PODCAST · religion
高千穂さんのご縁です。
by RKKラジオ
仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。 出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。お悩み相談もメールで受け付け中![email protected]▼メール [email protected]★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4 AM1197で、毎週水曜日 午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。
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【一休宗純】──破戒の風狂僧が求めた真実と蓮如上人との絆
🔶一休宗純の生涯と「一休」の名の由来 アニメや頓知(とんち)のイメージで親しまれている「一休さん」こと一休宗純(いっきゅう そうじゅん)禅師は、室町時代に実在した臨済宗大徳寺派の著名な禅僧です。後小松天皇の落胤(子)と伝えられており、現在も京都府京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん・通称「一休寺」)にある一休禅師の墓所は宮内庁によって管理されています。6歳で京都の安国寺に入門し、幼少期から漢詩などの才能を発揮しました。「一休」という道号は、彼が青年期に詠んだ歌「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらばふれ 風ふかば吹け」に由来します。「有漏路」とは煩悩と迷いに満ちた現世、「無漏路」とは雑念のない悟りの世界(あの世)を意味します。「人の生涯とは、現世から悟りの世界へ還るまでのほんの一休みに過ぎない。雨が降るなら降れ、風が吹くなら吹け」という、過酷な修行の中で見出した悟りの境地を表したこの歌から、師の華叟宗曇(かそうそうどん)より「一休」の名を授けられました。 🔶腐敗した権力への反発と人間味あふれる風狂の姿 当時の仏教界は権力と結びつき、僧侶の位階(紫衣など)が金銭で買収されるなどの腐敗が進んでいました。一休禅師はこうした権威や虚飾を激しく嫌い、立派な衣を拒んでボロボロの黒い布衣(墨染の衣)を身にまとい、街に出て民衆の中に溶け込みながら仏法を説きました。応仁の乱の戦火によって荒廃した大徳寺の再興を天皇から命じられ、81歳の時に大徳寺第47世住持に就任して復興に尽力しました。しかし、権威の象徴である大徳寺に住み着くことはせず、郊外の酬恩庵からお寺へ通い続けました。1481年(文明13年)、88歳で生涯を閉じる際、臨終の言葉として「死にとうない」と口にしたと伝えられています。聖人ぶることなく、死の恐ろしささえ隠さないどこまでも率直で人間臭い姿は、虚飾を廃した真実の探求者そのものでした。🔶蓮如上人との深き交友と宗派を超えた歌の問答一休禅師は、浄土真宗中興の祖である第8代・蓮如(れんにょ)上人と非常に深い親交がありました。「分け登る 麓の道は 多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」という道歌に示されるように、禅宗と浄土真宗という宗派の形は異なっても、目指すべき仏法の真理(同じ月)を見つめ合う同志として互いを高く評価し合っていたのです。ある時、一休禅師は『仏説阿弥陀経』に説かれる「十万億土の彼方にあるお浄土」を引いて、次のような挑発的な歌を蓮如上人に送りました。「極楽は 十万億土と 説くならば 足腰立たぬ 婆は行けまじ」(極楽がそんな遥か彼方にあるのなら、足腰の弱ったおばあさんは辿り着けずに地獄へ落ちるしかないではないか) これに対し、蓮如上人は即座にこう応じました。「極楽は 十万億土と 説くなれど 近道すれば 南無のひと声」(どれほど遠くとも、『南無阿弥陀仏』とお念仏を称えれば阿弥陀さまが即座に救ってくださるのだから、すぐに行けるのだ) 互いに仏法の神髄を深く理解し合っていたからこそ成り立った、高潔でウィットに富んだやり取りです。🔶親鸞聖人への敬意と「襟巻のあたたかそうな黒坊主」 寛正2年(1461年)、本願寺で営まれた浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人の二百回忌法要にも一休禅師は参詣したと伝えられています。その際、黒漆で塗られた親鸞聖人の御木像(防寒用の首巻きをされたお姿)を拝した一休禅師は、次のような歌を詠みました。 「襟巻の あたたかそうな 黒坊主 こやつが法は 天下一なり」 「黒坊主」「こやつ」という一見ぶっきらぼうで破天荒な口調の中には、形式にとらわれず庶民にただ一人のお念仏の道を切り開いた親鸞聖人の教えに対する、絶大な敬意と賞賛(リスペクト)が込められています。外面の権威や虚飾を剥ぎ取り、人間の真実の姿と仏法の真理を求め続けた一休禅師の足跡は、現代を生きる私たちにとっても大きな感銘を与えてくれます。🔶今週のまとめ【1】とんちで有名な一休宗純禅師は室町時代に実在した臨済宗大徳寺派の僧であり、後小松天皇の落胤と伝えられ、その墓所は今も宮内庁によって管理されています。【2】「一休」の名は、「有漏路(煩悩の現世)より 無漏路(悟りの世界)へ帰る 一休み」という道歌に由来し、人生をあの世へ向かう束の間の「一休み」と捉える境地を示しています。 【3】名利や権力を嫌ってボロボロの衣で民衆の中に生き、応仁の乱で荒れた大徳寺の再興を果たしつつも、最後は「死にとうない」と率直な人間性を遺して88歳で入滅しました。【4】浄土真宗の蓮如上人とは宗派を超えた深い心の交流があり、「十万億土」をめぐる歌の問答など、互いの教えを理解し合った尊い逸話が残されています。【5】親鸞聖人の二百回忌法要では「襟巻のあたたかそうな黒坊主 こやつが法は天下一なり」と詠み、破天荒な表現の中に親鸞聖人のみ教えへの深い敬意と感銘を表しました。 次回テーマは「お彼岸(おひがん)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【お寺の消滅と現代社会】──無縁化・不活動法人問題と私たちが育むご縁
🔶納骨堂の破綻と闇で横行する「宗教法人売買」近年、NHKの『クローズアップ現代』をはじめとする報道において、納骨堂の経営破綻に伴う「遺骨の紛失・所在不明」や、インターネット等を介した「宗教法人の売買(譲渡)」という不条理な問題が大きく取り上げられ、社会的な注目を集めています。墓地や納骨堂の運営許可は、原則として「自治体」または「宗教法人」にのみ与えられます。この仕組みを悪用し、営利目的の不動産業者などが過疎化や少子高齢化によって無人化した「不活動宗教法人(休眠状態の寺院)」を買い取り、名義を利用して納骨堂ビジネスに参入するケースが後を絶ちません。こうした売買は法解釈の隙間を突いた脱法行為であり、事業が破綻して撤退した際、預けられていた大切な遺骨が行方不明になるなど、人間の尊厳を揺るがす重大な事態を引き起こしています。文化庁もこの問題を重く受け止め、注意喚起を行っています。🔶全国に広がる住職不在(無住)寺院と後継者不足この背景には、全国の地方や農村部で急速に進行する寺院の過疎化と後継者不足が存在します。全国に約7万7,000存在する寺院のうち、既に約1万7,000寺(全体の2割以上)が住職のいない「無住寺院(兼務寺院などを含む)」となっており、文化庁の調査でも5,019の不活動宗教法人が確認されています。この現実は浄土真宗においても他人事ではありません。浄土真宗本願寺派の調査によると、次期住職(後継者)が明確に決まっている寺院は全体のわずか44%にとどまり、半数以上の寺院で将来の継承が不透明な状況に置かれています。売買の標的となりやすいのは、特定の宗派に属さない「単立宗教法人」が中心ですが、宗派に所属する寺院であっても過疎化と後継者難という課題は共通して押し寄せています。🔶信頼関係に基づくお寺の運営と社会貢献お寺の維持や僧侶の生活は、そのお寺を長年支えてきたご門徒(檀家)の方々の真心の志と協力によって成り立っています。そのため、寺院運営において最も不可欠なのは、ご門徒とお寺・僧侶との間の強い「信頼関係」です。特に財務面での透明性を保ち、不信感を与えない健全な会計運営を行うことが求められます。また、単にお経をあげるだけでなく、地域でのボランティアや社会貢献活動に積極的に携わり、「地域社会や人々に寄り添い、共に生きる存在」としてお寺の価値と存在意義を証明し続けていくことが重要です。🔶お彼岸のお参りとお寺との繋がりお寺の消滅や納骨堂の問題は、決して僧侶や宗教界だけの問題ではなく、ご先祖の遺骨を預け、お参りを重ねてきた私たち一人ひとりの生き方に関わる切実な問題です。「うちのお寺は大丈夫だろうか」と遠くから心配するだけではなく、秋のお彼岸などの節目を機に、自らお寺へと足を運ぶことが一番の解決策となります。本堂にあがってお参りをし、住職とお寺の現状やこれからのあり方について言葉を交わすこと。その一人ひとりの「参拝」と「関わり」こそが、無縁化社会の中で尊いご縁を護り、お寺を未来へと受け継いでいく確かな歩みとなります。🔶今週のまとめ【1】都会の納骨堂の経営破綻による遺骨紛失や、インターネットを通じた「宗教法人売買」という脱法行為が問題視されており、文化庁も注意を呼びかけています。【2】全国約7万7,000寺のうち約1万7,000寺(2割以上)が住職不在であり、不活動宗教法人が5,019存在するなど、地方の過疎化と後継者難が深刻化しています。【3】浄土真宗本願寺派でも次期住職が決まっている寺院は44%にとどまり、特定の宗派に属さない「単立宗教法人」だけでなく、すべての寺院にとって後継者育成が緊急の課題です。【4】お寺の存続には、ご門徒との確かな信頼関係、透明性のある会計運営、そして地域社会に根ざした社会貢献活動への取り組みが欠かせません。【5】お寺の消滅を防ぎ大切な遺骨やご縁を守るためには、お彼岸などの機会にお寺へ足を運び、参拝と対話を通じて関わりを深く保つことが大切です。次回テーマは「一休さんのお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教と鬼】──恐れの対象から自らの姿を照らす鏡へ
🔶鬼のルーツとインド・中国から日本への変遷現代で「鬼」というと、人を襲う化け物や、地獄で亡者を痛めつける恐ろしい存在をイメージする人が多いかもしれません。しかし、古代インドの初期仏教における地獄(サンスクリット語で「ニラヤ」)には、もともと「鬼」という概念はありませんでした。地獄・餓鬼・畜生の「三悪道(さんあくどう)」において、地獄で亡者を懲らしめる役目は「獄卒(ごくそつ)」と呼ばれていました。これが中国に伝わった際、漢訳によって「獄卒鬼」や「鬼」と表現されるようになります。また、鬼が「虎の皮のパンツ」を履いて角を生やしているイメージは、ヒンドゥー教のシヴァ神(退治した虎の皮を腰に巻く姿)やヤクシャ(夜叉)などのイメージが混ざり合ったものです。さらに中国では死者の霊を「鬼(キ)」と呼び、人が亡くなることを「鬼籍(きせき)に入る」と表現する文化も生まれました。日本に伝わると、目に見えない疫病や災厄(おに=隠・おん)が恐ろしい容貌として可視化され、今日の鬼のイメージが定着していったのです。🔶親鸞聖人が説く鬼神への恐れからの解放浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中で、「鬼」や「鬼神(きじん)」という言葉を用いておられます。当時の人々は、目に見えない病気や災難を鬼や邪神の祟り(たたり)として深く恐れ、それらを鎮めるための祈祷や迷信に捉われていました。それに対し親鸞聖人は、「そうした目に見えないものや鬼神を恐れて祀ったり、おもねったり(鬼神仕え)する必要は全くない」と強く示されました。阿弥陀さまの「絶対にあなたを救う」という大いなる本願を信じ、お念仏を称えて生きる者は、どのような鬼神や災厄からも護られているから大丈夫であると解き放たれたのです。外なる恐怖に脅かされていた当時の人々にとって、この教えは心の底から救いとなるものでした。🔶妙好人・浅原才市にみる「わが心の中の鬼」浄土真宗でお念仏の喜びの中に生きた人々を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びますが、石見国(現在の島根県大田市温泉津町)の妙好人・浅原才市(あさはら さいち)さんにまつわる味わい深いエピソードがあります。ある時、画家が才市さんの肖像画を描いて見せたところ、とてもよく似ていたのにもかかわらず、才市さんは「これはわしじゃない」と怒り出しました。そして「わしは鬼じゃ。頭に角を二本書いてくれ」と画家に頼み込んだのです。画家が言われた通り頭に角を描き加えると、才市さんは「これこそ真実のわしの姿じゃ」と大変喜び、深く感謝したといいます。これは「私の中には、他人を羨み、妬み、腹を立てる自尊心や煩悩(鬼)が渦巻いている」という、自らの醜い姿を鋭く見つめた言葉でした。才市さんは、自らの内に棲む鬼の姿(煩悩具足の凡夫)を自覚したからこそ、そんな浅ましい自分をも決して見捨てずに包み込んでくださる阿弥陀さまの慈悲のありがたさを誰よりも深くかみしめていたのです。🔶外の鬼を恐れるのではなく内なる鬼を見つめる近年、漫画作品などの影響もあり「鬼」という存在への関心が高まっていますが、仏教の視点は「外にいる恐ろしい鬼を退治する」のではなく、「自分自身の心の中に潜む鬼を見つめ直す」ことに向けられています。怒り、嫉妬、貪りといった煩悩に振り回され、ともすれば他者を傷つけてしまう私たちの心こそが「鬼」そのものです。「鬼は外、福は内」と外に退散させるのではなく、実は「鬼は内」にこそ存在するという現実を受け止めること。そして、そんな鬼のような私をそのまま救い取ってくださる阿弥陀さまのみ教えに出会い、自らを照らす鏡として「心の中の鬼」を見つめていく姿勢こそが、現代に生きる私たちに求められている大切な歩みなのです。🔶今週のまとめ【1】現代の鬼のイメージは、インド仏教の「獄卒」やヒンドゥー教のシヴァ神の姿、中国の死者霊信仰、日本の「隠(おん・災厄)」の思想が合流して形成されました。【2】中国で死者の霊を「鬼」と呼んだ文化は、現代日本でも人が亡くなることを意味する「鬼籍に入る」という言葉として残されています。【3】親鸞聖人は『教行信証』において、祟りや鬼神を恐れて祈祷に頼る「鬼神仕え」を否定し、お念仏の者は阿弥陀さまの慈悲によって常に護られていると説かれました。【4】島根の妙好人・浅原才市さんは、自らの肖像画に「角」を描かせ、「自分の中に潜む怒りや妬みの心こそが鬼である」と、自らの凡夫の姿と仏さまの救いを表されました。【5】仏教における鬼とは、外にいる攻撃対象ではなく自分自身の心の中にある煩悩(怒りや嫉妬)であり、その姿を直視することでお念仏のみ教えのありがたさを深める鏡となります。次回テーマは「お寺の消滅と現代社会」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【築地本願寺】──江戸の歴史と現代に開かれた新たな挑戦
🔶築地本願寺の歴史と「築地」の地名の由来東京都内には約2,800の寺院が存在しますが、浄土真宗本願寺派は338か寺にとどまります(熊本県の464か寺よりも少ない数です)。その中で中心的な拠点となっているのが、豊かな歴史とユニークな特徴を持つ「築地本願寺(つきじほんがんじ)」です。築地本願寺は江戸時代初期の元和3年(1617年)、浅草近くの横山町に「江戸浅草御坊」として建立されたのが始まりです。しかし、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」によってお堂を焼失。再建にあたり江戸幕府から与えられた土地は、当時八丁堀沖の海上でした。そこで海を埋め立てて地盤を築き、本堂を建てたことから「築地(ついち・つきじ)」という地名が誕生したといわれています。その後、1923年(大正12年)の関東大震災に伴う火災で再び本堂を焼失しますが、1934年(昭和9年)に再建され、現在の壮麗な姿となりました。🔶伊東忠太博士によるシルクロードとインド様式の建築美現在の築地本願寺の建築デザインを手掛けたのは、東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授で建築家の伊東忠太(いとう ちゅうた)博士です。建築研究のためにアジア各国を旅した伊東博士と、シルクロード探検(大谷探検隊)で知られる西本願寺第22鏡如(きょうにょ)上人・大谷光瑞(おおたに こうずい)門主との深い親交がきっかけとなり、この唯一無二の建物が作られました。古代インドをはじめとするアジアの仏教建築を模したオリエンタルな外観は、一般的な日本の伝統的寺院とは一線を画し、石造りでステンドグラスや動物の彫刻が施されたエキゾチックな雰囲気を醸し出しています。また、本堂内部は正座を必要としない全席「椅子席」となっており、後方には2,566本のパイプで構成された本格的なパイプオルガンが設置され、コンサートなども開催されています。🔶終活サポートから結婚相談所まで──お寺の敷居を下げる試み築地本願寺では、現代社会における「お寺の敷居の高さ」を解消するため、革新的な取り組みが次々と行われています。その一環として、人生の終末期やエンディングノート作成に寄り添う「終活サポート」をはじめ、なんと境内に「結婚相談所」を開設・運営しています。これは僧侶やご門徒に限らず広く一般の方々も利用可能であり、成婚後はお浄土の阿弥陀さまへ報告・参拝する温かい試みとして親しまれています。🔶「第十八願」にちなんだ18品の朝ごはんと地域交流境内に併設されている人気の「築地本願寺カフェ Tsumugi(ツムギ)」では、浄土真宗で最も根幹となる「阿弥陀如来の第十八願(すべての生きとし生けるものを救うというお誓い)」になぞらえた「18品の朝ごはん」が提供されています。お粥やお味噌汁とともに18個の小鉢が並ぶ豪華な朝食セットは、お肉や魚介も取り入れたバラエティ豊かなメニューで、観光客や周辺住民の間で大好評を博しています。銀座からも近い立地を活かし、東京の7月のお盆に合わせた大賑わいの盆踊り大会や、仏教以外のさまざまな分野の研究者を招いた勉強会など、多角的な交流の場を創出しています。「時代やニーズに合わせて変化し、人々に寄り添う」築地本願寺の先進的な姿勢は、全国の寺院や地方のお坊さんたちにとっても大きな学びと刺激を与え続けています。🔶今週のまとめ【1】築地本願寺は1617年に浅草近くで創建され、1657年の明暦の大火後に海を埋め立てて土地を「築いた」ことが「築地」という地名の由来となっています。【2】1934年に再建された本堂は建築家・伊東忠太博士と大谷光瑞門主の交流から生まれ、古代インド様式の外観やステンドグラス、パイプオルガンや全席椅子席を備えたエキゾチックな建築です。【3】「お寺の敷居を下げる」取り組みとして、人生の終末期を支える「終活サポート」や、一般の人々も利用できる「結婚相談所」などの先進的な事業を展開しています。【4】境内のカフェでは、阿弥陀如来の「第十八願」にちなんだ「18品の朝ごはん」が話題を呼んでおり、食を通じても教えや存在に親しんでもらう工夫が施されています。【5】東京の7月盆に合わせた盆踊りや各種勉強会など、時代の変化に対応しながら人々とみ教えを繋ぐ築地本願寺の挑戦は、現代のお寺のあり方の模範となっています。次回テーマは「仏教と鬼」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【地域の繋がり】──無縁化社会におけるお寺の役割と「寄り添い」
🔶無縁化社会の現状と「地縁・血縁」の喪失現代社会では、「無縁化」という深刻な問題が進行しています。マンションやアパートで隣に誰が住んでいるかわからない状況が当たり前となり、日本全体で一人暮らしの割合は約34.6%に上り、65歳以上の高齢者においては5人に1人が単独世帯となっています。さらに2040年には全体の約4割が一人暮らしになるとも予測されています。かつての日本社会を支えていた「家」や「家族」といった地縁・血縁の繋がりが失われ、各個人が孤立して苦しみを抱え込むことで、孤独死や様々な犯罪リスクなどの社会問題が浮き彫りになっています。🔶宗教者の役割と「ネガティブ・ケイパビリティ」こうした無縁化社会の中で、お寺や宗教者の役割が改めて問われています。お坊さんは医師のように医療行為を行ったり、物質的な支援をしたりすることはできません。しかし、「教えを説くこと」、そして「ただ話を聴くこと」が大きな役割となります。心理学や文学の世界には「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」という言葉があります。これは「答えが出ない、どうしようもない事態に耐える能力」のことです。「なぜ私がこんな病気になったのか」「なぜ大切な人を亡くさなければならなかったのか」といった、科学や医療では答えを出せない不条理な問いに対して、すぐに解決策を提示するのではなく、その悲しみに共に留まり、共感し、寄り添い続けることこそが宗教者の使命なのです。🔶AIにはできない「生身の人間」による傾聴現代の若い世代は、悩み事や相談事をAI(人工知能)に投げかけることが増えています。確かにAIは、膨大なデータから論理的で適切な回答(レスポンス)を瞬時に返してくれるかもしれません。しかし、AIは人間ではありません。生身の人間が同じ空間に座り、声のトーンや表情を感じ取りながら、答えの出ない苦しみにただじっと耳を傾ける「傾聴(けいちょう)」の時間は、決してAIには代替できない温もりを持っています。身近に「自分の話を聴いてくれる人がいる」と知っておくこと自体が、人々の心を軽くする大切な拠り所となります。🔶再評価される月忌参りとお寺のコミュニティお寺が古くから行ってきた伝統的な活動は、現代において「ご縁づくり」の場として再評価されるべき意味を持っています。一つは「月忌参り(がっきまいり)」です。これは毎月の命日にお坊さんが各家庭を訪問してお経をあげる習慣ですが、遠方に住む家族に代わって月に一度安否を確認し、対話をするという見守りの役割も果たしています。もう一つは「お寺という場所のコミュニティ機能」です。月に一度の「ご法座(ごほうざ)」をはじめ、仏教婦人会や子ども会など、人々が集い語り合う場としてのお寺の存在意義は、地域社会の繋がりが希薄化した今だからこそ一層重要になっています。昔のようにお寺の軒先で気軽にお坊さんと話ができるような、敷居の低い開かれた場所であり続けることが求められています。🔶今週のまとめ【1】現代は地縁・血縁が希薄化した「無縁化社会」であり、一人暮らしの増加による孤独死などが深刻な社会問題となっています。【2】宗教者の役割は、医療行為や物質的支援ではなく、人々の悲しみに寄り添い、教えを伝えながらただ話を聴くことにあります。【3】「なぜ私が」という科学で解決できない問いに対し、答えを急がずに共に留まり続ける「ネガティブ・ケイパビリティ」が宗教者には求められます。【4】悩み事をAIに相談する時代にあっても、生身のお坊さんによる「傾聴」は人々の心を軽くする代替不可能な心の拠り所となります。【5】お坊さんが毎月訪問する「月忌参り」や、人々が集う「ご法座」などのお寺の伝統的なコミュニティ機能が、現代の孤立を防ぐご縁づくりの場として再評価されています。次回テーマは「築地本願寺のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【いのちのご縁】──因幡の源左に学ぶお盆と阿弥陀さまの慈悲
