EPISODE · Jul 5, 2026 · 11 MIN
【ミサ説教】マタイ福音書11章25-30節「重荷をイエス様と共に」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
マタイ福音書11章25-30節「重荷をイエス様と共に」2026年7月5日年間第14主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、私のもとに来なさい」と招いてくださいます。人間的な知恵や計らいだけで行き詰まる時、幼子のような素直な心で神様に向かうなら、魂の安らぎが与えられます。重荷そのものが消えなくても、イエス様と共に担うことで荷は軽くなり、歩むべき道も示されます。私たちも神様への信頼と祈りを保ち、必要な力と勇気をいただきたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書11章25-30節 25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 重荷をイエス様と共に 今日の福音書は、聖書の中で、福音書の中でも、最も慰め深い言葉が書かれているところだと思います。疲れたもの重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげようというふうに言ってくださるわけですから。時々は私たちも疲れてしまったり、重荷を何か、何か重荷を負うのが疲れすぎるということもあるのではないかと思います。 今日の福音書の出だしのところが、このイエス様が父なる神を賛美するんですけど、この賛美の内容が面白いですよね。この、なんていうのか、何か仕事がうまくいったとか、何かで賛美するんじゃなくて、何を賛美しているかというというと、これらのことをある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになりましたということで賛美してるってことですね。非常に不思議な感じがしますが、山口県に来てから幼稚園の子どもたちと接する機会も増えましたが、やっぱり幼子のようなものっていうのは、本当に神様に近いっていうのはつくづく思いますね。お祈りしても聖歌にしても、大きな声で一生懸命歌うし、何かお祈りも素直にするしですね。やっぱり幼子のようなものにこそ神様が近いというかですね、私たちも人間いろいろ考えて、ああでもないこうでもないと考えちゃうから、なかなか神様と近くなれないようなところはあると思いますけど、幼子のようなものこそ神様に近いというのはあるんじゃないかなと思いますね。 ただ、やはり先ほど言いましたけど、疲れたものや重荷を負っている時こそうまくいかないわけですから、そういう時こそ私たちは幼子のような心に戻ってですね、私たちの計らいを置いて、素直な心を神様に向けていく時に、このイエス様から休みっていうんですかね、安らぎをいただくということはあるんじゃないかなというふうに思います。 最近聞いた、分かち合ってもらった、最近信者になった人の話で、この教会の人じゃないですけど、あのご家族が信者で、本人は違ったんですけど、なんか信者見てたらもうバカバカしいと。もう何もせずにあんなバカみたいなことやってるんだみたいな感じで、全くその信者とか信仰とかどっちかと軽蔑してたんですね。で、仕事でバリバリ頑張ってて、専門職で会社を助けるような、いろんな企業を助けるような仕事をされてて。ある企業がですね、非常に経営的に非常に大きな問題があって、下手したら倒産する可能性もある。それでその人が関わって、いろいろな方法を考えて、こうしたらいいんじゃないか、あっちの方がいいんじゃないかと、いろいろ解決策を考えて、それを実行することになったんですけど、後からその彼のやってることが、その法律にかなり違反していることだということにだんだん気づいてきてですね。ちょっと細かい話を聞いても、ちょっと専門的なことだから、ちょっと何が違反なのか、何がちょっとあんまり個人的によく分からないんですが、結局、もしこれが査察とか何か入って何かしてしまったらですね、その企業が倒産する可能性がある。倒産したら、関連企業を含めても何千人の人が路頭に迷ってしまうし、自分も罪に問われたら家族にも相談、損害賠償だったか、そういうものを請求されたら本人が死んでも家族が払わなきゃならないとか、そういう法律があって、家族にも及んでしまってですね、彼も相当追い込まれて、結局逮捕される前に自分が死ねば問題が発覚しないよう、それ、それでうまくいくんじゃないかって。だいぶ追い詰められてですね。いつ死ぬか、いつ死ぬかってことばっかり考えてたんですけど、その時に結局あまりに重荷というか、結局どうしたかって言ったら、教会に初めて行くようになって、それで神父さんのお話を聞くようになったというんですよね。 ここにある通りに、私のくびき負い、私に学びなさいと言ったと。それで初めてさんからいろんなイエス様のことを学んでいるうちに、思いもつかない、全然違う、考えたこともないような福音の話とか、神の愛の話とか、そういうことを聞いているうちに、だんだん自分の心が実際安らいできてですね、あれだけ苦しんでた自分の問題が解決するわけじゃないですけど、非常に安らぎが得られるようになって、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られると。 原文では魂の安らぎと書いてあるんですけどね。もっと深い安心が与えられて、それで彼は結局洗礼を受けることになったわけですけど、でも、その問題だと思ってたことが結局問題にならず、その会社も倒産せず、従業員たちもみんな救われて、自分も結局罪に問われることなく仕事を続けるようになって、家族をおおごとにする必要性もなくなったっていう、結局すべてが神さまのもとで順調に進んでですね、その企業も倒産せずに済んだわけですから、非常にすべてがうまくいったわけですが。 だからこそイエス様が最後に言うんですよね。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いと。イエス様と共にやっぱり重荷を担っていくならば、やっぱりイエス様と共に担うから、やっぱり重荷が半分になるっていうところはあると思いますね。 今日の福音書は、もう書いてある通りなんですよね。私たちが重荷を感じたり、疲れた時にはヤケになってしまったり、誰かに八つ当たりとか、それよりもイエスのもとに行って、そこで休みを取るっていうかですね、ちょっと気持ちを置いて、違う角度から物事を眺めてみる。そしてイエス様の教えを改めて聞いてみる、呼びかけを聞いてみるということをするならば、私たちは魂の安らぎと、これからどのように歩んでいけばいいかという道もしっかり示されるということですね。それは本当に私たちにとって大きな恵みではないかと思います。 神様は、この知恵あるものや賢い者には神様が隠されている。結局、もちろん人間的な知恵でも、どうするか、こうするか、いろいろ考えたり悩んだりしなきゃならないですけれども、それよりももっと大事なのは、人間的な計らいを置いて、幼子のようなですね、とらわれない心で神様に向かうというか、その素直な心を神様に向けた時に、やはり神様は大きな愛としるしを与えてくださるのではないかと思いますね。 時々ですね、今でもマリア様が誰かに出現されて、いろいろなメッセージを授けられることがありますがとか、ルルドとかですね。でも、全くその通りなんですよね。本当に勉強できない字も書けないような少年や少女、羊飼いとかですね。農家の娘さんとか、全く勉強もしてないような、そういう本当の子どもにマリア様が現れて、一番大事なメッセージを伝えているわけですよね。それが実際その通りで、それを聞いた司教さんとか学者とかもみんな全然否定して、もう何言ってんだこのバカバカしいことみたいな感じで言われるわけですけど、でも後からだんだん時がたてばたつほど、その小さな少女に現れたマリア様のメッセージこそ本当のメッセージだということを、後からみんなが認めるようになるわけですよね。 この教会が、特にファチマの聖母マリアに捧げられている教会ですから、やっぱりこの幼子の小さなものに神様が本当のことを伝えるっていうのは、今でも変わらないということだと思いますね。だからこそ、私たちはやはり小さなものとして、子供のようなものとして、神様のメッセージに心を開きたいと思います。 その時に、私たち一人一人に必要な恵みと力が与えられると思いますから、いつも神様に対する素直な信頼の心と祈りの心、それを持って私たちが歩めるように、そして絶えず私たちに安らぎと勇気と力を与えてくださるようにですね、お互いのために共に祈りを捧げたいと思います。
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