千年の愚痴 episode artwork

EPISODE · May 19, 2026 · 7 MIN

千年の愚痴

from 余白の朗読室 · host tosusia

noteでも公開しています# 千年の愚痴 木曜の昼休み、田中は会社を抜け出して烏丸通りを歩いていた。特に目的はなかった。ただ少し、デスクから離れたかった。午前中だけで上司からのメールが十七通来ていた。全部、同じ内容の言い直しだった。 路地の角に、小さな石碑があった。田中は立ち止まった。こういうものを見つけるのが、京都に住む数少ない楽しみのひとつだった。 碑文を読んだ。--- 平安中期、藤原某の邸宅跡。某は学者肌の貴族で、宮中での出世には恵まれず、晩年をこの地で過ごしたとある。邸宅の庭には池があり、月の夜には歌会が開かれたという。 その某が詠んだとされる和歌が、添えてあった。---*つかへても むくはれぬかな 秋の夜の 月にうらみを いくたび告げむ*--- 田中は声に出して読んだ。誰もいない路地だったので、声に出せた。 意味を脳内で訳した。「仕えても仕えても報われない。秋の夜の月に、この恨みを何度打ち明ければいいのか」。 田中はしばらく石碑を見つめた。 千年前の貴族が、月に向かって上司の愚痴を言っていた。 月がかわいそうだった。--- 碑の前にしゃがんで、田中は少し考えた。返すか、と思った。なんとなく、そのままにしておけない気がした。千年越しに愚痴を読まされて、何も言わないのも薄情だろう。 スマートフォンのメモを開いて、指で文字を打った。現代語でいくか、それとも、と思って、せっかくだから合わせることにした。三分ほど路地にしゃがんだまま考えた。通りがかったOLが少し避けて歩いた。---*なぐさめむ 千年(ちとせ)へだてど 変はらぬは つかへる身の うきことばかり*--- 慰めましょう。千年隔てていても変わらないのは、仕えることの辛さばかりですから。 我ながらよくできた、と思った。上司のメールが十七通来ていた身としては、実感がこもっていた。--- 田中は立ち上がって、地図アプリを開いた。この場所にはすでにピンが立っていて、何件かレビューが書いてある。「歴史を感じます」「静かな場所です」「地元の人しか知らない穴場」。 田中はレビュー欄に書き込んだ。--- ★★★★★ 藤原某殿の歌を読みました。千年経っても報われない話は変わらないようで、大変共感しております。微力ながら返歌を詠みましたので、お納めください。 *なぐさめむ 千年へだてど 変はらぬは つかへる身の うきことばかり* お互い、頑張りましょう。 田中(会社員、四十一歳)--- 投稿した。 我ながら何をしているのかと思ったが、不思議と気分がよかった。上司のメールは十七通のまま待っているだろうが、それはそれだった。 石碑に軽く頭を下げて、田中は来た道を戻った。昼休みが終わる。 秋の空が、よく晴れていた。月はまだ、どこかに隠れている。---*了*

Episode metadata supplied by the publisher feed · Published May 19, 2026

Embed this episode

NOW PLAYING

千年の愚痴

0:00 7:29

No transcript for this episode yet

We transcribe on demand. Request one and we'll notify you when it's ready — usually under 10 minutes.

No similar episodes found.

No similar podcasts found.

Frequently Asked Questions

How long is this episode of 余白の朗読室?

This episode is 7 minutes long.

When was this 余白の朗読室 episode published?

This episode was published on May 19, 2026.

Can I download this 余白の朗読室 episode?

Yes. Use the download control on the episode player to save the publisher-provided media file.
URL copied to clipboard!