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『芦田の毎日』

2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。※BLOG『芦田の毎日』のアドレスは、https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/ です。

Publisher-supplied feed metadata · PodParley refreshed Jun 14, 2026 · Source feed

  1. 281

    【第2版】『トモダチ100人よべるかな』(Amazon Prime Video)のシーズン2配信がはじまった ― なんといってもフワちゃんとしんいちに尽きる。

    二つの提供された資料①https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/tv/100amazon-prime-video2.html ②https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/-1002.html は、Amazon MGM Studios演出家・芦田太郎氏の父親である芦田先生が、Amazon Prime Videoで配信中のバラエティ番組『トモダチ100人よべるかな』シーズン2を視聴した感想を綴ったものです。芦田先生は序盤の演出に不満を感じつつも、フワちゃんの劇的な登場や、お見送り芸人しんいちの鋭い洞察力が番組を成功に導いたと高く評価しています。また、台本のない過酷な環境下で出演者たちが自ら番組を成立させようと振る舞うプロ意識に、深い感銘を受けている様子が描かれています。最終的には、制作を統括する息子への厳しい視線を含みながらも、出演芸人たちの献身的な姿勢によって前作に劣らない傑作になったと結論付けています。

  2. 280

    『トモダチ100人よべるかな?』シーズン2の配信が始まった ― なんといってもフワちゃんとしんいちに尽きる。

    このテキストhttps://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/tv/100amazon-prime-video2.htmlは、芦田氏が自身の息子である芦田太郎氏が総演出を務めたAmazon Prime Videoの番組**『トモダチ100人よべるかな』シーズン2を視聴し、その内容を批評したものです。著者は冒頭のドッジボール企画に退屈さを感じつつも、フワちゃんの劇的な登場やお見送り芸人しんいちの鋭い観察眼が番組を救い、最終的に前作に劣らない成功を収めたと高く評価しています。また、関根勤氏の謙虚な姿勢や増田貴久氏の人望など、参加した芸能人たちの人間模様が多角的に分析されています。制作面では演出の不備や改善点にも触れながら、今後のシリーズ継続への期待が込められた親とプロの視点**が混ざり合う解説となっています。

  3. 279

    エディプス・コンプレックスにおける人間性と動物性との断絶について

    この記事https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat28/post-533.htmlは、哲学者である芦田宏直氏が、教え子の系譜に連なるラカン研究者の工藤顕太氏と交わした学術的な対話を記録したものです。芦田氏は、精神分析においてエディプス・コンプレックスこそが人間性の根源をなす最も重要な理論であると強調し、その普遍性を説いています。対話の中で氏は、メラニー・クラインらの理論が結果的に自我論へと回収されてしまう点を批判し、フロイトの原典に立ち返ることの重要性を工藤氏に促しました。また、人間関係の本質は三角関係にあり、社会や国家の起源もこの構造の変容として捉えられるべきだという独自の知見が示されています。最終的に芦田氏は、科学や時代の変化に流されず、精神分析の核心であるエディプス論を堅持するよう若手研究者へ激励を送っています。

  4. 278

    お盆休みにおすすめの映画・ドラマ35選 ― なんといっても『メシア』は圧倒的。

    この資料https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat6/35.htmlは、芦田先生が推奨する多様な映像作品をリスト化したものであり、その選定傾向を分析するための基礎データとなっています。リストには2000年代から最新の公開予定作までが含まれており、日本国内のドラマだけでなく韓国映画や欧米のサスペンスなど幅広いジャンルを網羅しています。選出された作品群は、社会的な葛藤や複雑な人間模様を描いた重厚な物語が中心となっており、特定の価値観に縛られない深い洞察が伺えます。全体として、登場人物の内面的な成長やスリル溢れる展開を重視した、質の高いエンターテインメント作品を好む傾向が示されています。このように、提示された情報は特定の個人の審美眼を反映した作品群の集計であり、その背景にある独自の選別基準を浮き彫りにしています。

  5. 277

    ラカン若手研究者の工藤顯太君との出会い ― 故・高橋允昭研究室の孫弟子との楽しいひととき。

    このテキストhttps://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-532.htmlは、著者である芦田宏直氏が若きラカン研究者、工藤顯太氏と交流した際の回想を綴ったものです。二人は師弟関係の系譜を通じて繋がっており、フランス現代思想から精神分析学、さらには学界の裏話に至るまで多岐にわたる議論に花を咲かせました。著者は工藤氏の知的な鋭さを高く評価しつつ、世代を超えた「哲学的な血の繋がり」に深い感銘を受けています。記事の後半では、この出会いが縁となり、工藤氏が実際に著者の大学の心理学部で教鞭を執ることになった経緯が明かされています。全体を通して、ラカンやデリダといった難解な思想を背景に持ちながらも、研究者同士の親密で情熱的な対話の様子が生き生きと描かれています。最終的に、精神分析を志す学生たちへ向けた温かな歓迎のメッセージで締めくくられています。

  6. 276

    高橋真梨子の『桃色吐息』論について ― 歌手は気持ちを込めて歌ってはいけない。

    この記事https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-531.htmlは、歌手の高橋真梨子が自身の代表曲「桃色吐息」や歌唱全般に対して抱いている、独自のプロ意識と芸術観を考察したものです。彼女は歌い手の個人的な感情を曲に込めることを否定し、自らを単なる伝達役に徹させることで、聴き手が自由に想像を膨らませる余白を提供しています。筆者は、母親への想いが詰まった楽曲ですら涙を見せずに歌い切る彼女の姿勢を、感情に流されない強固な虚無主義や、高度な仕事論として高く評価しました。普遍的な表現を維持することこそが、聴衆の多様な心情を受け止める器になると論じられています。最終的に、筆者は彼女のストイックな哲学に深く感銘を受け、改めてその楽曲群を聴き直すことで彼女の音楽世界に浸っています。

