EPISODE · May 28, 2026 · 18 MIN
紙工場
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています# 紙工場 三十年近く、ほぼ毎日働いた。最初は何もなかった。一人で始めた仕事が、少しずつ形になっていった。結果が出るたびに、次の依頼が来た。信頼というのは、そうやって少しずつ積み重なるものだと知った。自営業だから休みはなく、朝九時から夜十一時まで。仕事は嫌いではなかった。家族を支えていることに、充実感があった。それでも、三十年は長かった。 職場の近くに、紙工場があった。ダンボールを加工する小さな工場だ。夜遅く帰る時間になっても、明かりがついていることが多かった。 いつからか、横を通るたびに気になるようになった。全く接点はない。話したこともない。向こうはこちらの存在すら知らないだろう。それでも、深夜に明かりがついているのを見るたびに、なんとなく安心した。同じ時間に、同じように働いている誰かがいる。それだけのことだった。戦友、という言葉が浮かんだこともある。おかしな話だと思った。でも、それ以外の言葉が見つからなかった。 三十年経てば、代替わりしているかもしれない。それでも明かりはついていた。工場は続いていた。そのことが、妙に嬉しかった。--- ある時期から、明かりが消えていた。 最初は気にしなかった。たまたま早く終わったのだろう、と思った。でも何日経っても、暗いままだった。廃業したのか、移転したのか。通るたびに確認したが、明かりは戻らなかった。 その頃から、帰り道が少し長く感じるようになった。自分でも、おかしいと思った。話したこともない、顔も知らない相手だ。それでも、あの明かりがないと、何かが足りなかった。--- しばらくして、また明かりがついていた。 思わず足が止まった。工場の中で、誰かが動いているのが見えた。いつもと変わらない、黙々と働く気配だった。それでも、ほっとした。--- 今度、職場が移ることになった。 挨拶をしようか、と一瞬思った。三十年、お世話になりました、と。でもおかしいだろう。突然そんなことを言われても、相手は戸惑うだけだ。そもそも、向こうはこちらのことを知らない。 挨拶はしない。 疲れた夜には、また見にこよう。それだけで、あと十年ほどなら頑張れる気がする。---*了*
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