EPISODE · Mar 30, 2026 · 10 MIN
【ミサ説教】マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」2026年3月29日受難の主日防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ イエスが十字架にかけられた背景には、人々の強い恐れと不安がありました。既得権益の喪失や社会の崩壊への不安が、弟子の逃亡、ユダの絶望、ピラトの責任回避、群衆の暴走を生んだと言えます。一方で、キレネのシモンや百人隊長のように恐れに巻き込まれなかった者は、十字架の意味を見つめることができました。恐れに支配されれば人はイエスを加害した側に回ります。だからこそ、困難の中でも振り回されず、神と共に歩む姿勢が問われているといえるでしょう。 祝700話!今回の音声は、お説教からです。 <audio controls src="https://hanafusa-fukuin.com/wp-content/uploads /2026/03/hanafusa700.mp3"> 福音朗読 マタイ福音書27章11-54節 11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。 15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 おそれに振り回されないで 今、マタイによる福音の中に現れているイエス様の受難物語が語られました。イエス様が何で十字架にかけられて殺されざるを得なかったのか。 それは直接的というか、実際にはユダヤ人のユダヤ教のですね、祭司長や立法学者たちが、イエス様の影響があまりに強くてですね、彼の言葉にしろ行いにしろ、彼が活動を続けるならば、このユダヤ教の根幹が揺り動かされるというかですね、そういう強い恐れと不安を彼らがやはり持ったというかですね、 イエスが殺される本質的なところは、やっぱり人々がイエスを恐れた、自分たちの今までの生き方がなんか崩れてしまう、イエス様によってですね、既得権益が失われるだけではなしに、ひょっとしたらイスラエルの国のあり方そのものも根幹から揺り動かされてしまうというですね、強い恐れと不安から、イエス様を殺そうというふうに考えたんじゃないかと思います。 イエス様のこの受難の苦しみの中に、人間の恐れと不安がやはり非常にはっきりと出てきているんじゃないかなと思いますね。 弟子たちはどうだったか。やっぱりその恐れから逃げてしまったということでですね、恐れと不安から、もうイエス様についていけないと思ってですね。 ついでに今日朗読したマタイの直前は、ユダの自殺まで書いてあるんですね。ユダはやはり後で後悔するわけですけど、やはりその恐れと不安から、結局自分の命を絶たざるを得ないというですね。それも恐れと不安に振り回されている。 そしてピラトはですね、イエス様を別に殺したくはなかったんですけど、結局彼は治安維持が一番大事なことですから、群衆が騒ぐともう恐ろしいので、で結局手を洗って、責任逃れしたんですね。 そして最後、群衆はなんで十字架につけろと叫んだかといったら、煽動されたんですよね。こう、いまでいうフェイクニュースというか、陰謀論かなんかで、実はイエス様は、まあちょっとわかんないですけどね、実はイエス様は何かローマ帝国と結託していて、ユダヤ教を滅ぼそうとしているとか、ま全く根も葉もない噂を流してですね、 フェイクニュースとか大体ああいう噂話っていうのは、今が始まったわけじゃなくて、昔からあったわけですから、やはり噂話とか陰謀論とか、それは私たちの不安とか恐れをかき立てるので、あっという間に広まって、みんな流されてしまう。 だからイエス様の十字架の苦しみを見ていると、周りの人々がみんな恐れとか不安に振り回されて、やっつけようと思ったり、叫んだり、バカにしたり、逃げたり、責任逃れしたり、こう振り回されていると思うんですよね。 実際私たちは、だんだんと不安の時代に、何かですね、戦争の影響も日本にこれから来るかもしれない。 その中で、私たちが不安とか恐れにとらわれていると、とんでもない方向に行ってしまうということを如実に語っていると思いますね。 今日の登場人物の中で、実はあんまり恐れに振り回されていない人が2人出てくるんですよね。1人は誰かと言ったら、実はキレネのシモンなんですけど、この人、部外者で、田舎から出てきたおのぼりさんだったので、このエルサレムの人々の恐れとか不安の中に実は関係ないんですよ。 