🔶因幡の妙好人・足利源左と父親の遺言お盆を迎えるにあたり、浄土真宗で教えを喜び生き抜いた人物「妙好人(みょうこうにん)」として知られる「因幡の源左(いなば の げんざ)」こと、足利源左(あしかが げんざ)さんの生涯とその教えをご紹介します。源左さんは天保13年(1842年)、因幡国(現在の鳥取県)にて農家を営む父・善輔さんと母・おちよさんの子として生まれました。安政6年(1859年)、全国的にコレラが大流行した際、18歳だった源左さんは父・善輔さんを40歳の若さで亡くします。激しい苦しみの中、父は最後の力を振り絞り、「おらが死んだら親様を頼め」と言い残して息を引き取りました。「親様(おやさま)」とは阿弥陀さまのことです。父を失った源左さんは、若くして一家の働き手として厳しい農業と家族の生活を支えることになりました。🔶荷を預ける牛の姿に開けた「阿弥陀さまの救い」父の遺言である「親様を頼むとはどういうことか」という根源的な悩みを抱えた源左さんは、10年以上にわたり各地のお寺や高僧を訪ねて教えを請いましたが、心の霧が晴れることはありませんでした。30歳を過ぎたある早朝、源左さんはいつものように牛を引き連れて草刈りに出かけました。刈り取った草の束のほとんどを牛の背に載せましたが、「すべて背負わせては牛がかわいそうだ」と、1束だけ自ら背負って帰り道を歩んでいました。その途中、激しい腹痛に襲われて動けなくなってしまいます。限界を感じた源左さんが自ら背負っていた最後の草束も牛の背に預けた瞬間、不思議なことに腹痛がすっと治まりました。その時、源左さんの心はパッと開かれました。「自らの力で命の問題や死の不安という重荷を背負う必要はない。『その重荷のすべてをわたしが引き受けるぞ』と常に呼びかけてくださる阿弥陀さまがおられるのだ」と悟ったのです。自らの力に頼るのをやめ、すべてを牛(阿弥陀さま)に任せた時、父の遺言の真意が開かれました。以来、源左さんは生涯を通じてお念仏の歓喜に包まれた人生を歩まれました。🔶追善供養ではなく「私が仏法に出会う」お盆の本質お盆は、亡くなった方々の魂を呼び戻して慰める「追善供養」のための行事と思われがちです。しかし浄土真宗においては、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによってすでに仏となられ、いま生きている私たちのすぐそばに寄り添ってくださっていると受け止めます。したがって、霊魂を遠くから運んでくるといった行事や風習を必要としません。お盆の本質とは、亡き方の命のご縁を通して、「いま生きているこの私」が自らの命のあり様を見つめ直し、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくことにあります。源左さんが父の死という苦難のご縁から阿弥陀さまの慈悲に出出会われたように、お盆とは生きている私たちが教えに導かれるための尊い機会なのです。🔶お墓参りの心得と熱中症への配慮お墓参りもまた、故人に何かを買い与えたり善根を施したりする場ではなく、先祖や亡き親しい方々のご縁によって私自身が命の尊さに気づかされ、み教えに導かれる場です。ご家族やご親戚が集い、故人の思い出を語り合いながら自分自身の生を見つめ直す時間は、かけがえのない人生の糧となります。なお、夏の時期にお墓参りへ出かけられる際は、熱中症への十分な注意が必要です。墓石や石畳は強烈な太陽光線によって熱を蓄え、周囲の放射熱が非常に高くなります。日陰も少ないため、日中の厳しい暑い時間帯を避け、早朝や夕方の涼しい時間帯にお参りされることをお勧めします。水分や塩分の補給を欠かさず、ご自身の身体と命を大切にお守りいただきながら、心穏やかにお参りください。🔶今週のまとめ【1】鳥取の妙好人・足利源左さんは、18歳の時にコレラで父を亡くし、「おらが死んだら親様(阿弥陀さま)を頼め」という遺言を胸に生きていかれました。【2】自ら背負っていた草束を牛の背に預けて腹痛が治まった経験から、「命の問題や苦難のすべてを引き受けてくださる阿弥陀さま」のお心に気づき、お念仏を喜ぶ生涯を送られました。【3】浄土真宗におけるお盆は、亡き人の供養(追善供養)のためではなく、亡き人の命のご縁を通して「いま生きている私」が阿弥陀さまの救いに出会うための場です。【4】お墓参りも同様に、先祖や故人をきっかけとして自分の命のあり様を見つめ直し、いま生かされている感謝と教えを受け止める大切な機会です。【5】夏場のお墓参りでは墓石の放射熱や日照りに注意し、早朝や夕方の涼しい時間帯を選び、水分補給等の熱中症対策を徹底することが身を守る配慮となります。次回テーマは「地域の繋がり」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【戦争と平和】──真の平和を問い直す教えと「怨親平等」の智慧
🔶原爆投下の日と戦時下のお寺が背負った歴史8月6日の広島、8月9日の長崎への原子爆弾投下、そして8月15日の終戦の日を迎えるにあたり、戦争と平和について改めて深く見つめ直します。第二次世界大戦において、日本全体で約310万人もの尊い命が失われました。当時、全国のお寺も「金属回収令(金属類回収令)」によって梵鐘(ぼんしょう)や仏具の拠出を強要されました。浄土真宗本願寺派においても、梵鐘があったお寺のおよそ9割が供出に応じ、その多くは二度と戻ってくることはありませんでした。さらに、教団自体が当時の国家体制の中で戦争に協力・加担してしまったという重い反省の歴史があります。過去のあやまちを深く省み、二度と惨禍を繰り返さないために平和を求め続けることこそ、現代のお寺や仏教徒に課せられた大切な責務です。🔶ガルトゥング博士が説く「三つの暴力」と積極的平和現代社会における「平和」について考える際、平和学の父と呼ばれるノルウェーの学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)博士(2024年没)の提唱した概念が大きな示唆を与えてくれます。博士は、単に国と国との戦争(直接的暴力)がない状態を「消極的平和」と呼び、それだけでは十分ではないと指摘しました。ガルトゥング博士は、社会の暴力性を以下の三つに分類しています。直接的暴力:戦争やテロ、暴行など、心身に直接危害を加える行為。構造的暴力:社会の仕組みや貧困、差別により、本来助かるはずの命が失われたり人権が侵害されたりする状態。文化的暴力:宗教や思想、伝統、道徳などが、直接的暴力や構造的暴力を正当化・合理化してしまうこと。戦争が終結していても、不当な差別や激しい貧困、不平等が放置されているならば、それは真の平和とは言えません。これら「三つの暴力」を取り除き、環境問題の克服や人権の尊重、飢餓の解消といった「人間の安全保障」が満たされた状態を「積極的平和」と呼びます。こうした意識が社会の当たり前(伝統・慣習)として根付いた状態こそが、私たちが目指すべき「平和文化」なのです。🔶『ダンマパダ』の言葉と「怨親平等」の心完璧な平和文化の構築は一見すると遠い道のりに思えますが、2500年前に説かれたお釈迦さまの言葉の中に、その根本となる智慧が見出されます。最古の仏典の一つである『ダンマパダ(法句経)』において、お釈迦さまは次のように語られています。「実にこの世においては、怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。」仏教には「怨親平等(おんしんびょうどう)」という教えがあります。これは、自らに害を加える「怨敵(おんてき)」であっても、自らに親しい「親しい者」であっても、そこに境界線を引かず、等しく慈悲の心で向き合う姿勢を指します。「やられたらやり返す」「恨みには恨みで報いる」という連鎖の中にいる限り、争いや戦争が止むことは絶対にありません。ガルトゥング博士が目指した平和の究極も、まさに相手を恨まず、報復の連鎖を自ら断ち切るこの精神に通じています。相手を憎む心を離れ、他者への深い理解と慈悲を持つことこそが、真の平和へと踏み出す第一歩となるのです。🔶今週のまとめ【1】8月6日・9日の原爆投下や終戦の日を前に、戦時中の「金属回収令」による梵鐘の供出や、戦争に加担してしまった教団の反省を振り返り、平和への思いを新たにします。【2】平和学の父ヨハン・ガルトゥング博士は、単に戦争がない状態(消極的平和)だけでなく、社会構造や文化に潜む暴力までを取り除いた「積極的平和」の重要性を提唱しました。【3】貧困や医療格差といった「構造的暴力」や、それを正当化する「文化的暴力」を無くし、人間の安全保障や人権が守られる「平和文化」を築くことが求められています。【4】お釈迦さまは『ダンマパダ(法句経)』において「怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない」と説き、報復の連鎖を断つ永遠の真理を示されました。【5】敵味方の隔てを越えて等しく向き合う「怨親平等」の精神こそが、争いが絶えない現代社会において真の平和を実現するための揺るぎない礎となります。次回テーマは「いのちのご縁(お盆のお話)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史
🔶ハワイ移民の歴史と「元年者」から「官約移民」へハワイにおける仏教の歴史は、アメリカに併合される以前のハワイ王国時代、サトウキビ農園の労働力として渡った日本人移民の歴史と深く重なっています。19世紀半ば以降、ハワイにはサトウキビ農園の労働力として、中国、日本、ポルトガル、プエルトリコなど、世界各地から多くの移民が渡るようになりました。1868年(明治元年)、約150人の日本人労働者がハワイへ渡りました。日本からハワイへの最初の組織的な集団移住とされ、明治元年に渡航したことから、彼らは「元年者(がんねんもの)」と呼ばれています。その後、日本とハワイ王国両政府の取り決めに基づき、1885年(明治18年)から政府公認の「官約移民」が始まりました。1886年(明治19年)には、日本人移民の待遇や保護などを定めた日布渡航条約が正式に締結されました。出稼ぎを目的とした移民には、広島、山口、熊本など、西日本の農村出身者が多く含まれていました。さらに1900年以降は、沖縄からも多くの人々がハワイへ移住しました。20世紀初頭には、日本人はハワイのサトウキビ農園労働者の中で、最大規模の集団となりました。🔶開教使の派遣とハワイ本願寺の誕生過酷な労働環境に置かれた移民たちの心のよりどころとして、1889年(明治22年)、浄土真宗本願寺派の僧侶・曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡り、日本人移民を訪ねて布教巡回を行いました。1897年(明治30年)には、西本願寺から里見法爾(さとみ・ほうに)師が開教監督として、今村恵猛(いまむら・えみょう)師が開教使として正式に派遣されました。1899年(明治32年)には、本願寺派としてハワイ最初の本堂となるハワイ本願寺が完成しました。これが、後の本派本願寺ハワイ別院へと発展していきます。当初、移民たちは日々の生活に追われ、仏教の教えに耳を傾ける余裕を持てないことも少なくありませんでした。その後、低賃金や厳しい労働環境を背景に労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通して、農園主側からも本願寺への理解が得られるようになり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。本願寺派の公式資料によると、現在、ハワイには32の寺院があります。また、幼児教育から中学校段階までのホンワンジ・ミッション・スクールと、2003年に開校した仏教系高校パシフィック・ブディスト・アカデミーが運営されています。パシフィック・ブディスト・アカデミーは、西洋諸国で初の仏教系高等学校とされています。🔶太平洋戦争の試練と日系社会のアイデンティティ1941年、真珠湾攻撃を契機に日本とアメリカの戦争が始まると、日本人・日系人社会の指導者と見なされた開教使や僧侶の多くが拘束され、アメリカ本土の抑留所へ送られました。ハワイでは、アメリカ本土西海岸のように日系人住民全体が一律に強制収容されたわけではありません。しかし、僧侶、日本語学校の教師、新聞関係者、地域の指導者などが拘束され、残された人々も厳しい監視や差別の中で生活しました。戦後、お寺の活動は再開され、「サンデースクール」と呼ばれる日曜学校や、ボーイスカウト、野球、バスケットボールのクラブチーム、太鼓グループなどの活動を通じて、日系人コミュニティと地域社会を支える文化的な拠点となっていきました。ハワイのお寺では、夏の「盆ダンス(Bon Dance)」やバザーなどの行事が今も盛んに行われています。寺院によっては、バザーで照り焼きチキンなどの料理を販売し、その収益を寺院の維持や地域活動に役立てています。日本の寺院とはまた異なる、地域に開かれた組織的な運営が行われているのです。戦時中、僧侶や日系社会の指導者の一部が抑留され、残された人々も大きな不安や差別の中で暮らしました。それでも、お寺を中心とした集いと盆踊りなどの文化を守り続けた歴史は、異国の地で生きる人々が、自らのルーツとアイデンティティを保つための大切な心の支えとなりました。🔶マウイ島大火災とラハイナ本願寺への支援2023年8月8日、アメリカ・ハワイ州マウイ島で大規模な山火事が発生し、歴史ある港町ラハイナは壊滅的な被害を受けました。この火災によって、ラハイナ本願寺では、本堂、学校建物、事務所、社会活動用ホール、台所、開教使住宅などが焼失しました。開教使や現地の門信徒、地域の人々も避難を余儀なくされました。復興には長い時間を要しており、現在も息の長い支援が続けられています。同じお念仏の教えに結ばれた仲間として、日本からもハワイへ温かな支援の手を差し伸べ続けることが求められています。現在では、日本にルーツを持たない現地出身の僧侶も数多く誕生しています。また、本願寺派の開教活動は、ハワイだけでなく、アメリカ本土の西海岸を中心とする日系社会にも広がっていきました。言葉や国籍、文化が異なっても、お念仏のみ教えを中心に結ばれた人々のつながりは、グローバル社会における共生の姿を、私たちに示してくれています。🔶今週のまとめ【1】ハワイの仏教は、1868年に渡った「元年者」や、1885年から始まった官約移民など、サトウキビ農園で働いた日本人移民の歴史と深く結びついて発展しました。移民には広島、山口、熊本など西日本の出身者が多く、1900年以降は沖縄からも多くの人々が渡りました。【2】1889年、曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡って布教巡回を行いました。1897年には本願寺から正式な開教監督と開教使が派遣され、1899年にはハワイ本願寺の本堂が完成しました。これが後の本派本願寺ハワイ別院へと発展しました。【3】労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通じて本願寺への理解が広がり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。【4】真珠湾攻撃後には、開教使や日系社会の指導者の一部が拘束・抑留されました。戦後、寺院は活動を再開し、日曜学校、ボーイスカウト、スポーツ、太鼓、盆ダンスなどを通して、日系社会と地域社会を支える拠点となりました。【5】2023年8月のマウイ島山火事では、ラハイナ本願寺の本堂やホール、開教使住宅などが焼失しました。復興には長い時間を要しており、ハワイと日本の門信徒や関係者による継続的な支援が行われています。次回のテーマは「戦争と平和」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え
🔶二十四節気「大暑」と土用の丑の日の由来一年の中で最も暑さが厳しくなる二十四節気の「大暑(たいしょ)」を迎え、厳しい酷暑が続いています。この時期の風物詩といえば「土用の丑の日」の鰻(うなぎ)ですが、夏場に鰻を食べる風習は江戸時代、夏場に売上が落ちて困っていた鰻屋から相談を受けた蘭学者の平賀源内が、「本日 土用丑の日」という貼り紙を店先に掲げさせたところ大繁盛したことが始まりとされています。こうした猛暑の中、仏嚴寺の前住職である祖父・高千穂将史(まさふみ)が昭和60年(1985年)頃に遺したコラム「心に涼風を」に触れながら、現代を生きる私たちの命のあり方について見つめ直します。🔶松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」の二つの味わいかつてお寺で配布していたコラムには、境内で激しく鳴く蝉(セミ)と、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」を通じた二つの深い味わいが記されていました。一つ目は「わずか1週間の儚い命であることも知らず、のんきに浮かれてただワシワシと鳴いていることよ」という自省の味わいです。将史元住職は「自分も時折、『お前さん、もう長い命ではないのだよ。何を呆けて暮らしているのか』と自分自身に問いかけている」と述べています。二つ目は「やがて死にゆく運命であることを知りながらも、蝉は今の今を力の限り命を歌い上げていることよ」という感銘の味わいです。儚い命だからこそ、投げやりになるのではなく「今日の1日を精一杯生きねばならない」という教えを、蝉の声が私たちに届けてくれています。🔶時代が変わっても変わらない「命の無常」昭和60年当時、境内に蝉取りに来る子どもたちの姿が減り、室内遊びや塾へと環境が変化していった様子がコラムに綴られていました。現代ではさらに環境が変わり、気温が35度を超える猛暑日には蝉すら鳴かなくなるような酷暑の時代を迎えています。しかし、2500年前のお釈迦さまの時代から、昭和、そして現代に至るまで、科学技術が発達し平均寿命が延びたとしても、決して変わらない事実があります。それは「人間は必ず命を終えていく(無常)」という命のあり様です。どれほど時代や環境が移り変わろうとも、私たちは限られた時間の中で生かされているという根本的な真理は変わりません。🔶お寺という「心のオアシス」と地域のハブかつてのお寺は、境内が子どもたちの格好の遊び場であり、地域の人々が自然と集うコミュニティの拠点(ハブ)でした。江戸時代には、お寺の軒先でお坊さんとお侍さんが酒を酌み交わして語り合うような、極めて身近で開かれた空間でした。「お寺は敷居が高い」と感じられがちな現代ですが、決してそんなことはありません。都市の喧騒や猛暑の中でふと立ち寄り、冷たいお茶を飲みながら心を静め、句やみ教えに触れて「心の涼風」を感じていただくような、地域のオアシスとして気軽にお参りしていただくことが本来のお寺の姿です。🔶今週のまとめ【1】二十四節気の「大暑」や「土用の丑の日」など夏の節目を迎える中、前住職のコラムを通じて「心に涼風」を届ける命の対話が展開されました。【2】松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」には、自らの無常を忘れて呆けて生きる自己への戒めと、有限の命を精一杯生き抜く姿という二つの味わいがあります。【3】昭和60年頃と現代では子どもたちの過ごし方や気候環境が変化しましたが、「人は必ず命を終えていく」という仏教の説く無常の理(ことわり)は変わりません。【4】昔のお寺は子どもたちの遊び場や地域の交流拠点であり、現代においても敷居が高い場所ではなく、誰でも気軽に心を調えられる空間です。【5】慌ただしい日々の中で一息つき、自分自身の命の限界と向き合いながら「今日の1日を精一杯生きる」ことの大切さを学ぶことが、心に確かな涼風をもたらします。次回テーマは「仏教とハワイ」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁
🔶盂蘭盆会の由来と目連尊者の物語お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、その語源は古代インドのサンスクリット語である「ウランバーナー(ullambana)」に由来します。これには「逆さ吊りの苦しみ」という意味があります。その由来は『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』というお経に説かれています。お釈迦さまの弟子で、優れた神通力を持つことから「神通第一(じんづうだいいち)」と称された目連尊者(もくれんそんじゃ)が、あるとき「亡くなった母は今どこでどうしているだろうか」と自らの神通力で霊界を見渡しました。すると、母親は貪りの罪によって餓鬼道(がきどう)という苦しみの世界に落ちており、まさに逆さ吊りのような凄惨な苦しみを受けていたのです。悲しんだ目連尊者が「どうすれば母を救えますか」とお釈迦さまに乞うたところ、「夏の厳しい修行(安居)が終わる 7月15日に、多くの修行僧たちに食べ物や飲み物をお供えして深く供養しなさい。その功徳によって母親は救われるであろう」と教えられました。目連尊者がその通りにお勤めをすると、母親は無事に餓鬼道の苦しみから解き放たれたといいます。これが、私たちが今日営んでいるお盆の始まりです。🔶日本のお盆の歴史と浄土真宗の受け止め方日本におけるお盆の歴史は非常に古く、『日本書紀』には推古天皇14年(606年)にお盆の行事を行ったという記述が残されています。今からおよそ1400年以上も昔から、日本では亡き人を偲び、命のつながりを確かめる大切な行事として全国へ広がっていきました。なお、一般的にはお盆の飾り付けとして「きゅうりの馬」や「ナスの牛」(精霊馬・精霊牛)を用意する風習がありますが、浄土真宗においてはこれらを用いません。これらは日本古来の民間信仰や民俗風習が仏教行事と結びついて生まれたものです。浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによって即座にお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるため、迷って現世に戻ってくることもなければ、移動のための乗り物を必要とすることもない、という教えの真髄に基づいているためです。🔶「7月盆」と「8月盆」──明治の改暦に隠された財政事情現在、日本には7月にお盆を行う地域(新暦盆)と、8月に行う地域(月遅れ盆・旧盆)が混在していますが、これには明治時代の「改暦」という近代化政策が大きく関係しています。もともとお盆は旧暦の7月15日に行われていましたが、明治5年、明治政府は西洋諸国と暦を合わせるために太陽暦(新暦)の導入を発表しました。これにより、明治5年12月2日の翌日が一気に「明治6年1月1日」となったのです。月の満ち欠けを基準とする旧暦(太陰太陽暦)は1年が約354日であるため、数年に一度「閏月(うるうづき)」が入って1年が13ヶ月になる年がありました。実は、当時の明治政府は極めて深刻な財政難に陥っていました。旧暦のままだと翌年に13ヶ月目が訪れ、官吏や軍人への給料を1ヶ月分多く支払わなければならなくなります。それを避けるために急遽新暦を導入し、1ヶ月分の支給を免れるという財政対策の側面がこの改暦には隠されていたのです。新暦への突然の移行により、本来の7月15日にお盆をしようとすると、農村部では最も忙しい農繁期と重なってしまい、お盆どころではなくなってしまいました。