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EPISODE · May 31, 2026 · 12 MIN

【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」

from カトリック 英隆一朗神父の 福音 お休み処

【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」2026年5月31日三位一体の主日のミサ長府カトリック教会 今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ 三位一体、父と子と聖霊は、それぞれ異なるペルソナ(位格)を持ちながら、本質において一つである神です。私たちは個性や人格があるからこそ悩みや対立を経験しますが、同時に人と愛し合い、支え合うこともできます。本質は与えられるものですが、それを日々の生活の中で生きてこそ意味があります。イエスを通して示された神の愛に倣い、一人ひとりの人格を大切にしながら交わりの中で生きることの大切さを心に刻みましょう。 福音朗読 ヨハネ福音書3章16-18節  16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 三位一体は真の交わりの姿 今日は、先ほども言いましたように、三位一体の主日、三位一体をお祝いする主日に当たっています。 三位一体というのは、キリスト教で教えの中でも、最も大切なことの一つですけど。三位、父と子と聖霊というですね。それはそれぞれペルソナというか、パーソナリティとか個性がそれぞれ別ですけれども、一体である。つまり本質が一つであるとですね、神として本質は一つですけど、3つのペルソナに3つのパーソナリティというか、個性というか、神様だから神格、人間だったら人格とかですけど、それに分かれているというですね、最も大事だけど最も分かりにくいのが三位一体の教義だと思うんですけど。 イスラム教みたいにアラーの神様一つだけと言った方が、神様は一人で一つで絶対的な方だと言う方が分かりやすいと思いますね。あるいは仏教や神道のように神様とか仏様がいっぱいいると、それはそれでそうなんですけど。だからこの3つで一つというのが一番分かりにくい。一番分かりにくくて一番大切というのもですね、不思議な気がします。 もともとですね、もう何十年前からですけど、新エヴァンゲリオンというめちゃめちゃ流行ったアニメがあって。もう終わったんですけどね。25年ぐらいかかって終わったんですが。一番最後の最後が宇部新川駅で終わるんですよね。アニメの一番最後が。だからもうそこがいわゆる聖地巡礼の場所になってて。私もこっちに来たから。行ったことあるんですけれども。田舎の駅ではあるんですけど、その監督の庵野秀明っていうのが。そこ出身なので。宇部のことがよく出てくる。そこで僕も感慨に浸ってたりしてたんですけど。そしたらやっぱりもうあれからもう何年経ってるのかと思うけど、僕よりちょっと若めの中年男性が何人かうろうろしてて、写真撮ったりしてたりして。いまだにその根強い人気があるんですけど。 そのエヴァンゲリオン長い長いお話なんですけど、最初の頃のお話は、お話の中にですね、人類補完計画って出てくるんですね。それが何なのかちょっと分からないうちにだんだんお話が進んでてですね。最終的にいろんないろんな話があるんですけど、とにかくその最初の頃のシリーズの完結編ではですね、とうとう人類補完計画が何なのかが明らかになるんですけど、それは何かと言ったら、人間が何で苦しむのかを互いに助け合ったり、理解できないとか、仲良くなれないとか、それは結局一人一人にペルソナがあるからだというね。一人一人に人格とかパーソナリティがあるから、結局人間は苦しむ。エゴがあるからですね。お互い同士、対立したり、孤独になったり、理解できないという。人類補完計画が最終的に明らかになるのですが、何かと言ったら、それは恐ろしい計画ですけど、ペルソナを全部なくして、人間という本質一つだけにみんな戻るっていう話なんですね。 だから個というものがなくなって、一人一人のペルソナがなくなって、人類という一つだけの本質に固まっちゃうっていう、そういう恐ろしい計画が進むんですけど。結局その1話の完結編では、とにかくシンジ君っていう青年がなんと中2の男子ですけど、彼がとうとうその計画をストップしてペルソナが残るっていうのが、その最初のシリーズの完結なんです。一つの結論なんですけどね。 それはなかなかやっぱり考えさせられるというかですね、私たちが何で苦しむかと言ったら、実際はペルソナがあるから苦しんでいる。お互いのエゴとエゴがぶつかったりとか、あるいは人がいなくて孤独になってしまったり、理解されなかったり。だから、でも、ペルソナがもしなければ、私という存在もなくなってしまう。それもちょっと。