EPISODE · Aug 2, 2026 · 14 MIN
マタイ福音書14章3-21節「食事から広がる神の国」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
マタイ福音書14章3-21節「食事から広がる神の国」2026年8月2日年間第18主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ パンの増加の奇跡は、飢えを満たすだけの出来事ではありません。イエス様は、わずかなパンと魚を分かち合い、人々が共に食べる場をつくられました。食事は見知らぬ者同士を結び、交わりや助け合いを育てます。災害時の炊き出しや子ども食堂も、食べることから人を支える働きです。私たちも自分の持つ乏しいものを差し出し、共に食べることを通して、神の国のつながりを広げていきたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書14章3-21節 イエスは〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。 食事から広がる神の国 今日の福音書はマタイの14章、いわゆるパンの増加の奇跡と呼ばれるものですね。イエス様が人里離れたところに行ったのですけれども、そこに人々が集まってきて、大勢の群衆が集まって来たので、イエス様は非常に深く憐れんで、病人を癒しただけではなくて、そこでいろいろなお話を群衆たちにされたんだろうと思います。そして、時間もだいぶ経ったし、夕方なので弟子たちが心配して、周りにはお店とか何とかないので、とにかく群衆を解散させて、近くの村まで行って食べるようにしてくださいというわけですが、イエス様はここで突然びっくりするようなことを言われて。 行かせることはないと。あなた方が彼らに食べるものを与えようと言ってですね。でも、パン5つと魚2匹しかないと。それをわかちあったって大したものではない。でも、イエス様がその5つのパンと2匹の魚を取って、祈りを唱えて、それをどんどん増やしてですね。それで弟子たちがその人々にこのパンを分け与えて、みんなが満腹したという、まあなんかちょっとほのぼのするようなお話だというふうに思います。 まあ、このお腹が空いてて、このパンを食べるっていうかですね、魚もそうですけど、やっぱりこう食べるということは、何て言うんですか。やっぱり一番ベーシックな人助けというか、一番大切なことだなと。それをイエス様がされたということは非常に意義深いというか、何か心にしみるような形になると思います。 今はちょうど熊本の震災の後で、後で、今回真夏なので水とかいろいろな心配がいろいろありますけれど、結局そういう被災者の支援活動もそろそろテレビに出てきてますよ。炊き出しとか、やっぱりベーシックな、食べる、食べることからまず援助するというのは、何かもう、ごく基本の基本という、人助けの一番基本だと思いますね。 だから、野宿者やホームレス支援の基本もやっぱり炊き出しなんですよね。それで、今ちょっと地方では非常に減ってきて、都会でも少し減りましたけど、それでもやはり一番ベーシックな支援というのは、やっぱりご飯を食べてもらう手伝いをするというか、そして今も関わっている方がおられると思うんですけど、今、全国である子ども食堂もそうですよね。もうその、今や日本の中でも貧困率が高くて、満足にご飯を食べれない子どもたちもいるので、全国で子ども食堂をやってですね、まず食べることからスタートするということですから、イエス様がこの飢えている人に食べさせるところから奇跡を行って、その恵みを示されたということは、私たちにとって大きな励みにも、あるいは刺激にもなるし、何か私たちに与えられている課題でもあるというふうに思いますね。 食べるということは、単に飢えを満たすだけじゃなしに、それをとおして私たちに、何て言うんですかね、さらなる恵みというか、それを与えてくださっているような気がするんですよね。この教会でも皆さんご存知ですが、普通の日曜日のミサの後は、ちょっとみんなでコーヒーを飲んだり、あるいは最近は月に一回、外国人の人とやっぱりミサを一緒にするから、ミサだけだったら何だからって、一緒にご飯も食べたりしていますけれども、やっぱりそれが何かこう、ただ単にに食べたり飲んだりじゃなくて、やっぱり互いの交流というか、交わりのために非常に意味があるというふうに思いますね。 ここに東京から時々友達が来たり、あるいは全然知らないアジアからの観光客の方もよく来られて、シンガポールや香港からとかですね、見慣れない顔だなと思ったら、外国人で巡礼に来て、巡礼にこの辺、観光と巡礼ができたっていう、大体二人とか一人とか、そういう方は多いんですけど。でもそのミサの後一緒にコーヒーどうぞどうぞとか、食事どうぞどうぞって遠慮される方もいるけれど、でも東京から来た人もアジアから来た人も、えーとか、一緒にご飯を食べてるんですかとか、一緒にコーヒーを飲んでいるんですか、と、実は驚かれることが実は結構あって、それもすごく逆に不思議な気が。何かなんか友達同士であろうが、初めて来た人であろうが、何となく席について何かおしゃべりして、それだけで繋がりがあるっていう何かそれが私たちにとって非常に大事なことじゃないかなというふうにも思いますね。日本の教会でこういうことをやってるのは少なくはないけど、全部ではない。特に都会の教会だとですね、この教会もそういう方はもちろんと思うんですけど、ミサに来てすぐ帰っちゃって、誰とも交わらない人はいっぱいいるんですよ。だから、それでもなんぼ何でも寂しいからといって、このコーヒーコーナーとか、なんかちょっとやって交わる機会を作ろうとしている教会も見受けられるんですけどね。 