  7. 275

    誰でもわかる「〝新たな評価〟制度の在り方について」(鈴木宏幸:高等教育局高等教育企画課 大学設置・評価室長)資料全40頁 詳細解読

    この芦田先生の資料 https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/40-1.html は、2030年から導入が検討されている大学の「新たな評価制度」について、文部科学省の担当者による研修資料を基に詳細な想定問答の形式で解説したものです。評価の単位が従来の大学全体から学部や学位プログラム単位へと細分化され、共通のデータプラットフォームを用いた効率化や可視化が進められる方針が示されています。しかし、解説を通じて浮き彫りになるのは、学力低下や成績評価の形骸化という現場の深刻な実態と、数値目標を重視する制度との間に横たわる決定的な乖離と矛盾です。独自の指標が排除されない仕組みや「成長の伸びしろ」を評価する枠組みが用意されているものの、客観性を欠いた形式主義に陥る懸念が強く示唆されています。最終的に、この制度が教育の質向上に寄与するどころか、書類上の体裁を整えるだけの虚構を生み出し、大学教育の崩壊を加速させるリスクについて批判的な視点から考察しています。大学関係者には、制度の表面的な理解に留まらず、その構造的な欠陥を見極めた上での実務的な対応が求められています。

  8. 274

    【増補版(増補第2版)】〝新たな評価〟制度の在り方について(鈴木宏幸:高等教育局高等教育企画課 大学設置・評価室長)

    芦田先生のこの文書は、文部科学省が2030年度から導入を予定している新たな大学評価制度の概要と、それに対する批判的考察をまとめたものです。新制度では従来の大学全体を対象とした評価から、学部単位の質的評価へと重点が移り、教育成果を四段階で格付けすることが示されています。特に、大学が掲げるディプロマ・ポリシーの達成度が重視されますが、一つの学部でも最低評価を受ければ大学全体の評価に直結するという厳しい方針が示されました。これに対し筆者は、教育の多様性と質の保証は本質的に矛盾しており、見かけ上の成果を優先する虚偽報告や評価の形骸化を招く恐れがあると指摘しています。最終的に、曖昧な能力指標に依存した評価体制が大学教育のさらなる崩壊を加速させるのではないかと強い懸念を表明しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-527.html

  9. 273

    【増補版】〝新たな評価〟制度の在り方について(鈴木宏幸:高等教育局高等教育企画課 大学設置・評価室長) 令和8年度評価充実評価会(日本高等教育機構)於・アルカディア市ヶ谷

    この芦田先生の記事は、文部科学省が2030年から導入を予定している、学部単位を基軸とした大学の新たな評価制度の概要と課題についてのものです。この制度は、各大学のディプロマ・ポリシーに基づいた教育成果を、試験による直接評価やアンケートによる間接評価を通じて四段階で格付けするものです。特筆すべき点として、一つの学部が「要是正」となれば大学全体が同様の評価を受けるという、非常に厳しい仕組みが示唆されています。一方で、教育の質の定義が曖昧なまま評価を強めることは、大学側による形式的な報告や虚偽申告を招くリスクがあると指摘されています。また、多様性を重視するこれまでの教育方針と、標準的な指標を求める質保証が矛盾している現状についても批判的な考察がなされています。最終的に、大学教育の形骸化が進む中での数値化が、真の教育改善に繋がるのかという根本的な懸念を提示する内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-527.html

  10. 272

    〝新たな評価〟制度の在り方について(鈴木宏幸:高等教育局高等教育企画課 大学設置・評価室長) 令和8年度評価充実評価会(日本高等教育機構)於・アルカディア市ヶ谷

    文部科学省が2030年度から導入を予定している新たな大学評価制度は、従来の大学全体を対象とした評価から、学部単位の教育成果を重視する仕組みへと大きく転換します。この制度では、各学部が掲げるディプロマ・ポリシーの達成度を基準に、組織的かつ継続的な教育が行われているかを四段階の格付けで厳格に判定します。特筆すべき点として、一学部でも「要是正」の評価を受けると大学全体の評価も「要是正」となる連動制が採用される見通しです。しかし、教育目標の平易化による評価の形骸化や、募集定員確保のための虚偽報告の懸念など、実効性をめぐる課題も指摘されています。本資料は、文科省担当者による具体的な運用方針の解説と、それに対する教育現場側からの批判的な考察をまとめたものです。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-527.html

  11. 271

    大学における〈単位制〉とは何か ― カリキュラム制と単位制とは敵対する。

    この芦田先生のテキストは、現代の大学における単位制の起源と本質的な矛盾について、歴史的背景を交えて鋭く考察しています。もともとハーバード大学で選択科目制の導入に伴って誕生した単位制は、学生の自学自修の精神を前提としていましたが、一方でカリキュラムの体系性を損なう危うさを孕んでいました。著者は、単位を単なる交換可能な時間価値と捉える考え方が、学問を有機的な繋がりから切り離し、教育を形骸化させている現状を指摘しています。また、文部科学省が進める「単位制の実質化」には、授業時間外の学習内容を具体的に定義することが不可欠であると説いています。最終的に、単位制を単なる選択の自由としてではなく、深い学習を成立させるための時間として再解釈することの重要性を提示しています。元記事のリンクはこちら→

  12. 270

    退学者という教育組織の破綻現象について

    この芦田先生の資料は、彼の視点に基づき、教育機関における**「退学者」の本質的な意味を再定義したものです。一般的に退学は学生個人の事情や意欲の問題とされがちですが、本書はこれを学校側の教育課程や時間設計の不備が表面化した「教育の破綻点」として捉えています。シラバスの形骸化や単位認定の甘さを厳しく批判し、退学者をカリキュラムの精度を測定するための重要な経営指標と見なすべきだと主張しています。単に退学率を下げるのではなく、教育の厳格性を維持した上での正当な離脱と、設計ミスによる不当な離脱**を峻別することの重要性を説いています。最終的に、退学問題の解決は情緒的な支援ではなく、知識教育を時間軸に落とし込む組織的な管理によってのみ成し遂げられると結論付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/itai/-chatgpt-1.html

  13. 269

    私の生成AI_2.0活用について ― 組織活動には概念の再定義が必要

    この芦田先生のテキストは、哲学者の芦田宏直氏が自身の思考プロセスや膨大な著作を学習させた**「クローンAI」の構築について記したものです。著者は、単なる要約ではなく「芦田ならどう考えるか」を再現するため、半世紀に及ぶ論文や独自の概念定義をAIに記憶させる過酷な作業に取り組んでいます。特に教育現場における「退学率」や「出席率」の意味を再定義することで、組織内の認識のズレを解消し、管理職以上の精度で分析を行う仕組みを目指しています。この試みは、個人の寿命や能力の限界を超え、組織マネジメントを劇的に変革する可能性を示唆しています。執筆による身体的負担を負いながらも、著者はAIを通じて自らの思想を永続的な知のインフラ**へと昇華させようとしています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/itai/ai-20.html

