキリストの意味なんですよね。だから古代からお魚というのはイエス様のシンボルで度々出てくるんですけど、結局、だから彼らが分かち合ったのは、イエスキリストを分かち合ったという最後の晩餐で、それはもうご聖体ということと深くやはりつながっていくんじゃないかなと思いますね。 そしてイエス様はそれを記念として行いなさいとことを私たちに命じられたわけですけども。何かそういうことがあるかどうかあれですけど、やっぱり亡くなる前に何か記念を残したいっていう、あるいは記念になるものが何かというのは気持ちとしてあるかもしれないですけどね。葬儀の時に、人によりますけれども、葬儀カードを作ったり、あるいはちょっとね、大切なものを棺に入れたりとか、何か記念になるものを、何かを最後に亡くなる前に分かち合いたいという気持ちになるのも、まあ人間的には記念だけじゃなくてね、イエス様はご聖体というもっと大きな記念を私たちに残されているわけですけれども、それも何か気持ちが分かるような気がしています。 そして、ヨハネの福音書は今読んだですけれども、さらに一つのしるしとして弟子たちが足を洗うという、それもやっぱり亡くなる前にイエス様が自分の生き方がどうなのかをもう一度行為として表す表したかったんだろうなという。最後の晩餐の時の弟子たちは、ぴんと来ている人と来てない人もいるかもしれない。ちょっと分からないですけど、イエス様はそういう自分が死に行く最後の弟子たちとの関わりを何か表したかったんだろうなと思いますね。 このモザイクにも表れている通り、一人はユダですよね。もう誰が嫌なのかもはっきり分かるように描かれてますし、みんながみんなイエス様と心が合わさっていたわけではないように描かれているわけですけれど、この周りの12人を見てもいろんなことを感じられますけれども、だけど私たちはやはりこうやってミサを日曜日集まっていますけれど、やはりイエス様の本当の心というか、亡くなる前の心を何かこう思い起こしたいと思います。 私たちがミサにあずかるということは、結局、イエス様の最後の心を分かち合うために、私たちもこの最後の晩餐の席に招かれているという、それが私たちにとって本当に大きな恵みだと思うんですね。しかも、一人じゃなくてグループで共同体として招かれている。だから、これは典礼を表しているとも言えるし、私たちの教会のあり方を表しているような気もやっぱりします。 私たちが親しい人と家族はもちろんそうなんですけれども、やっぱり親しい人とどうするかと言ったら、やっぱり一緒にお茶を飲んだり食事をしたりする形で共に愛や親しみを分かち合うのは人間としてもごく当然のことですし、私たちは、教会はイエス様の恵みを分かち合っているということですよね。それが場合によっては食事のような親しみを分かち合う場でもありますし、場合によっては足を洗うという奉仕の姿でお互いのつながりを確かめ合うことでもありますよね。 足を洗うというごくごく当時は召使いのする謙遜な仕事だったわけですけれど、やはり私たちが交わりの中で誰かの足を洗うようなことがあるでしょうし、あるいは逆に誰かの誰かに足を洗われることがあるかもしれない。それを具体的に助けられたり、助けたりする。そういう関係の中で、私たちはイエス様の恵みを互いに分かち合いながら助け合っているということですよね。本当にこの共同体の恵みの姿を、最後の晩餐で全てが表されているような気がします。 私たちが、自分が亡くなる時に、だいたいは家族の誰かと一緒にってことになると思いますけれども、でもやはりそういうこの社会の中で、やっぱり苦しんだり孤独だったり、そういう方々もいっぱいおられて、そういう方々がやっぱり教会に招かれて、その人の足を洗ったり、あるいはその人と恵みを分かち合ったりする、そういう教会共同体のお恵みが周りの人にも広がっていく。その恵みが与えられている以上、その恵みを分かち合っていく使命が、私たちにもやっぱり与えられていると思いますね。 ミサに招かれるだけじゃなくて、人間的な何かつながりや助け合いや、そういうものの中で、イエスキリストのお魚であるイエス様が分かち合われて、お互いが豊かになっていくということですね。 この最後の晩餐の記念を、弟子たちは深く深く心に刻んで、この恵みを使徒として世界中に分かち合っていたわけですけど、私たちもその恵みを分かち合えるようにお願いしましょう。その恵みをしっかりつながりの中で、私たちもその恵みを受けながら、でも、その恵みを周りにいる人々にも分かち合っていけるようにですね。 本当に何か言葉が変ですけれど、やっぱり自分が亡くなる前に誰と一緒に食事をしたいのか。家族はもちろんそうですけれど、家族以外で何か本当の意味で。この人と親しみを深く感じた、分かち合えた、助け合えたという、そういう何か記念ができる、そんな生き方ができるように、教会そのものがそういう記念を広げていけるようにですね、心を合わせて恵みを祈りたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」
マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」2026年3月29日受難の主日防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ イエスが十字架にかけられた背景には、人々の強い恐れと不安がありました。既得権益の喪失や社会の崩壊への不安が、弟子の逃亡、ユダの絶望、ピラトの責任回避、群衆の暴走を生んだと言えます。一方で、キレネのシモンや百人隊長のように恐れに巻き込まれなかった者は、十字架の意味を見つめることができました。恐れに支配されれば人はイエスを加害した側に回ります。だからこそ、困難の中でも振り回されず、神と共に歩む姿勢が問われているといえるでしょう。 祝700話!今回の音声は、お説教からです。 <audio controls src="https://hanafusa-fukuin.com/wp-content/uploads /2026/03/hanafusa700.mp3"> 福音朗読 マタイ福音書27章11-54節 11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。 15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 おそれに振り回されないで 今、マタイによる福音の中に現れているイエス様の受難物語が語られました。イエス様が何で十字架にかけられて殺されざるを得なかったのか。 