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カトリック 英隆一朗神父の 福音 お休み処

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    【ミサ説教】マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」

    マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」2026年6月14日年間第11主日ミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 今日の福音書では、イエス様が弱り果てた群衆を憐れみ、弟子たちを働き手として遣わされます。働き手不足は今の教会にも通じる課題ですが、私たち一人一人も小さな働き手として召されています。特別なことではなく、誰かを励ます言葉、温かい笑顔、食事を用意すること、悩みを聞くことも福音宣教です。言葉と行いを通して、神様の愛と恵みを分かち合っていけるよう願いたいと思います。 福音朗読 マタイ福音書9章36節-10章8節  そのとき、イエスは、9・36群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 10・1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」 小さな働き手として 今日の福音書は、マタイの9章の終わりから10章にかけてのところですね。このところは、イエス様が弟子たちを遣わすにあたり、福音宣教の心構えを記しているというふうに言われています。10章全体なんですけど、その冒頭の部分が語られたという形になっていますね。 なんで12人を派遣することになったのかといったら、一つは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果ててうちひしがれている、救いを必要としている。苦しんだり喘いだりしている人々がいっぱいいてそこで深くイエス様が憐れまれたというのが動機になるわけですね。 そして弟子たちにこう言うわけですね。収穫は多いが働き手が少ないというんですけど、今の日本社会も働き手不足でだいぶ苦労してますが、教会も働き手不足ですね。どこも働き手があまりないので、ちょっとどうしたらいいか。イエズス会ももう召命というか日本人で入る人はほとんどいないので、えらい働き手不足で、どこもかしこも働き手不足で実際は困っているというのがあれですけど。2000年前から働き手不足は働き手不足だったということですが、その中でこの働き手を送ってくださるように祈れって言うんですけど、それは本当にその通りだなと気がしていますが、祈るとともに、私たちが、力が乏しい少人数であっても、私たち一人一人がいわば小さな働き手としてですね、やはり歩んでいくように、そういう呼びかけとして私たちは受け止めたらいいのではないかなと思います。 実際、私たちが、こんなの多くの人がクリスチャンとしてやはり召し出されたのは、やっぱり小さな働き手として生きるようにということじゃないかというふうに思うんですね。実際、この5節以下ですけど。失われたの羊のところに行きなさいと。結局、自分の側にいる苦しんでいる人のところに、まずは行きなさいということと、何をするかといったら2つなんですね。行って天の国は近づいたと述べ伝えなさい。言葉によって伝えるということと、もう一つは病人をいやし、なんとかかんとかって書いてんですけど、結局癒しの業を通して人々を助けなさいと。だから言葉と行いによって私たちは働き手となるという非常に当たり前のことを言っているわけで、それを私たちが少し意識することができたらいいのではないかなと思います。 皆さんもそうでしょうけど、誰かの一言とか、何かある言葉によって何か励まされたとか、助けられたとか、そういうことは誰にだってあるのではないか。ある人の一言によって、それが本当に友人、家やか先生か、あるいは何かテレビに出てくるアーティストの一言とか歌詞とかですね、何かによってやっぱり助けられるってことは、実例あげたらいくらでもこれはあると思いますね。 ある一人の信者さんですけど、精神障害者の作業所か何かで働いてて、なかなか大変なんですよね。だからいろいろ問題も多くて、いつも鬱々と悩んだり、いろいろして暗い顔をしていて、それもその時も悩んでて、たまたま道を歩いててですね、たまたま信号待ちしていた時に、たまたま隣に並んで待ってた全然知らない青年が、その人も障害者で、知的な知的ハンディを持っているような感じの、見た感じはですね。で、信号が青になった途端、その全然知らない人ですけど、その若者とか青年が自分の方に向いてですね、突然にっこり笑って、元気を出して行こうよって、一言言って、それで歩いてたっていうんですけど、その一言でものすごい救われたというか、その障害者のことで一生懸命やってて、もうへとへとになっているのに、別の障害者の人からの一言で助けられたっていうですね。 そういうことって、その若者の障害者の人って、はっきり言って働き手として社会から何の期待もされてないでしょうけど、でもやっぱり働き手なんですよね。