EPISODE · Jul 12, 2026 · 14 MIN
【ミサ説教】マタイ福音書13章1-23節「実りを神に委ねて、種を蒔き続ける」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
マタイ福音書13章1-23節「実りを神に委ねて、種を蒔き続ける」2026年7月12日年間第15主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 種を蒔く人は、良い土地を選ばず、道端や石地、茨の中にも種を蒔きます。そこに、実りそうな人だけを選ばず、誰にでも御言葉を届ける神様の憐れみを感じます。私自身、信仰に至るまで十年かかりました。目に見える成果がなくても、何が実りとなるかは人間には分かりません。実らせるのは神様です。効率や結果にとらわれず、神様の御心に合わせ、私たちにできることを忍耐強く続けたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書13章1-23節 1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」 10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」 18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」 実りを神に委ねて、種を蒔き続ける マタイの13章ですが、ここも一つの説教集になっていて、神の国、天の国の譬え話がいろいろ集まっているものですね。その中でもやはりこのたとえ話が一番有名な話だと思います。農夫が種をまくんですが、この道端に落ちたり、石だらけの所に落ちたり、あるいは茨の間に落ちた種は当然実らなかったり、すぐ枯れてしまったりですね。まあ実らないですけど、良い土地に落ちたものは多くの実を結ぶというですね。というたとえ話です。その解釈は後から出て出てきて、それも意見があって、この解釈は初代教会の解釈じゃないかとか、いろいろ説もあるんですが、ともかく有名なたとえ話です。 この譬え話を読んで一番奇妙に思うことは、私が何なのかというと、この農夫っていうか、この種を蒔く人のどうやったらいいのか、いい加減さっていうんですかね、日本の農業をやる人、こんなことを絶対しないと思いますけど。つまり、良い土地にしか種をまくないと思うんですね。 種は昔も今も貴重なもんですから。それが道端に落ちたり、石だらけの土の少ないところに落ちたりですね。あるいは茨に落ちるということは、日本の農業から考えたらまず考えられないんじゃないかなとは思います。まあ、昔の農業は、パレスチナ地方の農業はそういうアバウトなところがあったのかもしれないですが、実際ですね、これはもちろんたとえ話で、個人的に思うのは、この良い土地に落ちて実を結ぶというより、良い土地でないところにわざと神様が種をまいているんですかね。あまり実らないところにすら、神様が神様の話ですよね。種を蒔いているというところの方が不思議だというか、意味があるというかですね。 農業だったらそれはもう当たり前に良い土地にしかまかないのは当たり前の話ですが、これはもちろん農業の話をしているわけではなくて、神様の憐れみの心、イエス様の輪の心を語っているわけですが、良い土地じゃないところにも、わざと神様は種を蒔いている。その神様のやり方の方が実は何か感動的なんですね。 だから区別をしてないわけですよね。私たち人間のできのさそうな人たちだけに撒いて、この実を結んで、出来の悪い悪い人にはもともと種もまかないっていうか、ちょっと無理だからっていう、そういう区別をしてですね、なんかエリート教育みたいなことを神は関してないってこと。誰にでも、あるいは何か実らなさそうなところにも、わざと無駄に見えるところにもですね、神様が種を蒔いておられるか。それがですね、何か素晴らしいなと。このたとえで個人的に一番感動するのは、実はそこなんですよね。 特に今はご存知のように、タイパとかコスパとか、いかにこのコストパフォーマンスが大事だから、良い土地にとにかくどれぐらい実りたくさん結んで、それ以外のロスを減らすかみたいな。なんかもう世知辛く物事を考えている時代に、もうこの話なんか絶対成り立たないということですよね。 でも神様は本当にこう、コストパフォーマンスも関係なしに、無駄遣いだと思っているところにまでも種を蒔いてくださる。実らないかもしれない。もしかしたらそこだって実るかもしれないというですね、神の憐れみの心がやはり素晴らしいと思いますね。 個人的に自分のことを振り返ってみても、家はもともと仏教徒で全く関係ないんですけれども、小学校4年生ぐらいの頃に、その近くの友達に誘われて、キリスト教の教会の礼拝に行ったのが初めてなんですけど、もちろんそれも長続きせず、でも結局、まあめぐり合わせですけど、中学、高校、大学とミッションスクールで、ある意味いっぱい種も蒔かれたんですが、全く興味が、興味がなかったわけではないけど、結局全然ピンと来ず。洗礼を受けたのが大学2年生なので、10年ぐらいかかってるんですよね。 この10年間は全然良い土地じゃなかったのに、やっぱりなんか神様がいろんな形で負け続けてくれたから、結局あるタイミングでやっとこの突然ですね、洗礼を受けたので、10年かかっているっていう。 だからもうほとんどピンとこない。神父さんの話聞いてもですね、なんかあんまり10年間続いて全然良い土地でもなんでもなかったのに。