それは直接的というか、実際にはユダヤ人のユダヤ教のですね、祭司長や立法学者たちが、イエス様の影響があまりに強くてですね、彼の言葉にしろ行いにしろ、彼が活動を続けるならば、このユダヤ教の根幹が揺り動かされるというかですね、そういう強い恐れと不安を彼らがやはり持ったというかですね、 イエスが殺される本質的なところは、やっぱり人々がイエスを恐れた、自分たちの今までの生き方がなんか崩れてしまう、イエス様によってですね、既得権益が失われるだけではなしに、ひょっとしたらイスラエルの国のあり方そのものも根幹から揺り動かされてしまうというですね、強い恐れと不安から、イエス様を殺そうというふうに考えたんじゃないかと思います。 イエス様のこの受難の苦しみの中に、人間の恐れと不安がやはり非常にはっきりと出てきているんじゃないかなと思いますね。 弟子たちはどうだったか。やっぱりその恐れから逃げてしまったということでですね、恐れと不安から、もうイエス様についていけないと思ってですね。 ついでに今日朗読したマタイの直前は、ユダの自殺まで書いてあるんですね。ユダはやはり後で後悔するわけですけど、やはりその恐れと不安から、結局自分の命を絶たざるを得ないというですね。それも恐れと不安に振り回されている。 そしてピラトはですね、イエス様を別に殺したくはなかったんですけど、結局彼は治安維持が一番大事なことですから、群衆が騒ぐともう恐ろしいので、で結局手を洗って、責任逃れしたんですね。 そして最後、群衆はなんで十字架につけろと叫んだかといったら、煽動されたんですよね。こう、いまでいうフェイクニュースというか、陰謀論かなんかで、実はイエス様は、まあちょっとわかんないですけどね、実はイエス様は何かローマ帝国と結託していて、ユダヤ教を滅ぼそうとしているとか、ま全く根も葉もない噂を流してですね、 フェイクニュースとか大体ああいう噂話っていうのは、今が始まったわけじゃなくて、昔からあったわけですから、やはり噂話とか陰謀論とか、それは私たちの不安とか恐れをかき立てるので、あっという間に広まって、みんな流されてしまう。 だからイエス様の十字架の苦しみを見ていると、周りの人々がみんな恐れとか不安に振り回されて、やっつけようと思ったり、叫んだり、バカにしたり、逃げたり、責任逃れしたり、こう振り回されていると思うんですよね。 実際私たちは、だんだんと不安の時代に、何かですね、戦争の影響も日本にこれから来るかもしれない。 その中で、私たちが不安とか恐れにとらわれていると、とんでもない方向に行ってしまうということを如実に語っていると思いますね。 今日の登場人物の中で、実はあんまり恐れに振り回されていない人が2人出てくるんですよね。1人は誰かと言ったら、実はキレネのシモンなんですけど、この人、部外者で、田舎から出てきたおのぼりさんだったので、このエルサレムの人々の恐れとか不安の中に実は関係ないんですよ。 ただ単に見物に十字架を見に行っただけなので、ある意味、恐れから外れてたから、突然担がされたのも、もちろんがっかりしたでしょうけど、でも逆にその人々の恐れから離れてたから、ある意味十字架を担ってですね、イエス様と共に歩むことができた。 そして最後の百人隊長ですよね。百人隊長もこれはやはり死刑執行の責任者ですから、恐れとか不安じゃなくて、客観的にこの処刑がどう行われるかということを見ていただけだから、百人隊長も恐れに巻き込まれてない。 それでどうしたかって言えば、最後の最後、イエス様の死んでいく姿を客観的に見て、この人は神の子であったという信仰告白をするという形で物語が終わるわけなんですよね。 やはりね、私たちが生きていく中で、振り回されないで、不安とか恐れとか、あるいはいらいらとか、生活の様々なそういうものに巻き込まれるほど、十字架でイエスを殺す側に私たちは回ってしまう傾向性がいつもあると。 それをしっかり心に刻んで、私たちがどう振り回されないような生き方をしながら、イエス様に従って生きるのか、それを見なきゃならない。 イエス様も恐れとか不安はもちろん感じておられました。ゲッセマネの祈りのところがですね、それは感じておられたんですけど、もしイエス様が恐れに振り回されていたら、エルサレムに絶対行かなかったです。殺されるの分かってるから。 で、ガリラヤにいて、それで弟子たちを武装させてですね、反乱勢力みたいなものを作って、自分が死なないように、抵抗勢力を組織してですね、もしかしたら今のハマスとかアルカイダみたいになっちゃったかもしれないですけど、 恐れにイエスが振り回されていたら、イエスが十字架に向かうことすらなかったんですよね。 だから全然違う展開になって、私たちの救いが成就されない方向に行ったと思います。 イエス様が自分の使命をしっかり受け止めて、イエスの使命は何なのか、マタイの福音書にはっきりありますけど、マタイに最初と終わりに出てくる。 神は私たちと共にいるというのが、マタイの福音書の根本メッセージなんですね。 十字架から復活までですね、神は私たちと共にいる神だということですから、十字架の苦しみを通して、その困難とかマイナスなものを受け取る側に神がおられて、そこでイエスが共にいてくださっているということを、イエス様は示してくださった。 だから私たちは、困難や苦しみの中にあっても振り回されず、イエスと共に、場合によってはキレネのシモンのように、自分に与えられた十字架を淡々と担っていく。 そういう生き方を通して、復活に向かっていくことができるでしょうし、あるいは百人隊長のように、イエスの十字架を見つめて、そこにこそ神の子としての姿があるという信仰と礼拝の気持ちを深める機会が与えられているということですね。 それを私たちは心に刻みましょう。 イエス様が十字架上で、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言われますけど、それは私の解釈ですが、イエス様が苦しんでいる人と共におられている印ですね。 私たちが絶望的な状況にあったとしても、そこでこそイエスは共にいてくださっているということの大きな印ではないかなと思います。 だから私たちは、自分自身の小さな困難や苦しみに振り回されず、あるいはこの2026年もどうなるか、戦争の影響などで大きな困難が来る可能性もありますけど、 そういう社会的な困難の中にあっても、イエスと共に歩むというところに自分の生き方の基盤を置いて、振り回されず、誰かを攻撃したり、自分を責めたり、逃げたりするのではなく、 神と共にそれを受け止めて、復活の恵みに向かって歩んでいけるということを主が示してくださっていると思います。 やはり今年こそ、イエス様の受難をしっかり受け止めて黙想して、それを私たちの生きる糧にしていきたいと思います。 少々の困難があっても、それを受け止めていくならば、私たちは主と共に歩んでいくことができると思います。 イエス様の受難の苦しみを通して、私たちが勇気と平安の心で歩めるように、このミサで、私たちと、そして戦争や様々な苦しみの中にある人々に、イエス様の恵みと力が与えられるように祈りたいと思います。The post 【ミサ説教】マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」
ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」2026年3月16日カマのミサ旅路の里 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ ヨハネ4章の癒しは、離れた場所にいる人にもイエスの言葉が届くことを示しています。ここで問われているのは奇跡そのものではなく、その言葉を信じる信仰です。現実が厳しいと人は信じることが難しくなりますが、信じることは未来への希望を持つことでもあります。イザヤ書が語る新しい世界の約束のように、現実を認めつつもそれを超える神の愛を信じて歩むことが、私たちに生きる力を与えるのです。 本物の気功師さんに治療したもらいたいA次郎です 福音朗読 ヨハネ福音書 4章43-54節 (そのとき、イエスはサマリア)を出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。 離れていても届くもの 今日の文章はヨハネの4章イエス様の癒しのお話ですが、このカファルナウムの王の役人というんですが、これと同じかどうか分からないですけれど、マタイのファッションに出てくる百人隊長のしもべの癒しとの話ではないかという説もありますけれども、ちょっと微妙に違っていて。そうである人とそうでないという人はいるのですが、まあ共通点は何かと言ったら、離れている人を癒しているってというんですかね、その場にいない人をイエス様は癒しているということなんですけど、イエス様の癒しのやり方はそれぞれで、いろんなやり方があるんですけれど。離れている人に対しても、イエス様は癒やすことができるというのもなかなかすごいなと思いますが。 日本の気功、気功師、本物の気功師というのは、実は離れていても癒せるんですよね。この気功で癒す人です。私の知り合いにもいるんですけど、一人ですね。びっくりしますけど、気功して地球の裏側に行っても癒されるんですよね。この気を飛ばして。気功師の本物か偽物かの区別は、やっぱり遠治療法の離れている人を癒せる人が大体、気功師としては本物って感じですかね。ちょっとこのイエス様が遠くの人を癒されるのを見ると、私の知り合いの気功師のことを思い出しますけれども。 マタイの8章とヨハネの4章で、他のところもそうですが、つながっているのは何かといったらですね、やっぱり信仰が問われているとですね、人間の側から信じるということなんですよね。イエス様が言うわけですよね。しるしや不思議なはを見なければ決して信じないというふうに人々について言うわけなんですけど、でもこの人はイエスの言われた言葉を信じて帰っていったと言います。 何を信じるかって、イエスの言葉を信じるということで、それで癒しが行われるわけですけど、マタイの8章もそうで、今、聖体拝領で言うようになりましたけれども、イエス様が自分の家に来なくていいとお言葉さえ言ってくださったら、それでしもべは癒されますと言って、それで癒されるわけなんですけど、癒しは神様からの純粋なお恵みですけども、でもそこで人間の側から、必ずしもじゃないけれど、やっぱり問われるのはこの信仰ということなんですね。信じるかどうかということが私たちの人間の側に問われる、ある意味唯一のことだというふうに言えるかもしれないと思います。でも、この信じるというのがなかなか難しいということもあると思いますね。何で難しいかと言ったら、現実が厳し過ぎる時に、私たちは信じることができないということだと思います。 まあ、この釜ヶ崎でもそうですけども、なかなか厳しい現実があって、一人一人の問題、抱えている問題から脱せられないということもありますし、社会構造的にですね、やっぱり弱い人がどうしても虐げられたりとか、結局やはりあるでしょう。世界中そうですけど、結局強い者が勝っちゃうということで、弱い者が負けちゃうという、今の戦争もそうですけれど、結局強い者が弱い人をやっつけちゃうような、そういう現実がある中で、その中で私たちはどう信じて生きていくかというかですね、それが実際一番大事なことじゃないかなというふうに思います。厳しい現実があったとしても、その中で私たちは神様の言葉、神の救いを信じながら歩んでいくことができるかどうか。だから、実際、信じるってことと希望することとほとんど変わらないんですよね。信じるってことは、やっぱり未来を、未来に対して希望を持って生きていけるかどうか。 まあ、今はちょっと厳しいかもしれないんですけど、この厳しさを乗り越えていく神様の力を信じる、あるいはそれを希望していくという中に、私たちのこの生きる力が、何かが開かれてくるということなんですよね。 第1朗読がイザヤの65章でなかなかいいんですけど。見よ、私は新しい天と新しい新しい地を創造するというですね、救いの世界をこの一生の間語っていてですね、若死する者がいなくなるってんですね。年老いて長寿を満たさない者もいなくなる。だからみんな長生きになるってことを言ってるわけですけど、まあ釜ヶ崎は平均年齢10歳以上若いですよね。だいたい88年80ぐらい。女性もうちょっと長いけど、80ちょっとぐらいが平均年齢だけど、でも70ぐらいでしょうね。10歳ぐらい若い時に死んでいる。それはもう生活のいろんな問題とか、若い時から不摂生しているとか、ちゃんと栄養を摂ってないとか、野宿をしたことがあるとかなんとか、10歳は。だから西成区の平均年齢、非常に低いです。全国で一番低いぐらいの、特に男性ですけど、若死に率すごい高いですよね。でもそうじゃないとここでは言ってるわけですけど、今度朗読の方で切れて、この後もっと面白い話があって、この狼と小羊が一緒に座ったからとか、そういうところが実はつないであるんですけれど、でもなかなかね、実際はさっき言ったように、大きいものが強いものは弱いものをいじめるとか食べちゃうとか、そういう世界なのに、このつなぎのあとはひっくり返って、弱いものと強いものは仲良くするみたいな話がこの後出てくるんですよね。