EPISODE · May 29, 2026 · 14 MIN
ラプラスの悪魔
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開していますラプラスの悪魔 宇宙のある瞬間における全ての粒子の位置と速度を知る知性があれば、過去も未来も完全に計算できる——ラプラスがそう書いたのは1814年のことだった。古典物理学の絶頂期、世界は完全に予測可能だと信じられていた。しかし20世紀に入り、量子力学は観測すること自体が結果を変えると示し、カオス理論はわずかな初期値の差が全く異なる未来を生むと証明した。ラプラスの悪魔は存在しない。世界はカオスの中にある。 沓掛誠吾がその話を講義で聞いたのは二十歳の時で、以来ずっと、そのことを考えていた。悪魔は本当に存在しないのか。それとも、まだ誰も十分に賢くなかっただけではないのか。 四十を過ぎた頃、沓掛はようやく自分の答えを形にした。 人間の購買心理を学習するAIだった。膨大な行動データから消費者の深層心理を読み解き、何を作れば売れるかを逆算する。同僚には遠回りだと言われ続けた研究が、十年かけてようやく動いた。最初の商品は初週で在庫が尽きた。次も、その次も。市場は沓掛の思い描いた通りに動いた。 二十年分の正しさが、一度に返ってきたような気がした。 半年後、商品が売れなくなった。 似たような商品が、わずかに上回る完成度で先に出回っていた。同じことを考えた者がいた。沓掛は舌打ちをこらえながら新しいAIを作った。ライバルの戦略を予測し、その一手先を行くシステムを。三ヶ月後、売り上げは戻った。 二ヶ月しか続かなかった。 相手も同じことをしていた。新たなライバルも増えた。 各社のAIが互いの出方を読み合い、読み合いを読み合った。予測が予測を無効にし、無効にした予測がまた別の予測に潰された。測ろうとする行為そのものが、測られる対象を動かしていた。悪魔たちが互いを打ち消し合い、市場は誰の手にも収まらなくなった。 そんな時期に、ある商品が爆発的に売れた。 小さなメーカーの、何の変哲もない製品だった。きっかけは一人の小学生の動画だった。その子は商品を手に持ちながら言った。「これ、なんか、ずっと触っていたくなる」 それだけだった。理屈もなく、戦略もなく、ただその一言が何かに疲れていた世の中と共鳴した。動画は広がり、商品は品切れになった。 沓掛はその現象をAIに解析させた。なぜあの言葉が、あの瞬間に。AIは答えを出せなかった。変数が多すぎた。そもそも、特定できるようなものではなかった。蝶の羽ばたきがどこかで嵐を起こすように、あの子供の一言は世界を変えた。どの方程式にも収まらない場所で。 羨ましいとも、悔しいとも違う感情が、しばらく胸の中に居座った。 沓掛は開発室の椅子に深く座り、天井を見た。長い時間をかけて積み上げてきたものが、子供の一言の前で静かに揺れていた。それでも世界は自分が思っていたよりずっと広かった。 カオスの中にいる、と思った。19世紀も、今も、人類はずっとそこにいる。 それでも悪魔を追いかけることをやめるつもりはなかった。追いかけ続けることが、たぶん自分の仕事だから。
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