  14. 268

    12年ぶりに洗濯機を買い替えることに ― やはり洗濯機はパナソニック一択かと。

    この芦田先生の資料は、パナソニックのNA-LX129Eを中心に、国内主要4メーカーや海外製プレミアム機種を徹底的に比較した洗濯機の購入ガイドです。著者は自身の買い替え経験に基づき、配管の短さによるメンテナンス性や自動投入機能、衣類ケア性能など、実用的な視点から各機種の長所を詳しく解説しています。国内勢では日立の容量やシャープの省エネ性、東芝の速さといった特徴を数値で示し、ライフスタイルに合わせた最適な選び方を提案しています。さらに、ミーレやアスコといった海外製の2台構成と日本の一体型ドラム式を対比させ、設置環境や家事動線に応じた最終的な判断基準をまとめています。結果として、日本の住環境で利便性と性能のバランスを最も高く備えているのはパナソニックであると結論付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat11/12-1.html

  15. 267

    〈美人〉と「空虚な中心」について

    このテキストは、「有名人」や「美人」が社会で果たす役割を、記号論的な**「空虚な中心」という概念を用いて考察しています。著者は、注目を集める存在ほどバッシングを避けるために極めて平凡な言動に終始する傾向があり、その究極の形を天皇の在り方に見出しています。凡人が注目を引くために奇抜な振る舞いを必要とする一方で、真に有名な存在は、ただそこに存在しているだけで価値が認められるという特権性を備えています。このように、高い知名度に伴う不自由さという「税金」**を支払いながら、中身を空虚に保つことで周囲の期待を一身に受ける独特の構造が解き明かされています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-522.html

  16. 266

    苅谷剛彦と階層格差論 ― 1990年以降の〈学びの主体〉論はいかに間違ったのか。

    提供された芦田先生の資料は、苅谷剛彦氏らの議論を軸に、日本の教育における平等主義の変遷と**「意欲」の階層格差を鋭く考察しています。かつての学歴主義が持っていた「努力」による公平性が、個性重視の教育へと転換したことで、かえって家庭環境の差が学力や意欲の不平等として顕在化したと指摘しています。また、消費社会化や情報化が進む中で、学校という枠組みが緩和され、若者が「いま、ここ」の自己肯定に固執する内閉的な個性志向に陥っている現状も詳述されています。筆者は、生涯学習論がもたらす学校教育の形骸化に警鐘を鳴らし、若年期における知識習得と主体形成の重要性を改めて強調しています。全体として、教育改革が意図せず生み出した階層化の深化**と、現代的な「学びの主体」論が抱える危うさを浮き彫りにした内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-1990.html

  17. 265

    「学修成果の可視化」は、シラバス改革なしには始まらない。

    この芦田宏直先生の文章は、日本の大学教育におけるシラバスの不備と成績評価の甘さを鋭く批判し、文部科学省に抜本的な改革を促す内容です。著者は、多くの教員が内容の薄いシラバスを放置し、授業内容も更新せずに不透明な基準で単位を認定している現状が、学生と教員の双方の成長を阻害していると指摘しています。特に、教科書に頼らない大学教育において、学習の指針となるはずのシラバスが機能していないことは、公的資金を投じる価値を損なう深刻な問題であると主張されています。最終的に、文科省が大学関係者への配慮を捨てて、この教育の質の形骸化に正面から切り込むことを強く求める提言となっています。※元記事はこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-520.html

  18. 264

    独身者は、老後ほんとに孤独なのか 。

    この文章は、著者の芦田氏が自身の経験を基に、「老後の孤独」に対する世間の思い込みを鋭く批判したものです。夫婦であっても同時に人生を終えることは不可能であるため、著者は誰もがいずれは独身者としての一人暮らしに行き着くという現実を提示しています。老後の田舎暮らしを美化するメディアの風潮に対し、介護やコミュニティ維持の厳しさという視点から警鐘を鳴らしているのが特徴です。また、独身者に向けられる「寂しくなる」という助言を無意味なものと切り捨て、配偶者との死別が伴う結婚の残酷さについても言及しています。最終的に、家族の有無にかかわらず自立して生きる準備の重要性を説く、非常に現実的で哲学的な洞察となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-518.html

  19. 263

    〝やる気〟を出す教育の何がダメなのか ― 内発的動機論、自主性、主体性、個性教育の害悪について

    この芦田先生のテキストは、1990年代以降の日本の教育改革がもたらした学力概念の変質と、それに伴う大学教育の形骸化を批判的に考察しています。著者は、単なる授業出席を評価する**「履修主義」が、実質的な知識習得を重んじる「修得主義」を圧倒し、結果として教育の質が著しく低下したと指摘します。特に、学生の意欲を過度に重視する内発的動機論が、学習すべき内容や期限をあいまいにし、教員による安易な成績調整や指導の放棄を正当化していると分析しています。また、文部科学省が進めてきた「生きる力」**などの拡張された学力概念が、本来の教科教育を軽視させ、教育格差を広げる一因になったと論じています。最終的に、真の教育とは個人の主観的な満足や意欲に頼るものではなく、カリキュラムという時間的制約の中で客観的な目標を達成させるべきであると結論付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/4-3.html

  20. 262

    自主性重視、個性重視の内発論が知識軽視を生みだしたこと、あるいは1990年代以降の学校改革論の個人主義的傾向について

    この文章は、芦田宏直氏が心理学者の市川伸一氏に対し、日本の教育改革がもたらした弊害を論じたものです。著者は、1990年代以降の**「主体性」や「内発的動機」を重視する風潮が、結果として知識や指導の軽視を招いたと批判しています。こうした「心理学的な個人主義」への傾倒は、教育現場から客観的な評価基準を奪い、家庭環境による教育格差を固定化させたと指摘しています。特に、社会階層の低い子供たちほど、明確な知識習得の機会を失い不利になるという苅谷剛彦氏の理論を援用し、政策的な無自覚さを糾弾しています。総じて、教育心理学の主流が良かれと思って推進してきた価値観が、皮肉にも教育の不平等**を助長している現状を浮き彫りにした内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/-3-1990.html

