EPISODE · Apr 13, 2026 · 13 MIN
【ミサ説教】ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」2026年4月12日復活節第2主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 復活したイエスに出会えなかったトマスは疑いますが、傷を示されたことで信じ、「見ないで信じる者は幸い」と教えられます。信じるとは、見えないからこそ成り立つものです。そして人を信じる力は、深く関わり、相手を受け止める中で生まれる信頼に支えられています。神との関係も同じで、愛と喜びの体験があるからこそ、見えなくても信じることができるのです。信じることは困難を越える力となり、私たちを前へと導きます。 英神父さんは、長府教会主任司祭に異動となりました。 福音朗読 ヨハネ福音書20節19-31章 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 見えないものを信じる力には愛がある 今日の福音書は、イエス様が復活された時のお話です。ヨハネの20章の後半のですが、イエス様が復活された日曜日の夕方、イエス様が現れて弟子たちにお会いになったわけですが、その時にトマスだけは不在だったので、彼は信じないとかたくなにそれを主張したわけですが、1週間後、それが今日の第2主日にあたるわけですが、その時にもう一度イエス様が復活された。イエス様が現れて、トマスの自分自身の傷を見せて、手と脇腹の傷を見せて、信じない者ではなく信じる者になれとイエス様がおっしゃるわけですね。トマスはそれを見て、私の主よ私の神よと言って、主イエスを礼拝するということになるわけですね。それに対してイエスはトマスに見ないのに、信じる人は幸いであるということをおっしゃるわけですが、私たちがどういう時に本当に信じるのかということなんですね。 実際、信じることの一番大切なポイントは何かと言えば、やはり見えていないからこそ、私たちは信じなきゃならない。もしそれがはっきりと見えていれば、実は信じる必要性がなくなっちゃうということなんですよね。 カトリック教会では対信徳といって、神様に対する徳は信仰希望愛と言われているんですけど、天国に行ったら神様をありのままに見るので、信じる必要性がないんですよ。神様が目の前におられるか、希望する必要性もない。神様が目の前におられるから、だから、天国に行ったら愛することしか実は残らないというふうに実は言われてるんですけれども、私たちは復活したイエス様を肉眼に見ているわけではないですし、たとえ弟子たちだって、復活したイエス様と出会っていたとしても、それは1回か2回ということでしょう。実際、私たちが信じるということを考えたときに、目に見えないことだから、私たちは信じるということが大切になってくる。私たちは何を本当に信じていくのか。実際に聖書の中で信じるべきことの最大のものは何かといったら、イエスが復活したということなんですよね。それを信じるかどうか。 もちろん、この中にいる人は誰もそれを見ていないわけですけれども、でも私たちはそれを信じて歩んでいくことができる。それが幸いだ。みんな祈り、信じる人は幸いだというこの幸いを私たちが生きていくことができるかどうかということだと思います。 大阪の釜ヶ崎というところに関わりがあって、そこにいろいろな人がいるんですが、一人有名な人で入佐さんという女性の方で、若い頃から今はもうボランティアは山のようにいるんですが、昔はボランティアなんかほぼゼロというんですかね、まったく労働組合の人とクリスチャンや牧師さんやシスターとかがちょろっといたぐらいだったんですけど、そのときに入佐さんがプロテスタントの女性なんですけど、単身女性で一人で男の町に入っていって、それでいわゆる傾聴ボランティアの元祖のような形で労働者の人たちの話を聞いて。 彼女が言うんですけれど。ちょっと正確な言葉じゃなくて、私なりの解釈なんですけれども。やっぱり労働者一人ひとりを信じているというのでしょうね。その人たちも入佐さんを信じているというのか。私はあんまり人間に信じるという言葉は実は使いたくない。信頼するという意味でということですけど、今は生活保護とかとれるんですけど、昔はまったくどうなのか非常に困難な、野宿している人とかでも何になるのかのいろいろあって、生活保護はとれても当座のお金とかないとかなんとか、それで入佐さんが自分のお金を貸すわけですよね。