天性
from 余白の朗読室 Hosted by tosusia
noteでも公開しています 天性 空気が読める、とよく言われた。 褒め言葉のつもりで言っているのだろうが、男にとってそれは呪いだった。 尊敬する画家たちを見渡すと、少なくとも男の目には、成功している者ほど空気が読めないように見えた。ギャラリーのオーナーを怒らせ、批評家を鼻で笑い、パーティーの場で唐突に帰る。それでいて作品だけが、圧倒的だ。 偶然ではないと男は思った。あの自由さが、あの絵を生んでいる。 ならば自分に足りないのはそれだ。 読めないのではなく、読まない。意志の問題なら、身につけられるはずだ。 男は実行に移した。 最初に去ったのは彼女だった。三年付き合った。「前と別人みたい」と言い残して出て行った。次に恩師が離れた。「君はおかしくなった」という手紙が届き、それきりになった。唯一無二だと思っていた友人とは、些細な言い争いがきっかけで、自然に連絡が途絶えた。 静かになった部屋で、男はキャンバスに向かった。 孤独だった。だがその孤独が、これまで感じたことのない何かを、絵の中に引き出し始めていた。 必要だったのはこれかもしれない、と思った。ならば他にも方法があったのかもしれない、とも思った。だがもう、止まれなかった。 成功は、気づいたら来ていた。 個展の最終日、閉館間際に一人の男が現れ、展示作品を全点買い上げた。理由を聞いた記者に、男はこう答えたという。「説明できないものを買うんです」。その話が広まり、海外のギャラリーから声がかかり、スポンサーがつき、パトロンのような存在まで現れた。取材のたびに「影響を受けた画家は」と聞かれた。男はいつも少し考えてから、「いません」と答えた。それが嘘だとわかっていても、そう答えるのが一番早かった。 新しい彼女ができ、気づけば結婚していた。 これが求めていたものだ、と男は思った。 さほど感慨はなかった。 それよりも、次の絵が気になった。周囲の人間が、疎ましくて仕方なかった。 次回作に取りかかったある日、電話が鳴った。妻からだった。 「あなた、表彰式が始まります。今どこにいるの」 「今、アイデアが出たところなんだ」と男は答えた。「おまえ、代わりに出ておいてくれ」 電話を切った。 アトリエは静かだった。描きかけの白が、何かを待つように光っていた。 ほんとうにめんどうだ、と男は呟いた。
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