EPISODE · May 3, 2026 · 15 MIN
【ミサ説教】ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」2026年5月3日復活節第5主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ ヨハネによる福音書14章の「私は道・真理・命」という言葉から、信仰とは“歩む道”そのものだとわかります。殉教者、とくに乙女峠の証し人たちは苦しみの中でも道を見失わず、そこに慰めと力を得ていました。人は道が見えない時に最も苦しむものです。しかし、キリストの十字架と復活は確かな道を示しています。日常の中で自分の道をその道に重ねられる時、信仰者は本当の命と安定を得るでしょう。 津和野の乙女峠の殉教者のお話です 福音朗読 ヨハネ福音書14章1-12節 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」 イエスの歩んだ道がある 今日の福音書はヨハネの14章で非常に慰め深い、あるいは意義深いことをイエス様がたくさん話されているところですね。最後の晩餐の席でイエス様が話された言葉の部分ですけれども、一番有名なのがやはり6節でしょう。私は道であり、真理である、あり命であるとおっしゃるところですけれども、私たち、私たちというか、この中の多くの方々がですね、やはり日本人の方々が多いと思うのですが、やはりこう道を歩むっていうんですかね、何かそれは何か私たちにとって非常に大切なものじゃないかなと思いますね。自分に与えられた職業だったり、使命だったり、その道をどう誠実に、あるいは徹底的に歩めるかというのは、案外一番大切なことじゃないかなと思います。 どんなことにもその道があったら必ず達人というか、名人みたいな人が実際おられるんですよね。将棋にしても何にしても、蕎麦職人にしてもですね、やっぱり名人と呼ばれる人がいて、羽田空港には掃除の達人みたいなおばさんがいるとか、どんなことでも道を極める人がいて、それが私たちの生き方の一つの基盤になってるって言うんですかね。それはどんな仕事でも、どんな役割でも、どんなことでも、そういうなんか道を極めた人というのは必ずいてですね、皆さんの模範になるような生き方をされている人がいるわけですよね。 私たちはイエスの道を歩む以上、私たちもこのイエスの道をなるべく極めて歩んでいきたいという望みを持っている方も多いと思うんですが、やはりそのイエス様の道の達人は誰かと言ったら、もちろんいろんな意見もあるでしょうけど、一つは殉教者だと思いますね。やはり、自分の命をかけてまでイエス様を証しした人々、それが今日は5月3日、乙女峠のですね、あの。証人、その中で殉教された方々がおられるということですが、乙女峠のことは皆さんよく御存じだと思いますけれども、明治になってプチジャン神父は外国、フランスからですね、宣教師が日本に来て、長崎でまさか日本に信者はいないと思って、外国人のためのなんていうんですかね、教会を建てたところを、あの見知らぬ日本人が入ってきて、マリア様のご像はどこですかということから始まって、実は250年間ですね、その潜伏していた人、クリスチャンがいるということで、プチジャン神父さんがたまげて、それを結局バチカンに報告することになって、公になってですね、それを基に隠れていた人々がクリスチャンであるということを名乗るようになったんですよね。でも残念ながらまだ日本は禁教令の中だったので、その名乗った人々が結局浦上四番崩れっていうのは、崩れって言うのは、この、隠れてたことががばれることなんですけど。浦上四番崩れということで、多くのクリスチャンたちがあちこちの場所に送られることになって。乙女峠、当時の津和野藩ですかね、153人が津和野に送られて、そのうちの37人が殉教したということなんですよね。乙女峠のこの証し人たちは列福運動もすでに始まっているということで、広島教区の一つの宝としてですね、だいたい毎年そこに集まる人は集まって、共にこのロザリオを唱えながら行列をしてミサをささげるということをやっているわけですね。 まあ、そういう英雄的な方々の話を聞くと、普通はもう自分にはできないというか、とてもじゃないけどっていう気持ちになると思うんですが、でも何て言うんですかね、やはりこう、彼らにとってその250年間隠れてて、隠れているのと、やっぱり自分たちがクリスチャンだっていうのと、どっちが彼らにとってやっぱり良かったかって言ったら、やっぱり明らかにみんなの前でですね、自分たちはクリスチャンだって言うことの方が、やっぱりこう喜びと言ったらあれかもしれないけれども、何か心の晴れる気持ちがあったんじゃないかなと思いますね。それで迫害されても、もうまた隠れるってこともないですから、もうOKという形で、やはりイエス様の敷いた、クリスチャンの道がやっぱり私たちにはあって、その道に私たちの生き方がかぶる時に、それが大体、多くの場合は困難がある時が多いですけど、その時にやっぱり私たちの心の中にあるのは、もちろん苦しみもあるけれども、そこにイエス様の真理と命を感じ取れる何か、それを喜びというか、慰めというか、励ましというものがあるんじゃないかなと思いますね。 