EPISODE · Jun 4, 2026 · 6 MIN
卒業式
from 余白の朗読室 · host tosusia
noteでも公開しています**卒業式**壇上の学長の声は天井の高い講堂によく響いたが、内容は頭に入ってこなかった。隣の田中が肘で突いてくる。プログラムの余白に、田中と交互に落書きをした。就職先の話、夏の旅行の話、どうでもいいことを小声で囁き合った。やがて優秀論文賞の表彰が始まった。名前を呼ばれた学生が壇上に上がるたびに拍手が起きる。知らない名前ばかりだった。自分には縁のない話だと思いながら、それでも拍手だけはした。壇上の学生の顔が、遠くてよく見えない。オーケストラ部の演奏が始まった。弦の音が講堂に広がった。田中への返事が途切れた。同じ旋律を、どこかで聴いたことがある気がした。いや、ここで聴いたのだ、たぶん。あのときもこの曲だったのかもしれない。合唱団が歌い出したとき、私はプログラムへの落書きをやめていた。声が重なるにつれて、胸のあたりに何か溜まってくるような感じがした。隣で田中が何か言っている。聞こえているのに、返事をしなかった。こういう感じは、あの頃にはなかった。あったのかもしれないが、気づかなかった。学長が話し始めた。この大学が何を大切にしてきたか。学問とは何か。今日ここを巣立つ者たちに何を望むか。三十年前も、きっと似たような言葉がここで語られていたのだろう。あの頃の私はその言葉を聞き流しながら、田中の落書きに笑っていた。同じ講堂で、同じ椅子に座って、まったく別のことを考えていた。「この場所で培ったものを、どうか忘れないでください」その言葉が、後ろの席まで届いてきた。私は手元のプログラムを、静かに膝の上に置いた。拍手が起きた。気がつくと、田中はいなかった。私の隣には、妻が座っていた。式が終わり、人が動き始めた。大きな花束を抱えた学生たちが、家族と写真を撮っている。私はしばらくその場に立ったまま、人の流れを眺めた。黒い学位袍を着た息子の後ろ姿が見えた。友人たちと笑っていた。あの頃の私によく似た笑い方だった。
Embed this episode
NOW PLAYING
卒業式
No transcript for this episode yet
Similar Episodes
No similar episodes found.
Similar Podcasts
No similar podcasts found.