EPISODE · Jul 8, 2026 · 18 MIN
たたき台
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています たたき台 田中部長がパソコンを覚えたのは、まだ社内に一台しかなかった頃だ。以来三十年、業務で使っている基幹システムは部長が二十年前に組んだもので、今も現役で動いている。スライド作成など、朝飯前のはずだった。 「ちょっといいか」 田中がデスクの椅子を引き、画面を見せた。PowerPointのスライドが十数枚、並んでいる。 「プレゼンの資料なんだが、どうもまとまらなくて」 新入り二年目の橋本は、画面を一瞥してから部長に向き直った。 「何を一番伝えたいんですか」 「それが問題でな」と田中は腕を組んだ。「数字は揃ってる。実績もある。なのに、なんか弱いんだよ」 橋本はスマホをテーブルに置いた。「聞かせてもらえますか。聞いてる方が、どう感じて欲しいんですか」 そこから一時間、田中は喋り続けた。橋本は時折、短く問い返した。「その数字、前年比ですか」「キャッチーというのは、短い言葉で、ということですか」「ここのグラフ、色を変えたいですか」 田中はメモを取らない橋本が少し気になったが、スマホが点灯しているのを見て、録音しているのだろうと思い、今の若い者はそういうやり方かと、黙っていた。 「じゃあ、そういう方向で」と田中はまとめた。「すまないが、ある程度形になるまで作ってもらえるか。たたき台でいい」 橋本がきょとんとした顔をした。 「今作っていたじゃないですか……」 スマホを差し出した。画面には、先ほど話した内容を元にしたスライドが、十二枚。レイアウトも、数字の強調も、田中が言った通りになっていた。 田中はしばらく、画面をスクロールした。 「……おまえ、ずっとこれを」 橋本は特に得意そうな顔もしていなかった。当たり前のことをしただけ、という顔だった。 田中はスマホを返しながら、ふと思い出した。最近、部下たちが業務システムの画面を開くとき、どこか面倒そうな顔をしていた。入力項目が多い、と誰かが呟いていたのも聞こえていた。二十年前、あれだけ工夫して作ったものが、今の彼らには何に見えているのだろう。 「ありがとう」と田中は言った。 橋本は軽く頭を下げて、自分のデスクに戻っていった。 田中は自分の画面に向き直った。PowerPointのスライドが、まだ開いたままだった。
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