ちょっとした笑顔と、たまたまちょっとした言葉で。 思いますけど、このて言うのかといったら、天の国が近づいたと述べ、伝えなさいって言うんですけど。これなかなかそうだなと思うんですけど。結局天の国そのものっていうのはやっぱり伝えられないけど、天の国救いとかか喜びとかですね、そういうものに近づいていく言葉を私たちが語ることができたら、やっぱりそれは素晴らしいんじゃないかなと思いますね。 でもなかなかこれはもちろん難しいんですけど、「元気を出していこうよって」ていうのは、ある場合は助けだけど、ある場合はまたげにもなる。よく言われるうつ病の人、励ましたらかえってプレッシャーで落ち込むって言うから、本当に何を言うか難しいですけど、ある一つの言葉がやっぱり救いとか神様から遠ざける言葉になっちゃうこともあるし、ある言葉によって神様に近づいていく言葉になることもあるわけですよね。 でもやっぱり何か私たちが真心を持って人と接する時に、何かちょっとした声がけにしても、何かそういうことは大事じゃないかなと思うんですよね。もう本当に人の悪口とか噂話ばっかりしてると、神の国から遠ざける言葉ばっかり喋ってるのも、それもちょっとどうかなと思いますよね。やっぱり神様の国に近づくような言葉を日頃やっぱり心がけて語れるかどうかっていうことですよね。 癒しの業にしても、それはイエス様みたいに急に病人に治すとか、それはちょっとそれは普通の人にはできないですけど。でもやっぱり私たちが人を助ける小さな働き、行いをできるかどうかっていうことだと思いますね。前もちょっと話したかどうか、ちょっとはっきり覚えてないんですけど。話したかもしれない。東北の青森にですね、昔、森のイスキアっていう建物があって、そこに佐藤初女さんというですね、普通の信者さんで、もう高齢で亡くなられましたけど。その割と何が有名かって、森のイスキアって、なんか山の中の方、山の中というか、ちょっと離れたところのあれなんですけれども。そこにですね、やっぱり心を病んだ人とか悩んでる人がしょっちゅう訪ねてくるんですよね。で、佐藤初女さんはどうするかといったら、おいしいご飯を出して、その人に食べさせて、その人の悩みを聞いてあげるという、ただそれだけなんですけど、それがものすごいなんかこう、有名っていうかですね、多くの人が僕も何回かそこに行ってですね、なんかもうなんか特別なところかなといったらごく普通なんだけど。普通の家で。でも作る料理はそれも普通の料理、普通の家庭料理なんですが、ものすごく心がこもってて。彼女が作るおにぎりって、その当時は日本で一番おいしいおにぎりって言われてたぐらい、本当に心を込めて丁寧に作るおにぎりなんですけど、結局悩んでいる人はなかなか、その彼女が言うには、食べれないって言うんですよね。だからやっぱりおいしいものを食べてるうちに心が溶けてきて。それでもっといろいろ自分の悩みとか初女さんはほとんど説教も何もせずにただ話聞いてるだけなんですけど、そのうちになんとなく2、3日したら元気になって帰っていくっていうですね。どこにも何か不思議なことが全くないけど、でも不思議なところっていうか、こののを見てると。 もちろん彼女は特別なやっぱり方だったと思いますけれども。でもやっぱり普通の、日本の主婦なんですよね。ご飯作るってちょっとあれするって。なんかその当時は日本のお母さんの元祖みたいな感じの人でしたけど。ちょっと亡くなられちゃって。なんか私も実は訪ねて行ったら、彼女の愚痴を聞いてたんですよね。どんな愚痴かちょっと皆さんの前では言えないけど。 ともかく誰だって苦しみとかいろいろあるわけですけど。だから何か困ってる人がいて、ちょっとご飯食べさせたり、お話を聞いてあげたりっていう、それが癒しの業だっていう、一人一人でできることは違いますけれども。でもやっぱり私たちは神様の恵みとか愛を言葉で語ったり、話し合ったり、あるいは行いで、ちょっとした人助けというか、困っている人に対するちょっとした親切ですよね。そういうことによって、私たちはやっぱり働き手として。働き手が少ないってイエス様は嘆いている、僕もだいぶ嘆いてますけど、でもちょっとした私たちが働き手としてちょっとしたことだと思うんですけど、それを私たちが心がけられるかどうかっていうですね。 まあ教会に来たらいつもさっきのお祈りも出てましたけど、福音宣教、福音宣教ってね、口では言うけど。でも実際できることはそんなことでしょうね。困ってる人がいたら、ちょっとなんか励ましの、ちょっとニコニコして、ちょっと声かけしたり、なんかちょっと困ってる人がいたら、なんかちょっとしてあげたり、そういう小さなことを積み重ねることがやっぱり私たちにできることだし、そういうことをすることが困ってる人にも喜ばれるし、神様も喜ばれるんじゃないかなと思いますね。 そのような恵みの世界をちょっと分かち合っていけるように、私たちはある時は自分自身がダウンして、誰かの温かい言葉で助けられることもあるし、誰かのちょっとしたことで助けられることはやっぱりありますから。お互い様ですけど、私たちが言葉と行いを通して、小さな働き手として神様の愛や恵みを分かちあっていけるようにですね、改めて神様に恵みを願いたいと思います。The post 【ミサ説教】マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.

