EPISODE · Feb 8, 2026 · 15 MIN
Netflix『メシア』(監督ジェームズ・マクティーグ他、2020年)を見た ― なぜ宗教にはペテロやパウロやユダみたいな周辺の人物が必要になるのか。
from 『芦田の毎日』 · host Hironao Ashida
この芦田先生の記事は、ドラマ『メシア』を通じ、信仰の成立過程を論じています。信仰の根拠は教祖個人ではなく、周囲の人間による解釈や役割から生まれると指摘。太宰治のユダ論を引用し、死への態度や弟子の存在が「救世主」を形作るという超越論的な構造を解説しています。 元記事は以下の通り。 Netflix『メシア』。これは内容的に超大作というか問題作というか、最初みたとき衝撃を受けました(最近三回目をみています)。 イエスの誕生か、それともキリストの誕生か(そんな遠藤周作の名著がありましたが)、どうして、イエスがキリストになったのか(つまり哲学的には超越論的、存在論的問題なのですが)をまともに扱った超大作です。 かつてブルトマンらが〝史的イエス〟問題として扱った問題。この作品のテーマは直接キリスト教ではないのですが。それに、ミシェル・モナハンが最高に素敵です。 この作品のシーズン2は、もろもろの問題で出ないのではないか。切望しているが。 どんな〈信仰〉にも、ペテロやパウロみたいな人物が必要になるということ、かな。この作品の意味は。 〈信仰〉の〝根拠reason〟は、後から〈教祖〉と言われる人物をいくら史的に検証しても出てきはしない。周りの人間が後から作ったものだ。教祖の〝能力〟は、周りの人間の能力に他ならない。 キリスト教神学的には、〈信仰〉は、〈復活〉とほぼ同義語だが、復活はすなわち人間の〈死〉の解釈の一つだ。おのれの死に向かう態度の通俗板が〈信仰〉だとも言える。 太宰治は、イエスの本質を、裏切り者とされるユダの存在に見たが、それも同じ事だと思う。「きれい事ばかり言いやがって」とユダはいつも思っていたのだ。そのきれいごとを現実的に支えているのは私(ユダ)だと。 ペテロやパウロより、太宰にとってはユダの方がほんとの弟子だったのだ。〈女〉を幸せにできなかった太宰らしいユダ論だった。
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Netflix『メシア』(監督ジェームズ・マクティーグ他、2020年)を見た ― なぜ宗教にはペテロやパウロやユダみたいな周辺の人物が必要になるのか。
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