  21. 261

    人工知能論批判 ― 松尾豊との仮想議論、あるいは「恐るべきコペルニクス的転回」

    このテキストは、哲学者・芦田宏直氏がAI研究の第一人者である松尾豊氏を仮想の論敵に据え、人工知能と人間知性の本質的な断絶を論じたものです。著者は、現代のAIがラカンやソシュールの言語論を体現する「記号の差異と統計的ベクトル」によって意味論を突破した現実を認めつつ、その限界を指摘します。AIの知性は過去のデータを空間化した「動的な地図」に過ぎず、そこにはハイデガーが説く**「死」という不可能な可能性**を引き受ける主体が存在しません。自らの終わりを予見し、計算不可能な実存的跳躍をもって言葉を「合点」する人間特有の在り方は、工学的なアルゴリズムには決して還元できないと結論づけています。最終的に、記述し尽くそうとする工学と、記述し得ない余白を守る哲学の対立軸が浮き彫りにされています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-517.html

  22. 260

    〈学校教育〉は、ほんとうに「生涯学習の一部」なのか? 「学習者本位」の教育は、ほんとうに正しいのか ― 諸悪の根源「中曽根臨教審第四次答申」(1987年)

    このテキストは、「学校教育」を「生涯学習」の一部と定義した1987年の臨教審答申が日本の教育を歪めたと強く批判しています。著者は、生徒を「学びの主体」と見なす教育観が、結果として個人の能力よりも家庭環境や階層格差を反映する「意欲」や「人物」の評価を重視させてしまったと指摘します。これに対し、客観的な「知識」による評価こそが親の背景を排除し、社会的な階層を入れ替える装置として機能すると論じています。教育の目的を安易な「個性重視」に求めるのではなく、知識基盤の教育に立ち返ることで個人の自立を促すべきだという主張が展開されています。最終的に、現在の「学習者本位」の風潮が、学校本来の階層流動性を生み出す役割を失わせていることに警鐘を鳴らしています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/-1987.html

  23. 259

    人工知能批判はどこまで可能か? ― 脱チョムスキー主義と生成AIの経験主義的なベクトル主義

    このテキストは、芦田宏直氏と生成AIによる「人間と知性の本質」を巡る白熱した対話を記録したものです。現代のAIが統計的な予測を通じて、結果的にチョムスキーの生成文法のような高度な階層構造を再現しているという驚べき現状が示されています。しかし芦田氏は、AIが過去のデータという「空間化された時間」に依存している点を突き、ベルグソンの持続やハイデガーの時間論を援用してAIの限界を浮き彫りにします。さらに、機能主義に陥りがちな現代哲学を超克するため、フォイエルバッハの対他性や実存主義的視点から、自己を対象化し他者と応答する人間特有の意識の在り方を再定義しようとしています。最終的に、AIには踏み込めない**「沈黙」や「秘密」といった実存的領域**の重要性を提示し、人間知性の尊厳を問い直す内容となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/content-1.html

  24. 258

    教育心理学の「俗流」性、あるいは知識の軽薄化と動機主義の問題について

    この資料は、芦田宏直氏と教育心理学者の市川伸一氏による、現代教育における**「自発性」や「内発的動機づけ」の功罪を巡る論争をまとめたものです。芦田氏は、教育心理学者が現場向けに発信する「俗流」の理論が、知識を軽視し学力低下や教育放棄を招いたと厳しく批判しています。これに対し市川氏は、認知心理学の立場から知識の重要性を主張しつつも、自らの提唱が意図せず「ゆとり教育」的言説に加担した側面を内省的に語っています。さらに、奈須正裕氏の理論を例に、学習者の主体性を尊重しすぎるあまりに教員の指導性**が失われている現状が指摘されています。全体を通して、個性の尊重という名目のもとで教育の本質がどのように変質し、教育格差を広げてきたのかという構造的問題を浮き彫りにしています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-515.html

  25. 257

    自作の変更について ― 50年以上も前の柄谷行人の論考をふと思い出した。

    この芦田先生の記事は、柄谷行人の論考「自作の変更について」を起点に、文章を修正し続ける行為の本質を考察しています。著者は、執筆した内容を完璧だと見なすことは難しく、常に手を加えたくなる衝動こそが人間の愛着やこだわりの表れであると説いています。AIが際限なく言葉を紡ぐのとは対照的に、人間がどこかで区切り(ピリオド)を打つことにこそ、芸術作品の力や批評の価値が宿るという主張がなされています。また、死によって作品が完成するという柄谷の初期の視点に対し、著者は独自の解釈による終わりの重要性を提示しています。最終的に、自作の変更という振る舞いを通じて、吉本隆明や小林秀雄といった思想家の精神的な姿勢や人間性の違いが鮮やかに浮き彫りにされています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/----1.html

  26. 256

    「俗流」教育心理学と「主体的・対話的で深い学び」の虚構を問う。

    この芦田先生のテキスト(一部、市川伸一先生)は、教育現場における「自発性」や「内発的動機づけ」を重視する教育観が、結果として学力低下や教育放棄を招いているという批判的な議論をまとめたものです。芦田宏直氏と心理学者の市川伸一氏らの対話を通じ、実証的な学術知見が現場向けに「俗流化」して消費される危うさが浮き彫りにされています。特に、知識の習得を軽視して「考える力」や「主体性」ばかりを称揚する姿勢が、教員の指導性喪失や教育格差の拡大を助長した背景が鋭く指摘されています。市川氏は心理学者の立場から、知識と思考は不可分であると説きつつ、自身の理論が意図に反して**「ゆとり教育」的な文脈で利用されたことへの葛藤**を吐露しています。最終的に、教育における「可視化」や「知識の定着」の重要性を再考し、安易な多様性や個性重視の言説が孕む副作用に警鐘を鳴らす内容となっています。元記事のリンクはこちら1)https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-515.html2)https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-508.html

  27. 255

    バカな人ほど聞きもしないのに語りたがる ― 海部陽介×荻上チキのやりとりに見る、知ることとわかりやすく語ることとの関係。

    この芦田先生の文章は、真の専門性とはプレゼンテーションの技術といった形式的な手法にあるのではなく、蓄積された深い知識そのものに宿るという主張を展開しています。著者は、人類進化学者の海部陽介氏の語り口を例に挙げ、明確な根拠と不明な点を峻別する誠実な姿勢こそが、聴衆に強い知的な啓発を与えると述べています。教育技術に固執する表面的な教え方よりも、豊かな専門的背景から自然と溢れ出る言葉の方が、聞き手の想像力をより豊かに刺激するのです。最終的に、本当に賢い人は相手の問いに応じて初めて饒舌になる一方で、無知な者ほど求められてもいない自説を語りたがると結論づけています。このように、本書はコミュニケーションを技術論ではなく、内面的な専門性の発露として捉え直しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-513.html