だから神様が本質が一つ、神という本質であって、それぞれのペルソナの中で関わりがあるというですね、それはいわば一つの私たちの理想的なある姿を語っている。それぞれが別だけども一つになれるっていうですね、その恵みの世界というか。 だからこのペルソナをなくしてしまって、本質だけにするっていう乱暴な方法でもないし、あるいはペルソナだけで本質的に一致していなければ、ただのバラバラで苦しむだけだから、やっぱり三位一体っていうのは、いわば私たちのこの救われた状態の、いわば一つの理想的なモデルを神様そのものが持っている。だから私たちはそれを生きていくことができるというですね、恵みの世界を表しているというふうに考えるのが、本当にキリスト教の世界観というか、ものに合っているようなふうに思います。 実際のところ、私たちのレベルでもっと考えてみたらですね、本質とペルソナがどう違うのか。哲学的なお話であまり考えないことかもしれないですけど、簡単に言うとですね、本質というのは与えられるものなんですよね。で、ペルソナっていうのは作っていかなきゃならないものなんです。 例えば私たちが生まれたら人間になるわけですよね。人間という本質をもらうわけですけど、人間という本質をもらっているけど、ペルソナとしての人間を生きていかない限り、本質はただ本質のままで育たないってことなんですね。例えば、お父さん、お母さん、子供が生まれたら、子供が生まれることによって、親にはお父さんやお母さんという本質が与えられるんですよね。でも、その本質があるだけでは意味がない。子供を実際育てない限り、父親としての母親としての意味がないわけですよね。 だから、ペルソナとして生きていく中でこそ、私たちの生きる意味があるってことなんですね。 例えば、洗礼を受ければクリスチャンという本質をもらうわけです。でも、クリスチャンとして何の祈りもしなければ、何の愛の実践もしなければ、本質だけであるということは何の意味もないんですよ。私たちがクリスチャンという本質をもらったとしたら、そこからペルソナで、私たちの生き方の中で、ペルソナの中で生きていくことによって、初めて本質の意味が生きていくっていうことなんですね。これは非常に大切なことだと思います。 だから教会では愛とか平和とか救いとかよく話しますけど、全部ただの本質なんですよ。平和も愛も。いいものですよね。すごく本質ですけど、いいもの、本質は生きない限り意味がないっていう。ペルソナとして生きていくからこそ、私たちの生活の中に平和が生まれたり、愛が生まれたりするということなんですね。 神さまに話を戻して言うと、だからイエス様はペルソナなんですよね。イエス様の生き方とか、そこに触れることによって、私たちは神の本質が現れてくるから。だから意味がある。イエス様の存在の、イエス様のペルソナの意味があるということですね。私たちにとって本質はいいものですけれども、本質だけでは意味がないということなんです。 私たちは一人一人のペルソナとして、個性として、人格としてどう生きていくか、その本質そのものにのっとって生きていくかの中で恵みが現れてくるということですよね。 それを私たちの心に刻みたいと思います。ペルソナは人と関わることによってしか意味がないってことなんですね。 家に閉じこもってじっとしているだけならば、ペルソナとしての生き方は何にも現れてこない。本質はありますけどね。本質はもちろんあるんですけれど、本質だけを生きていくことは全く意味がないんですよ。ペルソナとして、私たちがクリスチャンとしての本質、人間としての本質、あるいは人によっては働くという、職業を営む者としての本質、あるいは家庭人として父親であるとか母親であるとか、あるいは人によっては学生であるとか、あるいはそういう本質はペルソナで生きていくことによって初めて本質が現れて生きて、意味に意味があるものが溢れてくる。それは三位一体の愛から来ている神秘なんですよね。 私たちが与えられている本質をペルソナとして十分日々の生活の中で生きていく。それは三位一体の神さまの愛を私たちの生活の中で表して生きていくということと不可分なんですよ。つながっているということですね。私たちはイエス様を通して、神さまの本質を触れるチャンスが与えられているわけですから、イエス様のペルソナと私たちのペルソナと触れ合うことによって、その本質が生きてきて、私たちの生活を変える、社会を変える力として現れてくるということですね。 だからこそ、私たちは、一人一人のペルソナを、一人一人の人格を大事にしながら、自分自身の人格をいつも関わりの中に生きていけるように。三位一体が一つの交わりですから、私たちがそのペルソナの交わりの中でこそ、本当に大事な本質を生きたものとして、恵みとして生きていけるようにですね、神さまに恵みと力を願いたいと思います。The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.

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