ただ単に見物に十字架を見に行っただけなので、ある意味、恐れから外れてたから、突然担がされたのも、もちろんがっかりしたでしょうけど、でも逆にその人々の恐れから離れてたから、ある意味十字架を担ってですね、イエス様と共に歩むことができた。 そして最後の百人隊長ですよね。百人隊長もこれはやはり死刑執行の責任者ですから、恐れとか不安じゃなくて、客観的にこの処刑がどう行われるかということを見ていただけだから、百人隊長も恐れに巻き込まれてない。 それでどうしたかって言えば、最後の最後、イエス様の死んでいく姿を客観的に見て、この人は神の子であったという信仰告白をするという形で物語が終わるわけなんですよね。 やはりね、私たちが生きていく中で、振り回されないで、不安とか恐れとか、あるいはいらいらとか、生活の様々なそういうものに巻き込まれるほど、十字架でイエスを殺す側に私たちは回ってしまう傾向性がいつもあると。 それをしっかり心に刻んで、私たちがどう振り回されないような生き方をしながら、イエス様に従って生きるのか、それを見なきゃならない。 イエス様も恐れとか不安はもちろん感じておられました。ゲッセマネの祈りのところがですね、それは感じておられたんですけど、もしイエス様が恐れに振り回されていたら、エルサレムに絶対行かなかったです。殺されるの分かってるから。 で、ガリラヤにいて、それで弟子たちを武装させてですね、反乱勢力みたいなものを作って、自分が死なないように、抵抗勢力を組織してですね、もしかしたら今のハマスとかアルカイダみたいになっちゃったかもしれないですけど、 恐れにイエスが振り回されていたら、イエスが十字架に向かうことすらなかったんですよね。 だから全然違う展開になって、私たちの救いが成就されない方向に行ったと思います。 イエス様が自分の使命をしっかり受け止めて、イエスの使命は何なのか、マタイの福音書にはっきりありますけど、マタイに最初と終わりに出てくる。 神は私たちと共にいるというのが、マタイの福音書の根本メッセージなんですね。 十字架から復活までですね、神は私たちと共にいる神だということですから、十字架の苦しみを通して、その困難とかマイナスなものを受け取る側に神がおられて、そこでイエスが共にいてくださっているということを、イエス様は示してくださった。 だから私たちは、困難や苦しみの中にあっても振り回されず、イエスと共に、場合によってはキレネのシモンのように、自分に与えられた十字架を淡々と担っていく。 そういう生き方を通して、復活に向かっていくことができるでしょうし、あるいは百人隊長のように、イエスの十字架を見つめて、そこにこそ神の子としての姿があるという信仰と礼拝の気持ちを深める機会が与えられているということですね。 それを私たちは心に刻みましょう。 イエス様が十字架上で、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言われますけど、それは私の解釈ですが、イエス様が苦しんでいる人と共におられている印ですね。 私たちが絶望的な状況にあったとしても、そこでこそイエスは共にいてくださっているということの大きな印ではないかなと思います。 だから私たちは、自分自身の小さな困難や苦しみに振り回されず、あるいはこの2026年もどうなるか、戦争の影響などで大きな困難が来る可能性もありますけど、 そういう社会的な困難の中にあっても、イエスと共に歩むというところに自分の生き方の基盤を置いて、振り回されず、誰かを攻撃したり、自分を責めたり、逃げたりするのではなく、 神と共にそれを受け止めて、復活の恵みに向かって歩んでいけるということを主が示してくださっていると思います。 やはり今年こそ、イエス様の受難をしっかり受け止めて黙想して、それを私たちの生きる糧にしていきたいと思います。 少々の困難があっても、それを受け止めていくならば、私たちは主と共に歩んでいくことができると思います。 イエス様の受難の苦しみを通して、私たちが勇気と平安の心で歩めるように、このミサで、私たちと、そして戦争や様々な苦しみの中にある人々に、イエス様の恵みと力が与えられるように祈りたいと思います。The post 【ミサ説教】マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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