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    【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」

    【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」2026年5月31日三位一体の主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 三位一体、父と子と聖霊は、それぞれ異なるペルソナ(位格)を持ちながら、本質において一つである神です。私たちは個性や人格があるからこそ悩みや対立を経験しますが、同時に人と愛し合い、支え合うこともできます。本質は与えられるものですが、それを日々の生活の中で生きてこそ意味があります。イエスを通して示された神の愛に倣い、一人ひとりの人格を大切にしながら交わりの中で生きることの大切さを心に刻みましょう。 福音朗読 ヨハネ福音書3章16-18節  16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 三位一体は真の交わりの姿 今日は、先ほども言いましたように、三位一体の主日、三位一体をお祝いする主日に当たっています。 三位一体というのは、キリスト教で教えの中でも、最も大切なことの一つですけど。三位、父と子と聖霊というですね。それはそれぞれペルソナというか、パーソナリティとか個性がそれぞれ別ですけれども、一体である。つまり本質が一つであるとですね、神として本質は一つですけど、3つのペルソナに3つのパーソナリティというか、個性というか、神様だから神格、人間だったら人格とかですけど、それに分かれているというですね、最も大事だけど最も分かりにくいのが三位一体の教義だと思うんですけど。 イスラム教みたいにアラーの神様一つだけと言った方が、神様は一人で一つで絶対的な方だと言う方が分かりやすいと思いますね。あるいは仏教や神道のように神様とか仏様がいっぱいいると、それはそれでそうなんですけど。だからこの3つで一つというのが一番分かりにくい。一番分かりにくくて一番大切というのもですね、不思議な気がします。 もともとですね、もう何十年前からですけど、新エヴァンゲリオンというめちゃめちゃ流行ったアニメがあって。もう終わったんですけどね。25年ぐらいかかって終わったんですが。一番最後の最後が宇部新川駅で終わるんですよね。アニメの一番最後が。だからもうそこがいわゆる聖地巡礼の場所になってて。私もこっちに来たから。行ったことあるんですけれども。田舎の駅ではあるんですけど、その監督の庵野秀明っていうのが。そこ出身なので。宇部のことがよく出てくる。そこで僕も感慨に浸ってたりしてたんですけど。そしたらやっぱりもうあれからもう何年経ってるのかと思うけど、僕よりちょっと若めの中年男性が何人かうろうろしてて、写真撮ったりしてたりして。いまだにその根強い人気があるんですけど。 そのエヴァンゲリオン長い長いお話なんですけど、最初の頃のお話は、お話の中にですね、人類補完計画って出てくるんですね。それが何なのかちょっと分からないうちにだんだんお話が進んでてですね。最終的にいろんないろんな話があるんですけど、とにかくその最初の頃のシリーズの完結編ではですね、とうとう人類補完計画が何なのかが明らかになるんですけど、それは何かと言ったら、人間が何で苦しむのかを互いに助け合ったり、理解できないとか、仲良くなれないとか、それは結局一人一人にペルソナがあるからだというね。一人一人に人格とかパーソナリティがあるから、結局人間は苦しむ。エゴがあるからですね。お互い同士、対立したり、孤独になったり、理解できないという。人類補完計画が最終的に明らかになるのですが、何かと言ったら、それは恐ろしい計画ですけど、ペルソナを全部なくして、人間という本質一つだけにみんな戻るっていう話なんですね。 だから個というものがなくなって、一人一人のペルソナがなくなって、人類という一つだけの本質に固まっちゃうっていう、そういう恐ろしい計画が進むんですけど。結局その1話の完結編では、とにかくシンジ君っていう青年がなんと中2の男子ですけど、彼がとうとうその計画をストップしてペルソナが残るっていうのが、その最初のシリーズの完結なんです。一つの結論なんですけどね。 それはなかなかやっぱり考えさせられるというかですね、私たちが何で苦しむかと言ったら、実際はペルソナがあるから苦しんでいる。お互いのエゴとエゴがぶつかったりとか、あるいは人がいなくて孤独になってしまったり、理解されなかったり。だから、でも、ペルソナがもしなければ、私という存在もなくなってしまう。それもちょっと。