EPISODE · Apr 5, 2026 · 15 MIN
【ミサ説教】ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」
from 英隆一朗神父の福音お休み処
ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」2026年4月5日復活の主日のミサ防府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ ヨハネの福音書の空の墓の出来事は、復活をまだ理解できない人間の姿を示しています。英師は幼少期に「世界に一人だけ」という絶対的孤独を体験し、長く虚しさを抱えて生きてきましたが、洗礼を受けてから、その空虚は少しずつ満たされ、生き方そのものが変わったと気づいたそうです。復活の恵みとは、自分は一人ではなく、いつも神様が共に歩んでくださることを知ること。神に支えられているという確かな感覚こそが、絶望を消し、生きる力になるのです。 英神父さんの子供の頃のお話にゃ。 福音朗読 ヨハネ福音書20章1-9節 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 神様が共にいてくださる 今読んだヨハネの福音書の心は、日曜日の朝早くイエス様のご遺体を納めていた墓が空っぽであったということを記しています。まずは、マグダラのマリアは、他の女性もいたかもしれない。そこで墓は空っぽであって、驚いてマグダラのマリアが男の弟子たちに告げて、そしてシモン、ペトロと愛しておられたもう一人の使徒ヨハネですけど、彼らが大急ぎで走って行って、空の墓を見て、イエス様の遺体がなくなったということで、ちょっと唖然としているところで、今日の福音が語られているわけですね。 そして、この復活ということを二人はまだ理解していなかったのであるということで、今日の福音書が締めくくられているわけですけれども、私たちにとって復活というのは一体どういうことなのかということ、それは一人一人復活の恵みをどこで感じているのかということを確認したいと思いますし、あるいはこれからですね、復活の恵みをどう得ていくのかということも問われているのではないかというふうに思います。 今日は、先ほども言いましたけれど、とにかく8人の方の洗礼式があるということで、大人の人が二人と小学生が5人と、幼稚園生一人ということで、非常に大きな恵みじゃないかなというふうに思います。復活の恵みと、やっぱり洗礼の恵みはやっぱり深くつながっているのではないかというふうに思います。 自分自身が小学生のことをちょっと思い出して、キリスト教と何の関係もない仏教関係の家で育ったんですけれど、それが小学生で、もちろん楽しい思い出もいっぱいありますが、小学生の時に一番怖かった思い出というのは、それが小学校3年生の時だったか、5年生の時だったか、何年生の時だったか、ちょっとはっきり覚えていないですけれど、たまたま昼寝していたんですね。昼寝していて、ふと目が覚めたんですよ。目が覚めたら家には誰もいなかった。どういう状況かは覚えていない。とにかく父親、母親もいなくて、妹が一人いるんですが、妹もいなくて、昼寝から覚めたら自分が家の中で全く一人の中で目が覚めたんですよね。 その時に思ったことはね、ちょっと言葉で言うとあれですけど、自分がこう孤独な存在というか、たった一人ぼっちだということを実は強く感じて、その一人ぼっちが、ということが、家の中でひとりぼっちだけじゃなしに、地球全体、ちょっと話が大げさだけど、地球全体の中で自分がたった一人だけだということを、小学生の時に実は深く感じたんですよね。何か人間の絶対的な孤独というか、あるいはお墓が空っぽって言ったら、何かお墓だけじゃなしに全部が全部、世界中とか宇宙全体で空っぽで空っぽの中に自分がたった一人だけいるっていうですね、そういう強い悲しみというよりは、何か一種の恐ろしさみたいな感じで、小学生の時にその体験を非常に強く覚えているんですよね。 でも、だからと言って別に落ち込んで生きていたわけでもないですけれど、でも、ことあるごとに、もちろん勉強したり、友達とスポーツをやったり。小学生の頃、ほぼ毎日野球をやっていたから、ほぼ毎日野球を友達と近くのグラウンドでやったり。当時はみんな野球の時代だったんですよね。だからほぼ全員子供野球をやっていたんですけど、僕も野球ばかりやってやっていた。中学からサッカーに変わりましたけど。ともかく。いろいろ楽しいこともありましたが、どこかで自分が孤独っていうのかな、何か全く何もない中で自分がぽつんと生きているという、そういう深い深いところに虚しさというか、結局何のために自分がこの世に生きているのか。 もちろん家族もいますし、もちろんあれなんですけど、でもものすごい孤独というか、何かそういうものを心に抱えながら、小学生と中学校と高校で、キリスト教とはずっと関係があって、小学校の時には日曜学校はちょっと行ってたりとか、中学はミッションスクールに行ったりとか、いろいろキリスト教と関係あるんだけど、でもやっぱり時が、時が来ないとぴったり合わないっていうか、結局10年以上経って、大学生の時の20歳になって、あるきっかけがあって洗礼を受けたんですね。 その洗礼を受ける時に思ったのは、聖週間の受難物語を読みましたけど、やっぱりイエス様が死んでいく姿ってものすごく迫力があるというか、心に突き刺さるものがあるんですけど、今日のお話でもそうですけれども、復活に入った途端、何か話が急にぼんやりになっちゃって、イエス様が復活したって言われても、あんまりピンとこないっていうのかな。急に死んだ人が蘇ってくるとか、それが自分にとってどういう意味があるのかなというか、ぴんと来てなかったんですけど。