また、昔の農家にとってお盆は、普段なかなか口にできない大切な白米をいただくお祭りのような意味合いもありました。そこで、生活や農業のサイクルに配慮し、1ヶ月季節を遅らせて平穏にお勤めできるようにしたのが、現在の「8月盆(月遅れ盆)」の始まりです。🔶アメリカ日系社会へ渡った盆踊りとアイデンティティお盆の象徴である「盆踊り」は、本来は一遍(いっぺん)上人などが広めた「踊り念仏(おどりねんぶつ)」という別の宗派の文化に由来するため、日本の浄土真宗においては歴史的にあまり馴染みのないものでした。しかし興味深いことに、太平洋を渡ったアメリカやハワイの日系社会において、この盆踊り(Bon Dance)を文化として定着させ、広く発展させたのは浄土真宗の開拓伝道使たちでした。異国の地へ移住した日系移民の方々にとって、現地の開拓寺院(お寺)はみ教えを聞く場であると同時に、同じルーツを持つ仲間たちが集うかけがえのないコミュニティの拠点でした。ハワイやアメリカ西海岸のお寺では、お盆の時期になると盛大なバザーが開かれ、お寺の裏に据えられた巨大な石窯やグリルで「テリヤキチキン」を豪快に焼いて売り出し、みんなで盆踊りを踊って遠い日本の故郷に想いを馳せました。さらに、第二次世界大戦中に日系人の方々が強制収容所へと隔離された際にも、彼らは収容所の中で欠かさず盆踊りを催していました。過酷な逆境にあっても、自分たちのアイデンティティと文化を守り抜き、お念仏のみ教えを心の拠り所として生き抜くために、お盆と盆踊りは彼らにとって絶対に必要な魂の灯火だったのです。国籍や言語が変わっても、お念仏を喜び、ご縁を大切にする心は世界中で力強く息づいています。🔶命のご縁を喜び、本堂へお参りするお盆時代や場所が変わっても、お盆の本質は変わりません。それは、先にお浄土へ還られた大切な方々の命を尊い「ご縁」として、いま生きているこの私が、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくということです。お盆の時期にお墓参りへ行かれる際は、お墓の前だけでお参りを済ませるのではないでなく、ぜひお寺の本堂へも足を運び、阿弥陀さまの前でお参りください。故人が遺してくれた尊い結びつきに感謝しながら、本堂の清らかな空間で共にお念仏を称え、いつでも私を見捨てることなく包み込んでくださる阿弥陀さまの大いなる慈悲のぬくもりに、改めて出遇い直す素晴らしいお盆をお過ごしいただきたいと思います。🔶今週のまとめ【1】お盆の正式名称である「盂蘭盆会」は、お釈迦さまの弟子である目連尊者が、餓鬼道で「逆さ吊りの苦しみ(ウランバーナー)」を受けていた実母を救ったという『盂蘭盆経』の物語に由来します。【2】日本のお盆は推古天皇の時代(606年)から続く古い伝統ですが、浄土真宗では、亡き人はすでに浄土で仏となられている(往生即成仏)と受け止めるため、精霊馬(きゅうりの馬やナスの牛)などの飾りは用いません。【3】「7月盆」と「8月盆」の混在は、明治5年の太陽暦(新暦)導入が原因であり、当時の明治政府が閏月による給料の重複支給を防ぐという財政難対策の側面も含まれていました。【4】一遍上人の「踊り念仏」に由来する盆踊りは、アメリカやハワイの日系社会では浄土真宗の伝道によって広く普及し、戦時の強制収容所でもアイデンティティを守る心の支えとして踊り継がれました。【5】お盆は亡き人を縁として今を生きる私たちが心静かにお念仏のみ教えに出会う尊いご縁であり、お墓参りと共にお寺の本堂へもお参りし、阿弥陀さまの救いを喜ぶことが本来の過ごし方です。次回テーマは「心に涼風を」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁
🔶年忌の数え方と儒教・十王信仰に由来する歴史私たちが日常的にお勤めする法事は、正式には「年忌法要(ねんきほうよう)」と呼びます。お葬式やお通夜、四十九日の「満中陰(まんちゅういん)」に始まり、その後は一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と続いていきます。ここで「なぜ一周忌の翌年が三回忌なのか」と疑問に思う方も多いでしょう。これには諸説ありますが、一説には中国の儒教の習慣が元になっているといわれています。儒教の喪服の期間において、亡くなって13ヶ月目を「少祥(しょうしょう)」、25ヶ月目を「大祥(だいしょう)」と呼び、これが日本の一周忌(満1年)と三回忌(数え年で3年=丸2年後)の起源となりました。また、なぜ「3」や「7」のつく年に法事を行うのかという点についても、江戸時代に無著道忠(むちゃくどうちゅう)が編纂した辞書『禅林象器箋(ぜんりんぞうきせん)』などの古書に歴史が記されています。『地蔵菩薩発心因縁十王経(じぞうじゅうおうきょう)』に代表される十王信仰や、中国の故事が日本の伝統文化と融合し、長い歴史を経て現在の年忌のサイクルが定着していきました。🔶悲しみを癒すプロセスと故人の記憶の継承数年ごとに巡ってくる法事のサイクルには、遺された私たちが「悲しみを癒していく大切なプロセス(過程)」としての意味が込められています。身近な人を亡くした直後は深い悲しみに暮れますが、一周忌、三回忌とお勤めを重ねる中で、少しずつ心の痛みが和らいでいきます。そして七回忌や十三回忌ともなると、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの顔を直接知らない小さなお孫さんが同席することもあります。そうした席で「この家はおじいちゃんが建ててくれたんだよ」「こういう優しい人だったんだよ」と、みんなで思い出話を語り合うことこそが何よりの供養となります。時の経過とともに薄れがちな故人の記憶を家族や友人で共有し、次の世代へと受け継いでいくための、法事は実によくできた尊いサイクルなのです。🔶浄土真宗における法要の四つの意義仏教において法事中にお経をあげることには、大きく分けて四つの大切な意味(意義)があるといわれています。一つ目は「仏徳讃嘆(ぶっとくさんたん)」。仏さまの計り知れないお徳を、声を揃えて褒め称えることです。二つ目は「仏徳領受(ぶっとくりょうじゅ)」。仏さまの尊いみ教えを、自らの心にしっかりと受け入れることです。三つ目は「仏恩報謝(ぶつおんほうしゃ)」。仏さまから注がれている大いなる慈悲に対して、心からの感謝を伝えることです。四つ目は「仏徳奉行(ぶっとくぶぎょう)」。いただいたみ教えを日々の生活の拠り所とし、しっかりと歩んでいくことを誓うことです。この四つの歩みを参拝者全員で共有することが、法事という儀式の本質なのです。🔶追善供養ではなく「私のための法事」ここで最も大切なのは、浄土真宗における法事は「遺された者が、亡き人を迷わないようにあの世へ吊り上げるために行うものではない」という点です。一般的な仏教では、遺族が善い行いをしてその功徳を故人に届ける「追善供養(ついぜんくよ長)」という考え方がありますが、浄土真宗は異なります。亡くなられた方は、阿弥陀さまの導きによってすでに迷うことなくお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるからです。したがって、法事は「これだけ供養してやったからもう安心だろう」と善根を積む場ではなく、他でもない「今を生きるこの私」が、故人を縁としてお念仏のみ教えに出会い、自らの命のあり方を見つめ直すために開かれている場なのです。🔶仏前へのお供え物の心得と「向き」の真実法事やお墓参りの際、仏前や墓石にお酒やタバコをお供えされる方をよく見かけます。「故人が生前に好きだったから」という優しいお気持ちからでしょう。しかし、仏教(特にお浄土の清浄さを重んじる浄土真宗)においては、実はこれらはあまりふさわしくないお供え物とされています。仏前へのお供えの基本は、お香、お灯明(ローソク)、お花、そして仏飯(お仏飯)や果物などの「五聖(五供)」です。故人が欲しがるものをこちらから一方的に送り届けるという「向き」ではなく、仏さまとして完成された清らかな世界に対し、私たちが敬意を持って身構えを調え、み教えに耳を傾けさせていただくという「向き」が大切です。このお供え物の本来の意味を一つ胸に留めておくだけで、法事の合掌の深さは大きく変わるはずです。🔶今週のまとめ【1】法事(年忌法要)の数え方は、満1年目に行う「一周忌」を除き、すべて数え年(三回忌は丸2年後、七回忌は丸6年後)で計算されます。【2】一周忌(少祥)や三回忌(大祥)といった年忌の数字は、中国の儒教の風習や『禅林象器箋』に記される十王信仰などが、長い日本仏教の歴史の中で培われて定着したものです。【3】定期的に巡ってくる年忌法要には、遺族が亡き人を偲びながら悲しみを癒す心理的なプロセスとしての役割があり、故人の思い出を次世代へ語り継ぐ大切な機会となっています。【4】浄土真宗の法事には「仏徳讃嘆」「仏徳領受」「仏恩報謝」「仏徳奉行」の四つの意義があり、故人を追善供養するためではなく、「今生きる私がみ教えに出会うため」に修されます。【5】仏前へのお供えは、故人の嗜好品(お酒やタバコなど)を届けるのではなく、仏さまのお飾りとしてふさわしい五供を調え、私たちが仏さまと向き合わせていただく場であることを心得ることが大切です。次回テーマは「お盆(おぼん)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教と七夕】──短冊に託す「人間の願い」と私を案じる「仏の願い」
🔶棚機津女の神事と中国から伝わった乞巧奠7月7日の「七夕」は、古くは「七夕(しちせき)の節句」と呼ばれ、江戸時代には五節句の一つとして庶民の間にも広く定着した日本の伝統行事です。そのルーツは、日本古来の神事と中国の伝説が融合したものといわれています。元来、日本では「棚機(たなばた)」という織機を用い、選ばれた清らかな女性が水辺の「機屋(はたや)」にこもって神様のための着物を織り、秋の豊作を祈って人々の穢れを祓う「棚機津女(たなばたつめ)」の神事が行われていました。やがて仏教が伝来すると、この行事はお盆(ご先祖さま)を迎えるための準備として、7月7日の夜に行われるようになります。そこに、中国から伝わった織物や芸事の上達を願う「乞巧奠(きこうでん)」の風習と、織姫・彦星の星祭り伝説が結びつき、現在の七夕の形が形作られていきました。🔶夜空に広がる織姫と彦星の星祭り伝説プラネタリウムなどでも親しまれている星祭り伝説では、天の川のほとりで神々の着物を織っていた真面目な娘・織女(しょくじょ/織姫)と、牛を飼う青年・牽牛(けんぎゅう/彦星)が登場します。天空で最も偉い神様である天帝の引き合わせで結婚した二人ですが、仲が良すぎるあまり、次第に仕事を忘れて遊び呆けるようになってしまいました。織物が滞って神々の着物はボロボロになり、牛たちも病気になってしまったことに怒った天帝は、二人を天の川の両岸に引き離してしまいます。しかし、二人があまりにも悲しみに暮れるため、天帝は「真面目に働くならば、年に一度、7月7日の夜だけ会うことを許す」と約束しました。現在、私たちが夜空を見上げる時、こと座の一等星ベガ(織姫)と、わし座の一等星アルタイル(彦星)の間に、美しく横たわる天の川を観察することができます。🔶五色の短冊と笹竹に込められた魔除けの意味七夕といえば、笹の葉に色とりどりの短冊を飾る光景が思い浮かびます。古来、笹竹には神聖な力が宿り、神様が降り立つ依り代(よりしろ)であると考えられていました。短冊に用いられる「五色(ごしき)」の青(緑)・黄・赤・白・黒(紫)は、中国の「陰陽五行説」に由来しており、魔除けの意味が込められています。同時に、これらは仏教の万国共通の旗である「仏旗」の五色にも通じる清らかな色合いです。江戸時代に庶民の間へ広がると、寺子屋で学ぶ子供たちが「習字や手習いが上手になりますように」と短冊に願い事を書くようになり、現代へと続く七夕の風習が完成していきました。🔶「私の願い」と「阿弥陀さまの願い」の逆方向仏教的な視点で七夕を見つめ直すとき、そこには「願い」という深い共通点が見えてきます。私たちは短冊に「字が上手になりますように」「お金がたくさん入りますように」と、自らの欲求や願いを書き込みます。織姫と彦星の願いもまた、「大切な人に会いたい」という自らの切実な想いです。これらはすべて、自分を起点として外側へと向かう「人間の願い」といえます。しかし、仏教、特に浄土真宗で説かれる「願い」は、これとは全く向きが逆になります。それは、阿弥陀如来という仏さまが「この私」を目当てとして、あらゆる苦しみから必ず救い取るために建ててくださった「仏さまの願い(本願)」です。私たちが自らの小さな願いに一喜一憂している時、その足元では、仏さまの大きな願いに包まれ、常に願われながら生かされている。七夕という行事は、短冊に目を向けながらも、同時に「私を案じてくださる大きな存在」に気づかされる尊いご縁でもあるのです。🔶伝統行事を通して振り返る子供の成長と地域の思い出かつて熊本市中央区新町にあった「熊本市子ども文化会館」などの児童館でも、七夕の行事は子供たちの健やかな遊びや学びの場として大切にされてきました。学校給食で出された行事食の「七夕ゼリー」を、懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。子供たちが一生懸命に短冊に書いた願い事は、親が我が子の心の成長や変化をそっと知るための、温かい道標(みちしるべ)にもなります。忙しい現代社会だからこそ、季節の伝統行事を通じて日々の生活を振り返り、自分自身の姿を省みるとともに、人と人との繋がりや、仏さまとの尊いご縁を改めて味わいたいものです。🔶今週のまとめ【1】7月7日の七夕は、日本古来の「棚機津女」の神事とお盆を迎える風習、そして中国から伝わった「乞巧奠」や星祭り伝説が融合して生まれた伝統行事です。【2】織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)の伝説は、年に一度の再会を励みに真面目に勤めることの大切さを現代に伝えています。【3】神聖な力が宿るとされた笹竹に飾る「五色の短冊」は、陰陽五行説に基づく魔除けの道具であり、江戸時代の寺子屋教育などを通じて広く普及しました。【4】短冊に書く「人間の願い」が自分を起点にしているのに対し、浄土真宗の説く「阿弥陀さまの願い(本願)」は、仏さまから私へと注がれる無条件の慈悲の光です。【5】伝統行事や地域での思い出を通じて自らの姿を省み、自分が多くの命や仏さまに「願われている存在」であることに気づくことが大切です。次回テーマは「法事(ほうじ)の意味」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【浄土真宗と聖徳太子(後編)】──親鸞聖人が仰いだ観音の化身
🔶親鸞聖人が「和国の教主」と讃えた聖徳太子先週に引き続き、「浄土真宗と聖徳太子」というテーマでさらに深くお話を伺います。日本仏教の恩人である聖徳太子は、浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人から「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本におけるお釈迦さま」として深く敬われました。そのお徳を偲び、浄土真宗の寺院の本堂内陣(仏さまが安置されている空間の向かって右側)には、今も聖徳太子の絵像や木像が大切に掲げられています。親鸞聖人の生涯と聖徳太子の間には、聖人自身の歩みを大きく決定づける極めて深い結びつきがありました。🔶『皇太子聖徳奉讃』にみる慈悲の和歌親鸞聖人は、聖徳太子を称える多くの和歌(和讃)を残されており、それらは『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』として現代に伝わっています。その中の一首をご紹介します。「救世観音大菩薩 聖徳皇と顕現し 父のごとくに捨てずして 母のごとくに添うたもう」この歌は、「救世観音(くぜかんのん=観世音菩薩)が聖徳太子としてこの世に姿を現し、まるで実の父母が我が子を慈しむように、私たちを見捨てることなくいつも寄り添ってくださっている」という意味です。仏教において観世音菩薩は阿弥陀さまの慈悲の働きを助け、人々の苦しみを救う仏さまです。日本では古くから「聖徳太子は観音さまの化身である」という太子信仰が盛んでしたが、親鸞聖人もまた、太子の中に無限の慈悲を見出されていました。🔶六角堂での夢告とお念仏への導き親鸞聖人が阿弥陀さまの「お念仏のみ教え」に出会う大きな転機となったのも、実は聖徳太子とのご縁でした。聖人は9歳から20年もの間、比叡山で過酷な修行を重ねられましたが、自らの力で煩悩を断ち切ることができず深く悩まれました。そこで29歳の時、意を決して山を降り、太子にゆかりの深い京都の六角堂へ百日間の参籠(さんろう)に入られます。その95日目の暁、聖徳太子の化身である観音菩薩が夢の中に現れ、「示現(じげん)の文」と呼ばれるお告げを授けられました。その内容は、「自力で煩悩を断ち切ろうと苦しむのではなく、ありのままの自分を救い取ってくださる阿弥陀さまにお任せ(他力念仏)しなさい」という、進むべき道を示すものでした。この夢告をきっかけに、聖人は生涯の師である法然(ほうねん)上人のもとを訪ね、浄土真宗の基盤となるお念仏の道へと歩み出されたのです。🔶絵像や彫像にみる太子の真実の姿お寺に安置されている聖徳太子の姿は、私たちがよく知る旧一万円札の烏帽子姿とは異なります。仏教の世界で広く親しまれているのは、髪を左右でお団子のように結った「角髪(みずら)」姿で、「柄香炉(えごうろ)」という仏具を手にした16歳の頃のお姿(孝養像)です。これは、病の床に伏せった父・用明天皇の平癒を心から祈願し、仏法僧の三宝を大切にされた太子の至純な心を写したものです。また、わずか2歳にして東を向いて合掌し、「南無仏(なむぶつ=仏さまに帰依します)」と唱えられた瞬間の愛らしいお姿(南無仏太子像)など、関西をはじめ全国の古いお寺には多様な太子像が残されています。私たちの仏嚴寺にも、そうした歴史の重みを伝える尊い聖徳太子像が大切に受け継がれています。🔶日本人のDNAに息づく仏教の始まり仏教が日本に伝来した当初、それを国家として受け入れるべきか否かを巡り、物部(もののべ)氏(廃仏派)と蘇我(そが)氏(崇仏派)の間で激しい論争と対立がありました。聖徳太子はその対立を乗り越え、仏教の精神を政治と国づくりの根本に据えることで、日本独自の文化の礎を築かれました。もしこれが権力による力ずくの強制であったなら、1500年もの長い間、仏教が民衆に受け入れられ、受け継がれてくることはなかったでしょう。人々が苦しみから救われる道を第一に考えた太子の精神があったからこそ、仏教は日本人の生活や精神の奥深いところ(DNA)にまで溶け込んでいるのです。飛鳥・奈良・平安と時代を経て発展していく日本仏教のすべての始まりの場所には、いつも聖徳太子の温かいまなざしがありました。🔶今週のまとめ【1】親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」「日本仏教の父」と仰ぎ、真宗寺院の本堂内陣には今も大切に太子の絵像が掲げられています。【2】聖人による『皇太子聖徳奉讃』の和歌では、聖徳太子を観世音菩薩の化身とし、親のように私たちに付き添う慈悲のお姿として讃えています。【3】比叡山での修行に悩んだ親鸞聖人は、六角堂の参籠中に聖徳太子(観音の化身)からの夢告を受け、法然上人のお念仏のみ教えへと導かれました。【4】太子像には、父の病気平癒を祈る16歳の「孝養像」や、合掌して南無仏と唱える2歳の「南無仏太子像」など、信仰に満ちた姿が伝わっています。【5】仏教伝来の論争を経て、太子がみ教えを政治と国づくりの根本に据えたからこそ、仏教は日本人の生活や心に深く根付くこととなりました。次回テーマは「仏教と七夕(たなばた)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神
🔶厩戸皇子から聖徳太子へ、激動の時代と仏教伝来近年、学校の教科書などでは当時の名である「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」という表記が増えていますが、没後に「聖徳太子」の諡号(しごう)が贈られたこの方は、日本の仏教史上、極めて重要な人物です。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、太子を「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本の釈尊(お釈迦さま)」であると深く崇め奉りました。そのため、真宗の寺院の本堂内陣(向かって右側)には必ず聖徳太子の絵像や木像が安置されており、今も大変大切にされています。仏教が日本に伝来した時期には、公伝とされる538年や『日本書紀』に記された552年など諸説ありますが、その少し後の574年、用明天皇の第二皇子として太子は誕生されました。当時は、百済などから伝わった未知の教えである仏教を受け入れるべきか否かという「崇仏論争」が激化していた、まさに激動の時代でした。🔶十七条憲法に込められた「篤く三宝を敬え」の精神わずか20歳で推古天皇の摂政となった聖徳太子は、政治の根本に仏教の精神を据え、国家の基盤づくりに尽力されました。西暦604年に制定された「十七条憲法」の第二条には、「篤く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と記されています。ここでいう「僧」とは、単に個人の僧侶を指すのではなく、サンスクリット語の「サンガ(ともに仏教を学ぶ仲間の集い・教団)」を意味します。太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)らと共に仏教を国教的なよりどころとすることで、人々が争いをやめ、互いを尊重し合える平和な国を目指されたのです。🔶冠位十二階と法隆寺・四天王寺の建立にみる平等思想太子の功績である「冠位十二階」の制定も、非常に仏教的な平等精神に基づいています。それまでの家柄や身分による世襲制を排し、個人の才能や功績に応じて役職(冠位)を与えるというこの制度は、全ての人が平等に仏性(ぶっしょう)を持つという仏教の教えに通じるものがあります。また、父である用明天皇の遺志を継ぎ、推古天皇と共に建立した「法隆寺」をはじめ、日本最古の官寺である「四天王寺」など、多くの寺院を建立されました。この大規模な建築事業の功績から、聖徳太子は現代でも大工や建築職人の世界において「職人の守護神」として尊ばれています。江戸時代には、熊本の細川藩の武家屋敷が建てられた際にも、工事の安全を祈願して聖徳太子像が奉納されるなど、地域を超えた篤い信仰を集めました。🔶烏帽子姿ではない、お寺に伝わる太子の真実の姿かつてのお札に描かれていた烏帽子(えぼし)に笏(しゃく)を持った聖徳太子の肖像画は、後世に描かれたイメージ図です。仏教の世界や古くからのお寺で一般的に安置されている太子の姿は全く異なります。幼少期の姿を描いた、頭髪を左右で結ったお団子のような「角髪(みずら)」姿の像や、わずか2歳の時に東を向いて「南無仏(なむぶつ)」と唱えられたお姿を模した、上半身裸の「南無仏太子像」、16歳の時に父の病気平癒を祈った「孝養(くよう)像」など、多様な重要文化財の姿が今に伝わっています。私たちの仏嚴寺にも、そうした古い歴史を持つ由緒ある聖徳太子像が大切に受け継がれています。🔶今週のまとめ【1】聖徳太子(厩戸皇子)は、親鸞聖人から「和国の教主」と称えられた日本仏教の恩人であり、真宗寺院の本堂にも必ず安置されています。【2】十七条憲法で説かれる「三宝(仏・法・僧)」の「僧」とは、単なる僧侶ではなく、共にみ教えを学ぶ仲間(サンガ)を指しています。【3】冠位十二階の制定や法隆寺・四天王寺の建立には、身分に捉われず人々が共に手を取り合うという仏教の平等精神が活かされています。【4】聖徳太子は建築・大工の世界でも守護神として尊ばれており、熊本の細川藩をはじめ全国各地に太子信仰の形が残されています。【5】お札の烏帽子姿は後世の肖像であり、お寺では幼少期の「南無仏太子像」など、み教えを象徴するお姿で親しまれています。次回テーマは「浄土真宗と聖徳太子(後編)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教と蓮】──泥中に咲く「妙好人」 み教えの光