それはやっぱり神の国の到来の話でしょうけど、でも、そういうこういうみ言葉を私たちは信じて生きていくかってことなんだと思うんですよね。現実はいろいろ難しいことがいろいろあるある。それも確かですけど、それを超えるやはり神の愛を私たちが信じて、それを単に信じるだけじゃなくて、やっぱりそれに向かって歩んでいくという、そのそういう力が私たちには与えられるということですよね。 まあ、病気が癒されることもあるし、癒されないことも実際はあります。癒されたとしても、また病気になっちゃったりとか、依存症の人が癒されたと言えるかどうか分からない。またスリップしたりとか、たびたびやっぱりありますけれど、それでもやはり救いを信じながら私たちが歩んでいけるかどうか、ちょっと目にはちょっと何か駄目になったような感じに見えたとしても、でもそれが最終的にダメではなくて、やっぱり私たちは救いに向かっている。 神の国の完成、やっぱり喜び、正義が本当に守られる、平等な平和な社会、争いのない社会に、それはやっぱりイエス様がもたらしてくださるということですから、それを私たちが信じて、それは希望して今ないわけですから。もちろん全然ないわけじゃないけれど、完全ではない。 だからこそ、私たちは信じることと希望することが、私たちはやっぱり前に向かって歩んでいく。私たちの世代でできないかもしれないけど、それはまた次の世代に持ち越されるかもしれないですけど、イザヤ書ではっきりそのような世界が来るって書いてあるわけですから、その言葉を私たちが信じて歩んでいけるかどうかですよね。 私たちがやはり良いものを信じていけるようにですね。現実を認めることは信じることと関係ないですからね。現実は現実で認めなきゃならないですけど、信じるのは現実を超えるところを信じる。現実を超えていくことに希望を置くということですから。神さまの愛に信頼して私たちが歩んでいけるように、神さまに恵みと力を願いたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」
ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」2026年3月15日四旬節第4主日ミサ防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ ヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人の癒しは、単なる奇跡の物語ではありません。人々は不幸の原因を過去の罪に求めようとしますが、イエスはそこから神の業が現れる未来へ目を向けさせます。盲人は癒された後、共同体から追い出されるという困難を経験します。その後の過程の中で再びイエスと出会い、信仰の目が開かれたのです。癒しと救いは一度きりの出来事ではなく、長いプロセスの中で深まります。神の業は目立つ奇跡だけでなく、人と人とのつながりの中に静かに現れていくのです。 東日本大震災から15年。釜石教会でのお茶っこサロンも15年も続いているんですね。 福音朗読 ヨハネ福音書9章1-41節 1〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 神の業を見出す 今日の福音書は、ヨハネの9章の実は長い長い盲人の癒しのお話ですね。全部をちょっと読み切れずに、ちょっと部分的に少し省きましたけれども、この人は生まれつきの生まれつき目が見えなくて、それで。その人を見て、弟子たちが尋ねるんですよね。この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからか。本人ですか、それとも両親ですかと尋ねるわけなんですね。やはり当時の考えでもそうだし、実は私たちもそう考えているところがありますが、何か悪いことや問題があったら、それは本人が間違いを犯したからこうなっちゃったのか、あるいは逆に両親が悪かったから両親の影響でこうなっちゃったんじゃないかとか、いろいろ原因を考えたりすることはよくあることだと思いますね。 もちろん、やはりどういう原因があったのかということを見ることも全く意味がないことではないですけれど、でも、イエス様の発想は、過去にとらわれているのではなくて、やっぱり未来志向っていうか、ある何か大きな出来事があった時に、じゃあそこから出発してどういう神の業が現れるか、どういう神の業を求めていくかという未来志向で考えていくということで、これはなかなか大切なことじゃないかなと思いますね。 この箇所については、特に障害者の方々が散々議論したり、話し合ったり、黙想したりするところで、このことについても様々なことがあるんですが、でも、いずれにせよ、このことを言った後に、イエス様がこの盲人を癒されるんですよね。それがちょっとなんかどうなのかなと思いますけど、地面に唾をし、唾で土をこねて、その人の目におぬりになったんですけど、こんなことを現代のお医者さんがやったら大変なことなります。泥を混ぜてですよ。目に何か塗り付けるとか、何かもうちょっと現代の医学から考えたら、ちょっととんでもないやり方でしょうけれども、ともかく、それで池に入ったら見えるようになったということですけど、やはり一人一人の癒しの与えられ方は、それぞれが特別な方法でイエス様が癒しの恵みを与えてくださるという、一人一人やり方が全然違いますから、やっぱり私たちが癒しの恵みを受けるのも一人一人個別の形だということですけど、でもこの話のポイントは、ここで目が実際に物理的にですね、肉体的に目が見えるようになったということは、話の出発点にしか過ぎないんですよ。目が見えるようになってめでたしめでたしじゃなくて、目が見えるになってからの話が実は長く長くあって、それで何かトラブルに巻き込まれてしまって、周りの人も振り回されて、しかもこの朗読省きましたけど、親まで呼び出されているんですよね。 親も呼び出されて、親もなんかもういい加減なことを言って責任逃れする話がいろいろあって、結局どうなったかと言ったら、彼は外に追い出された、外というのは何かというと、ユダヤ人コミュニティーから追い出されたところなんですよね。目が見えるようになって、結局彼は何か何か非常に大きな困難を逆に背負わざるを得ないようなことに実はつながっていく。微に入り細に入りプロセスがあるんですが、はっきり言えるのは、癒すというのはプロセスだということなんですね。