EPISODE · Apr 3, 2026 · 13 MIN
【ミサ説教】ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」2026年4月2日聖木曜日のミサ防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 聖木曜日の晩餐は、イエスが死を前に弟子たちと食事を共にし、その心と恵みを分かち合った出来事です。食事は親しさのしるしであり、本当に分かち合ったイエス様そのものは「ご聖体」として今も私たちも恵みをいただいています。ともに食事をする、足を洗い合うという深い親しみの関係性を生きる、そんな生き方ができるように恵みを願いましょう。 https://hofucatholic.org/misa-info 防府カトリック教会の最後の晩餐のモザイク画ですはこちらから! 福音朗読 ヨハネ福音書13章1-15節 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」 最期の食事をともにしたイエスの愛 今日の聖木曜日主の晩餐の夕べのミサを、今、私たちは捧げています。けれども、特にこの教会は、この晩餐のミサが意義深いのではないかなと思います。というのは、この祭壇の向こう側に、最後の晩餐のモザイクは大きなモザイクがかけられてあって、私はほぼ毎日これを眺めているので、この教会は最後の晩餐教会という名前にしたらいいのではないかと思うぐらいはともかく、あれが一番のイメージというか、何かに残るように思っています。 イエス様が最後に亡くなられる、亡くなられる前の最後の晩餐ということで、やはりイエス様が最後の最後に亡くなる前に弟子たちと一緒にこの食事をするというのは、イエス様にとってもそうですし、弟子たちにとっても非常に心に残る何か出来事だったのであろうと思いますね。 私はちょっといつ死ぬかはちょっとまだ分からないんですけれども、やはり人間が亡くなる前に、やはり親しい人と、それは主に家族でしょうけれども、最後の最後にやはり家族と食事の時を持ちたいと思うのは、人間として非常に自然な気持ちではないかなと思いますね。 ちょっと前ですけれども、伊丹十三の「たんぽぽ」という映画があって、その中でちょっとしたエピソードなんですけれど、お母さんがもうちょっと亡くなりそうで、寝ている時にね、子どもがいて、お父さんがいるんですけど、お父さんがチャーハンを作ってくれとお母さんにですよ。そのお母さんは寝ているんだけれど、起き上がってチャーハンを作って、そして最後家族でチャーハンを食べて、それでお母さんが亡くなるというシーンが出てくるんですけど、たぶんお母さんはチャーハンを作るのがたぶん上手で、最後にみんなでご飯を食べて亡くなるというちょっとしたエピソードだけ出てくるんですけど、何かやっぱりそういう気持ちになるかもしれない。共に食事をするということは、やはり何か親しさの心の触れ合いの具体的なしるしですから、それを私たちと一緒に食事をして、そして死に赴いていくということなんですよね。 この絵では、本当は食事ですから子羊を食べたんですけれど、こいつで1匹丸焼き食べるんですけれど、やっぱり一応ここは日本ですからお魚になっているんですけど、まあ3匹ぐらいの魚にちょっと入れ替わっていたりするんですけれども、でも、これもまた意味があって、お魚と言うのはギリシャ語でイクトゥスって言うんですけれど、イクトゥスというのはイエスキリストの意味なんですよね。だから古代からお魚というのはイエス様のシンボルで度々出てくるんですけど、結局、だから彼らが分かち合ったのは、イエスキリストを分かち合ったという最後の晩餐で、それはもうご聖体ということと深くやはりつながっていくんじゃないかなと思いますね。 そしてイエス様はそれを記念として行いなさいとことを私たちに命じられたわけですけども。何かそういうことがあるかどうかあれですけど、やっぱり亡くなる前に何か記念を残したいっていう、あるいは記念になるものが何かというのは気持ちとしてあるかもしれないですけどね。葬儀の時に、人によりますけれども、葬儀カードを作ったり、あるいはちょっとね、大切なものを棺に入れたりとか、何か記念になるものを、何かを最後に亡くなる前に分かち合いたいという気持ちになるのも、まあ人間的には記念だけじゃなくてね、イエス様はご聖体というもっと大きな記念を私たちに残されているわけですけれども、それも何か気持ちが分かるような気がしています。 