🔶泥中から清らかに咲き誇る悟りのシンボル暑い季節を迎えると、水面に美しく大輪の花を咲かせる「蓮(はす)」は、仏教において最も象徴的な植物です。お釈迦さまが誕生されたインドの国花でもあり、仏教では「悟り」や「清らかさ」の象徴とされてきました。蓮は濁った泥の中から茎を伸ばし、泥に染まることなく清浄な花を咲かせます。この姿が、迷いや苦しみに満ちた現実世界(泥)にありながら、それに決して染まらずに清らかな智慧と慈悲(花)を開かせる仏さまの悟りの姿に重ねられているのです。🔶『阿弥陀経』が説く「みんな違ってみんないい」の世界浄土真宗で大切にされる『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』には、お浄土の池に咲く蓮の様子が「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔(ちちゅうれんげ だいにょしゃりん しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃくこう びゃくしきびゃくこう みみょうこうけつ)」と描かれています。青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、それぞれがそのままで輝き、気高い香りを放っています。これは「十人十色」の言葉通り、私たちは誰一人として同じではなく、それぞれが「ありのままの姿」で阿弥陀さまの救いの目当てとなり、お浄土で輝かせていただけるという平等の教えを表しています。🔶衆生を救うために一歩を踏み出す前傾姿勢阿弥陀如来の立像(立ち姿)を拝すると、蓮の花の台座(蓮台)の上で、少し前方に傾いた「前傾姿勢」をとられていることに気づきます。これは、苦しみの中にある私たちを「必ず救い取る、一刻も猶予していられない」と、座って待つことすらできずに、今すぐこちらへ一歩を踏み出そうとされている慈悲の躍動的なお姿を表しています。どんな時でも私の方を向き、至り届いてくださる阿弥陀さまの強いお心が、その立ち姿に具現化されているのです。🔶金子みすゞの詩「蓮と鶏」に響く阿弥陀さまの働き浄土真宗の教えに出会い、お念仏を喜びながら人生を歩んだ人々を、仏教では白い蓮華に例えて「妙好人(みょうこうにん)」と称します。26歳という短い生涯を駆け抜けた詩人・金子みすゞさんもまた、真宗のご門徒の家庭に育ち、その豊かな感性で教えを表現した妙好人の一人といえます。彼女の詩「蓮と鶏(にわとり)」にこうあります。泥の中から蓮が咲く。それをするのは蓮じゃない。卵の中から鳥が出る。それをするのは鳥じゃない。それに私は気がついた。それも私のせいじゃない。蓮が咲くことも、雛が生まれることも、自分の力ではなく自然(じねん)の大いなる働きによるものです。そして「私が今、お念仏を称える身にさせられている」のも自分の力ではなく、前傾姿勢で私を包み込んでくださる阿弥陀さまの「お働き(本願力)」によるご縁だったのだという、深い感謝と喜びがこの詩の背景には息づいています。🔶「さびしいとき」の詩にみる摂取不捨の慈悲もう一つ、彼女の代表的な詩に「さびしいとき」があります。私がさびしいときに、よその人は知らないの。私がさびしいときに、お友だちは笑うの。私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。周囲の人がどれだけ寄り添ってくれても、孤独や悲しみを完全に分かち合うことは困難です。しかし、仏さまだけは、私の寂しさをそのままご自身の寂しさとして受け止め、絶対に孤独にはさせない。「摂取不捨(せっしゅふしゃ=おさめとって見捨てない)」という阿弥陀さまの慈悲のぬくもりを、みすゞさんは「ほとけさまはさびしいの」というあまりにも純粋な言葉で表現しました。頭での理解を超え、自らの言葉として阿弥陀さまの真実に出会っていった金子みすゞさんの詩は、今を生きる私たちの心にも、温かい一輪の蓮華を咲かせてくれます。🔶今週のまとめ仏教において蓮の花は、濁った泥の中から清らかな花を咲かせる「悟り」と「清浄」の象徴です。『阿弥陀経』の「青色青光…」の一節は、一人ひとりが個性を保ったありのままの姿で救われていく平等の世界を示しています。阿弥陀如来の立像が前傾姿勢なのは、苦しむ私たちを救うため、今すぐに向かおうとされている慈悲の表れです。真宗門徒であった金子みすゞさんは、お念仏の喜びを詩に託した「妙好人」ともいえる尊い存在です。「蓮と鶏」や「さびしいとき」といった詩の背景には、阿弥陀さまの「お働き」や「摂取不捨」の慈悲が深く息づいています。次回テーマは「聖徳太子(しょうとくたいし)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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102
【雨と仏教】──一水四見の智慧と心の安居
🔶唯識が説く一水四見の教え仏教の「唯識(ゆいしき)」という思想の中に、「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。これは「一つの水であっても、見る者の立場や境遇によって四つの異なる見え方をする」という意味です。例えば、天上の世界に住む「天人(てんにん)」には美しく透き通った瑠璃(宝石)のように見え、私たち「人間」にはそのままの水に見えます。また、「魚」にとっては大切な住処(すみか)であり、飢えと渇きに苦しむ「餓鬼(がき)」にとっては、燃え盛る炎や恐ろしい膿(うみ)の川に見えるとされています。この教えは、私たちが生きる現代社会にも深く通じています。同じ「雨」であっても、仕事や立場、環境が変われば、その捉え方や意味合いは大きく異なります。私たちは誰もが自分自身の価値観や境遇というフィルターを通して世界を見ており、「私の見えている世界がすべてではなく、他者には全く違う世界が見えているかもしれない」と気づくことが、他者を尊重し共生していくための第一歩となります。🔶雨季の修行から生まれた「安居」の伝統仏教の母国であるインドには、激しい雨が降り続く長い雨季(うき)があります。お釈迦さまの時代、古代の仏教教団では、この雨季の期間は外での移動や修行を行いませんでした。雨季は多くの小さな生き物たちが地表に這い出してくる時期であり、外を歩き回ることで、それらの尊い命を誤って踏み潰してしまう恐れがあったからです。そこで、僧侶たちは一カ所に集まり、外出を控えて熱心に勉強会や修行を行いました。このサンスクリット語で「ヴァルシャ」と呼ばれる雨季の引きこもり修行を、漢字では「安らかに居る」と書いて「安居(あんご)」と言います。現在でも、浄土真宗本願寺派をはじめ日本の多くの仏教教団において、この伝統を受け継いだ安居が開催されており、仏教の歴史の中で学問や教理が深く発展していくための極めて重要な契機となりました。🔶スマホ社会と読書(晴耕雨読)の大切さ雨のために外へ出られない時期は、古くから「晴耕雨読(せいこううどく)」と言われるように、静かに本を開き、学問や読書に励むのに最適な時間です。現代はスマートフォンや電子書籍が非常に便利になり、いつでも手軽に情報を得られるようになりましたが、ともすれば自ら腰を据えて紙の本を読む時間が疎かになりがちです。画面をスクロールしてピンポイントの答えだけを拾い上げるネット検索とは異なり、紙の本をめくる読書には、予期せぬ言葉や思想との豊かな出会いがあります。例えば、紙の辞書を引くとき、目的の単語の周囲にある別の言葉がふと目に留まり、それが新たな知識として蓄積されていくような面白さがあります。雨の季節こそ、デジタルから少し距離を置き、自らの手でページをめくる時間を大切にしたいものです。🔶AI時代の情報収集と自ら考える力近年はAI(人工知能)の進化によって、私たちが検索すらする必要のない時代が到来しています。問いかければ一瞬でデータをまとめ、完璧な文章や原稿を作成してくれる非常に便利なツールです。実際に、日々の正確なデータ整理などにAIを活用することは有意義ですが、すべてを依存してしまうことには危うさも潜んでいます。人間は、どうしても楽な方へと流されてしまいがちな存在です。だからこそ、効率的に得られる答えだけに満足せず、立ち止まって「自分の頭でじっくりと考える」プロセスを失ってはなりません。雨で外に出られない静かな時間は、効率性を求める日常から離れ、自らの内面を見つめ直し、知識を深くインプットするための貴重な「安居」の時間となるのです。🔶多様な視点から仏教を学ぶ読書の歓び読書を通じて見識を広げることは、自分の狭い殻を打ち破るきっかけをくれます。例えば、日本を代表する哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)の代表作である『善の研究(ぜんのけんきゅう)』や、仏教学者であり哲学者でもある鈴木大拙(すずき だいせつ)の著作は、西洋哲学と東洋の仏教思想を対比させながら、深い知恵を私たちに授けてくれます。また、民俗学の創始者である柳田國男(やなぎた くにお)の視点から仏教を紐解くことも、日本人の信仰や生活の根底にある豊かな繋がりを教えてくれます。インターネットの世界は、個人の好みに合わせた情報ばかりが流れてくるため、油断すると自分の思想が凝り固まってしまいます。本という開かれたメディアを通じて、自分とは異なる立場や全く新しい視点に触れること。それこそが、一水四見の教えにあるような「多面的なまなざし」を養い、心を柔軟に保つための素晴らしい営みなのです。🔶今週のまとめ同じ水でも立場によって見え方が変わる「一水四見」の教えは、他者との価値観の違いを理解する智慧を伝えています。インドの雨季に生き物を踏まないよう一カ所にこもった「安居」は、仏教の学問が発展する重要な契機となりました。スマホやAIの利便性に頼りすぎず、雨の時期こそじっくりと読書をして自ら考えるインプットの時間が大切です。西田幾多郎の『善の研究』や鈴木大拙、柳田國男の著作のように、多様な角度から仏教や人間の営みを見つめ直すことが見識を広げます。心の凝り固まりをほぐすために、インターネットの枠を超えて多様な視点や言葉に触れることが現代を生きる支えとなります。次回テーマは「仏教と蓮(はす)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【お寺の掲示板】──門前から響く「現代のメディア」
🔶お寺の掲示板の由来と伝道の役割お寺の門前に必ずといっていいほど設置されている掲示板は、単なる行事案内(広報)以上の大切な役割を担っています。これらは「伝道掲示板(でんどうけいじばん)」と呼ばれ、明治時代、浄土宗がキリスト教の熱心な伝道活動に影響を受け、仏教の教えを広く一般に伝えるために始めたのがきっかけといわれています。門信徒のみならず、お寺の前を通りがかる人々の目にも留まるよう、仏教の智慧や心のあり方を短く、鋭い言葉で貼り出したのが、現代の形へと受け継がれました。🔶「輝け!お寺の掲示板大賞」の広がり2018年より、公益財団法人「仏教伝道協会(BDK)」が主催している「輝け!お寺の掲示板大賞」が大きな話題を呼んでいます。SNSの普及により、全国各地のお寺に掲げられたユニークで深い言葉が「バズる」ようになり、ありがたさやインパクト、ユニークさを競うコンテストとして定着しました。これにより、お寺の掲示板は「現代のメディア」として、若い世代を含む幅広い層に仏教の視点を届ける窓口となっています。🔶心に刺さる掲示板の言葉たち昨年の大賞(2025年)に選ばれたのは、鹿児島県南さつま市の浄土真宗本願寺派・顯證寺(けんしょうじ)の言葉でした。「自分ファースト」という貧しさ「自分さえ良ければいい」という独りよがりな心を鋭く指摘し、他者への思いやりを問いかける作品です。また、第1回(2018年)の記念すべき大賞作品は、岐阜県郡上市の願蓮寺(がんれんじ)によるものでした。「おまえも死ぬぞ」釈尊衝撃的な一文ですが、これは初期仏典『相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)』にある「生まれたものが死なないということはあり得ない」というお釈迦さまの言葉を、直截的に表現したものです。限られたスペースで、いかに真理を伝えるかという知恵が凝縮されています。🔶仏嚴寺の掲示板に込める願い私自身、仏嚴寺の掲示板に言葉を書く際は、特に「車からでも読みやすいこと」を意識しています。道路沿いという立地を活かし、大きな文字で、時には漢字一文字でメッセージを届けます。例えば「願(がん)」という一文字を掲げた際は、浄土真宗の根本である「阿弥陀如来の四十八願」や、平和への願いなど、見る人の心に「考察」を促すことを意図しました。かつて祖父が書いた「いのち のびのび」といった、ひらがな主体の柔らかい表現もあり、掲示板にはそのお寺や住職の「カラー」が如実に表れます。🔶門前から始まる仏教との対話お寺の掲示板は、日常生活の中でふと立ち止まり、自分を見つめ直す「心の鏡」のような存在です。最近では切り絵やイラストを添えたり、謎解きのような深い言葉を掲げたりするお寺も増えており、掲示板を通じて住職との対話や交流が生まれることもあります。掲示板の言葉を見て「どういう意味だろう?」と興味を持たれたら、ぜひ気軽にお寺の門を叩いてみてください。その一言が、仏教という深い智慧の世界への入り口になるはずです。🔶今週のまとめお寺の掲示板は「伝道掲示板」と呼ばれ、明治時代にキリスト教の影響を受けて、教えを広めるメディアとして始まりました。「輝け!お寺の掲示板大賞」をきっかけに、ユニークで深い言葉がSNSで注目され、仏教の智慧が身近なものとなっています。顕正寺の「自分ファーストという貧しさ」や願蓮寺の「おまえも死ぬぞ」など、短い言葉の中に仏教の本質が込められています。掲示板は車から見やすい文字の大きさや、見る人が考察できる言葉選びなど、お寺ごとの個性や願いが反映されています。掲示板の言葉をきっかけにお寺に立ち寄るなど、門前を起点とした地域との交流も大切にされています。次回テーマは「雨と、仏教」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【降誕会】──親鸞聖人のご生涯を辿る
🔶降誕会の由来と激動の時代背景5月21日は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご誕生をお祝いする「降誕会(ごうたんえ)」です。聖人は西暦1173年(承安3年)、京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範(ひの ありのり)卿の長男としてお生まれになられました。当時は平安時代の末期、平家が栄華を極める一方で、大火災や大飢饉、疫病といった自然災害が次々と都を襲った「末法の世」とも呼べる激動の時代でした。🔶比叡山での修行と六角堂の夢告親鸞聖人はわずか9歳で出家され、比叡山へと登られました。以来20年間にわたり、煩悩を断ち切り迷いを超える道を求めて懸命に修行に励まれましたが、どうしても真の悟りを見出すことはできませんでした。29歳の時(1201年・建仁元年)、聖人は比叡山を降り、京都の六角堂に百日間の参籠(さんろう)をされました。その95日目の暁、救世観音(くぜかんのん)の夢告を受け、導かれるように法然上人のもとを訪ねられたのです。🔶承元の法難と越後への流罪法然上人が説く「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えに出会われた聖人は、誰もが等しく救われる道に確信を得られました。しかし当時、この教えは既存の仏教界から異端視され、ついに1207年(承元元年)、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」が起こります。後鳥羽上皇の怒りを買った法然上人は土佐へ(後に実質は讃岐)、親鸞聖人は越後(現在の新潟県)へと流罪に処されました。厳しい逆境の中でも、聖人はお念仏の教えを広め続けられました。🔶「非僧非俗」の歩みと恵信尼公との生活越後の地で、聖人は恵信尼(えしんに)公とご結婚されました。当時の僧侶にとって「肉食妻帯(にくじきさいたい)」は許されないことでしたが、聖人はあえて自らを「非僧非俗(ひそうひぞく)」、つまり僧でも俗人でもない立場に置き、民衆と同じ目線で生活を共にされました。食生活や家族を持つことが救いの妨げにはならないというその姿勢は、どのような環境に生きる人々であっても阿弥陀さまの救いから漏れることはないという、教えの真髄を体現されたものでした。🔶関東での布教と九十年のご生涯流罪が許された後、聖人は家族と共に拠点を関東(常陸国など)に移し、20年以上にわたって農民などの庶民にお念仏を伝えられました。その後、60歳を過ぎて京都へ戻られ、1263年(弘長2年)1月16日に90歳でそのご生涯を終えられました。聖人が好まれた「小豆(あずき)」にちなみ、現在も各地の寺院では法要の際に小豆粥やお赤飯が振る舞われています。どのような条件もつけずに「ありのまま」を救い取る阿弥陀さまの慈悲を説き続けた聖人の歩みは、今も多くの人々の心の支えとなっています。🔶今週のまとめ5月21日は親鸞聖人の誕生日を祝う「降誕会」であり、聖人が歩まれた激動の90年を偲ぶ大切な日です。比叡山での20年にわたる修行を経て、六角堂の参籠での夢告をきっかけに法然上人の教えに出会われました。念仏の禁止という「承元の法難」により流罪となりますが、逆境にあってもお念仏の教えを広め続けられました。「非僧非俗」を掲げ、結婚や肉食といった当時の常識を超えて、民衆と同じ目線で生き抜かれたのが親鸞聖人の特徴です。阿弥陀さまの救いは身分や職業によらず平等であるという教えは、今も変わらず私たちの日常に寄り添っています。次回テーマは「お寺の掲示板」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教の旗】──世界を繋ぐ五色の旗印と誓い
🔶仏旗の由来と国際的な意義仏教には、世界中の仏教徒が共通して掲げる「仏旗(ぶっき)」という旗があります。これは1950年にスリランカで開催された「世界仏教徒連盟(WFB)」の第1回会議において、国際的な仏教の旗として正式に採択されました。お釈迦さまの教えを仰ぎ、仏道を歩む世界中の人々を一つに繋ぐ大切な旗印として、各国の寺院や法要の際などに掲げられています。🔶五色の輝きが表すお釈迦さまの徳仏旗は青、黄、赤、白、橙(だいだい)の五色で構成されており、それぞれにお釈迦さまのすぐれた徳(特徴)が象徴されています。青は「頭髪」の色で乱れのない心を、黄は「身体(金色)」の色で揺るぎない心を、赤は「血液」の色で大いなる慈悲の心を、白は「歯」の色で清らかな心を、そして橙は「聖者の法衣(けさ)」の色で、あらゆる迷いから離れた不動の心を表しています。これらの色が重なり合うデザインには、真理の光が世界を照らす願いが込められています。🔶世界共通の誓い「三帰依文」色とかたちによる象徴が仏旗であるならば、言葉による共通の拠り所が「三帰依文(さんきえもん)」です。「帰依(きえ)」とは、サンスクリット語の「さらな(saraṇa)」の訳語で、「拠り所とする」「全てをお任せする」という意味です。お釈迦さま(仏)、その教え(法)、そして教えを学び伝える集い(僧)の三宝(さんぼう)を敬うこの誓いは、2500年前から変わらぬ仏教徒の入門の言葉であり、世界中どこの寺院でも共通して唱えられています。🔶宗派を超えた仏教徒の連帯世界には多くの宗派があり、長い歴史の中で教えのかたちも多様化してきました。しかし、第二次世界大戦後の1950年、悲惨な戦争を繰り返さないために世界中の仏教徒が協力し合う必要性が叫ばれました。そこで、細かな教えや文化の違いを超えて、「共にお釈迦さまの弟子である」ことを再確認するために定められたのが、この仏旗と三帰依文なのです。これらは、平和への祈りと国際的な協力の精神を象徴する、仏教界の羅針盤といえます。🔶今週のまとめ仏教には「仏旗」と呼ばれる万国共通の旗があり、1950年の世界仏教徒会議で正式に採択されました。旗に使われる五つの色は、お釈迦さまの身体の特徴や徳を象徴しており、それぞれに慈悲や知恵の意味があります。「三帰依文」は仏・法・僧の三宝を拠り所とする誓いの言葉で、世界中の仏教徒が共通して唱えるものです。仏旗や三帰依文の統一は、第二次世界大戦後の平和への願いと、宗派を超えた国際協力の精神から生まれました。考え方や文化が違っても、同じお釈迦さまの教えを歩む旗印を持つことで、私たちは世界と繋がることができます。次回テーマは「降誕会(ごうたんえ)──親鸞聖人のお誕生日」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【現代教育の課題と仏教の役割】──情緒を育む「心の教育」
ゲスト:「terakoya 和多志家(「わたしや)」の蓮田大華(はすだ たいが)さん🔶現代教育の現実と子供たちの自己肯定感現在、不登校の小中学生は約30万人を超え、過去最多を記録しています。これに伴い、日本の子供たちの自己肯定感は先進国の中でも最低水準にあるといわれており、「自分にいいところがある」と思えない子供が増えているのが現状です。学校教育に馴染めず、自分の殻に閉じこもってしまう。そうした子供たちの心の叫びに対し、現代の教育システムがどう応えていくかが大きな課題となっています。🔶デジタル社会とSNSがもたらす影響現代の子供たちは常にデジタルの刺激に晒されています。NTTの調査によれば、小学6年生で約6割、中学生では約9割がスマートフォンを所持しています。SNSは便利である反面、子供には刺激が強すぎ、依存性や「見えないいじめ」の温床となる危険も孕んでいます。オーストラリアやアメリカの一部の州でSNSの利用制限が議論されているように、情報過多な社会の中で、いかに自分を見失わずに生きていくかが問われています。🔶仏教における「情操教育」と「教化」の歩み仏教には、明治時代から続く「少年教化(しょうねんきょうけ)」という長い歴史があります。これは単に知識や作法を教えるのではなく、命の尊さや情緒を育む「情操教育」を指します。お寺で開催される「日曜学校」や「子供会」といった活動は、非日常的な空間でお経を読み、お話を聞き、仲間と交流することを通じて、学校や家庭では得られない豊かな情緒を育む大切な役割を担ってきました。🔶「情緒」と「知性」の優先順位教育において知性を磨くことは重要ですが、蓮田大華さんは「情緒(心の育み)」が先にあるべきだと説いています。何のために勉強するのか。それは自分の心や情操を豊かにし、自分や他者を大切にするためであるべきです。情緒という土台があってこそ、初めて知性は正しく活かされます。AIが正解を提示する時代だからこそ、自らの心で答えを見つけ出すための「心の土台」作りが必要不可欠です。🔶金子みすゞの詩にみる命の多様性浄土真宗の門徒でもあった詩人・金子みすゞさんの「みんなちがってみんないい」という言葉は、仏教の慈悲の心を象徴しています。阿弥陀さまという仏さまは、個々の違いを否定せず、ありのままの姿を丸ごと受け入れてくださいます。それぞれの個性を尊重し、認め合うこと。教育に馴染めない子供たちも含め、あらゆる命がそのままで尊いのだと全肯定する仏教のまなざしこそが、現代教育の閉塞感を打ち破る鍵となるのかもしれません。🔶今週のまとめ現在、不登校の増加や自己肯定感の低下など、子供たちを取り巻く教育環境は深刻な課題に直面しています。SNSの普及による強い刺激や「見えないいじめ」から子供を守るため、大人がそのリスクを理解する必要があります。仏教には「教化」を通じて子供たちの情操を育んできた長い歴史があり、お寺はその拠り所としての役割を持っています。知性を磨くこと以上に、まずは情緒(心)を育むことを優先する教育のあり方が、今の時代には求められています。「みんなちがってみんないい」という教えの通り、個々の違いを認め合い、命を丸ごと肯定する視点が大切です。次回テーマは「仏教の旗」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。ゲストは「terakoya 和多志家(わたしや)」の蓮田大華(はすだ たいが)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教と教育】──寺子屋の精神と二宮尊徳の教え
