EPISODE · Jun 20, 2026 · 21 MIN
一年
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています 一年 佐藤は、入口の扉を押した瞬間、店の清潔さに気づいた。白い壁、木の匂い、過不足のない静けさ。新しい店だとわかった。 テーブルにつくなり、向かいの水野に言った。 「アイスコーヒー頼んでおいてくれ。五分、いや十分だけ」 返事を聞く前に、ソファの背にもたれて目を閉じた。三日間、ほとんど眠っていなかった。まぶたの裏が重く、しかし意識はどこか妙に冴えていた。眠れる気はしなかった。 奥の方で、低い声がした。注文を聞きに来た男の声だろう。それから水野の声。それから——少し間があった。 佐藤はそのまま目を閉じていた。 会話が始まった。最初は短い言葉の応酬だったが、やがて輪郭が見えてきた。知り合いらしかった。昔の、という感じの間合いだった。懐かしさよりも、慎重さの方が先に立つ声だった。 「本当に、店を持ったんだね」 水野がそう言った。 「言っただろ。いつか自分の店を持つって」 男は少し照れたように答えた。大学の頃の話をしているようだった。店を持つのが夢だったこと。もうすぐ一年になること。そんな言葉が、眠気の縁を漂うように聞こえた。 「変わらないね」 水野の声がした。 「そっちこそ」 「私は変わったよ」 「そうか」 短い沈黙が落ちた。 「昔、言われたこと、覚えてるよ」と男が言った。「同じ夢は持てないって」 佐藤はまぶたを動かさなかった。 「そんな言い方したかな」 「したよ。かなりはっきり」 「ごめん」 「いや、あれでよかったんだと思う」 足音が近づいてきた。別の女の声が加わった。お知り合いですか、という問いと、誰かの肩に手が置かれる気配。場が、わずかに緊張した。佐藤にはわかった。長く営業の仕事をしていれば、空気の変化には敏感になる。 「大学時代の友人だよ」 マスターらしき男が言った。 水野は、少し遅れて言った。 「うん。昔の友人」 その声は、嘘ではなかった。ただ、友人という言葉だけでは少し足りない響きがあった。 「もうすぐ一年なんです」と女が言った。「この店も、私たちも」 男が小さく笑った。 「一年になれば、結婚しようと思ってる」 佐藤は目を開けた。 「おめでとうございます」 水野が振り返った。 「起きていたんですか」 「いや、まぁ」と佐藤は言った。「そんな簡単には眠れないよ」 体を起こし、二人の方を見た。白いシャツのマスターと、その隣に立つ店員の女。どちらも若かった。女は少し驚いた顔をしていたが、マスターはすぐに表情を整えた。 水野が言った。 「佐藤さん、会社の先輩です。佐藤健さん」 一瞬だけ、佐藤は水野を見た。 先輩、か。 間違いではなかった。会社では確かに先輩だった。ただ、それだけでもなかった。 佐藤は立ち上がり、マスターに手を伸ばした。マスターは一瞬戸惑ってから、握手に応じた。 「さっき大きな契約がまとまったところで」と佐藤は言った。「そのための徹夜続きだったもので、失礼しました。彼女がよく頑張ってくれて」 「ほとんど佐藤さんが中心でしたから」と水野が言った。 佐藤は笑わなかった。事実ではなかったからだ。 マスターと店員の女がカウンターに戻った。水野と佐藤は向かい合って座り、仕事の続きを話した。次の段取り、来週の打ち合わせ、報告書の順序。アイスコーヒーが運ばれてきた。佐藤は一口飲んで、丁寧に淹れてあると思った。 水野は、カップに手を添えたまま言った。 「驚きました」 「昔の人?」 水野は少しだけ目を伏せた。 「大学の頃、少しだけ。あの人、ずっと店を持ちたいって言ってたんです」 「一緒には行けなかった?」 「はい。あの人の夢はわかったけど、そこに自分がいるところまでは、どうしても見えなかった」 佐藤は頷いた。 「いい店だね」 「そうですね」 水野の声は静かだった。佐藤には、それ以上のことはわからなかった。 しばらくして、二人は席を立った。 マスターが水野に声をかけた。 「また来てくれよな」 水野は少し笑った。 「うん。今度はちゃんと、お客さんとして来る」 佐藤はレジに向かった。財布を出しながら、マスターに小声で言った。 「この仕事がまとまったら、彼女にプロポーズするつもりだったんです。うまくいくように、願っていてくれますか」 マスターは少し間を置いた。驚いた様子はなかった。 「きっとうまくいきますよ」 その声には、負け惜しみも、未練もなかった。佐藤にはそう聞こえた。 扉の外から水野の声がした。 「佐藤さん、早く来ないとまずいですよ」 佐藤は財布をしまい、軽く頭を下げてから、店を出た。晴れていた。水野が少し先を歩いていた。 「何を話していたんですか」 「店がいいですね、って」 「それだけですか」 「それだけだよ」 水野は少し疑うように佐藤を見たが、それ以上は聞かなかった。しばらくして、ぽつりと言った。 「私たちも、もうすぐ一年ですね」 佐藤は歩調を速め、水野の隣に並んだ。三日ぶりに、眠気が戻ってきた気がした。
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