EPISODE · Jun 14, 2026 · 13 MIN
【ミサ説教】マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」
マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」2026年6月14日年間第11主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 今日の福音書では、イエス様が弱り果てた群衆を憐れみ、弟子たちを働き手として遣わされます。働き手不足は今の教会にも通じる課題ですが、私たち一人一人も小さな働き手として召されています。特別なことではなく、誰かを励ます言葉、温かい笑顔、食事を用意すること、悩みを聞くことも福音宣教です。言葉と行いを通して、神様の愛と恵みを分かち合っていけるよう願いたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書9章36節-10章8節 そのとき、イエスは、9・36群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 10・1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」 小さな働き手として 今日の福音書は、マタイの9章の終わりから10章にかけてのところですね。このところは、イエス様が弟子たちを遣わすにあたり、福音宣教の心構えを記しているというふうに言われています。10章全体なんですけど、その冒頭の部分が語られたという形になっていますね。 なんで12人を派遣することになったのかといったら、一つは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果ててうちひしがれている、救いを必要としている。苦しんだり喘いだりしている人々がいっぱいいてそこで深くイエス様が憐れまれたというのが動機になるわけですね。 そして弟子たちにこう言うわけですね。収穫は多いが働き手が少ないというんですけど、今の日本社会も働き手不足でだいぶ苦労してますが、教会も働き手不足ですね。どこも働き手があまりないので、ちょっとどうしたらいいか。イエズス会ももう召命というか日本人で入る人はほとんどいないので、えらい働き手不足で、どこもかしこも働き手不足で実際は困っているというのがあれですけど。2000年前から働き手不足は働き手不足だったということですが、その中でこの働き手を送ってくださるように祈れって言うんですけど、それは本当にその通りだなと気がしていますが、祈るとともに、私たちが、力が乏しい少人数であっても、私たち一人一人がいわば小さな働き手としてですね、やはり歩んでいくように、そういう呼びかけとして私たちは受け止めたらいいのではないかなと思います。 実際、私たちが、こんなの多くの人がクリスチャンとしてやはり召し出されたのは、やっぱり小さな働き手として生きるようにということじゃないかというふうに思うんですね。実際、この5節以下ですけど。失われたの羊のところに行きなさいと。結局、自分の側にいる苦しんでいる人のところに、まずは行きなさいということと、何をするかといったら2つなんですね。行って天の国は近づいたと述べ伝えなさい。言葉によって伝えるということと、もう一つは病人をいやし、なんとかかんとかって書いてんですけど、結局癒しの業を通して人々を助けなさいと。だから言葉と行いによって私たちは働き手となるという非常に当たり前のことを言っているわけで、それを私たちが少し意識することができたらいいのではないかなと思います。 皆さんもそうでしょうけど、誰かの一言とか、何かある言葉によって何か励まされたとか、助けられたとか、そういうことは誰にだってあるのではないか。ある人の一言によって、それが本当に友人、家やか先生か、あるいは何かテレビに出てくるアーティストの一言とか歌詞とかですね、何かによってやっぱり助けられるってことは、実例あげたらいくらでもこれはあると思いますね。 ある一人の信者さんですけど、精神障害者の作業所か何かで働いてて、なかなか大変なんですよね。だからいろいろ問題も多くて、いつも鬱々と悩んだり、いろいろして暗い顔をしていて、それもその時も悩んでて、たまたま道を歩いててですね、たまたま信号待ちしていた時に、たまたま隣に並んで待ってた全然知らない青年が、その人も障害者で、知的な知的ハンディを持っているような感じの、見た感じはですね。で、信号が青になった途端、その全然知らない人ですけど、その若者とか青年が自分の方に向いてですね、突然にっこり笑って、元気を出して行こうよって、一言言って、それで歩いてたっていうんですけど、その一言でものすごい救われたというか、その障害者のことで一生懸命やってて、もうへとへとになっているのに、別の障害者の人からの一言で助けられたっていうですね。 そういうことって、その若者の障害者の人って、はっきり言って働き手として社会から何の期待もされてないでしょうけど、でもやっぱり働き手なんですよね。ちょっとした笑顔と、たまたまちょっとした言葉で。 思いますけど、このて言うのかといったら、天の国が近づいたと述べ、伝えなさいって言うんですけど。