だから神様が本質が一つ、神という本質であって、それぞれのペルソナの中で関わりがあるというですね、それはいわば一つの私たちの理想的なある姿を語っている。それぞれが別だけども一つになれるっていうですね、その恵みの世界というか。 だからこのペルソナをなくしてしまって、本質だけにするっていう乱暴な方法でもないし、あるいはペルソナだけで本質的に一致していなければ、ただのバラバラで苦しむだけだから、やっぱり三位一体っていうのは、いわば私たちのこの救われた状態の、いわば一つの理想的なモデルを神様そのものが持っている。だから私たちはそれを生きていくことができるというですね、恵みの世界を表しているというふうに考えるのが、本当にキリスト教の世界観というか、ものに合っているようなふうに思います。 実際のところ、私たちのレベルでもっと考えてみたらですね、本質とペルソナがどう違うのか。哲学的なお話であまり考えないことかもしれないですけど、簡単に言うとですね、本質というのは与えられるものなんですよね。で、ペルソナっていうのは作っていかなきゃならないものなんです。 例えば私たちが生まれたら人間になるわけですよね。人間という本質をもらうわけですけど、人間という本質をもらっているけど、ペルソナとしての人間を生きていかない限り、本質はただ本質のままで育たないってことなんですね。例えば、お父さん、お母さん、子供が生まれたら、子供が生まれることによって、親にはお父さんやお母さんという本質が与えられるんですよね。でも、その本質があるだけでは意味がない。子供を実際育てない限り、父親としての母親としての意味がないわけですよね。 だから、ペルソナとして生きていく中でこそ、私たちの生きる意味があるってことなんですね。 例えば、洗礼を受ければクリスチャンという本質をもらうわけです。でも、クリスチャンとして何の祈りもしなければ、何の愛の実践もしなければ、本質だけであるということは何の意味もないんですよ。私たちがクリスチャンという本質をもらったとしたら、そこからペルソナで、私たちの生き方の中で、ペルソナの中で生きていくことによって、初めて本質の意味が生きていくっていうことなんですね。これは非常に大切なことだと思います。 だから教会では愛とか平和とか救いとかよく話しますけど、全部ただの本質なんですよ。平和も愛も。いいものですよね。すごく本質ですけど、いいもの、本質は生きない限り意味がないっていう。ペルソナとして生きていくからこそ、私たちの生活の中に平和が生まれたり、愛が生まれたりするということなんですね。 神さまに話を戻して言うと、だからイエス様はペルソナなんですよね。イエス様の生き方とか、そこに触れることによって、私たちは神の本質が現れてくるから。だから意味がある。イエス様の存在の、イエス様のペルソナの意味があるということですね。私たちにとって本質はいいものですけれども、本質だけでは意味がないということなんです。 私たちは一人一人のペルソナとして、個性として、人格としてどう生きていくか、その本質そのものにのっとって生きていくかの中で恵みが現れてくるということですよね。 それを私たちの心に刻みたいと思います。ペルソナは人と関わることによってしか意味がないってことなんですね。 家に閉じこもってじっとしているだけならば、ペルソナとしての生き方は何にも現れてこない。本質はありますけどね。本質はもちろんあるんですけれど、本質だけを生きていくことは全く意味がないんですよ。ペルソナとして、私たちがクリスチャンとしての本質、人間としての本質、あるいは人によっては働くという、職業を営む者としての本質、あるいは家庭人として父親であるとか母親であるとか、あるいは人によっては学生であるとか、あるいはそういう本質はペルソナで生きていくことによって初めて本質が現れて生きて、意味に意味があるものが溢れてくる。それは三位一体の愛から来ている神秘なんですよね。 私たちが与えられている本質をペルソナとして十分日々の生活の中で生きていく。それは三位一体の神さまの愛を私たちの生活の中で表して生きていくということと不可分なんですよ。つながっているということですね。私たちはイエス様を通して、神さまの本質を触れるチャンスが与えられているわけですから、イエス様のペルソナと私たちのペルソナと触れ合うことによって、その本質が生きてきて、私たちの生活を変える、社会を変える力として現れてくるということですね。 だからこそ、私たちは、一人一人のペルソナを、一人一人の人格を大事にしながら、自分自身の人格をいつも関わりの中に生きていけるように。三位一体が一つの交わりですから、私たちがそのペルソナの交わりの中でこそ、本当に大事な本質を生きたものとして、恵みとして生きていけるようにですね、神さまに恵みと力を願いたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.