お金を貸すということは、結局その人を信じているからお金を貸すということになるわけなんですよね。信じてお金を貸して踏み倒されたこと一度もないですしね。 それは何でかといったら、野宿者の側からすれば、入佐さんが自分を信じてくれてるから裏切れないでね。だからやっぱりちゃんとお金返さんとあかんと思って、今まで一人も踏み倒した人が0だというんですよね。ではなんで・・・ いや、実はちょっと私もいろいろちょっとだけ誤解があって、私も一人の人を信じていたんですけど、ちょっと詳しい話になる。裏切られたってちょっとオーバーだけど。僕が計画した通りにうまくいかないことがあって。トンズラ、トンズラあってもないんですけど、ともかくうまくいかなかったんですよね。それも僕もある意味彼を信じていたけれども、結局うまくいかなかったんですよね。彼も僕を信じてなかったか。いろいろな細かいことはいろいろあるんですが、うまくいかなかったことが実は最近あったんですが。 でも考えてみたら、なんで入佐さんには信じるってことが成り立つのか、それははっきりしていて、徹底的に話を聞いて徹底的に関わっているからなんですよね。どこまでもその人と悩みも苦しみも全部聞いて、それでも本当に関わっているから、つまりそこに信頼関係があるから信じるってことが成り立っているというか。まあ、当たり前といえば当たり前ですけれども、でも私たちはどういうときに人を信頼するとか、信じるとか、あるいは子どもを子育てしていて子どもをどう信じるのか。 だけど、その信じるって言ったときに、だから、それは将来のことですから、その子どもがどうなのかとかわからないし、問題を抱えていたらどうなるかわからないけれど、でも、そこでやっぱり信じるってことがあるから、その子どもにしろ、問題にある人にしろ、それを受け止めて頑張ろうとする気持ちが湧いてくるんですかね。 やっぱり人と人との深いつながりがあるところに、信じるということの意味が出てくる。あるいは信じることの力が出てくるってことなんですね。 だからやはりこの弟子たちだって、やはりイエス様とのいろいろな交流とか何かがあるから、だから最後の復活で、その後信じることができるという、そういう恵みが与えられているということですね。 今日の第2朗読の最後、ペトロが書いている手紙の最後もなかなかいいですよね。ペトロの次の世代に向かって書いてあるんですけど、あなた方がキリストを見たことがないのに愛し、今見てなくても信じているというふうに書いてあるんですよね。 それはもうイエス様との出会いがないわけですけれども、やっぱり使徒たちとか、その人たちの、またその次のですとかですね、その人たちと本当の心のつながりやふれあいや助け合い、そこに神の愛をお互い実感しているところがあるから、この今見てなくても信じている、しかも言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れているというんですよね。 やはり私たちが本当に信じられるとしたら、そこに愛と喜びがあるからだと思います。神様と自分との関係もそうだし、人間同士の関係でもね。 そして信じるというのは必ずないものに向かっているんですよね。だから、例えば今大きな困難があって。抜け出せないとか、うまくいかないとか、もちろんそのこともいろいろありますが、でも信じているからこそ、それを乗り越えて私たちは前に向かっていく力が与えられるということですね。私たちは神と神との関わりの中で、信じる恵みをいただいているということですよね。 強い弱いはもちろん、疑うこともたびたびありますけれども、でも信じる喜び、あるいは信じるからこそ、私たちは勇気をもって前に向かっていくことができる。人間同士もそうですし、神と私たちの間もそうだと思います。見ないで信じる者は、幸い私たちは喜びと愛があるから、イエス様が見えなくても、あるいは何か確かなしるしがなくても、でもやはり信じる気持ちを持って、前に向かって希望を持って、私たちが歩んでいける、その恵みをしっかり受け止めましょう。 改めて私たちは復活した主を信じて、それは前に向かって今の困難を乗り越えていく勇気と力が与えられるということですから。私たちが心から神を信じて、前に向かって毎日毎日、一歩一歩、愛の心で喜びの内が歩んでいけるようにですね、お互いに祈りたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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