EPISODE · Jun 23, 2026 · 15 MIN
秘匿
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています 秘匿 博士がその触媒を完成させたのは、六十二歳の秋だった。 二酸化炭素を分解する触媒だった。比較的安価な素材から作れる。しかし製法は特殊で、博士以外に再現できる者はいなかった。 実験室の片隅で、博士はしばらく動かなかった。試験管の中で、無色の液体が静かに揺れていた。 発表すれば、世界は変わる。そのことは分かっていた。同時に、もう一つのことも分かっていた。 博士は試験管をゆっくりとラックに戻した。 製法は公開しなかった。特許も取らなかった。 公開すれば製法は広まる。しかし人は、問題が解決したと思った瞬間に、問題のことを忘れる。特許を取って財団を作ることも考えた。だが費用を嫌う企業が、義務もなく触媒を買い続けるとは思えなかった。 工場を建て、触媒を売った。価格は、使った方が安くなるように設定した。企業の論理を利用した。道徳ではなく、算盤で動かした。 売れた。予想以上に売れた。 博士の会社は巨大になり、博士は巨万の富を得た。 二酸化炭素の排出量は、緩やかに、しかし確実に減っていった。 守銭奴、と人々は言った。 地球を人質に金を集めている、とも言った。 講演の依頼は来なかった。賞の候補にも挙がらなかった。街で博士とすれ違う人々は、視線をわずかに外した。 博士は気にしなかった。少なくとも、気にしている様子を見せなかった。 温暖化は、緊急の危機ではなくなった。 そのことを誰かが博士の功績として語ることは、ほとんどなかった。 七十九歳の冬、製法が流出した。 博士は弁護士を呼ばなかった。訴訟も起こさなかった。蓄えた財産を、静かに、順番に手放していった。工場、設備、不動産、口座。最後に残ったのは、郊外の小さな家と、古びた実験机だった。 隣人は後に、その頃の博士についてこう語った。 「よく庭に出て、空を見ていました。穏やかな顔で」 博士が死んだとき、棺の前に花を持ってきた者はいなかった。 製法の流出が博士自身によるものだと判明したのは、その三年後だった。遺品の中に、流出の経緯を記した一通のメモが見つかった。 メモはそっけなかった。 「もう、十分だろう」
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