EPISODE · May 1, 2026 · 15 MIN
喧騒の中で
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています喧騒の中で 平日の午後だというのに、錦市場は人で溢れていた。 聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語、そしてたまに日本語。村田信夫は人の流れに押されながら、ゆっくりと通りを歩いていた。かつてここは「京都の台所」と呼ばれ、少なくとも信夫の記憶では、地元の主婦が豆腐や漬物を買い求める場所だった。それがいつの間にか、こうなった。 道にはみ出して串を頬張る外国人観光客。狭い通路を塞ぐように立ち止まって自撮りをする集団。眉を顰めたくなる場面はいくらでもある。それでも信夫は苦々しいとは少し違う、妙に落ち着いた気持ちでその光景を眺めていた。上の世代のがさつさを恥じた者が、次の世代では振る舞いに気をつける。その繰り返しの中で、品位のようなものが出来上がっていくのかもしれない。どこの国も、どこの時代も、そうだったのではないかと信夫は思っていた。 三十数年前のことを、ふと思い出したからだ。--- オーストラリアへの社員旅行だった。 市内へ向かう電車の中で、得意先の社長、田端という男が大声で喋り続けていた。どこのゴルフ場で誰と回った、どこのホテルに泊まったことがある、そういった話を奥様相手に笑いながら披露していた。周囲の地元の人間が静かに眉を顰めているのも、まったく目に入っていない様子だった。 バブルの絶頂期、ジャパンマネーを背景に、日本人は世界中でそういう振る舞いをしていた時代だった。 信夫は居心地が悪くて仕方なかったが、何しろ得意先の社長だ。少し声を落としてくださいと、そのひと言が言えなかった。ただ車窓の外を見ているだけだった。 やがて目的地に着いた。立ち上がって通路を歩き、ドアへ向かおうとした時、誰かの足が自分の足にコツンとぶつかった。ほんの軽い接触だった。振り返っても、誰も何も言わない。誰も反応しない。ただ乗客たちは無言で、それぞれの荷物を持って降りていくだけだった。わざとだったのか、ただのはずみだったのか、今でもわからない。 信夫はそそくさと電車を降りた。プラットホームに出てから、なぜもう少し声を落としてくださいのひと言が言えなかったのかと思った。せめて降りる時、周囲の乗客に頭を下げるだけでもよかった。それすらできなかった。恥ずかしかった。--- 錦市場の喧騒が、また耳に戻ってきた。 数歩先で、中国語の大きな声がしていた。中年の男性が連れの女性と立ち食いをしながら、食べ終えた器を通路の脇に置いた。捨てたというには、あまりに無造作だった。 その少し後ろから、中国語で何か囁き合いながら歩いてきた若いカップルがいた。二十代だろうか。男の方が立ち止まり、かがみ込んで、その器を拾い上げた。無言だった。中年男性に声をかけるわけでもなく、周囲に向けて何かアピールするわけでもなく、ただ器を手に持って、近くのゴミ箱へと歩いていった。 三十数年前の自分には、できなかったことだと信夫は思った。 その背中を、しばらく目で追った。いずれこの喧騒も、変わっていくのかもしれない。
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