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    【ミサ説教】ヨハネ福音書20章19-23節「聖霊の風に乗って生きる」

    ヨハネ福音書20章19-23節「聖霊の風に乗って生きる」2026年5月24日聖霊降臨の祝日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 聖霊は、ただ待っていれば働くものではなく、人が「赦そう」「愛そう」「前へ進もう」と決断する中で力を現します。祈りと行動が結びつく時、私たちは自分の力以上の恵みに支えられていきます。自力だけで飛ぶ雀ではなく、風に乗る鷹のように、聖霊の導きに心を開くことが大切です。赦しや和解、勇気ある一歩の中でこそ、神の力は豊かに働いてくださるのです。 福音朗読 ヨハネ福音書20章19-23節  19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 聖霊の風に乗って生きる 今日は聖霊降臨の祝日をお祝いしています。イエス様が復活した後、50日後、50日後に、ルカの福音書とか、使徒言行録によると聖霊が下るということですが、でもやはり私たちに聖霊が与えられているというのは、イエス様の復活と深いつながりがあるということですね。今日はヨハネの福音書が朗読されましたけれど、ヨハネの福音書では、復活したイエス様がですね、すぐに聖霊の恵みを与えているというふうに記述されています。彼らに息を吹きかけて言われた息というのが、聖霊の愛そのものですよね。息を吹きかけて聖霊を受けなさいと復活した。主に聖霊の恵みを受けるという、それを私たちがお祝いしていて、そして私たちが聖霊の恵みによって生きていくようにということなんですね。 そしてその後がですね、今日のイエス様の言葉はなかなか考えさせられることですけれど、誰の罪でもあなた方が赦され、許せば、その罪は赦されるということですね。聖霊の愛があるので、そこで罪が赦されるということですけれども、あとなんですよね、あなた方が、さなければ許されないまま残るというふうに書いてあって、これなかなか考えさせられる。 当たり前といえば当たり前のことなんですけど、許せば、確かに許しがあると、許さなければ赦しがないっていうですね、まあある意味その通りなわけですよね。私たちが誰かを愛せば、そこに愛が生まれますけど、そこで愛さなければ愛は生まれないっていうですね、ある意味ごく当たり前のことを書いているというふうにも言えるわけですけど。でもこれは本当に私たちのどういう態度をとるかということと深くつながっているということなんですよね。聖霊の恵みは、私たちがこの聖霊の恵みが働く方向性に、態度というか生き方というか、それをすればそこに聖霊が働く。でも、私たちが諦めちゃって何もしなければ、聖霊が働きませんよと言っているわけですよね。 人を許せば聖霊が働いて赦されるけど、私たちがこの人許したくないとか、もう何かと思って許さないままほっといたら、聖霊も働かないし、赦しも起きない。だから、聖霊の働きというのは、実は私たちの主体的な決断と深くつながっているというですね、これが非常に大事なことだと思います。 つまり、私たちの協力というか、人間の側が愛するとか、あるいは許すとか、和解するとか、あるいは平和をもたらすとか、あるいは勇気を持って困難を乗り越えていくという決断がある時にこそ、そこにこそ聖霊が働いてくださるということですよね。人間の協力の中で、人間の決断の中でこそ聖霊の恵みが働く。だから聖霊の恵みが大事ですけど、私たちの人間的な決断とか、人間的な私たちの心の方向性、これが決定的だということですね。 例えて言うならば、簡単な例えですけど、若い頃は私、体育会系男子だった時期もあって、中学高校の頃はサッカーやってたんですよね。わりと熱心にサッカーやってて、運動をやる人は大体そういうことを経験すると思うんですけど、もうね、もうこんな暑くなってきたらまず練習が嫌なんですよ。この暑い中でまたって気持ちも入らないし、なんかもう心も体もだいたい、いやいやだいたいだいたい入るわけですよね。でもでも、練習してて体を動かしてると。しかもだんだんですね、中学生の時は高校生ぐらい。だんだん上手くなってきたら余計そうなんですけどね。最初は。いやでもなんかこう一生懸命やってるうちに。なんか体がほぐれてきてですね。なんかこう自分の中からエネルギーがだんだん湧いてきて、こう、なんていうのかな、こう努力しながら、なんかこうある力と一緒にやるような感じですね。