ゲスト:「terakoya 和多志家」の蓮田大華(はすだ たいが)さん🔶教育の基盤としての寺子屋文化江戸時代、日本各地に広がった「寺子屋」は、お寺や民家を舞台に、読み書きそろばんといった「実学」を教える地域密着型の教育機関でした。この寺子屋こそが当時の日本の高い識字率を支え、明治5年の「学制(がくせい)」発布以降の近代教育の確かな土台となりました。お寺と教育は、歴史的に切っても切り離せない密接な関係にあり、学びを地域で育む精神は今もなお受け継がれています。🔶改革者としての二宮金次郎(二宮尊徳)教育の現場で親しまれてきた「二宮金次郎」といえば、薪を背負いながら本を読む銅像のイメージが強いですが、彼は生涯で600以上の農村を復興させた偉大な改革者でもありました。金次郎が大切にしたのは、学びと行動を一致させること。単に知識を得るだけでなく、それを身近な人や社会のためにどう活かすかを考える。この「生きた学び」こそが、実学の本質であるといえます。🔶『仏説観無量寿経』にみる独自の解釈二宮尊徳は、浄土真宗で大切にされる『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』の言葉、「光明遍照(こうみょうへんじょう) 十方世界(じっぽうせかい) 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)」を独自に解釈していました。彼はこの「如来の光」を、日々恵みを与えてくれる「太陽」に例えて農民たちに説きました。難しい教理を、農作業に励む人々の生活に即したメタファー(比喩)を用いて分かりやすく伝える。ここにも、学びを生活に結びつける彼の姿勢が表れています。🔶現代に活きる寺子屋式の異学年交流現在、熊本市中央区新大江で「terakoya 和多志家(わたしや)」を運営する蓮田大華(はすだ たいが)さんは、学年の枠を超えた教育を実践されています。同じ年齢で区切られる学校教育とは異なり、異なる学年の子供たちが同じ空間で学び合うことで、自然と教え合いやコミュニケーションが生まれます。「誰かに教えること」は最大の学びであり、この伝統的な寺子屋のシステムは、現代においても非常に画期的な学習方法として注目されています。🔶「積小為大」の精神と継続の力二宮尊徳の教えに「積小為大(せきしょういだい)」という言葉があります。小さなことを積み重ね、習慣にしていくことで、やがて大きな事を成し遂げられるという意味です。これは現代の子供たちにとっても、そして私たち大人にとっても極めて大切な視点です。5月23日(土)には、熊本市国際交流会館(または新都心プラザホール)にて映画『二宮金次郎』の上映会も予定されています。彼の生涯を知ることは、私たちの教育や生き方を見つめ直す貴重なご縁となるでしょう。🔶今週のまとめ江戸時代の寺子屋教育は、日本の近代教育の基盤となり、高い識字率と商業の発展に大きく寄与しました。二宮金次郎(尊徳)は、学びを日常生活や社会復帰に繋げる「実学」を重んじた改革者でした。尊徳は『観無量寿経』の教えを、農民に馴染み深い「太陽」に例えて説くなど、独自の柔軟な解釈を持っていました。現代の「寺子屋」的な異学年教育は、教え合う環境を通じて子供たちの心と知識を育む優れた手法です。「積小為大」の教えの通り、日々の小さな積み重ねを大切にすることが、豊かな学びと人生に繋がります。次回テーマは「仏教と現代教育(後編)」です。ゲストの蓮田大華さんと共にお送りします。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。ゲストは「terakoya 和多志家」の蓮田大華(はすだ たいが)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【熊本地震から10年】──月明かりに照らされる「救い」の心
🔶2度の震度7がもたらした甚大な被害2016年(平成28年)4月14日午後9時26分、そしてそのわずか2日後の16日未明。熊本を襲ったのは、観測史上類を見ない「2度の震度7」という激震でした。災害関連死を含め276名もの尊い命が失われ、家屋の倒壊や墓石の転倒など、街の景色は一変しました。震災から10年が経過した今、お寺の建物の歪みや修復された墓石を目にするたび、あの時の恐ろしさと震災の爪痕の深さを改めて思い知らされます。🔶SNSの有用性とフェイクニュースの恐ろしさ震災当時、情報のライフラインとなったのがSNSでした。断水時の給水情報や入浴支援など、生活に直結する情報の拡散には目を見張るものがありました。しかしその一方で、ライオンが逃げ出したという虚偽の情報(デマ)が拡散されるなど、情報の真偽が問われる事態も発生しました。混乱の中で何を信じるべきか、SNSの便利さと隣り合わせにある「情報の不確かさ」への危機管理は、現代の防災における大きな課題となりました。🔶法然上人の歌にみる月明かりの慈悲不安な夜、ふと見上げた夜空に輝く月明かりに救われた記憶があります。法然上人が詠まれた「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」という歌があります。月明かり(仏さまの慈悲)は、どのような寂しい里にも平等に降り注いでいますが、その光を仰ぎ見る人の心の中にこそ、月は静かに宿ってくださるという意味です。暗闇の中で自分を包み込んでくれる月明かりは、まさに阿弥陀さまの救いの光そのものでした。🔶震災における心のよりどころとしての仏教仏教の教えは、直接的に震災という現実を消し去るものではありません。しかし、どのような絶望の淵にあっても「私を見捨てない仏さまがご一緒である」という確信は、折れそうな心を支える大きなよりどころとなります。目に見える救済だけでなく、目に見えない「心の支え」があることは、人が独りではないと感じ、前を向くための静かな、しかし確かな推進力となるのです。🔶10年を経て語り継ぐ防災とご縁の絆震災から10年が経ち、街は復興が進みましたが、人と人との繋がりの大切さは変わりません。災害を乗り越える力は、日頃からの近所付き合いや地域の絆の中にあります。災害はいつどこで起こるかわかりません。10年という節目に当時の記憶を風化させることなく、常に「防災」の意識を持ち、互いに支え合える「ご縁」を日々大切に育てていくことが、私たちに課せられた大切な役割です。🔶今週のまとめ2016年の熊本地震から10年。2度の震度7という激震がもたらした記憶は、今も私たちの心に深く刻まれています。震災時はSNSが有用な情報源となる一方で、デマの拡散という恐ろしさもあり、情報の扱い方を学ぶ機会となりました。法然上人の歌「月かげの」に象徴されるように、どんな苦難の時でも平等に注がれる仏さまの光が、心の支えとなりました。宗教の役割は、どうしようもない不安に寄り添い、「独りではない」という安心感を人々に届けることにあります。10年の節目に改めて防災の意識を高め、地域の人々との繋がりという「ご縁」を大切にしていくことが、未来への備えとなります。次回テーマは「仏教と言葉(ありがとうの由来)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【花まつり】──お釈迦さまの誕生と「ブルーメンフェスト」の心
🔶灌仏会の由来とルンビニの花園4月8日は「花まつり」です。お釈迦さまのお誕生日をお祝いするこの行事は、正式には「灌仏会(かんぶつえ)」と呼ばれます。およそ2,500年前、現在のネパールにあるルンビニの花園でお生まれになったお釈迦さまを祝し、色とりどりの花で飾られた「花御堂(はなみどう)」が作られます。天から「甘露(かんろ)の雨」が降り注いだという伝承にちなみ、誕生仏の像に甘茶をかける風習が今に伝わっています。🔶白い象の夢と摩耶夫人の誕生お釈迦さまの誕生には神秘的なエピソードがあります。母である摩耶夫人(まやぶにん)が、白く大きな象が体の中に入ってくる夢を見られ、お釈迦さまを身ごもられたといわれています。お生まれになったお釈迦さまは、すぐに七歩歩まれ、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言葉を発せられました。これは「この世に生きるあらゆる命は、何ものにも代えがたい尊いものである」という、命の平等を宣言されたお言葉です。🔶「花まつり」という名称の意外な歴史お釈迦さまのお誕生日を祝う行事自体は非常に古く、日本では推古14年(606年)に法興寺(ほうこうじ/現在の飛鳥寺)で行われた記録が『日本書紀』に残されています。しかし、「花まつり」という呼び名の歴史は意外にも浅く、明治34年(1901年)にドイツへ留学していた僧侶らが、ベルリンのホテルで開催したのが始まりです。🔶ドイツ語「ブルーメンフェスト」から広まった名称当時、ベルリンに集まった憲法学者の美濃部達吉(みのべ たつきち)さんら18名の日本人は、お釈迦さまの生誕を祝う「ブルーメンフェスト(ドイツ語で「花の祭り」)」を開催しました。このイベントがドイツで大いに盛り上がり、大正5年(1916年)に日本でも日比谷公園で大規模な「花まつり」が挙行されたことで、この名称が全国に定着しました。伝統的な仏教行事が、ヨーロッパの文化と交わって新しい名前を得たという非常に興味深い歴史があるのです。🔶宗派を越えた仏教共通の喜び花まつりは、浄土真宗、浄土宗、日蓮宗、禅宗など、宗派の垣根を越えてお祝いできる仏教共通の祭典です。熊本でも、仏教連合会による「稚児(ちご)行列」が下通り・上通りのアーケードで行われるなど、地域に親しまれています。かつて甘いものが贅沢品だった時代、甘茶を分かち合うことは大きな喜びでした。時代は変わっても、甘茶の風味を楽しみながら、お釈迦さまが示された「命の尊さ」に思いを馳せる大切なひとときです。🔶今週のまとめ4月8日はお釈迦さまの誕生日を祝う「花まつり(灌仏会)」で、ルンビニでの誕生を伝えています。お釈迦さまは誕生の際「天上天下唯我独尊」と仰り、すべての命が等しく尊いことを示されました。「花まつり」という名称は1901年にベルリンで開かれた「ブルーメンフェスト」が語源となっています。渡辺海旭和上や美濃部達吉氏らがドイツで始めた祭りが、現在の日本の花まつりのルーツとなりました。宗派を越えて甘茶や稚児行列を楽しみ、命の恵みを分かち合うのが仏教共通の願いです。次回テーマは「熊本地震(発生から10年)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教と桜】──散りゆく姿にみる命の真実
🔶良寛和尚の辞世に見る諸行無常江戸時代の曹洞宗の僧侶であり、歌人としても知られる良寛(りょうかん)和尚の辞世の句に「散る桜 残る桜も 散る桜」という歌があります。今を盛りと咲き誇り、枝に残っている桜も、やがては等しく散っていく。この歌は、仏教の根本的な教えである「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を鮮やかに示しています。私たちは今、精一杯に生きていますが、同時に誰もがいつかは命を終えていく存在であることを、散りゆく桜の姿を通して良寛さんは優しく、しかし厳かに語りかけています。🔶親鸞聖人九歳の決意と「仇桜」の歌浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人は、わずか九歳の春に京都の青蓮院(しょうれんいん)で出家されました。その際、得度(とくど)の儀式の導師を務められた慈円(じえん)和尚が、夜も更けたため「儀式は明日にしましょう」と提案されました。しかし、聖人は「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」という歌を詠み、今夜のうちの出家を懇願されました。「明日もあると思っているこの心は、嵐が吹けば夜のうちに散ってしまう桜のように儚いものです」という決意は、慈円和尚の心を強く打ち、その夜のうちに儀式が執り行われました。🔶花の終わりを彩る日本語の感性日本語には、花の終わりを表現する独特の言葉が数多く存在します。桜は「散る」、梅は「こぼれる」、椿は「落ちる」、牡丹は「崩れる」といったように、それぞれの花が命を終える姿を繊細に捉えています。これらは単なる自然現象の描写ではなく、命が尽きゆく瞬間にもその個性に合わせた美しい名前を与えようとした、先人たちの深い慈しみの心の表れといえるでしょう。🔶「死」を「往く」と捉える往生の教えでは、人の命の終わりはどう表現されるのでしょうか。「死ぬ」や「終わる」といった言葉がありますが、浄土真宗においては「往(ゆ)く」という言葉を用います。これは「往生(おうじょう)」、すなわち「浄土に往(い)き生まれる」ことを意味します。命が終わればすべてが消えてなくなるのではなく、阿弥陀さまの導きによって仏さまとして新しいステージへと生まれていく。死を「終わり」ではなく、次への「始まり」として捉えるこの教えは、死の恐怖に立ちすくむ私たちに大きな安心を与えてくれます。🔶桜の散り際が問いかける今を生きる姿勢桜の美しさは、その華やかさとともに、潔く散っていく儚さにあります。私たちは一日の終わりを迎えるたびに、確実に人生の最期へと近づいています。しかし、その終わりをただの「消滅」と見るか、お浄土への「往生」と見るかによって、今を生きる心持ちは大きく変わります。散りゆく桜を眺めながら、自らの命の尊さと、阿弥陀さまに抱かれた「必ず救われていく命」であるという喜びに出会ってほしい。桜という花は、そのような問いを私たちに投げかけているのです。🔶今週のまとめ良寛和尚の「散る桜 残る桜も 散る桜」という歌は、すべての命が等しく無常であることを教えています。九歳の親鸞聖人が詠まれた歌は、明日をも知れぬ命の儚さと、今この瞬間に仏道へ進む強い決意を示したものです。日本語には「散る」「こぼれる」「落ちる」など、花の終焉を慈しむ豊かな表現が備わっています。浄土真宗では死を「終わり」とせず、お浄土へ「往(ゆ)く(往生する)」という希望ある言葉で捉えます。桜の散り際を見つめることは、自らの命のあり方に向き合い、仏法に出会う尊いご縁となります。次回テーマは「花まつり」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教と料理】──命の根源を見つめる「お斎(おとき)」の心
🔶お釈迦さまと乳粥にみる食の原点仏教において「食」は命の根源であり、悟りへの道とも深く関わっています。かつて過酷な苦行で命を落としかけたお釈迦さまを救ったのは、村娘スジャータが捧げた一杯の「乳粥(ちちがゆ)」でした。この供養によって体力を回復されたお釈迦さまは、極端な苦行では真の悟りを得られないと気づき、中道の教えを見出されました。乳粥という一つの料理こそが、仏教の歴史を大きく動かす原点となったのです。🔶「醍醐味」の語源と仏教の深い縁私たちが日常的に使う「醍醐味(だいごみ)」という言葉は、仏教経典の『涅槃経(ねはんぎょう)』に由来しています。経典では、牛乳を精製する過程を五段階(乳・酪・生酥・熟酥・醍醐)で示し、最後に出来上がる最高級の乳製品を「醍醐」と呼び、それを仏の教えに例えました。また、カルピスの名称も、この最高級の乳漿を意味するサンスクリット語「サルピル・マンダ」を参考にして生まれたといわれており、仏教と食には意外な繋がりがあります。🔶浄土真宗における肉食と親鸞聖人の歩み仏教では不殺生戒(ふせっしょうかい)に基づき肉食を避ける文化がありますが、浄土真宗では伝統的に肉食を禁じてきませんでした。これは、自らの修行や功徳によって仏になるのではなく、阿弥陀さまの無差別な救いの中に生かされているという教えに基づいています。親鸞聖人ご自身も「非僧非俗(ひそうひぞく)」として一般の人々と同じ生活を送り、食の制限を設けませんでした。ちなみに、聖人が好まれたのは「小豆(あずき)」であり、現代でも「御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)」などの法要では伝統的な小豆粥が振る舞われています。🔶仏事の食事「お斎」に込められた意味法事などで供される食事を「お斎(おとき)」と呼びますが、これは本来、僧侶が食事を摂る決まった時間を指す「斎時(さいじ)」に由来しています。私の祖父である高千穂正史(たかちほ まさふみ)は、法事の席で「亡き人の思い出を語り合うことこそが、何よりのご馳走である」と説いていました。形としての料理だけでなく、共に亡き人を偲び、命の繋がりを確認するその豊かな時間が、私たちの心を育む糧となるのです。🔶命をいただく感謝の作法と追憶私たちは日々、多くの命に支えられて生かされています。浄土真宗では、食前には「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうを恵まれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」と唱え、食後には「尊いいのちを、おいしくいただきました。御報謝(ごほうしゃ)に努めます。おかげでごちそうさまでした」と合掌します。飽食の時代だからこそ、食前食後の言葉を通じ、命への感謝と亡き人への追憶を大切にしていきたいものです。🔶今週のまとめ仏教と食には密接な関係があり、お釈迦さまを救った乳粥は仏教の原点ともいえます。「醍醐味」という言葉は、牛乳の精製過程で最高の味を仏の教えに例えた経典の言葉が語源です。浄土真宗では修行による制限を設けず、ありのままの生活の中で命をいただく感謝を説きます。法事の食事「お斎(おとき)」は、亡き人の思い出を分かち合う「心のご馳走」をいただく場です。食前食後の言葉を通じて、多くの命に支えられている事実を喜び、感謝を深めることが大切です。次回テーマは「仏教と桜」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【春のお彼岸】──「聴く」ことでつながる浄土の心
🔶お彼岸の由来と波羅蜜多の心3月20日の「春分の日」は、お彼岸の中日です。お彼岸の語源は、サンスクリット語の「パーラミター」を音写した「波羅蜜多(はらみった)」であり、「悟りの岸へ至る」ことを意味します。太陽が真東から昇り、真西に沈むこの時期、私たちは西に沈む太陽の姿に「西方浄土(さいほうじょうど)」を想います。科学的な目線を超えて、阿弥陀さまの限りない命と光の救いに心を寄せる、それが浄土真宗のお彼岸の歩みです。🔶外陣の広さにみる「聴聞」の精神浄土真宗の本堂には、阿弥陀さまを安置する「内陣(ないじん)」と、参拝者が座る「外陣(げじん)」があります。特徴的なのは、参拝者が座る外陣が非常に広く造られている点です。これは、お救いの話を聞く「聴聞(ちょうもん)」を何よりも大切にするためです。多くの人が集まり、共に教えを聞くための場所が、お寺の設計そのものに組み込まれているのです。🔶お寺から生まれた落語の伝統お寺の本堂には、僧侶が教えを説くための「高座(こうざ)」や、話を補足するための黒板、マイクが備えられています。実は、日本の伝統芸能である「落語」の起源は、お坊さんの法話にあります。江戸時代の僧侶で「落語の祖」と呼ばれる安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)上人は、法話を基に滑稽な話を生み出しました。寄席の用語である「前座(ぜんざ)」も、法話の前に司会を務める若い僧侶が由来となっています。🔶蓮如上人が説く「聴聞」の極意浄土真宗の中興の祖である蓮如上人は、『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』の中で「仏法は聴聞に極まることなり」と説かれました。聴聞とは、阿弥陀さまの救いのお話を、そのまま真っ直ぐに聞き届けることです。「なぜこの私が救いの目当てとされたのか」という慈悲の物語を繰り返し聞かせていただく「法座(ほうざ)」は、お寺にとって最も重要な場なのです。🔶お墓参りから法話への一歩お彼岸といえばお墓参りですが、それだけでなく、ぜひお寺の本堂で開催される「法話」にも足を運んでいただきたいのです。最近ではお寺の掲示板やSNSで情報を発信する寺院も増えています。亡き人を偲ぶお墓参りという尊いご縁をきっかけに、仏さまの心を聞かせていただく。それが、自分自身の命を見つめ直し、豊かな人生を歩むためのお彼岸の本来の過ごし方といえます。🔶今週のまとめお彼岸はサンスクリット語の「波羅蜜多」を語源とし、悟りの世界であるお浄土を想う期間です。浄土真宗のお寺は教えを聞く「聴聞」を重視するため、参拝者が座る外陣が広く造られているのが特徴です。落語の祖とされる安楽庵策伝上人は僧侶であり、落語の形式や「前座」などの用語はお寺の法話が由来です。蓮如上人は「仏法は聴聞に極まる」と示され、仏さまのお救いをそのまま聞くことの大切さを説かれました。お彼岸はお墓参りだけでなく、お寺で法話を聞くことを通じて仏さまの心に触れる尊いご縁の場です。次回テーマは「仏教と料理」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【3.11 東日本大震災】──「そこにいる」という宗教者の役割