  28. 254

    【第四版】究極の位相管理:人生最後のカーオーディオ完結編

    この資料は、昭和世代の筆者が「人生最後」と位置づける愛車のカーオーディオ構築記録を、自身の哲学や最新のAI解析を交えて解説したものです。かつての高級ブランドが衰退し、純正システムが主流となった現代において、あえてBEWITH社製の最高峰プロセッサーを導入し、車内という過酷な空間で「音像の立体感」を追求する情熱が綴られています。特に、左右独立した二台の機器による**「位相管理」の重要性が詳しく説かれ、音がダッシュボード上に浮かび上がるような究極のリスニング体験が紹介されています。過去の音響研究者への敬意や、伝説的な技術者の系譜を継ぐショップへの信頼など、単なる機材紹介を超えた音響文化の継承が大きなテーマです。最終的にAIがその構成を評価し、デジタル技術とアナログの質感が融合した至高の音響空間**の完成を裏付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html

  29. 253

    AI問題と「形式化の諸問題」についてなど ― 主体の成熟について

    この芦田先生の記事は、AI技術が進化する現代において、教育と主体の成熟がどのような意味を持つのかを哲学的な視点から考察しています。著者は、AIを単なる道具として使いこなす能力よりも、それに対峙する人間自身の精神的な深みが重要であると説いています。カントやライプニッツの思想を引き合いに出し、賢明さと愚かさの境界は外部からの啓蒙ではなく、自己の内面的な変容によってのみ超えられると分析しています。最終的に、AIという高度な外部存在と向き合うためには、形式化できない個人の主体的な成長こそが不可欠であると結論付けています。以下が原文---------------本日は、某国会議員(元自民党文教委員長)と4時間近く差しで話していて、「AIになったら教育はどうなりますか」と聞かれて、ますます日本の誇る学校教育体系(各学年で何を教えるのかが全国レベルできちんと具体的に整理されている稀有な学校教育体系)が重要になる、主体の成熟が求められると答えておいた。それはどういうことか。AIが精緻になればなるほど、それに〝対面〟する人間の精緻さが求められる。これは一般的には、AIを使う人間の優秀さが問われるという意味で言われているが、使われるもの(手段)の優秀さと使うもの(主体)の優秀さとは質が異なる。使われるものは、常に使うものの〝外部に〟存在する。だからカントは、構想力は教育の対象ではないとした。この(いわば、カント的な)原則は何を意味するのか。そもそも世の中には、賢い人とバカな人の二種類 の人がいるわけではない。世の中に賢い人とバカな人が対面で二種類存在するなら、わざわざバカでいいと思う人はいないだろうから、時間が経てば、世の中からバカ人はいなくなるに違いない(これが啓蒙主義の原則)。しかし、カントが言ったように(『啓蒙とは何か』)、〈啓蒙〉とは自己触発に過ぎない。なぜか。世の中に賢い人「がいる」こととバカな人「がいる」ことの意味は、それぞれが、それぞれの中で【賢い人/バカな人】【バカな人/賢い人】という区別を有しているからだ。うがった言い方をすれば、バカな人は、バカな人の「内部で」【バカな人/賢い人】という〝分別〟を有しているのである。つまり【賢い人/バカな人】【バカな人/賢い人】という〝対立〟は言わば分子の対立であって、本来の対立は、分母の対立として、【賢い人/バカな人】/賢い人、【バカな人/賢い人】/バカな人というように〝存在している〟。分母の対立とは、従って、存在しない(が故に存在する)対立なのだ。 柄谷行人は、ゲーデルやヴィトゲンシュタインやペレルマンを参照しながら、これを(約50年前に)「形式化の諸問題」として扱った。一言で言えば、バカな人は間違った人を尊敬するために、いつまで経っても、賢い人になれない。彼が脱出したいと思うその先が間違った〝先〟であるために、脱出する挙措自体がいつも無効になってしまう。そうやって、賢い人とバカな人とは、永遠に交わらない。これをライプニッツは、「モナドには窓がない」と言った。窓がないけれども、それは何らかの欠如を示すのではなくて、モナドはそれ自体で「全世界を反映している」とした。賢い人もバカな人もそれぞれが孤独だが、いつもそれ自体として全体であるために、両者は〝平和共存〟しているのである。これがライプニッツの〈予定調和〉という概念。つまり、わたしは、いつでも〝賢い人〟でもありうるし、〝バカな人〟でもありうる。だから、カントは啓蒙とは自己触発だと言ったのである。柄谷行人は、ライプニッツの予定調和的な内面主義を、「ライプニッツ症候群」として(柄谷の言う〈外部〉に目を閉ざすものとして)批判したが、それは間違い。ライプニッツの〈予定調和〉はなにより存在論的なものである。そう考えたとき、〈使う〉という主体の外部性は、決して〝使い方次第〟という自由の主体ではない。そしてそれは、サイバネティクスの見出した〈外部〉でもない。むしろ、カントを熟読していたユクスキュル的な環境世界の外部性=内部性に近い。たとえば、われわれは、AIに出会う前に、AIより即座に説得力のある(尊敬すべき)人物に出会ったりもしている。最悪の詐欺師にさえなけなしの1000万円を盗まれる場合もある(最悪の詐欺師とは、AIの比喩でもある)。それらのあらゆる〝出会い〟は形式化できない出会いにすぎない。言い換えれば、それらは、すべて主体の成熟(カント的に言えば自己成熟)にかかわっている。主体の成熟とは、孤独な成熟、成熟の孤独なのである。〈使う〉という言葉は、たとえば、ヴィトゲンシュタインが言葉の意味とは言葉の使用だと言った意味で、そうなのだろうか。(この項、まだまだ続く)元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/ai-2.html