でも洗礼受けて、今日は初聖体で、ちょっと幼稚園生の彼はちょっと初聖体はもうちょっと後ですけど、他の人たちは、でもご聖体をいただいたり、あるいは神の恵み、お聖堂の中で御言葉を読んだりする中で、小学5年生の時の絶対孤独みたいなものがだんだん消えていって、自分の全宇宙ではないけど、少なくとも自分の心が満たされていて、生きる喜びというか、力というか、そういうものが自分の中から湧いてくるのをだんだんだんだんと感じるようになってですね。洗礼を受けて、僕はなんかやっと本当に救われたという気持ちがあって、それから生きるのが嬉しくなったというか。 それまではどうかなんかこう、何かある虚しさというか、もちろん楽しく生きているんだけど、何とも言えない虚しさをずっと感じていたんですけど、洗礼を受けてからその虚しさが埋まってくるというんですかね。何かこう、深いところで力とか恵みを感じるように、だんだんとこうなってきたんですね。 1年ぐらいしたら、まあね、洗礼を受けるからといって、別に表向きは変わらないんですよ。洗礼受けるから急に美人になるとか、急に頭が良くなるとか、洗礼を受けるから仕事がうまくいくとか、勉強よくなると、そういうことはまだないんですね。ないんだけど、でもやっぱり洗礼を受けて1年ぐらいしたら、もう全然自分が自分の生き方というか、何か根本的な姿勢が変わるような気がして、その時に分かったんですよ。 何が分かったかって言ったら、聖書では復活を二人はまだ理解していなかったって書いてあるんですけれど、私も理解していなかったんですけれど、1年ぐらいしたら、自分の生き方が変わることによって復活の恵みをいただいてるってことに気づいたんですね。イエス様の苦しみだけじゃなしに、やっぱり復活の恵みを自分の生き方の中で知らない間に感じるようになった。 だから、洗礼を受けるということははっきりしていると思います。復活の恵みを受けて生きていくということなんですね。 それ以降安心して生きることができるようになった。何が安心して生きるかといったら、神様という拠りどころができたって言うんですかね。自分が帰っていけるポイントができた。つまり、小学5年生の時は何にも全てが、世界中が虚しくて、ただぼんやり暗闇のような形が広がっていたものが、イエス様の復活があるから、自分が確かなものに繋がっているという感覚が持てるようになったってことなんですね。 特にそれが思うのは、例えば試合前とか試験前とか、めちゃめちゃ不安になって緊張してうまくいくかどうか。でも神様がいてくれるから何とかなるんじゃないかっていう気持ちがだんだん湧くようになったし、あるいは何か辛いことが結局洗礼を受けて辛いことが減るかと言ったら、実は減らないんですよ。苦しみもあんまり減らないんですけど、でも、苦しい時でも自分を支えてくださっているイエス様がいるということは、何かを落ち込まなくなったっていうのが、本当の意味で絶望しなくなったというか、支えられているというんですかね。その支えのもとにずっと今は生きているわけですけれど。 だから、洗礼前のことを考えたら、どうやって苦しみに耐えていってるのか分からないっていう気持ち。つまり、神様がいない時は、苦しみは自分一人で抱えなきゃならないでしょう。辛いことがあったら自分で受け止めて、自分で解決して、自分で何とかしなきゃならないんですよね。友達に相談とかももちろんできますけど、それでも自分で自分の苦しみを背負うしか自分でやるしかないわけですよね。でも、洗礼を受けてから苦しいことがあったら神様助けてくださいって言えるようになったんですよね。神様がどこかで支えてくださっているから、自分は大丈夫というふうに思えるようになった。 これも本当に大きな恵みだと思います。だから、本当の意味で絶望しないというんですかね。もちろん、時々嫌になっても神父なんかやっておられるかと時々思いますけど、思っていても、別に神様が支えてるから大丈夫だって、やっぱりこう思える。 神様の支えがあるっていうことは、どんなに大きな恵みかなという、支えられているからといって、別に苦しみは減らないから、やるべきやるべき事とか直面することとか変わらないですよ。それはもちろんね、なんかこう、困難を乗り越えなきゃならないとか、問題解決しなきゃならないとか、全部同じなんですけど、でも支えられているから、自分だけじゃなくていいというですね、これは本当に大きな恵みだと思います。 皆さん洗礼を受ける8人の方、神様が自分を支えてくださっているということがどんなに助けなのかってことなんですよ。 神様と共に歩める恵みが与えられている。自分の力だけでも生きなくていいんですよね。自分だけで頑張らなくても、神様と一緒にやれば頑張っていける恵みが与えられる。 これからも、特に小学生の皆さん、これから中学高校とか、これから楽しいことと苦しいことが色々、でも神様と共に一緒に歩むならば絶対大丈夫だということなんですね。その神様が支えてくださっている安心感と喜び、平和な気持ち、それを大事にしながら生きましょう。 復活した主は私たちと共にいてくださっていますから、私たちを見捨てることは決してない。復活したイエスはもちろん姿では見えないですけれど、でも私たちをいつも支えてくださっている、その恵みを受け止めて、感謝の内にですね、前向きに、勇気を持って、希望を持って、私たちが歩んでいけるように。共に洗礼を受ける人たちもそうだし、すでに洗礼を受けている人たちも、みんな共に支え合いながら、神様に支えながら歩んでいきたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
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