しかもなんかこう、サッカーみんな団体競技だからね、そういう気持ちになったけど、みんなだんだんそんな気持ちでこうコンビネーションがうまくいったり、パスがうまく通ったりとか、みんなでだいたいいい感じになってきて。なんかこう終わる時にはもうすっきりした充実感みたいな感じで終わるような感じなんですよね。運動してる人はよくわかると思いますけど。 だからこの最初が、例えばもうかったるいな、今日は暑いしもうやめとこかみたいな感じで、練習をさぼったらさぼったままで何もエネルギーも力も湧いてこないまま、結局終わっちゃうわけですよね。そこであえてやっぱり今日も頑張って、友達とか先輩後輩と一緒に練習しようと思ってやってると、なんか力が湧いてきて、いい感じの体に体も動いてくるし、気持ちもみんなとフィットしてくるみたいな感じに。もちろん必ずそうなるわけではなくて、気持ちがバラバラのままで試合に負けちゃうとか、もちろんうまくいかないこともありますけど、でも基本はなんかね、こうやってる中でこう力が働いてきて、それに生かされて、心と体が一致して、なんかうまくいくっていう感じに。スポーツやってる方はよくわかりだと思うんですけど。そういうふうになるので、それはマラソンであろうがなんであろうがそんな感じなんですが。やっぱりこう何て言うんですかね、それはもちろんスポーツの体の方のことだけですけど、やっぱり聖霊が働くということは、私たちの人間的なエネルギーとかやる気とか前向きな気持ち、それはなんかもう嫌だなとか、もうなんかもう何回もこんな面倒くさいないとか、いろいろあったとしても、そこで私たちが前向きな気持ちで、勇気を持って、あるいは愛の心を持って進もうとしている中で、こう神様の力が働いてきてですね、そこから何かが展開していくっていうですね。普通の私たちの言葉で言ったら、やっぱり祈りを伴った行動の中で聖霊が働く。ただ座って祈っているだけでも、何かあんまり祈りなしに、ただ行動しているだけでも何か空回りしちゃうこともあるけど、でもなんか祈りとか心を込めてあることに打ち込んでかかっていこうとする中で、聖霊の働きがあってですね、そこで何か実りが現れてくる。それが私たちの信仰生活の醍醐味じゃないかなというふうに思います。 コツはどういうふうにやるかといったらですね、スズメのようにではなく、鷹のようにっていうんですけど、何かといったら、スズメはですね、ちっちゃいから、羽もちっちゃいですからね、パタパタパタパタ一生懸命飛んで、あっちの屋根からこっちの屋根まで自分の力でパタパタやって飛んでるわけですよね。日頃は地面つついたりしながら、あっち飛んだり。でも鷹になると鷹とか鷲とかになると羽ばたかないんですよ。それはもう大きさもあれも違いますけど、鷹とかぴゅっと飛んだら、あとは風に乗るんですよね。風に乗るから、実は羽を広げているだけなんですよね。あの広げているだけでピュッと集めたから、こっちまでビューとこう飛んでいくっていうですね。 だからこの聖霊の働きというのは鷹の飛び方なんですよ。だから鷹がピュッと羽広げて、そこにもちろん風を見ているわけですよね。風に乗るとピュッと、ズメが一生懸命やってる、もう何10倍も飛んでいくような。だからやっぱりスズメのように自分の力だけでやろうと思うと、大したことができないってことですよね。自分で一生懸命やっている間は、ほんの屋根、瓦屋根までちょっとしか飛べないですけど、そこに聖霊の力が働いて、鷹のように風を受けるならばですね、隣の山までビューと飛んでいけるぐらいな恵みと力が与えられる。 私たちはやはり、ああいう鷹のような、鷹のような気持ちになったことがないからあれですけど、やっぱりなんか前向きで、シャキッと遠くを見ながら勢いよくバーっと出た時に、それがうまく聖霊の働きにつながると、大きな実りが、それが許すだったり、愛だったり、和解だったり、大きな平和であったり、喜びであったり、お互い同士の深いつながりであったり、そういうことが出てくるのではないかと思います。 私たちにはこの聖霊の恵みが与えられているということです。すでに。だからこそ私たちはこの聖霊の恵みを生かしていけるように、その聖霊の恵みに私たちも心を向ける努力だったり、この気持ちの集中、それを合わせてこの大きく羽ばたいて、聖霊の恵みのうちに歩んでいけるように、ともに祈りを捧げたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書20章19-23節「聖霊の風に乗って生きる」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.

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