それは単なる癒しという私たちの救いは、様々なプロセスを経て、これがあったら終わりというよりも、何か持続的なことの中である時はいいことが、ある時は困難があったり、その中でそれは信仰と言ってもいいかもしれないですけど、それはプロセスの中で深まったり、広まったり、強まったり、そして結論は何かと言ったら、最終的にこの人は外に追い出されて、そこでもう一回イエスに出会って、そこでイエスを主として礼拝する、イエスを救い主として受け入れるというところで、この話のいわば結論のような形になるわけですよね。 だから、彼の目が開かれるということの一番大事なポイントは、肉体的癒しよりも信仰の目が開かれるというところまで導かれているということが一番大事なポイントなんですよね。 だから、どこに神の業が現れるというか、どこに神の業があるのか。普通は、だから、病気が癒されたから、もう神の業だという、それそれも含まれていますけれども、でも、信仰の目が開かれる、この人がそこにこそ本当に神の業があるということなんですね。 私たちが私たちの信仰生活の中で、どこでどのような神の業を見つけられるかということなんですよね。見えているという人が見えなくなったり、見えない人が見えるようになったり、私たちが私たちに与えられる神の業をしっかり。様々な人生の出来事の中にいろんなことがありながら、その中で神の業を私たちが見出していけるかどうかということなんですね。 特にこの頃になると、3.11もちょっと過ぎましたけど、東日本大震災の報道がテレビでも出たり、YOUTUBEで昔のことを見たり、震災の直後から私、釜石に知り合いがいたせいで釜石の支援活動をずっとやっていたり、最初はボランティアで関わって、途中からはNPOになったから理事になって、それで10年以上も年に何回もそちらに行って、支援活動と町の復興の姿をずっと見てきてですね、それもやっぱり大きな、15年ですからね。やっぱり大きなプロセスというか、やっぱり流れがあるというのか。だからもう今すごいんですよ。堤防なんかものすごい高いのがあったし、道路とかあれば全部整備されてますけど、でも過疎の問題ですよね。人口が減ってしまって、この防府よりももっと危機的な状況というか、町全体の問題というんですかね、様々なことが出てきて、それも報道でご存知の方も多いと思いますが、その中でずっと教会、NPO、そして教会として支援活動をやってきて、とにかく主任神父さんが4回替わって、そのうちの二人はもう天国に行かれたんですよね。教会委員長とか信徒代表も4人替わって3人がもうみんな以前の教会委員長全員天国なんですよ。今は若い人がちょっとなっているんですけど、もう教会そのものもそうやってどんどんどんどん変わって、人も変わって、ボランティアもいっぱい来て、それでまた引いたり、今どうしているかといったら、教会の中でフィリアという名前なんですけど、向こうでは「お茶っ子サロン」といって、お茶飲み会みたいな感じですよね。それをもう10年以上ずっと続けてきて、未だに続いているんですよね。それで3.11に合わせて向こうの人が写真とか送ってくれてね、今の様子こんなんですって言うんですけど。でも建物を建てたりどうのこうの、町がどうのこうのあるけれども、結局ずっと人と人との繋がりを大事にしながらあちこちでやってた。お茶っこも、教会の一部を未だに毎日やってるんですよね。その主任神父さんご自身と代表と教会の信者さんと周りの方々と、ほぼ毎日ずっと。いまだにボランティアがたくさん来た時もあったけど、今ボランティアも全部なくなって、地元の人たちばかりでやってますけど、でもやっぱりか、そういうのを見ていると、15年経って神の業は何なのかといったら、やっぱり人と人との繋がりで、いまだに人と人との繋がりを大事にしながら、お茶飲んだり、ごぼう体操と体操をやったり・・・色々プログラムがあるんですけど、それをずっとやり続けている中の人と人との繋がりの中に、神の業というか、神の国の現れを15年たった今もやっぱりひしひしと痛感できるという、やはりやっぱり神の業が現れてくるというのは確かじゃないかなと思いますね。 だからまあ堤防を建てるとか、何か大きな、それは目に見えることで、それももちろんやらなきゃならないことですけど、でも本当に大事なことは、やっぱり人と人との繋がり、あるいは神と私たちとの繋がり。それはやっぱり地道でそんなに目立つものではないけれど、でもそういうところにこそ本当の神の業があるのではないかと思います。 私たち自分自身の信仰、あるいは私たちの教会、あるいは人との繋がりの中で、大きな問題とかいろいろなんかいろいろありますけれども、個人にもグループにも。でも、そういうことを経ながら、私たちは信仰のプロセス、それを歩んでいきながらですね、やはり神との繋がり、人との繋がりの中で、神の業、神の国、あるいは神様の温かさを分かち合っていけるかどうか、それがいつもいつも問われているし、いつもいつもその恵みがやっぱり私たちに与えられていると思います。 私たちがいろいろなことで、いいこと、悪いこと、いろんなことを繋がりながら、私たち経験しながら歩んでいますけど、そのその時その時で神の業をしっかり見出していけるように、神様がその時に働いてくださっている、その恵みをしっかり見出しながらですね、神の業を互いに見出しながら、それを分かち合っていけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」
ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」2026年3月8日四旬節第3主日ミサ防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ ヨハネ福音書のサマリアの女の物語は、人の心の渇きを示しています。彼女は多くの男性との関係の中で満たされない心の穴を抱えていたが、イエスとの出会いによって「生きた水」を知りました。人は誰でも心に穴を持ち、それを愛や仕事、酒など様々なもので埋めようとするが本当には満たされません。山頭火の生き方もその一例といえます。イエスが与える生きた水、すなわち聖霊の恵みと真実に生きる道によってこそ、心の穴は塞がれ、渇きは満たされるのではないでしょうか。 今回も山頭火のお話の続きがあるにゃ 福音朗読 ヨハネ福音書4章5-42節 5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」 心の穴 今日の福音書は、ヨハネの4章サマリアの女とイエス様との関わりの話ですけれども、非常に印象深い話ではあると思います。サマリア地方というのは、いわゆるユダヤ人じゃなくて、ちょっと異邦人の土地なんですよね。だから、ユダヤ人は嫌われているところなんですが。