これなかなかそうだなと思うんですけど。結局天の国そのものっていうのはやっぱり伝えられないけど、天の国救いとかか喜びとかですね、そういうものに近づいていく言葉を私たちが語ることができたら、やっぱりそれは素晴らしいんじゃないかなと思いますね。 でもなかなかこれはもちろん難しいんですけど、「元気を出していこうよって」ていうのは、ある場合は助けだけど、ある場合はまたげにもなる。よく言われるうつ病の人、励ましたらかえってプレッシャーで落ち込むって言うから、本当に何を言うか難しいですけど、ある一つの言葉がやっぱり救いとか神様から遠ざける言葉になっちゃうこともあるし、ある言葉によって神様に近づいていく言葉になることもあるわけですよね。 でもやっぱり何か私たちが真心を持って人と接する時に、何かちょっとした声がけにしても、何かそういうことは大事じゃないかなと思うんですよね。もう本当に人の悪口とか噂話ばっかりしてると、神の国から遠ざける言葉ばっかり喋ってるのも、それもちょっとどうかなと思いますよね。やっぱり神様の国に近づくような言葉を日頃やっぱり心がけて語れるかどうかっていうことですよね。 癒しの業にしても、それはイエス様みたいに急に病人に治すとか、それはちょっとそれは普通の人にはできないですけど。でもやっぱり私たちが人を助ける小さな働き、行いをできるかどうかっていうことだと思いますね。前もちょっと話したかどうか、ちょっとはっきり覚えてないんですけど。話したかもしれない。東北の青森にですね、昔、森のイスキアっていう建物があって、そこに佐藤初女さんというですね、普通の信者さんで、もう高齢で亡くなられましたけど。その割と何が有名かって、森のイスキアって、なんか山の中の方、山の中というか、ちょっと離れたところのあれなんですけれども。そこにですね、やっぱり心を病んだ人とか悩んでる人がしょっちゅう訪ねてくるんですよね。で、佐藤初女さんはどうするかといったら、おいしいご飯を出して、その人に食べさせて、その人の悩みを聞いてあげるという、ただそれだけなんですけど、それがものすごいなんかこう、有名っていうかですね、多くの人が僕も何回かそこに行ってですね、なんかもうなんか特別なところかなといったらごく普通なんだけど。普通の家で。でも作る料理はそれも普通の料理、普通の家庭料理なんですが、ものすごく心がこもってて。彼女が作るおにぎりって、その当時は日本で一番おいしいおにぎりって言われてたぐらい、本当に心を込めて丁寧に作るおにぎりなんですけど、結局悩んでいる人はなかなか、その彼女が言うには、食べれないって言うんですよね。だからやっぱりおいしいものを食べてるうちに心が溶けてきて。それでもっといろいろ自分の悩みとか初女さんはほとんど説教も何もせずにただ話聞いてるだけなんですけど、そのうちになんとなく2、3日したら元気になって帰っていくっていうですね。どこにも何か不思議なことが全くないけど、でも不思議なところっていうか、こののを見てると。 もちろん彼女は特別なやっぱり方だったと思いますけれども。でもやっぱり普通の、日本の主婦なんですよね。ご飯作るってちょっとあれするって。なんかその当時は日本のお母さんの元祖みたいな感じの人でしたけど。ちょっと亡くなられちゃって。なんか私も実は訪ねて行ったら、彼女の愚痴を聞いてたんですよね。どんな愚痴かちょっと皆さんの前では言えないけど。 ともかく誰だって苦しみとかいろいろあるわけですけど。だから何か困ってる人がいて、ちょっとご飯食べさせたり、お話を聞いてあげたりっていう、それが癒しの業だっていう、一人一人でできることは違いますけれども。でもやっぱり私たちは神様の恵みとか愛を言葉で語ったり、話し合ったり、あるいは行いで、ちょっとした人助けというか、困っている人に対するちょっとした親切ですよね。そういうことによって、私たちはやっぱり働き手として。働き手が少ないってイエス様は嘆いている、僕もだいぶ嘆いてますけど、でもちょっとした私たちが働き手としてちょっとしたことだと思うんですけど、それを私たちが心がけられるかどうかっていうですね。 まあ教会に来たらいつもさっきのお祈りも出てましたけど、福音宣教、福音宣教ってね、口では言うけど。でも実際できることはそんなことでしょうね。困ってる人がいたら、ちょっとなんか励ましの、ちょっとニコニコして、ちょっと声かけしたり、なんかちょっと困ってる人がいたら、なんかちょっとしてあげたり、そういう小さなことを積み重ねることがやっぱり私たちにできることだし、そういうことをすることが困ってる人にも喜ばれるし、神様も喜ばれるんじゃないかなと思いますね。 そのような恵みの世界をちょっと分かち合っていけるように、私たちはある時は自分自身がダウンして、誰かの温かい言葉で助けられることもあるし、誰かのちょっとしたことで助けられることはやっぱりありますから。お互い様ですけど、私たちが言葉と行いを通して、小さな働き手として神様の愛や恵みを分かちあっていけるようにですね、改めて神様に恵みを願いたいと思います。The post 【ミサ説教】マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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