  30. 252

    「頭の悪い人」というのは、本当に存在するのか。

    この芦田先生のテキストは、「賢さ」と「愚かさ」の境界線について哲学的・存在論的な視点から考察したものです。著者は、世の中に二種類の人間が独立して存在するのではなく、個々の内面的な認識構造の中に両方の区別が内包されていると主張しています。カントやライプニッツの思想を引用し、啓蒙主義的な教育が届かない理由は、各人が自身の完結した世界観(モナド)の中で完結しているからだと説明しています。つまり、人が賢くなれないのは目指すべき指標そのものが誤っているためであり、この断絶は解消されない「予定調和」の状態にあります。最終的に、知性は外部から与えられるものではなく、自己の内面的な触発によってのみ変化しうる性質のものであると結論づけています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-511.html

  31. 251

    脳科学の貧困と存在論的差異と。

    この芦田先生のテキストは、脳科学による犯罪心理の解明には限界があることを、哲学的な視点から鋭く考察しています。著者は、脳の状態と個人の行動を安易に結びつける風潮を批判し、脳の内部が外部環境を完全に再現することは不可能だと説いています。議論の核心には、存在するものとその根拠を峻別する存在論的差異という概念があり、これを神学やハイデガーの思想を用いて紐解いています。また、原因と結果を単純な相関関係に落とし込む科学的アプローチの危うさを、ミステリーサークルの比喩を通して鮮やかに描き出しています。最終的に、自己の使命を果たすだけでなく、悪をも含めた全てを包摂する**親鸞の「還相」**の思想を引き合いに出し、存在のあり方を全肯定する哲学的境地を提示しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-510.html

  32. 250

    【第3版】人生最後のカーオーディオの取り付けに挑戦してみた(BEWITH社製のDSP:STATE A6R KISHI_model Dualを中核に据えて) ― 2023~2026の試行錯誤の結論を生成AIに聞いてみた(実際の音と解説Podcast付き)

    この芦田先生のテキストは、あるオーディオ愛好家が人生の集大成として挑んだハイエンドなカーオーディオシステムの構築記録と、生成AIによる技術解説をまとめたものです。筆者は純正ナビの普及で失われた音質を取り戻すため、BEWITH製の高級DSPを2台導入し、車内特有の音のズレを解消する「位相管理」を徹底することで、アーティストが目の前に現れるような臨場感を実現しています。システム構成には、かつてのナカミチやアルパインの精神を継ぐ国産ブランドやイタリア製アンプが選ばれ、専門ショップの熟練工による精密なインストールの重要性が強調されています。また、AIはデジタル演算の精度とアナログの温かみを融合させたこの選択を、物理的制約を克服して究極の音場を創り出す理想的なハイエンド構成であると高く評価しています。昭和のオーディオ文化への郷愁と最新のデジタル技術が交差する、情熱的なカーオーディオの最終結論が描かれています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html

  33. 249

    「学修成果の可視化」の間違った方向について ― 中央教育審議会大学分科会大学振興部会(2022年、第6回) ― 共愛学園前橋国際大学学長・大森昭生の報告について(解説Podcast付き)

    このテキストは、現代の大学教育における**「学修成果の可視化」の在り方について批判的な論考を展開しています。著者は、出席状況や主体性といった曖昧な指標を重視する現状を、教育現場の実態から目を背ける「履修主義」への逃避であると断じています。かつての一致していた「履修」と「修得」が分離されたことが、教育格差を広げ、学力低下を個人の特性として正当化する土壌になったと指摘しています。真の可視化とは、小手先の評価手法ではなく、試験による点数という客観的な事実を通じて、教員と学生が真剣に向き合うことに他なりません。結論として、教育を再生させるためには、学修者が何をどれだけ理解したかを測る「点数主義」の原点回帰**が必要であると提唱しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/-20226.html

  34. 248

    教育心理学者の「俗流」性について、あるいは市川伸一の「対話的で深い学び」論、奈須正裕の「やる気」論について

    このテキストは、教育心理学が教育現場の「俗流」な価値観と癒着し、学力低下や教育格差を招いている現状を批判的に論じています。著者である芦田宏直氏は、市川伸一や奈須正裕といった心理学者の主張を引き合いに出し、知識を軽視した「自ら考える力」への過度な期待や、個人の内発的動機を神聖視する姿勢が、教育の本質を歪めていると指摘します。特に対話や自主性を重んじる教育モデルが、現実には教員の指導放棄や「強い個人」という虚構の押し付けに変質している危うさが詳述されています。苅谷剛彦の視点も交え、心理学的な言説が実践への配慮から理論的厳密さを失い、教育の機能不全を隠蔽する道具となっていることを鋭く批判する内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-509.html

  35. 247

    【第2版】 人生最後のカーオーディオの取り付けに挑戦してみた(BEWITH社製のDSP:STATE A6R KISHI_model2台を中核に据えて) ― 2023~2026の試行錯誤の結論を生成AIに聞いてみた

    この記事は、あるオーディオ愛好家が人生の集大成として挑んだ、ハイエンドなカーオーディオ・システムの構築について記したものです。筆者は、純正ナビゲーションと音質向上の両立という現代的な課題に対し、BEWITH製のDSPやスピーカー、イタリア製のPHDアンプなどを組み合わせた高度な構成で解決を試みています。専門ショップによる緻密なインストールと、生成AIによる技術的な解析を通じて、デジタル制御の正確さとアナログ特有の音楽的な艶を融合させるプロセスが詳しく語られています。また、1950年代生まれの筆者が、昭和のオーディオ文化を背景に抱き続ける音への情熱と独自の美学も色濃く反映されています。最終的に、このシステムは車両の純正機能を活かしつつ、圧倒的な解像度と実在感のある音場を実現することを目的としています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html

  36. 246

    人生最後のカーオーディオの取り付けに挑戦(BEWITH社製のDSP:STATE A6R KISHI_model2台を中核に据えて) ― 2023~2026の試行錯誤の結論を生成AIに聞いてみた。

    この芦田先生のテキストは、あるオーディオ愛好家が「人生最後」と位置づけるカーオーディオ・システムの構築過程と、その構成に対する生成AIの分析をまとめたものです。筆者は昭和のオーディオ文化を背景に、純正ナビの普及で自由度が減った現代において、BEWITHやPHDといったハイエンド機材を組み合わせた独自の音響空間を追求しています。専門ショップによる高度な施工と、デジタル演算の精度にアナログの音楽性を融合させたこだわりが詳細に綴られています。最終的に、自身の感性と最新技術が交差するこのシステムを、自身の音楽遍歴の集大成として位置づけているのが特徴です。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/20232026ai.html

