EPISODE · Jun 5, 2026 · 15 MIN
たま
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開していますたま 何かが破裂したような音がした。 男は頬に鋭い痛みを感じ、反射的に手を当てた。指先がぬるりとした。見ると、べったりと血がついていた。 その横で、若い女性が膝から崩れ落ちた。 どこかから悲鳴が上がった。 白昼の発砲事件として、ニュースは一斉に騒ぎ立てた。弾は男の頬をかすめ、女性の手首をかすったらしい。「らしい」というのは、どこを探しても弾が見つからなかったからだ。 ワイドショーは連日この話題を取り上げた。コメンテーターたちが身を乗り出して議論したのは、男と女性のどちらが狙われたのか、という点だった。 はじめは女性が標的だと見られた。若く、美しかった。しかし調べれば調べるほど、狙われる理由が出てこない。 では男か。 男は四十二歳。中堅食品メーカーの係長。趣味は録画した野球の観戦。妻と、小学生の息子が一人。どこをどう切り取っても、これ以上ないほど平凡だった。 ところが、である。 まず最初に浮かんだのが、妻へのストーカーだった。数年前から付きまとっていた人物がいたらしく、男本人はまったく知らなかった。妻も「心配させたくなくて」と言った。男はそれを聞いて複雑な顔をした。 次は男の出自だった。母方の親戚のことはほとんど知らなかったのだが、どうやら関西の大きな組の娘だったらしい。その関係で、大阪の一等地の土地の相続人が男になっているという話が出てきた。男はその土地の存在すら知らなかった。 さらに父方。少しブラジルの血が入っていると聞いたことはあったが、その一族、現地では妙に顔が利くらしいという話まで飛び出した。 ワイドショーのコメンテーターは「氷山の一角ですよ」と断言した。スタジオが沸いた。 極めつけは職場だった。行きつけの小料理屋の女将がカメラの前で言った。以前、同僚たちと飲みにきたとき、若い部下の女の子の、男を見る目が尋常じゃなかった、と。同僚も苦笑いしながら頷いた。ああ、あの子はちょっと特別でしたね、と。 当の男は、自宅のソファでそのインタビューを見ながら、お茶を吹きそうになった。 妻は隣で無言だった。 男はテレビを消した。 しかし、消したあと、なんとなく、頭の中でいろんな映像が流れた。ヤクザの娘だった祖母。ブラジルの密林で何かをしている遠い親戚たち。自分を見つめていたらしい部下の視線。 自分の人生、こんなに奥行きがあったのか、と男はぼんやり思った。ドラマみたいじゃないか、と。頬の傷がまだ少しひりひりしていた。 その後、事件は意外な結末を迎えた。 近くを走っていたトラックのビスが外れ、タイヤに巻き込まれた拍子に、猛烈な勢いで飛んだのだという。弾でも何でもなかった。単なる事故だった。 警察の発表が出ると、ワイドショーはあっさり次の話題へ移った。ストーカーも、ヤクザの血筋も、ブラジルの一族も、執着していた部下も、すべてがまるで最初からなかったように消えた。 男も元の生活に戻った。月曜には出社し、会議で眠くなり、昼は社食でカレーを食べた。頬の傷は、もうほとんどわからなくなっていた。 ただ、廊下ですれ違った部下の女性社員が、いつもと変わらず「お疲れ様です」と言って通り過ぎたとき、男はほんの一瞬、その背中を見た。 そしてすぐに、自販機でお茶を買った。 平穏だった。 少しだけ、残念だった。
Embed this episode
NOW PLAYING
たま
No transcript for this episode yet
Similar Episodes
No similar episodes found.
Similar Podcasts
No similar podcasts found.