正論
from 余白の朗読室 Hosted by tosusia
noteでも公開しています 正論 狼少年の話がある。 「オオカミが来たぞ!」と叫び、村人が集まると笑った少年の話である。 これは、その逆の話である。 田中は、正論を言う男だった。 「この契約書、規程では二名の確認印が必要です。一名しか押されていません」 総務の山田は溜息をついて、三階までハンコをもらいに行った。正しかった。 「消耗品の在庫、法令上この品目は最低三十個の備蓄が義務です。今二十四個しかありません」 経理の佐藤は溜息をついて、発注書を書き直した。正しかった。 「この議事録、社内規程だと五営業日以内に全員の承認が必要です。今日で六日目です」 会議室の全員が溜息をついて、承認フローを再度回した。正しかった。 田中はいつも正しかった。そして、そのたびに誰かが余計な仕事をすることになった。 しばらくすると、みんな学習した。ただし、逆方向に。 ああ、また田中が正しいことを言っている。 「ああ、ありがとう。確認しておくよ」 「そうか、じゃあ手配しておこう」 「わかった、すぐ回すね」 確認されなかった。手配されなかった。回されなかった。 十月の終わり、台風が来た。 田中は朝から言い続けた。 「大雨特別警報が出ています。安全衛生規程でも、特別警報発令時は社員の安全確保が優先です。今すぐ避難すべきです」 課長が言った。「わかった。もう少ししたら考えよう」 先輩が言った。「そうだね、区切りがついたら動くよ」 同期が言った。「うん、あと一時間したらね」 狼少年の村人は、嘘に慣れた。 田中の同僚たちは、正論に慣れた。 結果は、同じだった。 田中は静かに荷物をまとめた。「お先に失礼します」 「田中君は心配性だからな」と課長が笑った。 田中は返事をせず、傘を手に取った。 田中がビルを出て二時間後、川が溢れた。 一階は五分で膝まで。 二階は二時間で足首まで。 エレベーターは止まった。 トイレは逆流した。 スマートフォンの充電が、じわじわと減っていった。 翌朝、全員が自衛隊のボートで運ばれた。 ずぶ濡れで、毛布にくるまれた姿が、全国ニュースに流れた。 田中は自宅のソファで、温かいお茶を飲みながらニュースを見ていた。 画面の中で、ずぶ濡れの課長がインタビューに答えていた。 「特別警報が出た時点で避難しなければいけませんでした。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」 田中はリモコンを置き、天井を見た。 特に何も思わなかった。
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