🔶震災から15年、記憶と現実へのまなざし2011年3月11日、午後2時46分。宮城県三陸沖を震源としたマグニチュード9.0の巨大地震は、津波や震災関連死を含め2万2,000人以上の尊い命を奪いました。震災から15年が経過した今なお、福島県の大熊町や双葉町など7市町村には帰還困難区域が残り、避難生活を余儀なくされている方々がおられます。仙台市立荒浜小学校の跡地のように、校舎の2階まで津波が押し寄せた記憶を留める遺構は、私たちに自然災害の脅威と命の重さを静かに語り続けています。🔶心の傷「PTSD」とサバイバーズ・ギルト被災された方々が抱える苦しみは、目に見える被害だけではありません。死の危険に直面した体験が強烈なストレスとなり、悪夢や不安、現実感の喪失を引き起こす「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」に苦しむ方が多くおられます。また、「なぜ自分だけが生き残ってしまったのか」と自らを責める「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)」という心の痛みもあります。こうした心の傷は、生活基盤が整い、日常を取り戻し始めた頃に、ふとした拍子に表面化することが少なくありません。🔶臨床宗教師の誕生とその役割震災をきっかけに、公共空間で心のケアを担う「臨床宗教師(りんしょうしゅうきょうし)」という存在が注目されました。これは欧米の「チャプレン(宗教を背景に施設等でケアを行う専門職)」をモデルに日本で生まれたものです。布教や伝道を目的とするのではなく、相手の価値観を尊重しながら、被災された方の悩みや孤独に寄り添います。宗教者の本来の役割は、何かを教え導くこと以上に、苦悩の中にいる方と同じ場所で「ただ、そこにいる」ことにあるのです。🔶「ただ聴く」という寄り添いのかたち被災地における宗教者の主な活動は、相手の話を丁寧に聴く「傾聴(けいちょう)」です。家族を突然失った悲しみ、伝えられなかった後悔、あるいは日常の些細な愚痴。誰にも言えずにいた思いを言葉にすることで、整理のつかない感情が少しずつ和らいでいくことがあります。災害がいつどこで起き、いつ命を落とすかわからないという人間のありのままの現実に直面したとき、宗教者は共に立ち止まり、その苦悩を分かち合う「聴き手」としての役割を担います。🔶カフェ活動を通じた安らぎの提供臨床宗教師の実践の一つに、被災された方々の集いの場となる「カフェ」の活動があります。温かいコーヒーやお菓子を囲みながら、宗教者と住民が肩を並べて語らう場です。つらい記憶を無理に引き出すのではなく、安心して集まれる場所を提供し、対話のきっかけを作ります。誰かに思いを打ち明けられる場があることは、明日を生きていくための小さな、しかし確かな支えとなります。15年という月日が経っても、失われたものは戻りませんが、悲しみを抱えたまま共に歩む営みは続いています。🔶今週のまとめ東日本大震災から15年が経ちますが、今なお震災の記憶と帰還困難区域という現実が残されています。被災地では震災による直接的な被害だけでなく、PTSDやサバイバーズ・ギルトといった心のケアが重要です。臨床宗教師は、布教ではなく公共空間で人々の苦悩に寄り添う、日本版チャプレンとしての役割を担っています。宗教者の役割は、何かを説くこと以上に「そこにいる」こと、そして相手の話を丁寧に聴くことにあります。カフェ活動などの集いを通じて、つらい記憶や孤独を抱える人々の心が和らぐ場を支援し続けることが大切です。次回テーマは「春のお彼岸(おひがん)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【学問の起源と「まねぶ」心】──龍谷大学から学ぶ仏教の英知
🔶日本における大学制度の変遷と起源日本の大学の起源は、701年の「大宝律令」にまでさかのぼります。当時は貴族の子弟を対象とした官吏養成機関でしたが、その後、日本最古の総合大学といわれる「足利学校」や、弘法大師空海にゆかりのある「種智院(しゅちいん)」など、多様な教育の場が生まれました。近代に入り、明治19年の「帝国大学令」によって西洋式の大学制度が整えられ、大正7年の「大学令」を経て、現在の私立大学を含む高等教育の枠組みが確立されていきました。🔶現存する最古の大学としての龍谷大学日本に現存する最古の大学は、京都にある「龍谷大学」です。その歴史は江戸時代の1639年(寛永16年)、西本願寺に設けられた「学寮(がくりょう)」に始まります。以来、学林、大教校と名を変えながらも一度も途切れることなく継続され、すべての記録が現存しています。重要文化財に指定されている大宮キャンパスの本館などは、幕末から明治にかけての面影を今に伝えており、学生たちは歴史的な重みを感じながら学問に励んでいます。🔶善導大師の説く「学仏大慈心」の教え浄土真宗の学問の根底には、中国の高僧・善導(ぜんどう)大師が『観経四帖疏(かんぎょうしじょしょ)』の中に記された「学仏大慈心(がくぶつだいじしん)」という言葉があります。これは「仏さまの大慈悲心を学ぶ」という意味です。仏さまの慈悲とは、すべての命を慈しみ、煩悩から解き放って仏にしようと願う心です。この尊いお心を学び、自分自身の指針としていくことこそが、仏教を学ぶ真の意義であるといえます。🔶「学ぶ」の語源に見る真似ることの大切さ「学ぶ」という言葉の語源は、真似をするという意味の「まねぶ」にあるといわれています。私たちは最初から仏さまのような慈悲の心を持つことはできませんが、そのお姿や教えを「真似る」ことから始め、少しずつ自分の中に吸収していきます。これは仏教に限らず、あらゆる学問や技術の習得に通じる姿勢です。先人の知恵や真理を敬い、自らの肉体や行動を通して実践していくことに、学びの本質があります。🔶大学生活という人生のかけがえのない経験大学は単に知識を得る場所だけではありません。親元を離れた一人暮らしや、社会の仕組みを知るアルバイトなど、学生時代のすべての経験がその後の人生の財産となります。仲間と語り合い、汗を流し、時には失敗しながら学んだ人間関係や社会経験は、教室での講義と同じくらい貴重なものです。これから大学を目指す方々には、学問はもちろん、その時期にしかできない多様な経験を宝物にしてほしいと願っています。🔶今週のまとめ日本に現存する最古の大学は、1639年に始まった本願寺の学寮を起源とする龍谷大学です。龍谷大学の大宮キャンパスには、重要文化財に指定された歴史ある学舎が今も残っています。善導大師は「学仏大慈心」と説き、仏さまの慈悲の心を学ぶことの大切さを示されました。「学ぶ」の語源は「まねぶ(真似る)」にあり、仏さまのお心を真似て実践することに学びの意義があります。大学生活における学問や様々な社会経験は、その後の人生を支えるかけがえのない財産となります。次回テーマは「3.11(東日本大震災)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【卍(まんじ)の意味】──吉兆の印に込められた願い
🔶卍の語源と世界共通の吉兆の印地図記号でお寺を表す「卍」は、単なる記号ではなく「万」という漢字でもあります。そのルーツはインドのサンスクリット語「スヴァスティカ」にあり、幸福や幸運を意味します。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の胸の瑞毛(ずいもう)に由来し、仏教ではお釈迦さまの胸に現れた「吉兆の印」とされています。実はその歴史は極めて古く、ウクライナのメジリチ遺跡(旧石器時代)で発見されたものが最古といわれ、宗教の枠を超えて世界中で用いられてきた根源的な形なのです。🔶日本における歴史と地図記号への定着この印が中国へ伝わると、693年に武則天(ぶそくてん)によって「万(まん)」と呼ぶことが定められました。これは「あらゆる吉祥が集まる」という意味が込められています。日本では、奈良・薬師寺の薬師如来像の足の裏に刻まれているものが現存する最古の例といわれ、1300年以上も前から幸福の象徴として親しまれてきました。明治13年(1880年)には、国土地理院によって正式に寺院を表す地図記号として定められ、今日に至ります。🔶時代を越えて人々を惹きつける形卍は、古今東西を問わず人々を惹きつける魅力を持っています。江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎は、晩年に「画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)」と号しました。また、現代の若者の間でも「マジ卍」という言葉が流行したように、その形や響きには理屈を超えて心に訴えかける力があるのかもしれません。特定の宗派の紋(浄土真宗の「下がり藤」など)とは異なり、卍はお寺全体の共通の印として、世界中の人々に「ここは聖なる場所である」ことを伝えています。🔶「四つのL」で味わう仏さまの働き私の祖父である高千穂正史(たかちほ まさふみ)は、卍の形を「四つのL」が組み合わさったものとして味わっていました。一つ目はLove(慈悲)。すべての命を救うという阿弥陀さまの慈愛。二つ目はLife(限りない命)。いつでもどこでも私を支える命。三つ目はLight(限りない光)。どんな暗闇にいても届く仏さまの知恵の光。そして四つ目はLiberty(自由・解放)。迷いやとらわれから解放され、真実の道へと導かれる自由です。🔶仏さまの働きを象徴する卍卍という形には、これら「Love、Life、Light、Liberty」という仏さまの命の働きが凝縮されています。それは私たち一人ひとりに向けられた、限りない救いのエネルギーの象徴です。お寺の門前で卍のマークを見かけたときは、それが単なる記号ではなく、太古の昔から人類が願い続けてきた「幸福への祈り」であり、今ここにある私を包み込む「仏さまの慈悲の働き」そのものであることを思い出していただければと思います。🔶今週のまとめ卍はお寺の地図記号であるだけでなく、サンスクリット語の「幸運」を語源とする漢字です。その歴史は古く1万年前の遺跡からも発見されており、世界中で吉兆の印として用いられてきました。日本では薬師寺の如来像に刻まれたものが最古とされ、1300年以上前から幸福の象徴とされています。高千穂正史和上は、卍をLove(慈悲)、Life(命)、Light(光)、Liberty(自由)の「四つのL」として味わいました。卍の形には、私たちを救いへと導く仏さまの多面的な働きが象徴されています。次回テーマは「学問(日本最古の大学)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【山本仏骨和上の生涯】──母の言葉に導かれた念仏の道
🔶浄土真宗における呼び名と学階制度浄土真宗では、僧侶を「和尚(おしょう)」と呼ぶことは少なく、一般的には「住職」や「ご院家(ごいんげ)」、親しみを込めて「おっさん(御師さん)」などと呼びます。また、お寺の跡継ぎのことは「新発意(しんぼち)」と呼ぶ独特の習慣があります。こうした呼び名の一方で、学問を深く修めた僧侶には「学階(がっかい)」という位が授けられます。最高位の「勧学(かんがく)」やそれに次ぐ「司教(しきょう)」といった方々は、教えを導く立場として「和上(わじょう)」と敬称されます。本願寺派の僧侶約3万人の中で、この高位にある方はわずか30数名という、非常に厳しい研鑽を積まれた方々です。🔶勧学・山本仏骨和上の歩み今回ご紹介する山本仏骨(やまもと ぶっこつ)和上は、1910年(明治43年)に石川県の一般家庭に生まれました。お寺の出身ではないながらも、最終的には龍谷大学教授を務め、最高位の「勧学」にまで昇り詰められた、現代浄土真宗を代表する高僧の一人です。しかし、その人生は波乱に満ちたものでした。正規の教育は小学校までという厳しい逆境の中から、仏道への道を切り拓いていかれたのです。🔶スペイン風邪の惨禍と母の遺言山本和上が幼い頃、世界中で「スペイン風邪」が猛威を振るい、当時の世界人口の約3分の1が感染するという未曾有のパンデミックが起こりました。和上の家庭も例外ではなく、父と5人の兄弟を次々と亡くし、最後には母も病床に伏しました。見舞いに訪れた人々が、残される幼い我が子を案じて涙する中、お母様は「私は死んでもこの子から離れません。お浄土へ参らせていただき、そこからこの子を生涯守り続けます」と、明るい声で言い残されたといいます。🔶逆境の中で支えとなった母の眼差し母を亡くした後、和上は親戚の家に預けられ、子守などの奉公をしながら少年時代を過ごしました。同年代の子供たちが中学校へ通う姿を見て、進学できない自分を嘆き、悔し涙を流す日々もありました。しかし、そんな時にいつも思い起こされたのが、死の淵にありながら「お浄土から見守っている」と語った母の言葉でした。その言葉が、絶望の淵にあった和上の心を支え、学問の道、そして仏道へと突き動かす大きな力となったのです。🔶終わりなき命の繋がりと念仏の喜び山本和上の人生を導いたのは、極限の状態にあってもお念仏を喜び、救いの中に生きたお母様の姿でした。死は決して断絶ではなく、阿弥陀如来のお浄土において「仏」となり、今を生きる私たちを支え続ける働きとなる──。このお母様の確信は、まさに浄土真宗が説く「あらゆる命を救い取って捨てない」という阿弥陀如来の慈悲そのものでした。和上の功績は、この温かな命の繋がりを、自らの生涯をかけて証明し続けた点にあるといえるでしょう。🔶今週のまとめ 山本仏骨和上は、一般家庭の出身から本願寺派の最高学階「勧学」に至られた、近代を代表する高僧です。 浄土真宗では師弟子という壁を作らず、学問を修め教えを導く指導者を「和上」と敬意を持って呼びます。 幼少期にスペイン風邪で家族のほとんどを失い、小学校卒という境遇から苦学の末に龍谷大学教授となられました。 死を目前にしたお母様の「お浄土から生涯守り続ける」という言葉が、和上の生涯を支える光となりました。 お母様が示された念仏の姿は、死を超えて続く阿弥陀如来の救いと命の繋がりを物語っています。次回テーマは「卍(まんじ)の意味」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【涅槃会】──お釈迦さまの入滅と「救い」のかたち
🔶涅槃会の由来とニルヴァーナの意味2月15日は「涅槃会(ねはんえ)」です。これは、仏教の開祖であるお釈迦さまが入滅(にゅうめつ)、すなわちその生涯を終えられた日の法要を指します。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」といい、もともとは「火を吹き消すこと」を意味します。私たちの迷いである「煩悩の火」を吹き消した悟りの境地のことであり、中国では「滅度(めつど)」とも訳されました。🔶お釈迦さまのご生涯と最後のお食事お釈迦さまは29歳でご出家(しゅっけ)され、35歳で悟りを開かれました。それから45年間にわたり「み教え」を説き続け、80歳で入滅されました。今から約2,500年前、日本でいえば縄文時代のことです。お釈迦さまが亡くなられた原因は食中毒であったといわれ、経典『涅槃経』には「スカーラ・マッダヴァ(柔らかい豚、あるいはキノコ料理の意)」を召し上がったと記されています。当時の僧侶は、信徒から供えられたものは肉であってもいただくのが作法であり、その伝統は現在も東南アジアの上座部仏教などに引き継がれています。🔶涅槃図にみる「北枕」と約束事お釈迦さまが入滅される様子を描いた「涅槃図(ねはんず)」には、いくつもの約束事があります。お釈迦さまは頭を北にし、西を向き、右脇を下にして横たわっておられます。これを「頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)」といい、現代の「北枕」の由来となりました。本来、これはお釈迦さまの尊いお姿に倣ったものであり、決して縁起が悪いものではありません。また、図には満月と8本の沙羅双樹(さらそうじゅ)が描かれ、教えが不滅であることを象徴しています。🔶生きとし生けるものとの別れと摩耶夫人涅槃図にはお弟子さんだけでなく、馬、猿、象といったありとあらゆる生き物たちが集まり、お釈迦さまの死を嘆き悲しむ姿が描かれています。一説に「猫」が描かれないのは、お釈迦さまへの薬を運ぶネズミを猫が捕まえてしまったからだという逸話もあります。また、空の上からはお釈迦さまの母である摩耶夫人(まやぶにん)が、天女とともに亡き息子のもとへ駆けつける姿が描かれており、一切の命がお釈迦さまを慕う様子が表現されています。🔶入滅という「方便」が示す導きお釈迦さまが亡くなられたことは、単なる命の終わりではありません。仏教ではこれをお釈迦さまが私たちに示された「方便(ほうべん)」、つまり救いのための導きであると捉えます。生死(しょうじ)を超えた悟りの境地を、自らの生涯をもって示されたのです。涅槃会という日は、お釈迦さまを偲ぶとともに、時代や宗派を超えて、私たちが本来出会うべき「救い」と「命のありよう」を改めて見つめ直す大切なご縁となります。🔶今週のまとめ 2月15日は涅槃会。お釈迦さまが80歳で入滅された日を偲ぶ、仏教において極めて大切な法要です。 涅槃(ニルヴァーナ)とは「煩悩の火を吹き消した状態」を指し、仏さまの悟りの境地を意味します。 涅槃図に描かれたお釈迦さまのお姿は、現代の「北枕」の由来となった尊い形です。 涅槃図にはあらゆる動物や天界の摩耶夫人までが登場し、お釈迦さまとの別れを惜しむ姿が描かれています。 お釈迦さまの入滅は、私たちに命の真実と救いのかたちを指し示す尊い「方便」でもあります。次回テーマは「山本仏骨(やまもと ぶっこつ)和上」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【動物と仏教】──身近な命との向き合い方
🔶ペットという身近な命とのご縁現在、日本で飼育されている犬猫の合計数は約1,600万頭にのぼり、15歳未満の子どもの数(約1,435万人)を上回っています。それだけ動物という存在は、私たちの日常生活において身近な「命のご縁」となっているのです。仏教の視点から動物を考えるとき、そこには「迷いの中に生きる存在」という厳しさと、「尊い平等な命」という慈しみの両面が見えてきます。🔶六道輪廻における畜生道という世界仏教には、迷いの世界を六つに分けた「六道輪廻(ろくどうりんね)」という教えがあります。動物は「畜生道(ちくしょうどう)」に分類され、本能(欲)のままに生き、楽しみが少なく苦しみが多い世界とされています。これを「愚鈍(ぐどん)に生きて真理を知らない」という意味で「愚痴(ぐち)」とも呼びます。人間とは異なる迷いの形を生きる存在として、まずはその違いを見つめる立場があります。🔶シビ王の物語にみる命の平等一方で、動物を人間と「同じ救いの対象」として尊ぶ見方もあります。古くから伝わる「シビ王(しびおう)」の物語では、タカに追われたハトを救うため、シビ王が自らの肉を切り、ハトと同じ重さ分をタカに与えて両者の命を救いました。これは「命の重さに人間も動物も区別はない」という仏教の平等観を象徴しています。命に優劣をつけない、慈悲のまなざしがここにあります。🔶親鸞聖人が説く命の繋がり浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、著書『歎異抄(たんにしょう)』の中で「一切の群生(ぐんじょう)は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)兄弟(きょうだい)なり」と述べられました。生きとし生けるものは、幾度も生まれ変わりを繰り返す中で、かつて自分の父母であり兄弟であったかもしれない存在だという教えです。目の前の動物を、他人事ではない深い縁(えにし)ある命として受け止める姿勢を説いています。🔶他の命に支えられているという自覚私たちは、他の命をいただくことで生かされています。詩人の金子みすゞさんは、その詩「大漁」の中で、浜が祭りのように湧く一方で、海の中では何万ものイワシの弔いがあるだろうと詠みました。近年注目される「アニマルウェルフェア(動物福祉)」の考え方も、単なる愛護にとどまらず、私たちの生活を支えてくれる動物たちのストレスを減らし、尊厳を守る取り組みです。こうした具体的な配慮の中に、平等を育てる一歩があります。🔶今週のまとめ現代社会において、動物は子どもより数多く存在するほど、人にとって身近な命のご縁となっています。 仏教では動物を「畜生道」という迷いの存在と見る一方で、等しく尊い平等な命としても捉えます。 親鸞聖人は「すべての命はかつての父母兄弟である」と説き、命の境界を超えた繋がりを示されました。 私たちは他の命に支えられて生きていることを自覚し、動物への配慮や制度づくりに関心を持つことが大切です。 阿弥陀如来の救いはすべての命に届いており、共に仏となる道を歩む「いのち」であることを忘れてはなりません。次回テーマは「繁栄(はんえい)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【現代の葬儀】──変わりゆくかたち、変わらない意味
🔶宮型霊柩車の激減とその背景 かつて葬送の象徴だった、金飾りの施された「宮型霊柩車」が姿を消しつつあります。2003年には全国で2,000台以上が走っていましたが、現在は10分の1の220台ほどにまで激減しました。その背景には、近隣住民から「自宅の前を通るのは縁起が悪い」という苦情が寄せられるなど、死を忌み嫌い、遠ざけようとする意識の変化があります。現在では全国150以上の自治体で、火葬場への宮型霊柩車の乗り入れが制限されるようになっています。🔶葬儀の場と家族のかたちの変遷 葬儀の簡素化は、社会構造の変化と深く結びついています。かつては自宅で執り行われ、地域住民が列をなす「葬列」がありましたが、明治時代に葬儀社が誕生し、やがて葬儀会館での式が一般的となりました。三世代同居から核家族化、そして単身世帯が約半数を占める現代において、住環境(マンションなど)の変化もあり、葬儀のかたちが変化していくのは時代の必然とも言えます。🔶死を「縁起」で捉える心への問い 霊柩車を「縁起が悪い」と避ける心理の根底には、死を恐れ、穢れ(けがれ)として遠ざけたいという人間の感情があります。しかし、仏教(浄土真宗)では、死を穢れとは捉えません。そのため、葬儀の後に「清めの塩」をまく習慣もありません。亡くなった大切な方を穢れとして扱うのではなく、最後までその命の尊さに敬意を払い、感謝の心で送ることを大切にします。🔶葬送儀礼が持つ本来の意味 葬儀や通夜、火葬といった一つひとつの儀礼には、深い意味が込められています。霊柩車のルーツが「葬列」にあるように、それは亡き人を丁寧にお送りする真心のかたちでした。形式が質素になること自体は時代の流れですが、その奥にある「意味」まで失われてはなりません。儀礼を簡略化する現代だからこそ、私たちが何を大切にすべきかを改めて見つめ直す必要があります。🔶死別を「自己の命」に向き合うご縁に 仏教において葬儀とは、単なる別れの儀式ではありません。亡き人が「仏さま」となられ、新たなる関係が始まる場です。死を終わりと見るのではなく、死別という出来事をご縁として、今を生きる私が「自らの命」を見つめ直す。死を恐れるだけでなく、自分もいつか終わりゆく命であることを受け入れていく。そのまなざしを持つことが、亡き人への敬意となり、私たちの生きる力となります。🔶今週のまとめ宮型霊柩車は全盛期の10分の1に激減。死を遠ざける社会心理や自治体の規制が影響しています。社会や家族のあり方が変化し、葬儀の場は「家」から「会館」へと移り、簡略化が進んでいます。浄土真宗では死を穢れと見ないため「清めの塩」は使いません。命の繋がりを尊びます。葬送儀礼の形式が変わっても、そこに込められた「亡き人を送る意味」を忘れてはなりません。葬儀は死別を機に、自分自身の命のあり方に向き合う大切な「ご縁」の場です。次回テーマは「動物と仏教」です。どうぞお楽しみに。 お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【丙午と「迷信」をほどく】 — 親鸞の視点で考える一年の心得
