EPISODE · May 19, 2026 · 16 MIN
完全な若さ
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています# 完全な若さ 博士が薬を完成させたのは、七十二歳の誕生日の朝だった。 三十年かけて作った。膝が笑う階段を毎日上りながら、老眼鏡を三回買い替えながら、白衣のボタンがどんどん閉まらなくなっていくのを感じながら、作り続けた。そしてついに、できた。 透明な液体が、小さなビーカーの中で静かに揺れていた。--- 効果は実証済みだった。 マウスで試したとき、老いたマウスが三週間で若返った。身体だけでなく、脳まで完全に。ただし副作用があった。若返った年齢以降の記憶が、きれいさっぱり消えた。三十日分の記憶を持つ老マウスに飲ませて二十日分まで若返らせると、最後の十日間の記憶が消えた。完全な若返りだった。完全すぎた。 つまりこの薬は、若さと引き換えに、その年齢以降の人生を丸ごと持っていく。 博士はビーカーを眺めながら、論文にどう書くか考えた。「副作用:服用前の人生が消えます」。査読が通るか微妙だった。--- さて、飲むかどうか、だ。 博士は椅子に深く座り直した。膝が鳴った。うるさい。 仮に三十歳まで若返るとする。四十二年分の記憶が消える。博士は指を折って数えた。大学院での研究、妻との出会い、娘の誕生、妻を見送った夜、定年後も続けた研究、そしてこの薬の完成。全部消える。 消えた自分は、この薬を作ったことも知らない三十歳になる。 つまり、この薬を飲んだ瞬間、この薬を作った人間は消える。 博士はしばらくその論理の輪を眺めた。なかなかよくできたパラドックスだと思った。論文に書けそうだった。--- では、もう少し控えめに、六十歳まで若返るとしたらどうか。 十二年分の記憶だけ消える。膝の痛みは消える。老眼も消える。白衣のボタンも閉まる。 しかし六十歳の自分は、妻が死んだことを知らない。 博士は、そこで少し考えるのをやめた。 また再開した。 六十歳の自分は、妻がまだ生きていると思っている。そして現実を知る。二度、妻を失うことになる。 それは若返りではなく、ただの罰だった。--- では六十五歳まで、という線はどうか。 妻を見送った後まで記憶が残る。悲しみも残る。でも膝の痛みは少しマシになるかもしれない。 博士は立ち上がって、鏡を見た。七十二歳の顔が映っていた。しわが多い。髪は白い。でもよく見ると、三十年間ずっと考え続けてきた顔だった。この顔で、この薬を作った。 六十五歳の自分は、まだこの薬を作っていない。残り七年、また作り直せるだろうか。 七十二歳でようやく完成したものを。--- 博士は椅子に戻った。 ビーカーを持ち上げた。中の液体が揺れた。 結局のところ、この薬を一番必要としているのは、若さを失った人間だ。そして若さを失った人間がこれを飲むと、若さを取り戻す代わりに、若さを失うまでの人生を失う。 完璧な薬だった。完璧に、誰も得をしない。 博士はビーカーをそっと棚に戻した。 来週、学会発表がある。再来週は娘が孫を連れてくる。孫はまだ二歳で、先月やっと「じいじ」と呼べるようになった。 飲むとしたら、その後でいい。 そう思いながら、博士は老眼鏡をかけて、論文の続きを書き始めた。膝が少し痛かった。まあ、いつものことだった。---*了*
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