EPISODE · Jun 7, 2026 · 14 MIN
信号
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています信号感情がわからない、と気づいたのは、いつのことだったか。幼いころから、泣く場面で泣けなかった。運動会で転んでも、祖母が死んでも、涙が出なかった。嬉しいはずの場面でも、顔が動かなかった。周りの子どもたちが笑い転げているのを、少し離れたところから眺めていた。氷の向こうに世界があるようだった。おかしい、と思われているのはわかった。冷たい子だと思われているのもわかった。でも何をどうすればいいのか、わからなかった。感情は確かにあった。ただそれは、出口を持たないまま、どこかに澱んでいた。村上洋子がアレキシサイミアという言葉を知ったのは、三十代になってからだった。病気というより、そういう性質だと医者は言った。治療法は確立されていなかった。娘の明日香が生まれて、洋子は懸命にやろうとした。でも抱きしめ方がわからなかった。笑いかけ方がわからなかった。明日香が泣いていても、洋子の顔は動かなかった。愛していた。それだけは確かだった。でもその愛は、皮膚の内側で行き場を失ったまま、明日香には届かなかった。明日香が家を出たのは、二十歳の春だった。置き手紙があった。お母さんのことが、ずっとわからなかった、と書いてあった。愛されていたのかどうか、今でもわからない、と。洋子はその紙を読んで、泣こうとした。泣けなかった。それから半年後、洋子は手術を受けた。脳の深部に、米粒ほどのチップを埋め込む手術だった。愛情に関わる脳内物質の分泌を促す装置で、臨床試験の段階だったが、洋子は迷わなかった。もっと早く、これがあれば、と思った。明日香がまだいるうちに、これがあれば。術後、少しずつ変わった。悲しい映画を見て、涙が出た。初めて自分の頬を涙が伝ったとき、洋子はしばらく動けなかった。スーパーで店員に親切にされて、温かい気持ちが顔に出た。鏡を見ると、笑っていた。見知らぬ自分が、そこにいた。でも伝える相手がいなかった。三年が経った。インターホンが鳴ったのは、十一月の夕方だった。ドアを開けると、明日香が立っていた。腕に赤ん坊を抱いていた。冬の光の中で、ふたりの輪郭がやわらかく滲んでいた。「帰ってきた」と明日香は言った。それだけだった。洋子は赤ん坊を見た。赤ん坊は眠っていた。小さな手が、握るものを探すように、空を掴んでいた。頭の中で何かが鳴った。装置が複数の信号を受け取った。怒り、喜び、悲しみ、安堵、困惑——それらが同時に流れ込んできた。装置は処理しようとした。できなかった。静かになった。それでも洋子の目から涙が出た。同時に、顔が笑っていた。自分でもわからなかった。装置がそうさせたのか、自分がそうなったのか、もう区別がつかなかった。そしてその問いは、もうどうでもよかった。明日香がその顔を見た。しばらくして、明日香も同じ顔になった。泣きながら笑っていた。ふたりはしばらく、ドアの前に立っていた。冬の夕暮れが、静かに落ちていった。
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