そして、ヨハネの福音書は今読んだですけれども、さらに一つのしるしとして弟子たちが足を洗うという、それもやっぱり亡くなる前にイエス様が自分の生き方がどうなのかをもう一度行為として表す表したかったんだろうなという。最後の晩餐の時の弟子たちは、ぴんと来ている人と来てない人もいるかもしれない。ちょっと分からないですけど、イエス様はそういう自分が死に行く最後の弟子たちとの関わりを何か表したかったんだろうなと思いますね。 このモザイクにも表れている通り、一人はユダですよね。もう誰が嫌なのかもはっきり分かるように描かれてますし、みんながみんなイエス様と心が合わさっていたわけではないように描かれているわけですけれど、この周りの12人を見てもいろんなことを感じられますけれども、だけど私たちはやはりこうやってミサを日曜日集まっていますけれど、やはりイエス様の本当の心というか、亡くなる前の心を何かこう思い起こしたいと思います。 私たちがミサにあずかるということは、結局、イエス様の最後の心を分かち合うために、私たちもこの最後の晩餐の席に招かれているという、それが私たちにとって本当に大きな恵みだと思うんですね。しかも、一人じゃなくてグループで共同体として招かれている。だから、これは典礼を表しているとも言えるし、私たちの教会のあり方を表しているような気もやっぱりします。 私たちが親しい人と家族はもちろんそうなんですけれども、やっぱり親しい人とどうするかと言ったら、やっぱり一緒にお茶を飲んだり食事をしたりする形で共に愛や親しみを分かち合うのは人間としてもごく当然のことですし、私たちは、教会はイエス様の恵みを分かち合っているということですよね。それが場合によっては食事のような親しみを分かち合う場でもありますし、場合によっては足を洗うという奉仕の姿でお互いのつながりを確かめ合うことでもありますよね。 足を洗うというごくごく当時は召使いのする謙遜な仕事だったわけですけれど、やはり私たちが交わりの中で誰かの足を洗うようなことがあるでしょうし、あるいは逆に誰かの誰かに足を洗われることがあるかもしれない。それを具体的に助けられたり、助けたりする。そういう関係の中で、私たちはイエス様の恵みを互いに分かち合いながら助け合っているということですよね。本当にこの共同体の恵みの姿を、最後の晩餐で全てが表されているような気がします。 私たちが、自分が亡くなる時に、だいたいは家族の誰かと一緒にってことになると思いますけれども、でもやはりそういうこの社会の中で、やっぱり苦しんだり孤独だったり、そういう方々もいっぱいおられて、そういう方々がやっぱり教会に招かれて、その人の足を洗ったり、あるいはその人と恵みを分かち合ったりする、そういう教会共同体のお恵みが周りの人にも広がっていく。その恵みが与えられている以上、その恵みを分かち合っていく使命が、私たちにもやっぱり与えられていると思いますね。 ミサに招かれるだけじゃなくて、人間的な何かつながりや助け合いや、そういうものの中で、イエスキリストのお魚であるイエス様が分かち合われて、お互いが豊かになっていくということですね。 この最後の晩餐の記念を、弟子たちは深く深く心に刻んで、この恵みを使徒として世界中に分かち合っていたわけですけど、私たちもその恵みを分かち合えるようにお願いしましょう。その恵みをしっかりつながりの中で、私たちもその恵みを受けながら、でも、その恵みを周りにいる人々にも分かち合っていけるようにですね。 本当に何か言葉が変ですけれど、やっぱり自分が亡くなる前に誰と一緒に食事をしたいのか。家族はもちろんそうですけれど、家族以外で何か本当の意味で。この人と親しみを深く感じた、分かち合えた、助け合えたという、そういう何か記念ができる、そんな生き方ができるように、教会そのものがそういう記念を広げていけるようにですね、心を合わせて恵みを祈りたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
Embed this episode
Ready to play
【ミサ説教】ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」
No transcript for this episode yet
Similar Episodes
No similar episodes found.