EPISODE · May 22, 2026 · 21 MIN
夢の棲家
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています# 夢の棲家 その夜、加藤誠一は画面の中に引き込まれた。 比喩ではない。少なくとも、彼にはそう感じられた。--- 四十一歳、地方銀行の融資課長。妻と子供二人、郊外の一戸建て。誰がどう見ても堅実な人生だった。加藤自身も、そう思っていた。思うようにしていた、と言うべきかもしれないが、その区別を考えないようにして十数年が経っていた。 大学三年の秋、加藤は映画監督になりたかった。自主製作の短編を三本撮っていた。小さな映画祭に入選したこともある。でも就職活動の波は待ってくれなかった。親は心配した。仲のいい友人が次々と内定を取っていった。気づけば加藤もスーツを着て、銀行の面接を受けていた。内定をもらったとき、ほっとしたのか悲しかったのか、今となってはよく思い出せない。 その夜、新しく話題になっていたAIのサービスを、酔った勢いで開いた。「パラレル・ライフ」という名前だった。もし別の選択をしていたら、と入力すると、AIがその後の人生を詳細に生成してくれる。馬鹿馬鹿しいとは思った。でも入力した。*二十二歳の秋、映画監督を夢見ていた男が、就職せずにその道を追い続けた場合の人生を、できるだけ詳細に生成してほしい。*--- 最初の数年は、想像通りだった。アルバイトをしながら自主製作を続ける、映画祭に出品する、助監督として現場に入る。加藤は少し冷めた目で読んでいた。知っている話だ、と思いながら。 でも二十八歳のあたりから、文章の質が変わってきた。 具体的になりすぎた。 撮影した場所の名前、キャストのやりとり、編集室の匂い——そういうものが書かれていた。AIが生成した文章にしては、細部がなまなましすぎていた。加藤は首を傾げながら読み続けた。 三十二歳のところで、完全に手が止まった。 そこには、高校の同級生の名前が出てきた。田村、という男だ。映画好きで、大学でも加藤と同じサークルにいた。実際の田村は今、東京でサラリーマンをしている。年賀状だけのやりとりが続いている。でも画面の中では、田村は加藤の映画の製作に関わっていた。二人で徹夜で編集した、と書いてあった。その夜のことが、二段落にわたって描写されていた。コンビニのコーヒー、モニターの明かり、夜明けに二人で外に出て吸ったタバコの煙。 加藤はタバコを吸わない。 でもその場面を読んだとき、タバコの煙の匂いが、かすかにした気がした。--- 読み続けた。三十五歳で長編映画が完成し、国内の映画祭でグランプリを取る場面があった。授賞式のスピーチが、ほぼ全文書かれていた。加藤誠一という名前で、マイクの前に立っている。感謝する人々の名前が並んでいた。田村の名前もあった。知らない名前もあったが、読んでいるうちに、知っている気がしてきた。プロデューサーの木下、という人物。そんな人間は実際にはいない。いないはずだ。でも木下という名前を見たとき、なぜか顔が浮かんだ。四十代、眼鏡、早口でよく笑う男の顔が。 加藤は画面から目を離した。 部屋を見回した。見慣れた自分の書斎。棚に並んだ銀行関係の書類と、子供が学校で作った工作。妻が買ってきた観葉植物。これが現実だ、と自分に言い聞かせた。 視線を戻した。--- 三十八歳のページに、ある記述があった。 加藤誠一は二作目の長編の製作中、資金繰りに行き詰まり、融資を断られる場面だった。銀行員に断られる。その銀行員の描写が、一行あった。*窓口の男は、どこか遠くを見るような目をしていた。* 加藤は、その一行を何度も読んだ。 融資を断る側の銀行員。窓口の男。どこか遠くを見るような目。それは毎日、自分が鏡で見る顔ではないか。夢を追った自分に融資を断る、現実を選んだ自分。AIはその構造を、一行に圧縮していた。意図してそうしたのか、それとも偶然なのか、加藤にはわからなかった。でもその一行が、他のどの文章より、深いところに刺さった。 スクロールする指が、重かった。--- 四十一歳のページ、つまり今の自分と同じ年齢のページを開いた。 画面の中の加藤誠一は、三作目の映画を撮り終えたところだった。今度は商業映画で、規模が大きい。完成試写の翌朝、ひとりでファミレスに入り、コーヒーを飲んでいる場面が書かれていた。疲れている。でも終わった、という静かな充実がある。次に撮りたいものが、もう頭の中にある。 加藤はその段落を読みながら、胸に奇妙な感覚を覚えた。懐かしい、という感覚だった。経験したことのないはずのものが、懐かしかった。ファミレスのコーヒーの、あの薄い味。完成した映画のフィルムを手渡すときの、あの重さ。どこから来る記憶なのか、わからなかった。でも確かにあった。 加藤は、自分が今どちらの人生を生きているのかが、一瞬だけわからなくなった。銀行員の加藤誠一が、映画監督の加藤誠一の人生を画面で読んでいるのか。それとも映画監督の加藤誠一が、もう一人の自分の人生を夢に見ているのか。どちらかが夢で、どちらかが現実のはずだった。でもその境界が、その瞬間だけ、溶けた。--- 加藤はノートパソコンを閉じた。 立ち上がって、廊下に出た。子供部屋の前を通ると、ドアの隙間から寝息が聞こえた。寝室を覗くと、妻が眠っていた。加藤はしばらくその寝息を聞いていた。これが現実だ、と思った。今度は言い聞かせなくても、そう思えた。 台所で水を飲んで、書斎に戻った。ノートパソコンは開かなかった。代わりに引き出しを開けた。奥の方に、古いDVDが一枚入っている。大学時代に撮った短編の、唯一残っているディスクだ。何年も開けていない引き出しの中に、ずっとそこにいた。 加藤はそれを手に取って、しばらく眺めた。再生しようとは思わなかった。ただ、あるということが、今夜は少し大事な気がした。夢を追わなかった。でもこれを作った。この十数分の映像を、確かに自分が作った。それは消えない。どの人生を選んでも、消えない過去だ。 そして現実を選んだことで、あの融資窓口の男には、なれなかった。毎日誰かの夢と向き合い、その可能性を判断する側に立ってきた。それが誇れることかどうか、今もわからない。でも加藤は、その仕事をちゃんとやってきた。遠くを見るような目をしながらも、目の前の書類と向き合ってきた。それもまた、消えない時間だ。 DVDを引き出しに戻して、加藤は電気を消した。 夢の中でなら、まだ映画を撮れるかもしれない、と思いながら眠りについた。---*了*
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