EPISODE · Jun 12, 2026 · 7 MIN
生まれた時代
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています生まれた時代生まれた時代が違ったら——男はそう考えることが多かった。今の時代の価値観、もっと言えば商業主義、いや拝金主義に、どうしても馴染めなかった。利益を得ようとすることが、どうしても気持ち悪いのだ。商売人としては致命的だった。先月、取引先に勧められるまま、初めて広告を出した。数字は確かに動いた。しかし男は、その結果を眺めながら、何か大切なものを売り払ったような気がして、画面を閉じた。これではダメだとわかっている。なにしろ男は経済学の学位を持っている。経営者として必要な知識は、普通の商売人よりは持っているだろう。会社の経理も全て自分で処理できる。売り込みのための手段・方法も、多分わかっている。ただ気持ち悪いのだ。これは生理的なものだろう。思い返してみても、そのようになった理由は思い出せない。商売人の家に生まれ、商売人として一通りの経験もしている。それがために嫌な思いをした記憶もない。いくら理由を探しても見つからない。だからこれは生まれ持っての性分なのだろう。この性格を活かそうと、転職も考えた。聖職者、NGO、政治家——さまざまなことを考えた。しかし、経済学を修めた男には、それらが綺麗事だけでは回らないことがわかってしまう。なまじ知識を持っているだけに、純粋な気持ちでそれらの仕事に向かうこともできない。八方塞がりだ。そもそも、この時代が自分に合っていないのかもしれない。戦国の世なら、純粋に戦いに生きられたかもしれない。原始時代なら、生きること、それだけに専念できたかもしれない。しかし過去には戻れない。100年後なら、今とは違う価値観なのだろうか。作る喜びが、拝金主義に取って代わる日が、いつか来るのだろうか。そしてふと気づいた。待つことはない。自分がその価値観を生きればいい。百年後にようやく届く生き方でもいい。時代を嘆くより、時代を作る側に回ればいい。過去には戻れない。だが未来は、まだ誰も作っていない。今の時代で認められることも、得をすることもないだろう。それでいい。自分は今の時代ではなく、100年後を生きるのだ。男は静かに立ち上がり、机に向かった。
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