でも結局なんか最終的に神父さんとかになっちゃってるわけですから。神様が能率効率を考えてたら、多分信者になってなかったと思います。 つまり、一見良い土地じゃ見えないところにも神様が蒔き続けてくれてるから、やっぱりそのタイミングと時と、そこで実りがある。なんかね、それがやっぱり神様のやり方の基本じゃないかなというふうに思いますね。 それで私が信者になって、1990年代神父になった後から、いわゆるバブルの崩壊とほぼオウム真理教の事件があって、宗教離れが進んでいる時に神父になってるんですよね。だから、日本の教会が衰退していく中で、失われた30年とか、日本の教会もそこからだんだん力をなくしているわけですけれども。だからなんか今の日本の社会全体がすでにもう実らない土地みたいなこと感じがしないでもないですけど、個人的に今までの神父さんの働きの中で、全部が全部失敗だと気持ちはないですけど、あるところはもちろんうまく行ったり、実りもある分野もありますが、自分の仕事でやっぱり実ったなと思うのは、実際は3割ぐらいで、7割ぐらいは何か全然実りがなかったなというのが個人的な実感では実際あるんですけれども。だから思いますけど、今の神父さんたちで実はかわいそうだなと思って。つまり、神父さんで働いていて、ほとんど実りがないんですよ、実際のところはですね。だから実りがない中で種を蒔き続けるっていう、その神様の心にどれだけ気持ちを合わせられるかということの方が今は大事だと思いますね。 今、明らかに今の日本の教会で実りがあるのは外国人のグループですよね。ベトナム人のグループとか、そこは明らかに実りがいっぱいありますが、他はほぼ何もないって言ったらまた悪いけどあんまりないんですけど。だから今の日本で働いている人たちは本当にね、なんか逆にかわいそうって言ったらあれだけど、虚しさと挫折感の戦いの中で私たちは活動しているというのが、僕は実際現実だと思いますね。 一人出会ったインド人のシスターですけど、ちょっと前ですけど、日本に来て10年ぐらい彼女が嘆いてたんですよ。日本には何にも実らない。インドだったら、ちょっと集まりをしたら若者がいっぱい来て、ものすごく何をやってもこういろんなですね、成功するっていうか、人がいっぱい来て、やりがいもある。で、そのインド人のシスターが日本に来て10年と。何にも実らないと言ってですね、そのシスター結局国に帰っちゃいました。本当に実らないんですよね、いろんなことが。今の日本の教会は。 でもその中でも、この神様の心に合わせて種を蒔き続けられる。それが一番大事なことじゃないかなと思います。別にそれは教会だけじゃなしに、皆さんのしてるお仕事とか、いろんな関わりとかの中で、もう何かこうね、なんでこれだけ実りがないんだろうと。あるいは結果が伴わないと思う仕事とか関わりとか分からない誰かの世話をするとかですね。実際、実りのないことの方が現実的には多いじゃないかと思いますが、でもやっぱり私たちはどこかでそれがやっぱり実ることがあるかもしれない。 実際それも分からないんですよね。何が実りかすら分からなくて、私たちが無駄だ、無駄に働いていると思っていることが、実は神の目から見たら大きな実りが実は隠されているということもあり得ますし、だから本当に神様の御心っていうか、私たちは目に見えることで、そのコスパタイプだったか何かね、今の会社も全部株価がどうのこうのとか、短期的に目に見える成果で評価する時代ですから、長期的な投資とかもできないじゃないですか。 でも、私たちが見ているのは、何かこう、短期的にうまくいくかじゃないと思うんですよ。やっぱり何か神様の子だと思って工夫しながら、やっぱり種をまいたり、育てたり、水をやったりとか、様々なことをしながら、でも実る実らないは神様のお恵みの世界ですから、私たちができることをどれだけ忠実に、場合によっては忍耐強くしていくことができるか。仕事にしても、福音宣教にしても、いろいろな活動にしてもですね、そのようなことがすごく大事じゃないかなと思いますね。 種をまかれるのも本当は神様ですし、その実りを実らせるのも神の業ですから。それに、私たちは心を合わせていきたいと思います。 今日の第1朗読が本当に素晴らしい。イザヤの55章ですが、私の口から出る言葉はむなしく、私の元に戻らないと、私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たすと。神様が決めたことは絶対行うと。まいた種は絶対神様が実らせるというふうにですね、こっちではもうはっきり言っておられる。 神様の計画は必ず実現するし、必ず実りをもたらすという、はっきりおっしゃっている箇所で、非常に勇気づけられる箇所ではあるんですよね。 この55章の続きでは何があるかといったら、あなたの道と私の道は違うっていうんですよね。人間的にこうだと思ったけど、神の道は全然違うと。 神様はこうやりますみたいなことが55章ははっきり書かれている箇所なんですが、その神様の大きな計画と神様の大きな実行力、その全貌は私たち見えないですけど、私たちにできる小さなことを果たしながら、やはり実農は神様に任せて、私たちができることを忠実に果たしていくことができるように、神様に恵みを、豊かな恵みを願いたいと思います。
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【ミサ説教】マタイ福音書13章1-23節「実りを神に委ねて、種を蒔き続ける」
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