エルサレムとガリラヤ地方を通る道というのは何本かあるんですが、山の道を通ると、このサマリヤ地方を通ることになるんですけれども、そこでヤコブの井戸という旧約聖書から昔からあった井戸での、そこにイエス様が疲れて旅で疲れて座っている時に水を汲みに来た女の人の話なんですね。 ヨハネの福音書は実は非常に面白くて、ここはサマリアの女とイエスの話なんですが、福音書では愚か者の対話と言ってですね、イエス様と登場人物の会話は必ず食い違う。ですから、全く理解し得ないというふうにできていて、ここも水の話をして、イエス様が水を飲ませてくださいと言っているのに、最終的に女の人がですね、その水をください。渇くことがないように、ここに来なくてもいいようにその水をくださいと言ってですね、水違いの話になっていて、話がいつも通じていないというのがヨハネの福音書の特徴なんですが、ここも全然食い違っているわけなんですよね、話が。 その水をくださいと女の人が言ったら、またイエス様がまたちょっと唐突にですね、「あなたの夫をここに呼んできなさい」って。全然関係ない話を急にするわけですけれど、でもそこにやっぱりこの女の人の一番の問題点というか、最大の苦しみというのがはっきりするわけですよね。で、「夫はいない」と答えると、イエスが「夫はいませんとはその通りだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」ということで、この人の問題点が明らかになるんですけど、5人の男性と結婚していたってことですよね。6人目の男性と同棲してるんだから、この女の人のことを考えると、いったいどんな人生だとちょっと想像を絶してて想像つかないような。この5人の夫が全部死んでたとしたら、死んだら次の人と結婚できるわけですよ。この5人の旦那さんが次々死んでいったとしたら、現代的に言ったらもう保険金殺人じゃないかっていうか、どう考えても不気味な話というか。もし死んでなかったら女性の方から別れられない。昔は男性の方から別られたから、よっぽど性悪の女で、こんな結婚生活に向いてない。多分めちゃめちゃ美人で何てか男の人が寄ってくるんですけど、主婦業が全くできないから次から次へと離婚をさせられたかどっちかですけど、どう考えたってちょっとレベルを超えて、ひどい。ひどいとも言えるし、不幸だとも言える女の人で、その問題がここでイエス様の一言でも全く明らかになってるわけなんですよね。 結局、この女の人の問題は何なのかと言ったら、僕の言葉で言ったら心に穴が開いてるんですよね。心といってもいいでしょうか、穴が開いてて。乾いていて、それを男の愛で埋めようとするんですけど、埋まらないんですよ。全く。ぽっかり穴が空いていて苦しいんですけれど、その穴を何かで埋めたい。この女の人はやっぱり男の愛で埋めたいんだけれど、あまりにその穴が深すぎて、男の人が疲れちゃうというか、関われないぐらい。その穴を私たちはいろんなもので、人によって穴が大きい人と小さいと言いますけど、この人の穴はかなり大きかったんですよね。 だからどうやったって埋まらないから、喉が渇いて渇いて。だからイエス様に喉が渇く、乾かないように水をくださいと言わざるを実際得なかったといういうかですね、何か悲劇的な女性ではあるわけですよね。 でも結局、意識してるかしてないか、穴が大きいか小さいか、人によって違いますけど、やっぱり例えばアルコール依存の人とか依存症の人はやっぱりその穴を必死で何かで埋めないともう生きていけない。それがショッピングだったり、あるいは何かのある依存だったりですね。男の人だったら仕事依存の人も多いですからね。この穴が埋まらないから仕事をして何とか穴を埋めようとか、あるいはお金儲けを一生懸命する人も、お金が欲しいんじゃなくて、結局お金で穴を埋めたいんだけれども、埋まらないからもっともっとお金を稼がなきゃならないとか。だからなんというか、ある意味悲劇だけれども、誰にでもある話なんですよね。 でも、イエス様と出会ったことによって、彼女はやっとこの穴が埋まるようになってきた。このイエス様が言う水は、その人の内から泉となって永遠の命が湧き出わき起こる。水がこの穴の中から満たされる。それはイエス様と出会うことによって初めて、この人はその自分の心の穴が本当に埋まるものに出会うことができたということですよね。 でも、その穴を埋めていくということは、別の言葉で言ったら、霊と真実による礼拝と、イエス様言っているんですよね。穴を埋めるのは何かと言ったら、本当に心の中を埋める、「生きた水」というのは聖霊の恵みと、そしてイエス様がくださる真実を生きていくことの中で初めてその穴が埋まっていくということですよね。この穴を私たちは神様の恵みによって霊と真実の道を歩むことによって埋めることができたら。埋めることが私たちにはできる道が示されているということですね。 ちょっと先週ちょっとだけ話した話しをしますけど、山頭火という俳句の名人がいて、生家がすぐそばで、それこそ私、お墓もすぐそばに歩いて行ける距離にあってですね、山頭火のことをいろいろ読んだりしているんですけど、はっきり言って彼の心にも大きな穴があったんですよ。山頭火は明らかに。結局結婚して子供もいるんだけれど、結局家庭生活全くできない。仕事もできないですね。何ヶ月しか働けない、定職に就けないんですよ。お金も稼げない。だから結局奥さんも素晴らしいんですよね。もうめちゃめちゃ美人だ。「サキノ」っていう奥さんなんですけど、周りの人がびっくりするぐらい美人だった。子供もめちゃめちゃ優秀なんですけど、でもやっぱり家庭生活で穴が埋まらないからもう出られない。完全アルコール中毒でアルコールで穴を埋めるか、結局放浪生活をしてあちこちを物乞いのようにしてやるしか生きることが彼はできなかったんですよね。だから、ある意味、本当に深い深い心に穴があって、その代わり彼はやっぱりちょっと救いを求めて、曹洞宗の本当のお坊さんにはなれないんですけど、永平寺で曹洞宗って永平寺で修行しなきゃならないけど、修行なんかできないから、3日ぐらいしか行ってない。だからまあ正式なお坊さんじゃないんですけど、一応まあお坊さんみたいな感じで。でも結局曹洞宗の禅宗も彼の穴を埋めきれなかったわけですけど、それでもやはり何とか自分の生き方を求めて俳句だけは書けたんですよね。俳句を書くことで、彼はなんとか自分の生き方を貫くことができたんですけど、家族は大きな犠牲を払いましたけれど、彼の作った俳句で、たぶん多くの人が救われている。彼の俳句によって救われた人はいっぱいまたいると思いますけれども、彼はそうするしか他に道がなかったわけですけれども。 いずれにせよ、山頭火の生き方を見ていて思うのは、何か自分が神父になった意味がよくわかったというか。