EPISODE · Jul 17, 2026 · 14 MIN
夜の船
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています 夜の船 一九九〇年の夏、私はスウェーデンからドイツへ向かう列車に乗っていた。計画らしい計画もなく、気分で行き先を変えながらヨーロッパを移動していた。お金はなかったから、宿代を浮かせるために夜行を選んだ。 途中、列車がフェリーに乗り込んだ。線路ごと船の腹に収まって、海を渡るのだという。そういうことが当たり前に起きる場所だった。 コンパートメントに、先客が三人いた。ドイツの若い女性と、東欧から来たらしい男が二人。男たちは友人同士で、女性はバックパッカーだった。みんな旅慣れた様子で、余計なことは言わない。でも閉じてもいない。旅人同士の、ちょうどいい距離があった。 お国の話などをした。何を話したか、細かくは覚えていない。ベルリンの壁が崩れてまだ一年も経っていない頃で、東欧の二人がどんな気持ちでその列車に乗っていたのか、私には想像するしかなかった。たどたどしい英語で、それ以上踏み込むことができなかった。 それなのによく行けたものだと思う。ネットもない時代に、行く先々で宿を探し、次の列車を調べ、国境を越えた。今の自分には到底できない。あの頃の自分が何を根拠にそこまで動けたのか、自分のことなのに、もうわからない。 夜が明ける前に、それぞれ降りた。連絡先も交わさなかった。名前も、もう覚えていない。 あれから三十五年が過ぎた。あの三人は今、地球のどこかで暮らしているはずだ。それだけは確かなのに、確かめる術がまるでない。 写真がある。夜中にデッキまで出て、彼らと記念写真を撮った。暗いフェリーの甲板で微笑む東欧の二人が、そこに写っている。 あれは確かにあった出来事だ。 けれど不思議なことに、今の私には、その写真の中の若い日本人が自分であることの方が信じがたい。
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