🔶 今回のテーマ今週は「迷信」を取り上げます。なかでも話題に上がりやすい丙午(ひのえうま)と出生数の揺れ、その背景にある物語、そして仏教的な受け止め方を整理します。🔶 丙午とは何か十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせでできる六十通り(六十干支)のうちの一つが丙午です。六十年で一巡するため、干支が生年に戻る年を「還暦」と呼びます。🔶 なぜ「丙午の女は強い」という話が広まったのか江戸期に広まった八百屋お七の放火事件を素材にした芝居や読み物が、後世の想像と結びついて「丙午生まれの女性は気性が激しい」といった根拠の薄い俗信を後押ししました。物語上の極端な行為が、出生年一般の性格づけに飛躍して結びつけられたのが問題の核心です。🔶 数字が示す「迷信の社会的影響」1966年(昭和41年)は丙午に当たり、前年に比べ出生数が大幅に減少した事実があります。個人の決断に社会的な思い込みが影響し得ることを示す一例です。令和の現在は状況が変わりつつありますが、不確かな通念が行動を左右する危うさは教訓として残ります。🔶 親鸞の視点:日柄や占いに振り回される私浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、良し悪しの日取りや占いに執着する人の姿を「悲しいありさま」として嘆いた和讃を残しています。要点は明快です。いい日・悪い日という恣意的な物差しに生き方を明け渡すのではなく、煩悩を抱えたままの自分が阿弥陀如来のはたらきに遇うことこそ肝要、ということです。🔶 どう受け止めるか(実践のヒント)迷信は「蓋をして無視」よりも、由来を知って距離を取るのが有効です。出所と論理の飛躍を知れば、必要以上に怯えたり他者を傷つけたりせずに済みます。人生の大切な選択は、確かな情報と自分たちの意思で決める。そこに仏教でいう「今、この身に届いているはたらき」を聞きひらく姿勢が重なります。🔶 まとめ丙午の俗信は、物語が独り歩きした歴史的産物です。数字が示す影響を教訓に、思い込みよりも事実、そして念仏の教えに立ち返る心を大切にしたいものです。誰かの人生や尊厳を、根拠の薄い通念で狭めない——それが今年のはじめに確認したい「迷信との付き合い方」です。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂 光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井 純子(まるい じゅんこ)でした。
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【いのちをめぐる報恩講と“海の循環”】 — 田崎市場から考える仏教とSDGs
🔶 今回のポイント親鸞聖人の御正忌にあわせて、御正忌報恩講の意義をたどりながら、「いただくいのち」と「生かされる私」を見つめ直します。ゲストは、海の卸売を担う 大海水産株式会社(熊本市・くまもと田崎市場) で働く幼なじみ、豊増 琢真(とよます たくま)さんです。🔶 報恩講とは浄土真宗の宗祖 親鸞聖人のご遺徳を偲び、阿弥陀如来の救いに遇う中心法要。起点は第3代宗主 覚如上人の『報恩講式』にさかのぼり、のちに第4代 存覚上人が整備。700年以上続く“報恩”の実践です。🔶 “いのち”を直視する親鸞の眼他のいのちをいただかずには生きられない私、煩悩に満ちた私。そのありのままを見つめ、「その私こそ救いの目当て」とする阿弥陀如来の本願を確かめます。科学が進んでも、生と死の根源的な問いは残ります。🔶 田崎市場の現場から見える循環豊増さんによると、魚は可食部が概ね半分。骨や頭など未利用部位は肥料へリサイクルして「捨てずに次のいのちへつなぐ」ルートを構築。海洋プラスチック対策にも関与し、行政と連携しながら地域発のSDGsを進めています。🔶 三方よし × いのちの礼儀漁師が命がけで獲った魚を卸が預かり、食卓へ届ける。売り手・買い手・世間がともに良しとなる関係は、仏教が説く「いのちが縁で支え合う」世界観と響き合います。食べられない部位も無駄にしない——それが“いのちへの報恩”です。🔶 まとめ御正忌報恩講は、私が他のいのちに生かされている事実を思い起こす場。海の恵み一皿にも無数のはたらきが通っています。無駄にせず次へ渡す。日常の小さな選択に、報恩は宿ります。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂 光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井 純子(まるい じゅんこ)。ゲストは 大海水産株式会社(熊本市・くまもと田崎市場) の 豊増 琢真 さんでした。
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【海と仏教】——“二つの海”が出会うところ
新年最初の放送は、海の卸売を担う「大海水産株式会社」(熊本市・くまもと田崎市場)で働く幼なじみのゲスト、豊増琢真さんを迎え、「海と仏教」を語りました。仏教には海をめぐる二つのイメージがあります。ひとつは尽きない迷いを示す煩悩の海。もうひとつは、限りなく広がる阿弥陀如来の大いなる慈悲をたたえる海。相反するようでいて、実は同じ海の比喩であり、清濁を抱きとめる大きなはたらきの中に、迷いも救いも包まれていくと考えます。🔶田崎市場から食卓へ——“いのち”を受け渡す現場大海水産は熊本の台所・田崎市場で、県内外や海外から届く魚介を見極め、飲食店や家庭へ届けています。豊増さんの実感として、近年は海水温の上昇により水揚げの時期や漁場のずれが目立ち、北海道でブリが上がるなどの変化も体感しているとのこと。漁師が命がけで獲った魚を預かり、消費者に手渡す——現場はいつも“いのち”の重みと向き合っています。🔶海を守ることは、いのちを守ること海洋プラスチック問題など、海の環境悪化は魚の生存そのものを脅かします。会社としては寄付や行政との連携に取り組み、廃棄物の抑制や啓発にも協力。仏教が説く「私たちは他のいのちに生かされている」という視点に立てば、環境保全は信仰や倫理の実践とも重なります。🔶「いただきます」の意味をもう一度パックの切り身の向こう側には、海のいのち、漁の危険、流通の労苦、数えきれない人の手があります。「いただきます」は、その総体へ向けた感謝の言葉。仏教の言葉でいえば、煩悩の海を生きる私が、慈悲の海に照らされて「いのちの縁」をいただく営みです。🔶今日のひとこと広大な海に生かされる私たち。迷いも救いも同じ大海に抱かれている——そう受け止めると、目の前の一皿が少し違って見えてきます。🔶今週のまとめ海は迷いの比喩でもあり、慈悲の比喩でもあります。田崎市場の現場から見える環境変化は、海を守る責任を私たちに突きつけます。「いただきます」は、いのちの受け渡しに対する感謝の宣言です。来週は「いのち」をさらに掘り下げます。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂 光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井 純子(まるい じゅんこ)でした。
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【大晦日を味わう】——言葉の由来と「除夜の鐘」の意味
🔶大晦日・晦日・つごもり「晦日(みそか)」は本来、月の30日を指しましたが、のちに月の最後の日という意味になりました。「大晦日」は年の最後の日、12月31日です。「つごもり(晦)」は太陰太陽暦で月末に月が隠れることから生まれた語とされます。🔶「師走(しわす)」の語源(諸説)「僧が走るほど忙しい」という説が知られますが定説ではありません。「年が果てる(年果つ)」が変化したという説、四季が極まるを語源とする説など、いずれも年の瀬の慌ただしさを映す説明です。🔶除夜の鐘と「除夜会(じょやえ)」「除夜」は大晦日の夜のこと。古い年を除き新しい年を迎える意です。浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、除夜会や元旦会などの法要が営まれます。寺院によっては鐘を撞きます。🔶なぜ108回なのか有名なのは四苦八苦の合計という説明です。4×9+8×9=108もう一つの説明は次の組合せです。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に三つの受(楽、苦、不苦不楽)と二つの状態(染、清)と三つの時(過去、現在、未来)を掛け合わせ、六×三×二×三=108とする考え方です。ただし浄土真宗の自覚としては、煩悩は108で数え尽くせません。人は煩悩具足の凡夫であり、いのちが終わる時まで煩悩は尽きない存在です。だからこそ鐘の響きに自分のありのままを聞き、新しい一年に念仏のご縁を結び直します。🔶年末の寺の景色十二月は各家で営むお取越報恩講などがあり、僧侶も慌ただしくなります。帰省に合わせた墓参や寺参りも増え、師走の空気が境内に満ちます。🔶今週のまとめ晦日、大晦日、つごもりはいずれも月や年の締めを示す言葉です。除夜会は古い年を除く法要で、108という数え方には複数の説明があります。真宗の立場では、数え切れない煩悩を見つめ直す機縁として受けとめます。鐘の音を縁に、悔い改めと感謝で一年を締め、新たな年に念仏の一歩を踏み出しましょう。来年最初のテーマは「海と仏教」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【クリスマス・イブに寄せて】――日本人の宗教観と「信じる」力
🔶今週のテーマ12月24日の「クリスマス・イブ」を手がかりに、日本人の宗教行動、科学と宗教の関係、そして“人間はなぜ信じるのか”を考えます。🔶「イブ」は“前夜祭”ではなく「その夜」「イブ(Eve)」は evening(夕べ) の古い形に由来し、12月24日の夜 を指します。日本では“前夜祭”的に受け止められがちですが、本来は「クリスマスの夜」という意味です。🔶日本人の宗教行動の特徴クリスマスを祝い、結婚式はチャペルで、葬儀は仏式、正月は神社へ――複数の宗教文化が生活の中で共存しています。文化庁『宗教年鑑』や統計数理研究所の調査でも、「自分は無宗教」と感じながら 宗教的行事には親しむ 傾向が示唆されます。これは「特定宗教への強い帰属」より、行事や文化を通じて“宗教性”に触れる日本的なあり方と言えます。🔶科学と宗教――二項対立ではなく並び立つもの科学は「どう働くか」「何が起きているか」を説明し、人類の知を拡張してきました。しかし 「なぜ生まれ、死んだらどうなるのか」 といった究極の問いは、科学の方法だけでは答えきれません。だからこそ、科学の営みと宗教の応答は並び立つ。両者は互いの領分で人間を支えます。🔶“人間は苦悩する管”という比喩パスカルが「人間は考える葦」と語ったように、別の言い方をすれば人間は悩まずにいられない存在。欠けやすく、揺れやすいからこそ、人は何かを信じ、寄る辺を求める。この“信じる力”が文化や祈りを生み、季節の行事を温めてきました。🔶仏教から見た“平等”の眼差し先週までの流れとも響き合いますが、仏教は すべてのいのちは等しく尊い と観じます。「信じる」という営みは、弱さの証明ではなく、人間らしさのあかし。そこに救いの道が開かれます。🔶今週のまとめ「イブ」は24日の“その夜”。日本の宗教行動は多宗教的で、無宗教と宗教性の両立が日常に見られます。科学と宗教は対立ではなく相補。人は究極の問いに向き合うとき、信じる力を必要とします。だからこそ、季節の祈りを大切に――「揺れる私を支える“よりどころ”」として。次回のテーマは「大晦日のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【終活】のお話 ~仏教の視点で見直す~
終活を仏教の視点で見直します🔶終活の目的を整理します終活は、人生の終わりに向けて準備する活動です。残される人への負担を減らし、自分自身の不安を和らげ、人生の集大成を整える時間でもあります。🔶終活で整える主な項目物や人間関係の整理(片づけ、連絡先の整備)財産の整理(相続・生前贈与・口座や保険の確認)医療・介護の意思表示(延命の可否、在宅/施設の希望など)葬儀・埋葬の方針(形式・喪主・菩提寺・お墓/納骨堂/合葬墓/散骨 など)書面の準備(エンディングノート、遺言書)🔶変わる葬儀・お墓のかたち家族葬、直葬、1日葬など多様化が進み、墓所も合葬墓や納骨堂など選択肢が広がっています。背景には、同居の減少や住居事情(仏壇を置きにくい間取りなど)といった社会構造の変化があります。🔶「伝える」終活――情報共有が要です菩提寺(ぼだいじ)の所在・連絡先、先祖の墓所・納骨先葬儀社の希望、喪主・連絡リスト、形見分けの意向エンディングノートに書くだけでなく、家族と対話して共有しておくことが大切です。書面に残らない「経緯・思い」も会話で伝わります。🔶浄土真宗から見た核心――『白骨の御文(はっこつのごもん)』蓮如上人(れんにょ しょうにん)の『御文(=本願寺派では『御文章(ごぶんしょう)』)』は、いのちの無常を静かに示します。「朝には元気な人が、夕べには白骨となる身」――だからこそ、阿弥陀如来(あみだ にょらい)の救いに遇(あ)い、念仏を申す道を聞き開いていくことが肝要だと説きます。終活は手続きや物の整理にとどまらず、「いのちの行方」を聞き、今を生き直す仏縁の機会でもあります。🔶実践のヒント(チェックリスト)菩提寺・墓所・過去帳の確認/連絡先を家族で共有した医療・介護・葬儀の希望を書き出し、家族と話し合った財産目録・重要書類の所在を一箇所にまとめたエンディングノートと遺言書(必要なら公正証書)の使い分けを理解した仏事の基本(枕経・通夜・葬儀・年忌法要の流れ)を菩提寺に相談した仏さまの教えを聞く場(ご法話・報恩講など)に足を運ぶ予定を入れた🔶今週のまとめ終活は「残すための整え」と同時に、「今を生き直す学び」です。社会の変化で葬送の形は多様化。だからこそ情報共有と対話が重要です。浄土真宗の要は、無常に目覚め、阿弥陀如来の救いを聞き開くこと。手続きの準備と、ともに歩む心の準備を両輪にしましょう。🔴次回のテーマは「クリスマス・イブに寄せて」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教と人権】──「仏のまなざし」で平等を考えます
🔶世界人権デーの由来を押さえます12月10日は世界人権デーです。これは1948年(昭和23年)12月10日、パリで開かれた国連総会で「世界人権宣言」が採択されたことに由来します。宣言は前文と30条から成り、「すべての人は法の下に等しく保護される」ことなど、基本的人権の尊重という原則を国際的に掲げました。第2次世界大戦下の迫害や人権侵害の反省から、「人権の保障は世界平和の基礎である」という考えが広がったのです。🔶仏教の平等観をたどりますお釈迦さまは、すべての命は等しく尊いと説きました。これは、身分差を前提にした古代インド社会において画期的な教えでした。生まれや地位に関わらず、人はみな苦(生老病死)を生きる同じ存在であり、そこに差を設けない――それが仏教の平等です。🔶カーストと「無差別」の教えを照らします当時のインド社会には、バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王侯・武人)・ヴァイシャ(庶民)・シュードラ(労働者)等の身分秩序(のちにカーストと呼ばれる)がありました。お釈迦さまは、その区別を超えて出家者の集いを開き、身分や出自で価値を量らない「無差別」の実践を示しました。🔶念仏と平等──法然・親鸞の転換を押さえます時代が下ると、学識や財力に依る修行が重んじられ、宗教世界にも階層差が生じました。これに対し、法然上人・親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と念仏を申す道こそ、誰にでも開かれたすぐれた行であると示しました。能力や功徳の“量”で救いが分かれるのではなく、阿弥陀如来の本願によって、どの命にも等しくはたらきが届く――ここに仏教の平等が具体化します。🔶『仏説阿弥陀経』の蓮の喩えを味わいます経典には「青色は青光、黄色は黄光、赤色は赤光、白色は白光を放つ」と説かれます。蓮はそれぞれの色のまま光を放ちます。仏の光に照らされた命は、ありのままの個性のまま尊く輝く、という譬えです。だれかと同じになることではなく、「違いのまま等しく尊い」――それが仏の平等です。🔶人権と仏のまなざしを重ねます世界人権宣言は「人間の平等」を掲げます。仏教はそこへ、さらに「いのち全体」への視野を重ねます。人も他の生き物も、互いに命をいただき合って生きる存在です。仏のまなざしに学ぶなら、差別や排除を退け、違いを違いのまま尊重する具体的なふるまい(言葉づかい、配慮、制度づくり)へと私たちの実践は導かれます。🔶今週のまとめ12月10日は世界人権デーで、人権尊重を国際社会が確認した日です。仏教の平等は「仏のまなざし」に立ち、出自や能力によらず、すべての命が等しく尊いと見る立場です。法然・親鸞は念仏の道を、誰にでも開かれた救いとして位置づけました。『仏説阿弥陀経』の蓮の喩えは、「違いのまま等しく光る」平等のかたちを示します。人権の実践に、仏のまなざしを重ねて、日々の言葉と行為に平等を育てていきます。次回テーマは「終活」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【成道会特集:お釈迦さまの「中道」を今日に生かす】
🔶成道会(じょうどうえ)特集|今回の放送でお伝えしたこと12月8日の成道会に合わせて、お釈迦さまが悟りに到るまでの道のり(四門出遊→出家→苦行と中道→スジャータの乳粥→菩提樹下の成道→初転法輪)を、できごとの順にたどりました。物語としての面白さだけでなく、「いま私がどう生きるか」へつながる視点も添えて解説しています。🔶放送の流れ(ダイジェスト)出発点:王子シッダールタの不安・豊かな生活を送りながらも、心は満たされなかった——ここに「苦(ドゥッカ)」の自覚が芽生えます。四門出遊:老・病・死・出家者との遭遇・老い・病い・死の現実に直面し、「苦を超える道」を探す決意が生まれます。出家と6年の苦行・ストイックな苦行を徹底するも、「苦行そのものでは悟れない」と見切りをつけ、中道へ。転機:スジャータの乳粥・心身を整え、再び“見る力”を取り戻す準備段階。成道:菩提樹下の瞑想・煩悩(誘惑)を見極め、明けの明星のころ「目覚め(ブッダ)」に到達。初転法輪:鹿野苑で五比丘に説く・四諦と八正道を示し、仏教の車輪が回り始めます。🔶放送で押さえたキーワード・ブッダ=「目覚めた人」:新発見ではなく、元からある真理への到達。・中道:快楽と苦行の両極端を離れた実践の道。・四諦と八正道:苦の事実と、その終息に向かう具体的な実践指針。・臘八会(ろうはちえ):多くの寺院で12/8に営まれる成道の法会名。🔶エピソードの読みどころ(番組の視点)・「なぜ“苦行”ではなく“中道”なのか?」——身体をすり減らす修行から、心身を調える実践へ。・「最初に説いた相手が“かつて去った五比丘”である意味」——関係の修復と普遍性の示し。・「科学的知見と信仰的伝承の重ね合わせ」——史実(地名・人名・法要)と伝承(明星・49日瞑想など)を区別して紹介。・「現代への置き換え」——“目の前の苦をどう見るか”“中道を日々の選択にどう落とすか”。🔶放送内の具体例(こんな話をしました)・老・病・死を「見ないままにしない」ことの効用。・SNS時代の“過剰な苦行”と“過剰な快楽”——心身のバランスを取り戻す「中道」のヒント。・仕事・家庭・介護など、揺らぎの中で「いま取れる最善」を選ぶ視点。・“悟りは遠い理想”ではなく、「苦を正しく見る」小さな実践の継続だという提案。🔶今回のまとめ成道会は、「苦」を避けずに見つめ、中道を実践へつなげる日です。四門出遊から初転法輪までの道のりを、歴史と伝承の双方から確認し、今日の暮らしの“選び方”に落とし込みました。🔶次回予告次回は「仏教と人権」。尊厳・平等・差別観と、仏教の視点を重ねてお届けします。🔶出演お話:熊本市中央区京町(きょうまち)・仏嚴寺(ぶつごんじ) 高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん 進行:丸井純子(まるい じゅんこ)
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【報恩講(ほうおんこう)】とは
浄土真宗で最も大切な年中行事が報恩講です。宗祖・親鸞(しんらん)聖人のご命日にちなみ、仏さまのご恩、そして教えを伝えてくださった先人のご恩に「報(むく)いて恩に謝する」法要として営まれます。🔶日にちと暦を整えます親鸞聖人のご命日:旧暦11月28日(新暦換算では1月16日)。本願寺派(西本願寺)では、宗祖のご命日に合わせて御正忌(ごしょうき)報恩講を1月16日前後に厳修します。真宗大谷派(東本願寺)では、11月21日〜28日に報恩講を営むのが通例です。旧暦(太陰太陽暦)は月の満ち欠けを基本とするため年日が短く、閏月で季節のずれを調整してきました。明治以降は太陽暦(新暦)へ移行し、法要日程の運用に両派の伝統が残っています。🔶報恩講のはじまり第3代本願寺門主・覚如(かくにょ)上人(親鸞聖人の曾孫)が、法要の次第を整えた『報恩講式(ほうおんこうしき)』を撰述。その子の存覚(ぞんかく)上人が内容を整備・普及に尽力しました。第8代・蓮如(れんにょ)上人の時代には、全国の寺院・道場へと広く定着していきます。500年以上に及ぶ歴史をもつ行事です。🔶報恩講で何をするのかお勤め:正信偈(しょうしんげ)などをお唱えします。ご法話:阿弥陀如来の本願と親鸞聖人のご遺徳に学び、念仏の道を確かめ合います。趣旨:供養中心ではなく、恩を知り、恩に報いる仏事として、今を生きる私の聞法(もんぽう)の場であることが要点です。🔶歎異抄の一節を手がかりに親鸞聖人の言行を伝える『歎異抄(たんにしょう)』には、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一念一度も念仏申したること候はず」とあります。念仏は誰かのために「してあげる供養」ではなく、阿弥陀如来の働き(本願力)に遇(あ)った私の口からおのずとあふれる称名である、という核心が示されています。生死は無常。だからこそ本願に身をまかせ、今ここで聞法し念仏申す。報恩講は、その原点に立ち返るご縁です。🔶旧暦と新暦のミニ知識旧暦(太陰太陽暦)は1か月を約29.5日と数えるため、354日ほどで1年になり、季節とずれます。ずれを補うため閏月(うるうづき)を置きました。新暦(太陽暦)移行後、本願寺派は新暦1月、大谷派は新暦11月にそれぞれの慣行で報恩講を営んでいます。🔶今週のまとめ報恩講は、親鸞聖人のご命日にちなむ「恩に報いる」法要。起源は覚如上人の『報恩講式』、整備は存覚上人、全国的な普及は蓮如上人。趣旨は供養中心ではなく聞法中心。阿弥陀如来の本願に遇い、念仏の道を確かめるご縁です。暦の違いにより、西本願寺は1月(御正忌報恩講)、東本願寺は11月に営むのが通例です。来週のテーマは「お釈迦さまのお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【お布施のお話(その二)】 地位・所有・席へのしがみつきは、怒りや不満の芽に