  37. 245

    今日の大学教育の衰退について ― あるいは、「学修成果の可視化」について

    本書は、現代の大学教育が偏差値による序列化に依存し、入学後の教育力が機能していない現状を組織的な教育の欠如として鋭く批判しています。著者の芦田宏直氏は、教育現場に蔓延する心理主義的な動機論や個人の性格を重視する**「人物」評価が、本来あるべき学問的なカリキュラムの形骸化を招いていると指摘します。特に、学生の意欲を待つあまり目標を先送りする姿勢や、出席のみを重視する「履修主義」が、実質的な学力の修得を妨げている点に焦点を当てています。また、教員が単位認定権を私物化し、試験の難易度を恣意的に調整することが、結果として学生の学習ペースを破壊し、教育の質を闇に葬っていると分析します。結論として、大学が偏差値格差を乗り越えるためには、個人の才能に頼らない「学修成果の可視化」**と、組織的な標準性に基づく厳格な教育体制の再構築が不可欠であると説いています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-508.html

  38. 244

    漱石の「先生」と森昌子の「せんせい」における言葉の意味の多様性について

    この、芦田先生の記事は、夏目漱石の小説と森昌子の歌謡曲に登場する**「先生」「せんせい」という言葉を例に挙げ、同じ語彙であってもその意味は常に更新され、多様であることを解説しています。芦田先生は、ベルグソンやハイデガーの思想を引用しながら、言葉が持つ同一性と差異の共存について深く考察しています。特に、一見異なる文脈が交差する瞬間に耐える言葉の力を、ハイデガーの「アオストラーク(決着・耐える)」という概念を用いて説明しているのが特徴です。最終的に、言葉の意味とは固定されたものではなく、絶えざる超越と存在論的差異の中に成立するものであると説いています。このように本書は、日常的な言葉を通じて存在と意味の豊穣性**を浮き彫りにする哲学的な論考となっています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat41/post-507.html

  39. 243

    『吉本隆明全集月報集』(晶文社版) ― 芦田宏直:「転向」について(全集第三巻月報)

    このテキストは、哲学者である芦田宏直が思想家吉本隆明の人間性と理論について綴ったブログ記事です。著者の妻が偶然吉本と遭遇した際の心温まる逸話を導入として、日常的な営みを肯定する吉本の謙虚な姿勢を紹介しています。そこから議論は深化し、吉本の生涯のテーマである**「転向」や、庶民の生活感覚を重視する「大衆の原像」という概念へと展開されます。また、現代のグローバル化やAI化**、あるいは他者の権威に依存する教養主義に対置する形で、吉本の思考がいかに自立的で現在的であったかを考察しています。最終的に、学問と日常的な社交が交差する瞬間に宿る**「関係の絶対性」**の重要性を説いています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat41/post-439.html

  40. 242

    2026年度総合心理学部新入生講話 ― 〈多様性〉は〈知性〉の上でこそ花咲く

    この資料は、大学で学ぶ意義を「知性」と「多様性」の観点から深く考察したものです。著者は、経済状況や育った環境に左右される「人物評価」とは異なり、本を通じた知識の習得こそが最も公平で自由な学びの手段であると説いています。人間が未熟な状態で生まれるからこそ手にした言語や知性は、世界を多面的に解釈し、個性を開花させるための鍵となります。また、過去の出来事や偶然の重なりに自ら意味を見出す**「悦ばしき知恵」**を持つことの重要性が強調されています。最終的に、安易な予測や既存の価値観に縛られず、主体的に未来を創造する力を養うことこそが、大学教育の本質であると結論付けています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-506.html

  41. 241

    「教育の大学」か、「研究の大学」か ― 教育の大学が教育的だったことなど一度もない。

    この文章は、芦田先生が「研究」と「教育」は不可分であるという考え方に基づき、昨今の教育のあり方を鋭く批判したものです。著者は、膨大な執筆量や科学研究費の獲得実績といった客観的な指標を挙げ、質の高い教育は教員の卓越した研究能力に裏打ちされるべきだと説いています。文字を介さない安易なアクティブラーニング**や、明確な基準を欠いた「多様性」重視の政策が教育の質を低下させている現状に対し、強い危機感が示されています。富士山の頂上を知る研究者こそが登山口を正しく導けるという比喩を用い、高度な専門性こそが真の高等教育を成立させると主張しています。文科省の過去の答申や現在の評価体制の変化にも触れ、大学教育における厳格な標準性の再確立を求めた内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-505.html

  42. 240

    2026年度新入生講話 ― 〈知性〉の可能性とマークシート試験

    この資料は、大学での学びの本質と、卒業に向けた具体的な学習方法を多角的に解説しています。前半では、単位修得の条件やAIを活用した予習法、さらには学内での相対的な順位の重要性といった実務的な戦略が示されています。中盤では、学力が家庭環境に左右されにくい公平な指標であることを説き、知識を得ることで世界の捉え方が多様化する知性のメカニズムを紐解いています。終盤には、言葉の獲得による精神的自由や、偶然を必然へと変える教養の力について触れられています。全体を通じて、単なる知識の蓄積を超えて、自らの手で未来を構築するための姿勢を学生に促す内容となっています。

  43. 239

    『吉本隆明全集月報集』(2026/3/23)が出版されることになったらしい ― 私が吉本さんの月報を書くことになったきっかけ。

    この資料は、哲学者である芦田宏直氏が、思想家・吉本隆明の全集月報を執筆することになった経緯とその思想的背景を綴ったものです。執筆のきっかけは、吉本がテレビ番組で語った「ファンクショナリズム(機能主義)」との闘いに芦田氏が強く共鳴し、自身のブログでその熱量を分析したことにあります。この記事が吉本の長女であるハルノ宵子氏の目に留まり、父への深い理解を高く評価されたことで、月報の執筆依頼へとつながりました。文章中では、吉本の核心的概念である「自己表出」や「関係の絶対性」が、単なる知識の蓄積ではない切実な表現の原理として解き明かされています。また、芦田氏の妻が偶然吉本と遭遇した際の心温まる逸話も交えられ、吉本の人間性と理論の両面が多層的に描かれています。最終的に、これらの思索は現代のネット社会における「検索バカ」への批判や、真に「読む」ことの意義を問い直す独自の論考へと昇華されています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/2026323.html