僕の中にも穴があるんですよ。心の中に大きな穴があって、この穴がなかなか埋まらないんですけど、山頭火が、奥さんと息子を置いて家を出たっていうのは気持ち的にわかって。だから僕は結婚しなかったなら、僕はたぶん結婚していても結婚して家庭を持っても自分の穴が埋まらなかった気がして、神父になって神様とガチで付き合っているから、どこか埋まっているところがあって、それなりに自分は生きられているんじゃないかって、山頭火の生き方と比較してちょっと思ったりするんですけども。 とにかく山頭火は本当に破綻者でしたから別れているんだけど、奥さんの仕送りをもらったりとか、奥さんの支援でまだ生きてたり、着替えなく送ってもらって旅している時にね、結局奥さんが年老いた後は、息子が出来のいい息子なんですよね。息子の仕送りで生きてた。晩年は何の世話もしなかった息子に助けられてたりして。ある時、息子からわりと大きなお金が送られてきたから喜んでそれで酒飲んで遊んで使い果たしだったら、そのお金は自分の結婚式。息子が結婚式だから親父に来てくれという日用品を送ってきて、その旅費があっても結局結婚式も出てないんですよね、息子の。 本当に破綻しているどうしようもない奴なんですけど、でも私たちはまあそこまでひどくない人が多いですけど、でも大なり小なり何かでこの心に穴がどこかに開いてるんですよね。人によって開き方も違うし、大きさも種類も違いますけど、でも私たちはイエス様と出会って、イエス様の愛の内に霊と真実の道を歩むことによって、私たちは救いの道を歩むことができるということを、イエス様がはっきり示しておられる。聖霊の働きですよね。祈りをしたり、あるいは神様に委ねたり、やっぱり神の心の中から穴を埋めてくださる聖霊の働きを私たちはいただくことができて、そして真実に従っていける。イエス様が示してくださった真実を生きるから、私たちは救いの道を歩むことができる。これは本当に大きな恵みだと思いますね。 私たちに示されている霊の導きと真実は一体何なのか。それを私たちが踏み外さないように歩んでいけるように、神様に恵みを願いましょう。私たちは皆、大なり小なり罪人で、大なり小なり穴があるわけですけれど、それをしっかり受け止めながら、イエス様が示してくださっている真実の道、聖霊の力に頼りながら、その道を歩んでいけるように、神様の恵みと力を願いたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」
マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」2026年3月1日四旬節第2主日ミサ防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 四旬節第2主日に朗読される主の変容は、十字架前に弟子たちへ復活の希望を示す出来事です。ペトロは仮小屋を建てようとしますが、父なる神は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と告げます。大切なのは記念や形ではなく、キリストの生きた言葉に耳を傾けること。騒がしい現代社会の中でこそ、教会と祈りを通して神の声を聞き、洗礼を受ける人も周囲も信仰を深めていくよう招かれています。 神父さんが山頭火が好きだなんて初耳だっったにゃ。(ラーメン屋さんに「山頭火」という店が多いのはなぜだろう) 福音朗読 マタイ福音書17章1-9節 1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 神の声に耳を澄まそう 四旬節の第2主日は毎年必ずそうなんですが、主の変容のところを必ず朗読することになっています。イエスは3人の弟子だけを連れて、高い山、タボル山かヘルム山かどっちかと言われていますけど、そこに登った時に、イエス様が生きている間にちょっとだけ神様の姿を現すというんですかね、特別にいつも普通の人間に、人間として生きている時は過ごしておられましたが、この時だけは特別に神様の次元を特別に示されるんですよね。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そして、旧約の預言者とお話をするとですね、ちょっと神秘的な姿を垣間見せた。これは多分、やはりイエス様が十字架にかかって苦しまれる時に、弟子たちが希望を失わないように、あらかじめ復活したイエス様の姿をあらかじめ見せられたのではないかというふうに思えます。 でも、それに対してペトロは、だいたいそれを見た3人とも、あまりの光景でちょっと驚いてしまって、どうすればいいか分からなくて、ペトロは仮小屋を3つたてましょうと。あなたのためモーセのため、エリアのため、何かちょっと祈る場所というか、記念すべき所を作ったらどうですか?みたいな感じで言うわけですよね。何かやっぱりちょっと特別なことがあったら、何か形にして残しておかないともったいないとペトロが思ったのかもしれない。でも、その後、雲が現れて見えなくなって、父なる神様の声がして、イエス様はですね、イエス様のことを神様の愛する子であって、心にかなうものだから、イエス様にちゃんと聞きなさいということを父なる神がこの3人に言うわけですね。 私たちにとって一番大事なのは、このイエス様に聞けというですね、それを大事にすることができたらいいんじゃないかなと思います。 私が防府に来て良かったことはいろいろあるのですが、プライベートな話をすると、非常に良かったなと思うことは何かと言ったら、種田山頭火の生まれ故郷だったという。俳句で有名な人なんですけど、近くの自分でクリーニングを持って行ったら、クリーニング店の中にですね、山頭火のカレンダーがかっているから、あれっと思って、あれ山頭火ですよね?とかと言ったら、ああ、そう、そうですよと言って。それで生まれ生まれたところすぐそばですと言うから、えっと思ってクリーニング店を出たら、斜め向かいがこの生家跡で生まれた家の跡だったりして。そしたらよくよく見たらあっちこっちにこの防府で一番の誇りを山頭火かなと感じるぐらい。駅前に大きな銅像も立っていたり、あっちこっちに持ち石の公園もそうなんですが、あっちこっちに山頭火の俳句句碑というのが7つぐらいあるのかな。あちこちにあって、何となくちょっと嬉しくなってきたりしていたんですけど、でもまあ、例えば銅像を見たって、山頭火の銅像を見たって、あるいは何かそういう場所を訪ねたり、あるいはちょっと記念館までありますけど、だけどか、そういう場所を見てどうのこうのというよりは、やっぱり何が面白いかって言ったら、やっぱり山頭火の作った俳句そのものですよね。 