🔶「お布施(その二)」をやさしく読み解きます今週は、仏教の実践「布施(ふせ)」を前回につづいて深めます。ことば・人名・仏教用語を正しながら、日常に落とし込める形で整理します。🔶布施の語源を正します布施はサンスクリット語 dāna(ダーナ) の意訳です。「自分の持ち物・力・心を惜しみなく分かち合い、互いに助け合い喜び合うこと」を指します。なお、日本語の「旦那/檀那(だんな)」は仏教語で、施主・パトロンの意から来ました(関連語:檀家(だんか)・檀越(だんおつ))。浄土真宗では一般に「門徒(もんと)/門信徒」と呼び、「檀家」は用いないのが通例です。🔶六波羅蜜における布施菩薩の六つの修行 六波羅蜜(ろくはらみつ:布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の第一が布施です。布施は次の三つに大別されます。財施(ざいせ):金品・物品・時間・労力などを分かち合います。法施(ほうせ):教え・知恵・気づきを分かち合います。無畏施(むいせ):恐れや不安にある人を安心へ導く支え(傾聴・付き添い・安全の提供など)です。いずれも見返りを求めない「贈与の心」が核です。🔶お金がなくてもできる「無財の七施」財産がなくても今日から実践できる布施が、**無財の七施(むざいのしちせ)**です。眼施(がんせ):温かなまなざしを向けます。和顔施(わがんせ/和顔悦色施):にこやかな表情で接します。言辞施(ごんじせ):やさしい言葉をかけます。身施(しんせ):体を使って手助けします。心施(しんせ/慈心施 じしんせ):思いやりを向けます。床座施(しょうざせ):席や場所を譲るなど、居場所を提供します。房舎施(ぼうしゃせ):雨宿りの軒を貸す・休ませるなど、憩いの場を与えます。🔶「床座施」を日常に生かしますバスや電車での席を譲ることは床座施の代表例です。要点は次の三つです。・相手の状況(高齢・妊娠・体調等)に気づく眼施をもつ。・和顔+言辞(やわらかな表情と一言)で申し出る。・断られても気を悪くしない(見返りを求めない)。さらに、職場などで役割やポジションを後進に譲る姿勢も、広い意味での床座施です。執着から一歩離れる修行といえます。🔶執着から離れるヒント地位・所有・席へのしがみつきは、怒りや不満の芽になります。小さな一歩(席を譲る・順番を譲る・発言枠を譲る)を日々の習慣にすると、心の柔らかさが育ちます。できない日があっても構いません。続けようとする志が、布施のいのちです。🔶今週のまとめ・布施は dāna の訳で、「惜しみなく分かち合う」実践です。・六波羅蜜の第一で、財施・法施・無畏施の三施を含みます。・無財の七施(眼施・和顔施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施)は、誰でも今日から始められます。・とくに床座施は、席や役割を譲る実践。執着を離れる小さな歩みが、やさしい社会の土台になります。来週のテーマは「報恩講(ほうおんこう)」のお話です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【お布施のお話(その一)】 お金がなくてもできる「無財の七施」
🔶「お布施(その一)」をやさしく整理します「お布施=お金や物を渡すこと」と思われがちですが、仏教でいう**布施(ふせ)**はもっと広く深い実践を指します。今週は、用語を正しつつ、日常で生かせる形にまとめます。🔶布施の本来の意味布施はサンスクリット語 dāna(ダーナ) の意訳で、「自分の持ち物や能力・心を惜しみなく分かち合い、互いに助け合い喜び合うこと」を意味します。見返りや取引ではなく、純粋な贈与の心が要です。🔶六波羅蜜と三種の布施菩薩の修行である**六波羅蜜(ろくはらみつ)**のはじめに置かれるのが布施です。布施には大きく三つあります。財施(ざいせ):金品・物品・時間・労力を分かち合います。法施(ほっせ):教えや知恵・気づきを分かち合います(僧侶だけでなく、学んだことをやさしく伝える行為全般を含みます)。無畏施(むいせ):不安・恐れにある人を安心へ導く支え(傾聴・寄り添い・安全の提供など)。いずれも「相手の利益(やすらぎ)を願う心」が中心にあります。🔶布施の心得は「見返りを求めない」「これをしたから、相手は返してくれるはず」という計算は布施の心から離れます。結果や評価に執着せず、ただ相手のためにおこなう——その自由さが布施のいのちです。🔶お金がなくてもできる「無財の七施」財産がなくても実践できる布施として、仏教には無財の七施(むざいのしちせ)が説かれます。眼施(がんせ):温かいまなざしを向けます。和顔施(わがんせ)(和顔悦色施):にこやかな表情で接します。言辞施(ごんじせ):やさしい言葉をかけます。身施(しんせ):体を使ってできる助けをします(手伝い・介助など)。心施(しんせ/慈心施 じしんせ):思いやり・祈りなど心からの善意を向けます。床座施(しょうざせ):席や場所を譲るなど、快適な居場所を提供します。房舎施(ぼうしゃせ):雨宿りの軒を貸す・玄関先で休ませるなど、憩いの場を与えます。どれも「今日から・ここで」実践できます。🔶「和顔愛語(わげんあいご)」を合い言葉に和顔愛語とは、柔和な顔(和顔)と愛ある言葉(愛語)で人に接すること。対面でもオンラインでも、誹謗や刺々しさが生まれやすい時代だからこそ、表情と言葉に温度を取り戻すことが無畏施にもつながります。・まずは深呼吸→和顔→ひと言目をやさしく。・相手の事情を慮(おもんぱか)る一拍を置く。小さな実践が、身の回りの空気を確実に変えます。🔶今週のまとめ・布施は贈与の心であり、六波羅蜜の第一。・財施・法施・無畏施はいずれも「相手の安楽」を願う実践です。・結果を求めずおこなうのが布施のいのち。・無財の七施(眼施・和顔施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施)は、誰でも今日から始められます。・合い言葉は和顔愛語。顔と言葉から、やさしさを広げましょう。来週も引き続き、「お布施(その二)」をお届けします。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【お手紙の話】浄土真宗とメディア
🔶「お手紙(御文章)と本願寺」浄土真宗の教えが全国へ広がる過程で、大きな役割を果たしたのが「手紙」でした。室町期に本願寺の宗主・蓮如上人(れんにょ しょうにん)が人びとに向けて書き送った文書は、のちに『御文章(ごぶんしょう)』として編纂され、真宗大谷派(東本願寺)では『御文(おふみ)』とも呼ばれます。ここでは、その要点をやさしく整理します。🔶蓮如上人と『御文章』・著者は浄土真宗本願寺派の第八代宗主・蓮如上人です。・本願寺派では**『御文章』、真宗大谷派では『御文』と呼びます。・門信徒に平易な言葉で教えを伝えるための手紙で、のちに『五帖御文』としてまとめられ、法要やご法話で今も拝読されています。🔶時代背景(室町時代)・寛正(かんしょう)の大飢饉や戦乱で、人びとの暮らしは困窮していました。・識字率が高くない中でも、朗読・回覧に適した平明な手紙が大きな力を発揮しました。・ちょうど宗祖・親鸞(しんらん)聖人の大遠忌(だいおんき)の頃と重なり、教えを正しく広く伝える必要が高まっていました。🔶『白骨の御文』のエッセンス・『御文章』で最も知られる一節が「白骨の御文(はっこつのごもん)」です。・「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となる身なり」と、いのちの無常を示し、 阿弥陀如来(あみだ にょらい)の本願に身をまかせ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏して生きる道を勧めます。・現在も法要・通夜・ご法話で拝読され、いまを生きる私に向けた言葉として息づいています。🔶「メディア」としての手紙、そして現代・交通・通信が乏しい時代、手紙(文書)は最強のメディアでした。・一通の手紙を読み聞かせ・回覧することで、非識字層にも教えが届きました。・現代は書籍・新聞・ラジオ・テレビ・インターネットと媒体が移り変わっても、 「誰にでもわかる言葉で、いのちの問題に応答する」という蓮如上人の姿勢は変わりません。🔶まとめ・正称は『御文章』(大谷派は『御文』)。著者は蓮如上人(本願寺派 第八代宗主)です。・背景には寛正の大飢饉と宗祖大遠忌があり、平明な手紙が教えの全国的な広がりを後押ししました。・『白骨の御文』は無常の事実を直視し、阿弥陀如来の本願にまかせる念仏の道を示します。・媒体が変わっても、やさしく・正確に伝えることが『御文章』の今日的意義です。来週のテーマは「お布施(その一)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【旅と本願寺】 鉄道の時代が参拝を変えた
秋は旅に出たくなる季節です。なかでも京都(きょうと)は、今も昔も人びとを惹きつけます。観光地としての賑わいの陰には、「寺院参拝」と「鉄道の発展」が織りなした歴史の流れがありました。今回は、旅の視点から本願寺と京都の関係をたどります。🔶一生に一度の「本山参り」でした江戸時代、多くの庶民にとって移動手段は“徒歩のみ”でした。藩をまたぐ移動も容易ではなく、本願寺への参拝は「一生に一度」の大行事でした。やっとの思いでたどり着き、本堂の畳に頬ずりして喜んだ——そんな記録が各地に残ります。参拝は、信仰の確かめと人生の節目を刻む「旅」でもありました。🔶西本願寺(にしほんがんじ)という「目的地」が育てた旅京都にある西本願寺は、天正19年(1591)に現在地・六条堀川(ろくじょう・ほりかわ)へ移転しました。伽藍の中心は御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂(あみだどう)で、唐門(からもん)・飛雲閣(ひうんかく)などの国宝が建ち並びます。平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されました。“行き先としての魅力”が、遠路はるばるの参拝を後押ししてきました。🔶鉄道の時代が参拝を変えました明治以降、鉄道が全国に伸び、寺社参拝は「現実的な旅程」になりました。寺院参拝は鉄道会社にとっても重要な旅客需要となり、観光旅行が広がります。本願寺で営まれる大規模法要——たとえば宗祖・親鸞(しんらん)聖人の大遠忌(だいおんき/概ね50年ごと)は、全国からの参拝者を呼び込みました。「歩いて一生に一度」から「列車で計画的に」へ。参拝のかたちは、交通の発達とともに大きく変わりました。🔶京都の観光基盤と門前の宿が支えました鉄道網の整備は京都への人流を回復・加速させ、観光都市としての基盤づくりを後押ししました。本願寺周辺には、参拝者を受け入れる門前旅館や講中宿(こうじゅうやど)※が発達。今日ではシティホテルから歴史ある旅館まで選択肢が広がり、海外からの旅行者も伝統的な宿に滞在して文化に触れています。「寺を目的に泊まる」という旅のかたちが、今も息づいています。※講中宿=講(信徒の参拝グループ)を受け入れる宿。🔶数字で見る“いま”の京都(要点)近年の京都は国内外からの旅行者で活気づいています。観光地・宿泊・交通の受け皿が整い、寺院参拝と観光の相乗効果が続いています。かつての「団体参拝の列車旅」から、「個人がネットで計画する旅」へと多様化が進みました。🔶今週のまとめ旅が容易でなかった時代、本願寺参拝は人生を賭す「一度の旅」でした。鉄道の発展は参拝文化を大きく変え、京都という都市の観光振興にも連動しました。本願寺という確かな目的地が、信仰の道行きと旅の楽しみを結び、今に続く人の往来を育ててきたのです。来週のテーマは「お手紙のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【いい日・悪い日】を仏教から見てみると…
🔶「いい日・悪い日」を仏教から見直します「今日は吉日?それとも凶日?」——占いに心が揺れることはあります。仏教、特に浄土真宗の視点では、日を良し悪しで決めつける前に、自分の在り方と他者への配慮を問い直すことが大切だと説かれます。今回は、仏教説話(ジャータカ)を手がかりに、「いい日・悪い日」をどう受け止め直すかを整理します。🔶説話で学ぶ「日取り」の落とし穴都の一家が婚礼当日に占いへ行き、占い師の機嫌を損ねた結果、「今日は不吉、明日にせよ」と言われます。都側は一方的に延期を決め、田舎の花嫁側は約束を守られないまま、その日のうちに別の縁談で嫁入りしてしまいます。翌日、都の一家が迎えに行くも時すでに遅し。口論は取っ組み合いにまで発展します。通りがかった賢者は、「星の動きで事の善し悪しは決まらない。行いそのものが善し悪しを左右する」と諭します。教訓は明快です。占いに依存し、約束や思いやりを後回しにすれば、良いはずの日も悪い日に変わってしまいます。🔶浄土真宗の視点—占いよりも「自省と責任」親鸞聖人は、占いや祈祷に頼り切って判断を委ねる姿を「悲しい人間の性(さが)」として見つめます。星や暦が私たちの価値や結果を決めるのではありません。決めるのは、今この瞬間の選択とふるまいです。「よい日かどうか」は外的条件ではなく、他者を尊び、約束を守り、心を尽くす私の姿勢によって育ちます。不確実な世の中で迷う私を、そのまま見捨てないと誓う阿弥陀さま(摂取不捨)に遇うとき、拠りどころは占いではなく“御恩に報いる実践”へと向きます。🔶「いい日」に変える具体的な視点・約束を最優先にします:相手の準備・時間・期待を尊重することが、日を良いものに変えます。・判断の責任を引き受けます:外部の“お告げ”に逃げず、理由と影響を言語化して自分で決めます。・相手の都合を織り込みます:自分の事情だけで動かず、関係者の事情を事前に確認し合います。・結果ではなく姿勢を整えます:万一、予定外の事態でも、誠実な対応が「悪い日」を「学びの日」に変えます。🔶今週のまとめ占いは参考にはなりますが、拠りどころにはできません。「良い日」は暦が与えるのではなく、約束を守り、他者を思いやり、自ら責任を引き受ける私の行いがつくります。揺れる心をそのまま抱えつつも、摂取不捨のはたらきに遇い、今日を「よく生きる」実践へと転じていきたいものです。来週のテーマは「旅と本願寺」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教SDGs】について 今日からできる“仏教×SDGs”の実践例
🔶「仏教とSDGs」をやさしく整理しますSDGs(持続可能な開発目標)は、2015年に国連で採択された17の国際目標です。キーワードは「誰一人取り残さない」。貧困・教育・環境・ジェンダーなど、社会の課題を同時に解いていく視点を求めます。仏教にも、同じ方向を指す考え方が息づいています。ここでは浄土真宗の視点から、SDGsと響き合うポイントをまとめます。🔶SDGsの基本を押さえますSDGsは、国連加盟193か国が合意した“世界共通のものさし”です。目の前の課題だけでなく、その背景・つながり・未来世代まで含めて考えるのが特徴です。行動の理由を問い直し、選択を改善し続ける「学びの循環」が前提になります。🔶仏教と響き合うポイントを確認します浄土真宗には、阿弥陀さまの救いを表す「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という言葉があります。意味は「一切のいのちを摂め取り、決して見捨てない」。まさに“誰一人取り残さない”に通じます。また、龍谷大学が掲げる行動哲学「自省利他」は、自分の在り方を省みつつ、他者の利益・しあわせをはかる姿勢を示します。自己中心の殻を破り、関係の網の目の中で生き直す視点は、SDGsの基盤とよく重なります。🔶近江商人の「三方よし」に学びます近江商人は「売り手よし・買い手よし・世間よし」を商いの規範としてきました。取引当事者の満足だけでなく、社会全体の益を同時に実現する発想です。この精神は、仏教の慈悲や「摂取不捨」と相性がよく、現代で言えばSDGsの先駆けといえます。利益の追求を否定するのではなく、「どうすれば社会の益と調和するか」を問い続けることが要になります。🔶今日からできる“仏教×SDGs”の実践例を挙げます・買い物:価格だけでなく、環境配慮・公平性・作り手の尊厳を意識して選びます。・仕事:自部署の成果が「世間よし」につながる設計かを定期的に振り返ります。・地域:過疎や孤立に目を向け、「取り残されやすい人」への橋渡しを習慣化します。・学び:自分の思い込みを点検し、異なる立場の声を聴く“自省”の時間を持ちます。・お寺:法要や行事を“分かち合いの場”として、食のロス削減やバリアフリーに取り組みます。🔶今週のまとめSDGsは「誰一人取り残さない」世界への約束であり、仏教の「摂取不捨」や「自省利他」と深く呼応します。近江商人の「三方よし」は、個人・組織・社会の益を同時に実らせる道しるべです。まずは足元から。“私の選択”を少しずつ整えることが、持続可能な社会への確かな一歩になります。来週のテーマは「いい日・悪い日」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【仏教とお米】迷信に惑わされずに歩む 一椀のご飯が教えてくれる“いのちのつながり”
🔶「仏教とお米」に宿る“いのちへの感謝”秋は実りの季節です。お米をいただくたびに、たくさんの“いのち”のつながりに支えられて生きていることを思い出します。今回は、浄土真宗における「御仏飯(おぶっぱん)」を中心に、お供えの意味や作法、迷信との向き合い方までを整理してご紹介します。🔶御仏飯の意味を学びます御仏飯とは、炊きたてのご飯を仏さまにお供えすることです。「今からいただく食べ物は、私のいのちを生かす尊いご縁です」と確かめ、仏さまの光の中で感謝を表します。浄土真宗では、亡き人への“施し”というより、今を生きる私が“いのちの事実”に気づくためのご縁として大切にします。🔶器と置き方を整理しますご飯を盛る器は「仏器(ぶっき)」といいます。お内仏(仏壇)では、中央の阿弥陀如来、左右の親鸞聖人・蓮如上人の前にお供えします(お家の荘厳により並べ方は異なります)。量は多すぎる必要はありません。まごころをこめた“ひと椀”で十分です。🔶正午までに下げます御仏飯は原則として正午までにお下げします。これは、釈尊の時代から伝わる「過午不食(昼を過ぎて食さない)」の戒めに由来します。お下げした御仏飯は、感謝をもって家族でいただきます。供えたものを無駄にせず、“お下がり”としていただく姿勢が大切です。🔶水と華瓶(けびょう)を整えますコップの水だけを「喉が渇くから」とお供えする考え方は、浄土真宗の趣旨とは少し違います。仏前には一対の「華瓶(けびょう)」を置き、常緑の「樒(しきみ)」を挿します。樒は“香りある清らかな水”を象徴し、仏さまへの敬いと感謝の心をあらわします。🔶“好物のお供え”を考えます故人の好物を供える気持ちは尊いものです。ただし、浄土真宗では亡き人はすでに仏さまです。仏前には基本のお供え(御仏飯・華瓶など)を調え、好物は法要後に参列者でいただくなど、“いのちに感謝して分かち合う”形にするとよいです。🔶避けたい迷信を確認しますご飯に箸を突き立てる、通夜に火を絶やさない“火の番”、葬儀後に塩をまく――これらは地域の俗習・迷信によるところが大きいです。火気のつけっぱなしは危険ですし、恐れや穢れの観念で亡き人を遠ざける発想は、阿弥陀さまの平等の救いにそぐいません。“感謝と念仏”を要に、安心・安全を優先した実践に整えましょう。🔶今日からできる“ひと手順”をまとめます朝、炊きたてのご飯を小さく盛って仏器に供える。一礼し、声に出さずとも「いただきます」と心で称える。正午までにお下げし、感謝をもっていただく。華瓶の樒を清潔に保ち、仏前を整える。迷信で不安にならず、念仏と感謝を深める。🔶今週のまとめ御仏飯は、私たちが“いのちのご縁”に気づき直すための、毎日の小さな礼拝です。お供えは仏さまへのお礼であり、同時に自分自身の心を正す実践でもあります。一椀のご飯から広がるたくさんのつながりに手を合わせ、今日の一日を丁寧にいただきましょう。来週のテーマは「仏教とSDGs」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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【月のうさぎ】 自ら火に飛び込んだうさぎの話
🔶「月のうさぎ」に宿る布施と慈悲お月見で親しまれる「中秋の名月」には、古くから心を澄ませる時間という意味合いがあります。今回は、月面にうさぎが見えるとされる由来を、仏教説話「ジャータカ(本生譚)」に基づいてわかりやすくご紹介します。月をめでる習わしと、そこに息づく布施と慈悲のこころをたどります。🔶中秋の名月の由来中秋の名月は、中国の「中秋節」を起源とする行事です。旧暦8月15日に月の恵みを喜び、実りに感謝する風習が日本へ伝わりました。日本では平安期に貴族文化として受容され、のちに庶民へ広がりました。お月見団子や秋の収穫物を供えるのは、自然への感謝を形に表す作法です。🔶月のうさぎの仏教的ルーツ月にうさぎがいるという伝承は、仏教の本生譚「ジャータカ」に由来します。お釈迦さまの前世を語る物語群の一つで、うさぎ・猿・山犬・カワウソが登場します。物語は、命を懸けた布施と、戒を守る尊さを伝えます。🔶物語のあらすじ(施しを求める修行者)森に修行者が現れ、動物たちに食べ物の施しを求めます。カワウソは川辺で魚を見つけ、持ち主の不在を理由に持ち帰ります。山犬は番小屋で肉や乳に出会い、応答がないまま持ち出します。猿は木の実を集め、正当に得た食べ物を用意します。🔶物語のあらすじ(うさぎの自己犠牲)うさぎは何も蓄えがなく、施せる食べ物を見つけられません。うさぎは「私をお召し上がりください」と自らを差し出します。修行者に殺生をさせないため、自ら火中へ飛び込む方法を選びます。これは「不殺生」の戒を守るための、徹底した思いやりの表れです。🔶結末と月面に刻まれたしるし修行者の正体は、仏法を守護する帝釈天でした。帝釈天は、うさぎの尊い布施心を後世に伝えるため、月の面にその姿を刻みます。以来、月にはうさぎの姿が見えると語り継がれます。物語は、無私の徳が永く記憶される尊さを示します。🔶物語が語る仏教の徳目うさぎは「布施(与える行い)」を身をもって示しました。修行者に殺させない配慮は「不殺生戒」を尊ぶ態度です。他者の苦を引き受けようとする心は「慈悲」の体現です。形だけでなく、心の在り方にこそ徳行の核心があると物語は教えます。🔶月光が象る智慧と平等の慈悲仏教では、闇を静かに照らす月は「智慧」の象徴と語られます。月光は分け隔てなく万物を照らし、「平等の慈悲」を想起させます。阿弥陀さまの光明になぞらえられ、迷いの闇を導く比喩として親しまれてきました。🔶季節の行事としての実践お月見団子や秋の恵みを供えることは、日々の「いただきます」を深める実践になります。月を仰ぐひとときは、利他心や感謝を見つめ直す時間になります。自然のめぐみに手を合わせる所作が、心の静けさを育てます。🔶今週のまとめ「月のうさぎ」は、自己犠牲的な布施と慈悲の象徴として語り継がれてきました。月光のように、静かで温かな心を忘れず、季節の行事を味わいたいものです。中秋の名月を前に、物語が照らす徳のひかりを胸に刻み直します。🔴来週のテーマは「仏教とお米」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。 出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。お悩み相談もメールで受け付け中![email protected]▼メール [email protected]★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4 AM1197で、毎週水曜日 午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。
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RKKラジオ
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