  44. 238

    Twitter微分論:機能主義とメディアの現在-情報社会とデータベースと人間の死と(講演)

    この資料は、芦田宏直氏による講演録であり、機能主義が支配する現代の情報社会と、Twitter(現X)というメディアがもたらした変容を哲学的に考察しています。機能主義は入出力を重視して内面を軽視しますが、著者はこの思考がデータベース化や検索主義の極限にあると指摘します。これに対し、Twitterは情報を細分化(微分)して**「現在」を共有することで、蓄積された実績や専門性といったストックの権威を解体し、人間を身体的で対等な関係へと導くと説いています。また、ネット上の交流に依存する「オンライン自己」の病理や、教育現場における主体性の強制といった社会問題にも鋭く切り込んでいます。最終的には、絶え間なく流れるタイムラインの性質を、死の忘却やハイデガー的な存在論の時間構造に結びつけて論じています。このように本書は、テクノロジーが人間の自己認識や死生観**にどのような影響を及ぼしているかを解き明かす一編です。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx.html

  45. 237

    芦田宏直著『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社刊)を解体する。

    この資料は、芦田宏直の著書『シラバス論』を中心に、その教育思想と学問的背景を詳細に解説したものです。著者はシラバスを単なる事務書類ではなく、知識を時間軸に沿って受肉させる「教育設計の核」と定義し、日本の大学における教育の空洞化を厳しく批判しています。背景には現象学や現代思想の深い素養があり、主体性や人間力といった曖昧な言葉が、かえって教育内容を消失させ格差を固定化していると指摘します。また、吉本隆明や柄谷行人、苅谷剛彦といった思想家と比較することで、芦田の主張が**「公共的な知識の編成」**を通じた社会的な公正の追求にあることを浮き彫りにしています。結論として、本書を単なる授業改善論ではなく、知のあり方と大学制度の根幹を問い直す思想書として位置づけています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-ai-2.html

  46. 236

    3月18日は、65年前(当時は中学校3年生)の告白記念日。

    これらの資料は、芦田君と木下さんという男女の出会いから結婚に至るまでの歩みを綴った、手書きの思い出の記録です。中学生の頃の初めての出会いや、高校合格発表の日に行われた突然の告白といった瑞々しい記憶が、女性の視点から情緒豊かに語られています。また、哲学に傾倒する芦田君の独特な性格や、彼が提唱した「一対一討論」という二人の関係性を象徴する言葉についても触れられています。一方で、男性側の視点では、結婚式を控えた新郎としての気恥ずかしさや戸惑いが、ユーモアを交えて率直に書き残されています。最終的に、13年という長い歳月を経て結ばれた二人の深い絆と、周囲への感謝の気持ちが表現された感動的な手記となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-499.html

  47. 235

    とある中学・高校校長の断章についての感想 (3)― 「たった一日」で人生が決まる紙試験はほんとに若い人たちの不公平を招くのか。

    この資料は、日本の教育現場における選抜制度のあり方を巡る、対照的な二つの視点を提示しています。校長による断章では、偏差値やペーパーテストが個人の多面的な才能や人間性を見落とし、パターン学習を助長している現状に懸念が示されています。対して芦田氏の記事は、知識中心の試験こそが家庭環境や階層の影響を排除し、社会的流動性を生む公平な装置であると強く主張する内容です。人格や意欲を評価に含めるとかえって不平等を招くという逆説的な指摘により、近代的な能力主義の真価が論じられています。両者は、数値化できない「人間性」を評価すべきか、あるいはあえて「知識」のみを測るべきかという、教育評価の本質を問い直す構成となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-498.html

  48. 234

    「概念把握」型教育の重要性について、今さら何が言いたいのか。

    このテキストは、現代の教育現場における**「概念型学習」の是非と、それを巡る指導者の在り方について対照的な二つの視点を提示しています。一方は、本質的な学びには専門知識に裏打ちされた深い概念理解が不可欠であり、教員が単なる支援者に留まることが学力低下を招くと厳しく批判しています。対してもう一方は、断片的な暗記を超えて世界の構造を把握する視点を養うことや、生徒自らが問いを立てるプロセスの価値を肯定的に説いています。両者は、表面的な知識習得を超えた思考の枠組みの重要性を認めつつも、その実現に向けた教員の役割や指導の質**に関しては真っ向から対立しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/-2-1.html

  49. 233

    肺がん手術後5年目の「おめでとうございます」 ― 区域切除手術の快挙。

    この文章は、ある患者が肺がん手術から5年が経過し、再発の兆候もなく無事に定期診断を終えた喜びと回想を綴ったものです。著者は、肺の機能を温存できる**「区域切除」**という高度な手術を選択した経緯を詳しく説明しています。一般的な大学病院が推奨する大規模な切除に疑問を抱き、名医である渡辺先生を探し当てたことで、わずか数日の入院で社会復帰できた体験が記されています。専門的な知見や医師の技量に対する独自の考察に加え、術後の快復がいかに早かったかを示す具体的なエピソードも紹介されています。最後には、闘病を経て古希を迎えた著者が抱く、人生観や幸福のあり方についての深い洞察で締めくくられています。

  50. 232

    とある中学・高校校長の断章についての感想 ― 〈学校教育〉における生徒・学生の「多様性」「主体性」「個性」などをどう考えるのか。

    提供された資料は、教育における**「主体性」や「個性」の尊重が孕む危険性と、学校が果たすべき本来の役割について論じたものです。ある校長が掲げる、教師を「学習の支援者」と位置づける進歩的な教育観に対し、芦田先生はそれが結果的に家庭環境の格差を固定化させると厳しく批判しています。芦田氏は、未完成な存在である子どもに自律を強いることは「放任」に等しく、教育の使命はむしろ家庭の背景から生徒を解放し、知的な標準性を与えることにあると説いています。対照的に校長側は、自由と構造の両立を目指す学びの環境設計こそが教師の仕事であると主張し、両者の間には「指導」の定義を巡る深い溝が存在します。最終的にこれらのテキストは、公教育が格差の再生産**を防ぐ砦として機能すべきか、あるいは個々の特性を伸ばす場であるべきかという、教育の本質的な対立軸を浮き彫りにしています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-495.html

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2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。※BLOG『芦田の毎日』のアドレスは、https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/ です。

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