EPISODE · Jul 16, 2026 · 16 MIN
確率
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています 確率 気づくと、私は隣の部屋に立っていた。 寝室ではない。書斎だった。 私はしばらく動けなかった。 何が起きた。 記憶をたどる。ベッドに入っていた。本を読んでいた。電気を消した。そこまでは覚えている。だが、その先がない。歩いた記憶がない。ドアを開けた記憶もない。 私は壁を見た。その向こうが寝室だった。 まさか。そんなはずはない。だが、もし。 私は物理学者ではない。それでも大学時代に量子力学をかじったことくらいはある。 トンネル効果。粒子は、確率的に壁をすり抜けることがある。 では、人間は。 机の上のノートパソコンを開き、概算を始めた。人体を構成する原子数。デコヒーレンス。波動関数。同時に起こる確率。数字を追うたび、指数は増えていった。十のマイナス……。いや、そんな桁ではない。宇宙が誕生してから毎秒挑戦し続けても、一度も起こらないような数字だった。 「そんな……」 私は壁を見つめた。確率はゼロではない。しかし、起こることはない。もし今、本当に起きたのなら、物理学を書き換えなければならない。 「あなた、どうしたの?」 振り向くと、妻が書斎の入口に立っていた。寝癖のついた髪で、眠そうに目をこすっている。 「壁を……すり抜けたかもしれない」 妻は数秒黙ってから、私を見た。 「寝ぼけてただけじゃない?」 「いや、でも記憶が」 「トイレ行って戻ってきて、そのまま書斎でぼーっと立ってるよ」 「……」 「さっき私、『大丈夫?』って聞いたら、『大丈夫』って返事もしてたし」 「え?」 そんな記憶はない。 私は考え込んだ。トンネル効果で壁を通り抜ける確率。寝ぼけて歩き、記憶が飛ぶ確率。どちらが高い。 計算するまでもなかった。 私は静かにノートパソコンを閉じた。
Embed this episode
Ready to play
確率
No transcript for this episode yet
Similar Episodes
No similar episodes found.
Similar Podcasts
No similar podcasts found.