その津和野の殉教者の中で有名な方の一人は、森安太郎というですね、ご存知だと思いますけど、三尺牢というね、90CMの立方体の檻に入れられて、立つことも寝ることもできないそこで1ヶ月間入れられて、真冬なので裸で野ざらしにされてですね。それで結局彼は殉教するわけですけど、でも守山仁三郎だったか。高木仙右衛門だったか、とにかく彼に会いに行って励まし励ますんですけど、安太郎の方はですね、毎晩毎晩、青い着物を着たサンタマリア様のような方が現れて、その人が自分を励ましてくれると。毎晩ですね、だから苦しいことは何もないっていうことを答えるんですよね。まあ、有名な話ですけれども、マリア様の御出現を受けてたっていうことですけど。安太郎がですね。それで亡くなるんですが、もちろんそんなにね、そういうことは特別なことかもしれないけど。でもやっぱりその時に行った150人ぐらい、7人か8人は転んでいるんですけれど。転んだけど結局また元に戻るんですが。 ともかくやっぱりね、こうイエス様と共に歩む道を歩んでるっていうことに大きな励ましと力を得ていたのは間違いないと思うんですね。だから私たちはついつい外から見てあんな苦しいこととか、自分たちはできないとか無理とか、いろいろすぐ思っちゃうんですけど。でもね、案外その中にいて、しかも家族と仲間と一緒ですから、そこでイエス様の道をなんかもう命かけて歩んでるっていうことがはっきり自覚できる時には、やっぱりそこに大きな真実と本当の命の恵みを得る、そういうものがあったのはまず間違いないと思うんですよね。 だから、喜んで、喜んでか、渋々か、人によってもちろん違うとは思いますけれども。だから私たちも日頃はね、平安な世の中にだんだんちょっとおかしくなってきましたが、クリスチャンであってもなくても、そんなに日常生活はそんなに変わらないことがあるけれども、でも何かある時に、私たちはクリスチャンであるということを自覚する。そういう時にこそイエスの道を歩んでるっていう、なんか励ましと力づけがやっぱりあることが、やっぱり私たちの一番の根本にあるから、私たちは信仰者として歩めるんじゃないかなと思いますね。 全然関係ない話かもしれないけど、最近ちょっとアメリカ人の神学生と話をしてて、彼の召し出しの話を聞いたんですけど、割と才能のある人で、医学の勉強したりとか、いろいろ日本語も喋れてとか、いろんなことで彼が言ってたけど、イエズス会に入る前にはある意味成功した人生だけど、でも心の中にぽっかり穴が開いたのは気持ちがどうしても拭えないって言うんですよね。本当の意味で喜べない気持ちがどこか自分の中にあった。で、でもイエズス会に入ることによって、何かこの心の中の穴がなんか閉じられて、なんか本当に自分の歩む道を見つけたみたいなんだから。彼の場合は・・・、一人一人違いますけど、彼の場合はイエズス会に入るということで、自分の道がきっとイエス様の道と一つになったっていうんですかね。だから喜びっていうか、安定感というかですね、なんか生きてる安心感みたいなのがあって。だからやっぱり私たちはイエス様の真実とイエスの命を生きていける、そういうものが与えられることですよね。 ただ、私たちも弱いから、ついその道から外れてしまうことが。でもずれればずれるほど、なんかやっぱりなんか本当の生き方じゃないっていうことを感じたり、罪ってことですけどね、ズレてるってことも感じられるし、ずれてたら戻ることもできるわけですよね。 やっぱり私たちの人生の一番の苦しみは、道がない中を歩くことが最大の苦しみじゃないかなと思いますね。実際のところですけどね。 突然苦しみにあって、なんでこんな苦しみがないか、ならないのかと。なんでこんなことが起こるのかとか、道がないから私たちは結局苦しんでしまうわけですよね。ああでもない、こうでもないとか、たとえ成功しててもそこに道が見出せないと生き甲斐がないがないっていう感じがしてしまう。 イエス様の最大の功績は、十字架と復活によって道を与えてくださったっていう、つまり十字架と復活の道こそが私たちの本当の道だということを示してくださった。だから、そのイエス様に合わせた時に、道に私たちが合わさった時に、殉教者であろうが、普通の生活で生きている人であろうが、イエス様の十字架とイエス様の生き方が合わさった時に、その道が見えて、道を歩める喜びと力づけが私たちに与えられている。 だから、イエス様は道であり、真理であり、命であるという。生き生きした命を生きられる。 この数時間後に彼は逮捕されて、翌日十字架にかかって、この世の命は無くなるんですけど、でもイエスの道を歩む限り、本当の命の恵みと力が私たちに与えられて、それを生きていける。 もちろん小さな苦しみ、大きな苦しみ、色々ありますけど、イエス様の十字架と心を合わせて生きていく中で、復活の恵みに繋がるというですね、喜びが私たちには与えられているということですね。それをやはり改めて思い出しながら、乙女峠の先輩たちの信仰の証しをもう一度ですね、心に刻みながら歩みましょう。 私たちに与えられている道が明らかにある。私たちも自分に与えられた信仰の道を喜びのうちに、あるいは。人によっては覚悟を持って、あるいは本当に平安な心でですね、前向きにその道を歩めるように、共に祈りをささげたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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