やっぱりそれはイエス様が何か病気をいやされたり、あるいは心の糧になるお話をされて、じゃあそれで解散ということになったら、みんなそれでバラバラと帰っていくだけだったと思うんですけど、そこでイエス様がパンを増やされて、この何人か組にして、もちろん仲良しこよしてきている人もいれば、全然遠くから来てる人もいて、そこで一緒に何かこうパンと魚、ご飯を食べることによって、お互いの交わりというかですね、何かイエス様はそういうことを一番考えてたんじゃないかなというふうに、最近はちょっと思うようになってきたんですよね。イエス様のいいお話を聞いて、解散と言ったら、もうじゃあこれでって感じでね。みんなバラバラで、友達同士で近くのところに行って、それだけだったと思いますけれど、ここで一緒に食べるってことになったら、全然知らない人も共に隣に座っててって。イエス様ってすごいですよねとか、このあれはさっきのイエス様のあの言葉は一体どういうことですかみたいな感じで何となくお話をしたり、どこから来たんですかって言ったら、ユダヤユダの方から来ましたと言ったら、じゃあ、じゃあ今度そっちに来たら泊まりに来てくださいとかなんとか、そういうなんていうのかな、一緒にご飯を食べるから何とも言えないつながりがたくさんいるけど、全部が全部つながったわけじゃないんでしょうけど。でもそれでもお互いのつながりと助け合いの兆しみたいなのを、イエス様がわざと何かこの奇跡を通してみんなに投げたっていうんですかね。だから、食べるということは、一番ベーシックな、人のニーズに応えているけれど、それを通して私たちが互いに交わったり、支えたり、繋がったりできる、そういうこともイエス様が望んでおられる。 そういうところに、このイエス様の望んでいるこの神の国の広がり、そういうものがあるんじゃないかなとですね。それはいろんな形で教会の方も実践されているし、いろんな今やボランティアとか様々なことで、こういう食をとおしてつながっていく、そういうことが私たちにとって大切なことではないかなというふうに思います。 私、この前、五島にちょっと巡礼方々、ちょっと用があって行って、向こうの信者さんと喋ってて、ちょっと連れて行ってもらって、もう多分昔はもうちょっと人がいたんですけど、今過疎なんですよね。だから、五島の端っこの方に仲知教会というのがあって、前田枢機卿の実家がそこですとかなんとかって言われて、ちょっとさらに奥に行ったら。米山教会で一番端なんですけど、白浜司教さんの実家がそこですっていうんですよね。えーとか、じゃあそこに行こうかと思ったら、もうちょっと人が住んでないんですよ。だからこの道からその、その家に行くところまでが藪で、道が通れないんですよね。しかもその家も木に囲まれちゃって、屋根すらも見えなくて、結局入れなかったんですけど、ちょっと前まで行けたっていうんですが、ともかくそういうものすごい田舎の、今はちょっと過疎化ですけど、若い、そのまだ一昔前の教会が元気だった時の話をされてて。ご飯作る時にどうするかって言ったら、必ず多めに作るって。ですよね。家族の人数以上に必ず作ると。何でかと言ったら、みんな遊んでたりするから、ちょっとご飯時になった時に、ちょっとご飯食べて、ご飯食べて、ご飯食べて行かんかねみたいな感じで言って。だからだいたい食事は誰かが混じって食べてるから、必ず多めにやっぱり作るっていう。やっぱりそうやって食事が共にするっていうのが。繋がりがある証拠みたいなですね。なんかそういうのがあるなと思って。さらに驚いたのは。鍵かけてなかった。誰も自分の家に全く鍵をかける習慣が全くなかったって言うんですよね。それを聞いて驚いて、泥棒が入らないんですかそんなことしたらどういったんですよね。そしたら泥棒も入るって言うんですよね。しかもそれは小さな町だから、誰が盗んだかもわかってるって言うんですよね。とか言って、警察にそれを訴えないんですかって言ったら、いや、そのお父さんはこの子も将来があるんねとか言って、結局誰も警察に訴えないって言うんですよね。相当盗られたって言うんですよね。だからなんか食べ物の分かち合いどころか、もうそのお金もなんかなんかそんなに自分のものだった気持ちもなくて、なんか分かち合ってるって言うんですよね。しかもさらに言ってましたけど、その頃盗み癖のあった誰か分かってて、みんな分かってるわけですよ。でもそれがどんどん大きくなって、結局みんなおかしくなっちゃって。今はもう非常に不遇な形の、もちろん村にもいないし。だから、やっぱり神様はみとるけんねー、みたいな。言っておられましたけど。 ともかくやっぱりね、なんかこう、今はね、多分五島にもそんなことはないし、人も減ってしまったし、時代も変わりましたけど、やっぱり私たちは、ご飯を分かち合うというか。少なくともなんか一緒に食べながら。なんかそういうことの中で大切なものが養われていく。そのためにイエス様はこの奇跡をわざわざ私たちに残してくださった。 ミサのことももちろんありますが、ミサ、プラスやっぱり何か分かち合いながら、私たちが歩んでいけるように、自分の持っている乏しいものをちょっと分かち合う、その中で互いが豊かにつながっていける、そんなことを私たちがですね、小さな形で目指していけるように、神様に恵みと力ですね、慰めを願いたいと思います。
Embed this episode
Ready to play
マタイ福音書14章3-21節「食事から広がる神の国」
No transcript for this episode yet
Similar Episodes
No similar episodes found.