文学者だから、やっぱり彼の作った俳句を通して何か感動したり嬉しくなったり、あるいはプラス大分彼のメチャメチャな生き方もちょっとオープンになっていて、ちょっと駄目駄目人間なんですけど、本当のところは。まあでもそういうのと合わせて、その素晴らしい、何とも言えないすっきりした感じの句が多いんですけれど、そういうのがあるから、何かこう、何か生きた言葉があるから、何かそこに喜びというか何かがあって、それがあったら像を見たってそれなりですけれど、でもそういう彼の文学と関係がなければ、ただの何にも銅像にしても何にしても、ほとんど何も意味がない。で、特に皆さんここで暮らしておられるから、別にあまり気にしても、僕みたいに外部で来た者にとっては、何かえらい不思議な山頭火の小道というのがあって、散歩道まであるんです。週一回は必ず歩いて、あちこちにこの俳句が掲げてあるんですよね。何となくそういう気持ちになって歩いたりしているんですけど、普通はあまり日常生活のこと、散歩道を歩くのは私一人ぐらいで、他の人と全く会わない。会わないんですけど。 種田 山頭火 (たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)1882年〈明治15年〉12月3日 – 1940年〈昭和15年〉10月11日)。日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。出家得度して耕畝(こうほ)と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。 代表句「まっすぐな道でさみしい」など。 だけどやっぱり何か場所とか像とか記念碑が意味があるのではなくて、やっぱり彼の文学というか、その生き方プラス。だから俳句が響いてきたり、何かを身近に感じたりするわけですよね。だから、イエス様も同じで、別にこの聖堂があるからとか、あるいは聖像があるからいいんじゃなくて、やっぱりそこにイエス様の生きた言葉とか眼差しとか配慮とか、それを私たちが感じていけるから、だから、これに聞けというのはその通りなんですよね。 何か形あるものがあればそれでいいんじゃなくて、何か特別なことがあったら、どこの国民もそうですけど、記念碑を作ったり。この周りも日本中、日本で歴史があるから、あちこちに記念碑とかいっぱい建っているんですけど、でも何かそれがあるからどうということは全くないわけで、中身というか、そのイエス様の心をどう私たちが受け止めて、それに聞いてそれに従っていけるかということなんですよね。 今日は洗礼志願式で、本当に多くの方が洗礼を受けられるということで、非常に私も嬉しく思っていますが、特に洗礼を受ける方々は、洗礼を受けるというのは形を、形は形なんですけど、形も大事で、それでご聖体をいただけるようになって、そこが大事なのですが、それ以上に生きたイエス様とか神様との交流とか、つながりというかですね、それを深めてくださればありがたいと思います。 目に見えないし。だから、こんなにはっきり私の変容みたいに現れてくださるわけじゃないですけれど、日頃は。でも、その神様の言葉を聞いていくような気持ちで、この洗礼を準備してくださっるといいんじゃないかなと思います。もちろん、洗礼を受けてからこそ、もっと大事になることですけれどもというのは思いますけれども。 本当にこの神様の声が響いてないんです。この社会はテレビを見ていても、今ネットでですけれども、ネットでユーチューブを見たり、TIKTOK見たり、いろいろする時代になりましたけれど、神様の声はほとんど響いてないんですよ。テレビを見ても、新聞でもそうですけれども、ほとんど響いてないから、私たちは意識して神の声を聞こうとしないと、なかなか接することができない時代なんですね。YOUTUBEとかTIKTOKが流行っているのはばかばかしい。そこが馬鹿馬鹿しかったり、ちょっとフェイクニュースが流行って。 だから、ちょっと言葉が通じるかもしれないけれど、この世で聞こえてくる声のほとんどは悪魔の声なんです。神の声じゃなくて、この世の声というか、悪魔の声がいっぱいいっぱい聞こえてきて。それに、私たちはもうついつい振り回される。そういう時代なんですよね。 神の声はなかなか響いてこないし、それが耳に届かない。そういう中に生きていますから。だから私たちはこうやって教会に通ったり、ミサに預かったり、聖書を読んだり、勉強したりする機会があって、そこで初めて神様の声というか、神の導きが何なのかが少しは分かる、そういう機会を必要だということだと思いますね。 特に今、洗礼の準備をされている方々は大人の大人、子供は子供でね、それぞれが洗礼の勉強をしていますけども、そういう勉強を通して、あるいは祈りを通して、私たちはしっかり神さまとのつながりを養っていく。それは洗礼までというより、洗礼を受けてからもそれを心がけるように、うっかりしているとすぐ世間の一般的な社会の流れの声しか聞こえなくなっちゃって、何か何かが分からなくなっちゃうってことは、今の一番の難しさがある時代なんですよね。 私たちがしっかり神の声を聞いていけるように、そして代父母の方々とかご両親の方々も、やはり神の声をしっかり聞いていける機会というか、チャンスを大事にしていって、この洗礼を受ける方々が信仰において成長していけるように、周りの方々も協力してくださったらいいと思います。 そのような形で私たちはこの復活祭に向けて準備できるように、互いに祈り合い、助け合っていきたいと思います。The post 【ミサ説教】マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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【ミサ説教】マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」
マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」2026年2月16日カマのミサ旅路の里 福音朗読 マルコ福音書 8章11-13節 (そのとき、)ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを […] The post 【ミサ説教】マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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